【第二話】仕事も恋も失った私を救ったのは、鬼編集長の一言だった。
「…はぁ、はぁ…っ、もう…。む、無理…!!」
――翌朝。私は早速高峰さんに言われた通りにジムに来た…のはいいのだけれど。
…ランニングマシンの数字を見ると、まだ15分しか経っていなかった。
横で軽々と走っている彼が、視線だけ寄越す。
「……本当にそれで美容誌でやっていく気か?」
その低い声が、朝から心臓に悪い。
「っひぃ!!が、頑張って走りますぅー!」
そう言って私は息を切らせながら走る。
高峰さんが『はぁ…。』と溜息を吐く。
「…きちんと伝えたノルマをこなせよ。俺は先に行ってるから。」
そう言われて私はゼェゼェしながら頷く。
「わ、わかりました。」
この後さらにきつい筋トレをしなくちゃいけないかと思うと気が遠くなってくる。
「じゃ、俺は行くから。また後で。」
そう言って手をひらひら振るとシャワー室に消えていった。
(うぅうう!高峰さんの鬼っ!)
私は涙目になりながら今日のノルマをこなすのだった。
◇◇
(…せっかく運動したし、コーヒーはブラックにしておこうかな。)
そう思い、ブラックコーヒーを買って出社する。
パソコンを起動して、SlackやSalesforceで連絡事項を確認してto do リストをまとめていると、斜め前の席の美波がこちらをじっと見ていた。
「…まどか、今日はブラックなんだ。新人研修の時はいつもクリームたっぷりのキャラメルマキアートだったのに。」
「おはよ。美波。よく覚えてるね?!うん、せっかくジムに行ってきたから甘いの飲んだら勿体無いかなって思って。」
私の言葉に美波が驚いたように目を見開く。
「ふーん…そうなんだ。」
そんなことを話していると、高峰さんにカフェテリアに呼ばれた。
「おい、餅田。お前に担当してもらう特集が決まった。来月号からの都内のサロン特集を引き継いでもらう。
前任の神崎だ。今月は二人で担当して流れや、毎月やる事を掴んでもらう。
神崎。宜しくな。」
「はい、勿論です。高峰さん。」
そう言って神崎さんは微笑む。
(綺麗な人だなぁ。)
アッシュ系の茶髪を綺麗に巻いて、サイドで一つにまとめている。
耳にはシャランとゴールド系のチェーンの先にパールがついた上品なピアスが揺れている。
ネイルもお洒落なフレンチネイルにパールがあしらわれていて、メイクもナチュラル系だけどばっちりだ。まるで、女優さんのようである。
「じゃあ悪いけど、これから俺はハイブランドの広報の人達と打ち合わせがあるから。」
そう言って高峰さんは行ってしまった。
カフェテリアに二人で取り残された私達はとりあえず自己紹介をする。
「一昨日まで『UMAMI』のラーメン特集を担当していた餅田まどかです。美容雑誌は初めてですが、いち早く戦力になれるように頑張ります。
宜しくお願いします。」
そう言って私はぺこりと頭を下げる。
「神崎志保よ。
ふふっ。知ってるわ、ラーメン1日10杯食べていたって。『UMAMI』で『もちこ』って呼ばれてたんでしょ?
やだ、そのままの見た目すぎて笑えるぅ。」
私はそう言われて曖昧に笑う。
「…あはは。そうですね。」
「とりあえず、今日担当しているサロンに挨拶に行くから。そうね、今日はとりあえず3店舗かしら。
引き継ぐエクセルのフォルダのリンク、送っておくから見ておいて。
10時半になったら出るから。悪いけどこの資料、コピーしておいてくれない?私、忙しいから。」
そう言われて頷く。
「わかりました!何部くらい必要ですか?両面の縦開きで大丈夫でしょうか?」
私の言葉に何故かイラっとしたように神崎さんは吐き捨てる。
「そんなのどっちだっていいわよ。自分で考えて。」
(…あれ?なんだか…、私、嫌われてる?)
「…わかりました。すみません。」
そう言って私が頭を下げると、神崎さんはふんっと鼻を鳴らした。
「あ、コピー機使うとき、紙の補充ちゃんとしてね。前の部署だとそういうの、やってもらってたかもしれないけど。」
さらっと言いながら、手元のスマホを見たまま笑う。
「じゃあ後で。そこの入り口でね。」
――そんな私達を美波がじっと見ていた。
◇◇
神崎さんのスケジュールをGoogleで確認して、訪問する店舗の名前や場所、ホームページ、口コミなどを確認してから資料に店舗名を入れて印刷する。
引継ぎ資料を見て先方担当者のお名前も頭の中に入れておいた。
Googleマップで近隣の競合となるサロンがどんなお店かも見ておく。
念の為に資料はPDFにしてタブレットとノートパソコンにも落としておいた。
名刺も多めに持って、一応、HDMIのコードと変換アダプタも用意する。
(よし、これで万が一会議のような形になった場合も対応できるはず。)
私がドアの前で待っているとトイレの方からメイクをバッチリ直した神崎さんがヒールを鳴らして向かってきた。
「…じゃあ行くわよ。」
そう言って少しだけ口の端を上げた。
――サロンに着くと、新しく私が担当になると聞いて、美容師の方が戸惑った顔をしている。
「あ、名刺もらっていいですか…えっと、餅田、さん…?」
「勿論です。これから宜しくお願いします。」
それを見て、神崎さんがぷっと吹き出す。
「ふふっ、この子つい最近、グルメ雑誌から異動してきたんですよぉ。ラーメン担当で、1日ラーメン10杯とかも食べることもあったみたいでぇ。
餅田だから、もちこって呼ばれてて。」
「あ、ああ、そうなんですね。それで…。」
そう言いかけて、担当の方が失言したと思ったのか慌てて口を噤む。
その様子になんだか申し訳なくなってしまって胃の奥の方がきゅっと痛む。
「…すみません。これから美容の担当としていち早くお店のパートナーになれるように頑張ります。これからどうぞ宜しくお願いします。」
そう言って私は頭を下げる。
「あ、はい…。」
そう言って最後まで担当の方は不安そうな顔をしていた。
(せっかく色々と準備したのに提案することもできなかった。)
それが、私の心にズシンと響くのだった。
――会社に戻ると、高峰さんに神崎さんと呼ばれた。
「餅田、お前なんか先方のサロンで失言でもしたか?」
「…いえ。特に記憶はないですけど…。」
そう言って困惑した顔をすると、神崎さんが口の端を上げる。
「…この子ったら、サロンに行くのにメイク直しもしないで髪もそのままで行ったんですよぉ。
…だから、先方も不安になったんじゃないかしら。」
その言葉に高峰さんは溜息を吐く。
「…そうか。先方から担当を変えて欲しいと、連絡が来た。俺の方からなんとか言い含めておいたが…。次回からは頼むぞ。」
そう言われて私は目を見開く。
「…申し訳、ございませんでした。」
高峰さんは少しだけ神崎さんを見やってから、私の方を見た。
「…次回は俺が同行する。いいな。」
それだけ言って去っていった。
…たった一言なのに、それが驚くくらい心に残った。
◇◇
オフィスの建物内にあるカフェで資料をまとめていると、ふとウィンドウに映る自分の姿が見えた。
(…やっぱり、今の私じゃダメなんだな。)
そんな事を思っていると。
「あれー、もちこちゃんじゃん。『JOUR』に異動したって聞いたよぉ。
残念ー。私、もちこちゃんのラーメンのインスタ、楽しみにしてたのにぃ。」
そう言って、望月茉里が話しかけてきた。
「…それは、どうもありがとう。ごめん、今仕事してたから。」
私がパソコンに視線を戻すと、遮るように彼女が話を続けてくる。
「あ、ごめんね。ちょっとだけいい?
…あのね、実は私、俊くんと付き合うことになっちゃったの。」
その言葉に私は驚いて顔を上げる。
「…え?」
すると、口の端を上げて意地悪そうに笑う。
「なんかね、もちこちゃんが“変わる気ない”って、すごく悩んでたって…。
野球部の時もみんなに言ってたんだよねぇ。
だから、私、なんか放っとけなくて…。聞いてるうちに…。ごめんね?」
(…ああ、なんかもう、聞きたくないな。)
「…そうなんだ。わかったよ。ごめん、悪いけど忙しいから。」
すると、彼女は明らかに不本意な顔をした。
「…何それ。そんな感じだから俊くんにも可愛くないって言われるんだよ?」
そう言い残して去っていった。
(…はぁ。一年以上付き合ったのに終わりがこれって。)
そう思いながら、俊に『会って話がしたい』とだけスマホで送った。
数分後、「今からでもいい?」と返ってきた――。
◇◇
「何?話って。」
そう言って俊がだるそうに席に着く。オフィスのある建物内だと目立つので、近くのファミレスを指定した。
「えっと、さっきまでそこのカフェで仕事してたら、望月さんに俊と付き合ってるって言われたんだけど。
本当…?」
私がそう言うと俊が目を見開いたあと、
「…あー。」
と言いながら頭を掻きむしった。
「…ていうかさ、お前が悪いんじゃん。」
その言葉に私は固まる。
「え。」
すると、俊は恨みがましい顔で私の方を見てくる。
「俺と付き合ってんのに、ぶくぶくありえないほど太りやがって。
最初は可愛かったのに詐欺かっつぅの。ラーメン担当だか何だか知らねぇけどよ。」
口の中がカラカラに乾いて震えてくる。
「…そんな風に思ってたんだ。」
「っは、ジムとか行ってるみたいだけど全然変わってねぇじゃん。
だから言ったろ、まどかはラーメン食って笑ってる『もちこ』のが似合ってんだよ。美容誌なんて無理だって。
正直、今のお前見ると、なんで付き合ったのか分かんねぇわ。茉里のがずっといい女だし、正直別れてよかったわ。
じゃ、お疲れー。」
そう言って合鍵を投げつけてきた。
鍵がテーブルに当たってがしゃんっ、と無機質な音が響く。
「俺もう行くわ。支払いしといて。」
そう言って去っていった。
――周りの人がジロジロと見てきて恥ずかしくて涙目になる。
居た堪れなくて、逃げるように支払いをしてファミレスを出た。
ふらふらとなんとなく近くのコンビニに立ち寄ると、新しく発行された今月号の『UMAMI』があった。
(…あ。そういえば、今月号、まだ読んでなかったな。)
表紙を開くと目次のページ下に刻まれていたスタッフ一覧の名前の中に私の名前がなくなっている。
なんとなくショックを受けながらラーメンページを開いて目を見張る。
(…すごく良い記事だ。)
今月号も問題なく、ラーメン特集は最高の出来に仕上がっていた。
――そっか。私がいなくても、仕事はきちんと回っていくんだ。
そう思って私はふと気づく。
(ああ、私自分の中で、もしかしたらどこか奢っていたのかもしれない。)
自分がいなくなったことで『皆が困っちゃえばいい。』なんて思ったことは一度もない。
でも…。どこかで『UMAMI』にとって”自分は必要な人間だ”って思ってた。
(…なんかこのまま一人で帰りたくない。)
一人でふらふらと街を歩いていると、一軒のお洒落なバーを見つけた。
暖色系のライトが当たる木のあたたかな看板に、なんだか冷え切っていた心が少しだけ暖かくなっていく。
(…ちょっと寄ってみちゃおうかな。)
そう思って、お店のドアを開く。
カランカラン、とレトロな鐘の音が鳴ってバーテンダーの人が『いらっしゃいませ。』と声をかけてくれた。
ふと、カウンターに目を向けると。
――なんとそこには高峰さんがいた。
(うわ…。)
気づかれる前に、そーっと端っこの見えない所に座ろうとしていると。
「何やってんだ、餅田。早くここ座れよ。」
そう言って、隣の席にある椅子の背もたれをポンポンっと叩いている。
(…あ。これ、断れないやつ。)
渋々愛想笑いを浮かべながら席につく。
「…びっくりしました。まさか高峰さんもこのお店にいらっしゃるなんて。」
「あー。まあな。ここ、俺の友人がやっていて。」
恐らくマスターだと思われるバーテンダーを見ると、笑顔で会釈された。
「…そうなんですね。何食べようかな、私、まだ夕飯食べていなくて。」
そう言ってメニューを見ると、美味しそうなパスタがあった。
「おい、まさかそれを喰う気か?」
振り向くと、高峰さんが額に青筋を立てている。
「…ひっ!」
(…あーん、もう今日は本当に散々だよ…。)
そう思って内心溜息を吐く。
「…パスタなんて夜に食ったら太るだけだ。こっちにしとけ。」
そう言って、マスター(岡本さんと言うらしい)に生ハムとピクルス、ナッツ、サラダを注文している。
「俺が全部奢る。飲め。」
ふっと笑いながら差し出されたグラスを受け取ると、高峰さんが笑っていた。
(…わ、笑っているの、初めて見た。)
そのまなざしが温かくて。
なんだか思わず泣きそうになる。
「…なんだ、蒼。お前が女子に優しくするなんて、珍しいじゃん。」
そう言って岡本さんはニヤニヤした。
「うるせぇな。
――コイツが余りにもうちの部署に馴染めてねぇから、…ちょっと放っておけないだけだ。」
そう言ってプイッと横を向いた耳が、少し赤くなっている。
(わ、こんな顔もするんだ。)
そう思うと、さっきまで最悪な気分だったのに何故だか笑みが溢れてしまった。
――その日、私は高峰さんと色んな話をした。
高峰さんは遮ったりせず、真剣に私の話を聞いてくれた。
それが、なんだか心地よかったのと、少し酔っていたのもあって話しすぎてしまった。
「…私、少し調子に乗っていたんですかね。
さっき、自分が関わっていない『UMAMI』が問題なく素晴らしい出来で発行されているのを見て。急に寂しくなってしまったんです。」
そんな事を言うと、高峰さんは苦笑する。
「当たり前だろ。いくら優秀とはいえ人が一人いなくなっただけで潰れるような媒体は終わっている。
『自分がいなくちゃ駄目なんだ』じゃなくてさ。『自分がその仕事じゃなきゃダメな理由』を見つけろよ。」
そう言われて私は目を見開く。
「自分がその仕事じゃなきゃダメな理由…。」
(…そんなこと、考えた事もなかった。)
考え込む私を高峰さんはまじまじと見つめる。
「ふーん…。」
「な、なんですか。」
思わず恥ずかしくなって赤面してしまう。
「いや。ただの“ラーメン10杯デブ枠”かと思ってたけど――素材は悪くないなと思って。」
「そ、素材!?デブ枠!?」
「うん。君は、絶対に綺麗になれる。……俺がプロデュースしてやる。」
その言葉が何故か乾いた心にジワジワと染み込んできて、私は泣きそうになる。
「…ありがとうございます。宜しくお願いします。」
――こうして私の人生初の“プロデュース”が始まった。