【第三話】頼れ、と言われた夜〜その距離感、反則です。
――あれから二週間。
あの日から私は毎日ジムに通い、アプリを使って食事も管理していた。
「わーい、今日は日々野さんに100点もらえたっ!」
ちなみに日々野さんというのは、『レコーディングダイエット』用アプリでアドバイスをくれるキャラクターである。
毎日摂取カロリーは1500キロカロリー程度に抑えて、ジムで500キロカロリー以上消費するようにしている。
「おはよ。餅田、最近頑張っているな。」
高峰さんが口元を綻ばせると、何故か胸がほわっとあたたかくなる。
「…はい!!昨日やっと50キロ台になったんですっ!頑張ります。」
その言葉に、少し高峰さんは面食らう。
「お、おお、そっか。頑張れよ。」
(…し、しまった。自分で『今59キロある』ってバラしたようなもんじゃん!下手したら、高峰さんより体重あるかも…。)
自分で言ってしまってから、恥ずかしくて赤面する。
私は恥ずかしさを誤魔化すようにランニングマシンを猛烈ダッシュした。
――そんな私を見て高峰さんが密かに笑っていたことを、私は知る由もない。
◇◇
「おはようございます。」
今日もブラックコーヒーを買って自分の席に着いた。
すると、美波がじっと私の方を見てくる。
「…ねえ、まどか。たった二週間で凄い痩せたんじゃない?」
「えへへ、うん、実は3キロ痩せたんだ。」
すると、美波が目を見開く。
「…やるじゃん。」
その言葉に思わず口角が上がってしまう。
(やった、初めて人に気づいてもらえた!)
「…ありがとう!」
その時、神崎さんが後ろをスッと通りがかった。
「いいわよね、元々太ってる人は、ちょっと痩せただけですぐに気づいてもらえて。はい、これ。貴女がやっておいて。」
そう言って、バサッと大量の原稿を置いていく。
(…あれ?)
一番上にある、原稿の打ち合わせ日を見て困惑する。
「…あの、この打ち合わせの日付。
私がまだ『JOUR』に着任する前のものかと思うんですけど。」
すると、神崎さんが訝しげな顔をする。
「…だったら何?」
「せめて、引き継ぎをして頂けませんか?
そうじゃないとその、私が一回一回確認して回ったらクライアントにもお時間というか…。迷惑がかかってしまいますし。」
私が困惑して眉を下げると、神崎さんは鼻で嗤う。
「何よ。貴女『UMAMI』のエースだったんじゃないの?だったらこれくらいやってのけなさいよ。
大丈夫、高峰さんには、『全部貴女に引き継いだ』ってちゃんと言うから。好きにやっていいわよ。」
そう言ってどこかに行ってしまった。
「…まどか、大丈夫?」
やりとりを見ていた美波が、心配そうに眉を下げる。
「うーん、正直ちょっと驚いたけれど。でも、サロン特集はいずれ私が全部引き継ぐ予定らしいから。
…なんとか自分でやれる所まではやってみる。
取り敢えず、今日中にすぐに取り掛かれそうなものと、そうじゃないものを分けてみるよ。
その後、厳しそうだったらどうすべきか考えようかな。」
私はなんとか気持ちを振るい立たせる。
「…わかった。念の為に私からも高峰さんに伝えておくから。
今日は西山に同行しなくちゃいけないから遅くなるかもしれないけれど。何かあったらすぐに相談して。」
そう言って美波は西山君と外出していった。
(…頑張ろう。)
私はパァン!と頬を叩く。
「よし、やるぞっ。」
気合を入れてまずは、書類を整理することにした。
――数時間後。
(つ、疲れた…。)
やっと書類の整理が終わって、ほっと一息付く。
結局、きちんと引き継いだものは10件。
先月号までの原稿を見ながら原稿を作成して、確認を取れば校了出来そうなものが9件。
あとの12件は全くどんなやり取りをしていたのかすら、わからない。
特に写真については、きちんと意向を汲み取らないとトラブルになりかねない。
(いや、多いな…。)
私は頭を悩ませる。
(――とりあえず、19件の初稿だけでも全て終わらせる。その後、一度神崎さんに見てもらおう。
あとの12件については、確認を取らなきゃいけない事項をまとめなきゃ。
その後、口頭でもいいから全部必要なことを教えてもらえば何とかなりそう。)
時計を見たら、もうとっくにお昼を回っていた。
私は慌てて会社のビル内にあるコンビニに行って、サラダチキンとトマトジュース、ミネラルウォーターを買う。
それを片手に原稿作成に取り掛かるのだった。
◇◇
――夕方。
アポイントから戻った神崎さんのデスクに、私は19件分の初稿と、確認が必要な12件分のまとめ資料を持って行った。
「神崎さん。おかえりなさい。
…お戻りになったばかりのところ申し訳ないのですが。今お時間、よろしいですか?」
私が尋ねると、神崎さんが頷く。
「…何?」
「今朝、指示を頂いた原稿作成についてです。
引継ぎを受けた19件について、初稿を作成しました。他の12件は不明な点も多かったので確認事項をまとめたのですが。
ご確認、お願い出来ますか?」
神崎さんは資料をパラパラと数ページだけめくったあと、バサッと机に放り投げた。
「はあ?何これ。センス悪。私こんなレイアウト指示してないけど?」
「え…?ですが、引継ぎ資料には…。」
すると、『はぁー。』とわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「あーあ!貴女のしょぼい原稿のせいで、私の貴重な時間が奪われるんですけどー!」
すると、いつも神崎さんとお昼を食べに行っている女性社員が三人程集まってきた。
「志保、どしたの?」
「見てこれー、センス悪くなぁーい?」
そう言って、四人で私の原稿を回し読みしてクスクス笑いだした。
恥ずかしくて思わず顔がカァっと熱を持つ。
「っ、申し訳ありま…」
――私が震える声で言いかけた時だった。
「やめて下さい!」
背後から強い声が響いた。振り向くと、美波が立っていた。
どうやら西山くんと外出していたはずなのに、もう戻ってきたらしい。
「私が全部責任持って見るんで!返して下さい。
――まどかは貴女に無茶振りされた原稿を、なんとか校了に間に合わせようと頑張ってました。
それを回し読みしてバカにするなんて、編集としてどうなんですか。」
美波は真っ直ぐに神崎さんを見据えている。
オフィスの空気が一瞬、ぴんと張り詰めた。
「……私は、この原稿は私の基準を満たしてないって言ってるだけよ。」
神崎さんはヒールを鳴らしてオフィスから出ていき、あとの三人も気まずそうにいなくなった。
美波は取り返してくれた原稿を私に手渡し、心配そうに覗き込んできた。
「…大丈夫?」
その瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
「…うん、美波、ありがとうっ、」
思わず泣きそうになってしまう私の背中をポンポン、と優しく叩いてくれた。
(…美波がこんなに熱くて優しくて。
――人のことを、こんなに見てくれていたなんて知らなかった。
最初はとっつきずらいと思っていたけれど。)
この日から私と美波は、同僚を超えた友人のような関係になったのだった。
◇◇
一週間後。
なんとか校了を終えた私は、達成感でいっぱいだった。
(本当に本当に、大変だったー!なんとか31件分、あそこから校了出来たよ…。)
結局忙しすぎてご飯をまともに食べられていなかった私は、なんとさらに3キロも痩せてしまった。
(うーん、痩せられたのは嬉しいけれど。これは健康的にどうなんだろうか。)
そんな事を考えていると。
「餅田さんっ!校了終わったんで、皆で飲みに行こうって話になってまして。
餅田さんが『JOUR』に来てくれてから、歓迎会も出来てなかったですし。
出席できそうですか?僕が予約することになってるんです。」
美波が教育担当をしている西山君が、声をかけてきた。
「そうなんだ、手配とか色々ありがとうね。じゃあ出席させて貰うおうかな。」
そう言うと、嬉しそうに頷いた。
「わーい、やったー。僕、餅田さんとお話してみたかったんすよ。」
そう言って他の社員のところにも、出欠を聞きに行っている。
(可愛い。私もあんな時期、あったなぁ。)
そんな事を思って、微笑ましい気持ちになる。
(…でも一人一人に聞いて回らないで、Googleフォームで出欠とればいいのに。)
――もしかして、知らないのだろうか。
私は今度、西山君に飲み会の出欠の取り方を教えてあげようと決意したのだった。
◇◇
「カンパーイ!!」
『JOUR』に異動して初めての飲み会に、なんだか少しドキドキする。
とりあえず高峰さんの教えを守って、ワインを飲みながら焼き鳥を食べる。
「それにしても、餅田さん異動してきたばっかりなのによく31件も入稿したね。私、びっくりしちゃった。」
隣に座っていた、メイク特集担当でベテランの篠原さんが話しかけてきた。美波とも仲が良いらしい。
「そんなっ。同期の橘さんが助けてくれたから何とかなりました。…美波。本当にありがとうね。」
私がお礼を言うと、美波が照れたように笑った。
「私はチェックしただけだよ。まどかが頑張っただけじゃん。…あれ、そう言えば今日神崎さん達いないんですね?」
すると、篠原さんが苦笑する。
「あー…。あの子達はねぇ。多分嫉妬じゃない?」
その言葉に私は目を丸くする。
「…嫉妬?何ですかそれ。私あんなに綺麗な人に嫉妬されるような要素、どこにもないですけど。」
「神崎さん、新卒の時から高峰さんのこと狙ってるのよ。そしたら他部署からきた貴女をジムに連れていったり構ってるもんだから…面白くなかったんでしょ。困ったもんだわ。」
そう言って篠原さんが溜息をついた。
(…あ。なるほど。そういうことだったんだ…。)
すると、個室の入り口の方で歓声が上がる。
「高峰さん、来てくれたって!」
どうやら社内打ち合わせで遅くなっていた高峰さんが到着したようだ。
「凄い人気よねぇ。あれだけ見た目もよくて仕事もできて、オマケに面倒見も良ければそりゃモテるわ。」
そう言われて、何故かチクンと胸が痛む。
(…そうだよね。いつも気軽に話してくれているけど本当は凄い人なんだよな。)
すると、少し酔って顔が赤くなった西山くんが絡んできた。
「それにしても、餅田さんって短期間で痩せてめっちゃ可愛くなりましたよねっ!
僕、結構タイプですっ。」
そう言われて私は目を丸くする。
「西山、それ人によってはセクハラって言われるから気をつけた方がいいよ。」
美波がそう言って嗜めている。
「ふふっ、大丈夫だよ。
冗談でも可愛いって言ってくれてありがとね。
――そんな風に言われる事、もうないと思ってたから。」
私が笑っていたら、何故か高峰さんがこちらに向かってくる。
(え?ちょっと、何?)
「おい、西山。お前、ちょっと酔いすぎだ。」
低い声が頭上から落ちてくる。
視線を上げると、高峰さんが私と西山くんの間に、すっと割って入ってきた。
「あ、すみません…。」
そう言って西山くんが少しビビっている。
「悪い、餅田に仕事の事で話がある。少し借りるな。」
そう言われて、私は高峰さんに外に連れ出されて、ドンっ!と壁際に追い詰められた。
(え、何この距離感…近っ…!)
「……何で言わなかった。」
「え?」
思わず目を丸くする。
「あんなに無茶な原稿の量、押し付けられて。…橘に聞いた時、びっくりした。」
ぐっと距離を詰められて、背中が壁に当たる。
逃げ場を失った私は、思わず瞬きを繰り返した。
「え、だって。神崎さんもちゃんと、高峰さんに引き継ぐことを言うって言ってましたし…」
「…本当にどこまでお人好しなんだっ!そんなのアイツが言うわけねぇだろっ!
俺は、いつもお前のこと見てるつもりだったのに!…助けられなくて、悔しかった。」
低く、抑えた声が耳に触れた瞬間、心臓が跳ね上がる。
「……俺じゃ、頼りない?」
「ち、違…っ、そんなこと…!」
焦る私を射抜くような瞳で見つめ返してくる。
「――なら、ちゃんと頼れ。」
至近距離でそう言い切ると、高峰さんは何事もなかったかのように背を伸ばした。
「……戻るぞ。」
先に歩いていく高峰さんの背中を見つめながら、私は呆然とする。
(……なに、今の…)
――お願いだから、こんなにドキドキさせないでほしい。
胸の奥で暴れる鼓動が、いつまでも鎮まらなかった。