EP1:ふたりの隠れ家:10年前
砕かれた城壁だったろうもの。古にふりまかれた災厄の痕跡。
吹き抜ける午後の風は、昨日の雪をふくみしっとりと廃墟の石を湿らせていた。
廃墟のかたすみ壁と壁の名残を挟むように、小さな煙をあげる小屋。つたないその作りは、柔らかな空気の動きをさえ遮らないほど儚く繊細だった。
その一人でいてもけしてゆったりは過せなそうな、ささやかな空間に長い髪の少女がいた。
そわそわと何かを待っているのか、そのしぐさは落ち着きがない。
ーーーまだかな?
さくりさくりと霜柱を踏む音が近づいてくる。
少女はこの音がなぜかお気に入りであった。自分の靴から発したものよりも、この段々と大きくなる外からの音に昔から安心感に似た安らぎを感じるのだった。それは時に体の内側から発せられる鼓動のように規則的で、ほんのささやかな音であった。
ーー帰ってきたんだ。カアレだきっと。
確信を持って小さな小さな暖炉から、入り口となっているドアのような何かに向かうリセ。
ここは二人だけの隠れ家。子供二人で(まあほとんどカアレが)作り上げた小さな砦だ。
この救いの多くはない世の中には子供でさえ逃げ込む先は与えられるものではなかったのだ。
ドア代わりの板をずらし、人影が現れひっそり話しかける。
「ただいま…変わりなかった?」
黒髪の少年は少し長い前髪の間から覗き込んできた。
「残念ながら?何もなかったよ」
少年を招き入れるため、少し半身になり下がりながら少女は返した。
「今日はいちじくの実を見つけたよ。ちょっと小さいけど…」
あの冬以来、この土地の植生は狂っていた。日々の糧を得ることですら命がけの世界。
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すきま風がぬける。
冬の夜の音だ。
しんしんと冷えた空気が、ふたりのまわりに敷き詰められる。
すっかり暮れてしまったこの廃墟に、明かりといえばたった小さな暖炉とも呼べない火。
安心したのかうとうとと隣で舟をこぐリセを、カアレは壊れ物をあつかうよう、そっと倒れないようにひきよせる。
ちりちりと燃えるのは、薪にもみたない枝のちいさな炎。厚着している二人でも、夜をこすには心もとなかった。
片腕で抱え込むように、そっとカアレは距離を詰めた。
ほんの少しでもリセを温めたかったのだ。おのれの差し出せるもののすくなさに、不甲斐なく思いながら。
幸せそうな、そのほほえみを守りたくて・・・
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風の音はささやきにかわり、ただ静かな寒さだけをしみわたらせた。
柔らかく撫で下ろした小さな頭。普段の彼が見せない表情、あたたかな愛おしさのほほえみ。
ーー小さな小さなリセ。
はっと、おのが指を見ておののくカアレ。そこには蜘蛛の糸の様にか細く、かつては光り輝いて見えた薄茶色の髪が幾本も絡んでいた。
ーーそ…そんな。
思い当たる事。いや、目をそらしていた現実が突きつけられた衝撃に、カアレは震える。
思い当たっていたのだ。
とっくに限界だと。
日に日にくすむ髪色。艶をなくしひび割れていく唇。いつからリセは小さく咳をしていた?
誰からも奪わず、ひっそり生きていくことはかなわないのか?
焚火の炎を映したカアレの瞳には、物騒な影がさしていく。透明な瞳の水色を隠すように。
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ふんわりとやさしいあたたかさ。
現実と境界が溶けてしまったかのように、世界はぼんやり霞んだ色に包まれる。
彼はいつも困ったような眉をしている。
ーーああ、これはすごくいい夢。どうか覚めないで…。
夢か記憶か。リセが思い出すのは、いつも優しかったあの時間。
かつて、満たされた世で、さらに満たされた幸福な時間をいただいていた。
美しい母様、優しい叔父様、庭師たちやメイドたち。
――みんなが私にやさしさくしてくれた。天使のようだと微笑んでおだてくれた。
そしてちらちらと、こちらを盗み見る男の子。
カアレはなかなか目を合わせてくれない。庭師の息子で、毎日顔をあわせるのに。
わたしはその水色の瞳がとても好きだったのにな。
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淡い朝靄が二人の砦にもしみ込んでくる、うすく透明な空気。
カアレの瞳はリセをとらえない。
「昨日、リーガン達と会ったよ」
リセの眉がキュッとしかめられる。
その名には、怒りよりも先に、うっすらとした警戒心と不安が浮かぶ。
「南の方に獣がいるらしいって。南の街は大混乱らしいと」
わずかに震えるカアレの低い声。
その言葉の端に、リセははっきりと感じ取っていた。
——言ってほしくない言葉が、この先に待っていると。
「いやよ!」
ほとんど反射のようにリセが遮る。正面から見つめる瞳。
言葉というより、拒絶そのもの。
「どうせ、混乱に乗じて盗みか、強盗しようって話でしょ!」
風が止まり、焚き火が小さくパチっとはぜる。
リセの言葉にカアレはうつむく。
焚き火の影が彼の顔の一部を隠す。
いつもなら、ここで彼はふざけてごまかした。あるいは黙って、笑って済ませた。
だが今日は違った。
不穏な間に、リセは呼吸すらとめた。
「もう……限界なんだよ……」
その言葉が、リセの胸に突き刺さる。
その声はあまりにまっすぐで、彼女がまだ聞いたことのない深さを持っていた。
ついに最初から最後まで、二人の視線は交わらなかった。




