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レイモンドの思っている事が伝わって来た。
”ああ。一体どうしたんだ。ランフォードが脱獄なんて、それも牢を破ったあの力はとても人間の力とは思えないほど酷かった。
あんな力魔獣にくらいしかないのでは?
しかし、ランフォードはこれからどうするつもりなんだろう。逃げたところで行く当てもないはず…まさか妹の所に?いや、いくら何でも魔獣のところに行くはずがない。
いや、コレットは魔獣のいけにえで生きているかもわからないんだった。
ではどこに行くつもりなんだ。ランフォードさえ俺を頼ってくれればいくらでも彼を守れるんだが…うちには鉱山もあるししばらくは平民として暮らすとして、それから何とかしてやれるかもしれないし…”
嘘です。ランフォード様がそんな無謀なことを、そんな事をしてもどうにもならないのでは…
いえ、ロッキーの時の彼は無謀でしたわ。私を助けるために男に飛び掛かって命を落としたのですから…
ランフォード様どうかご無事でいて下さい。今はそれしか言えませんが、私、絶対に何とかするつもりですから…
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ランフォードは牢に入れられてから失意の底にいた。
ルヴィアナには別れを告げたものの募る思いは増すばかりだった。
考えることはルヴィアナに会いたいことばかり。
どうしてこんなことになったのか。
それからは恨みめかしい事ばかり考えるようになった。
自分をこんな風にした国王が憎いとも。
運悪く国王が死んだことも。
一度は自分が国王になるはずだったのにとも。
ルヴィアナは自分の婚約者になるはずだったとも。
先に結婚を申し込んでそれを受け入れてくれたのだ。それなのにルヴィアナを奪われたとも。
公爵の称号まで奪われたことも。
すべてが憎いと思う。
憎しみは激しく燃え上がりランフォードの体は変異し始める。
スピリットソードのせいで魔獣の呪いでおかしくなったランフォードだったがそれは解決したはずだった。
だが、あのスピリットソードはいつもより魔石の力が大きかった。その力のせいで返り血を浴びた時入った血液もかなりの魔源の力を持っていたらしい。
元々ランフォード自身も魔源の力を多く持っている。
それに加えて魔獣の魔源の力。今までに浴びて来た魔獣の血液などそれらが混ぜ合わさった結果、今まさに彼の体に変化が起き始めたのだ。
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魔族は普段は理性のある人型なのに、興奮したり怒りや憎しみを強く感じると理性を失い本能のままに魔獣に変異する。
それらはすべて魔族の森の中にある魔素の力が影響している。
長い年月をかけて魔族の吐く魔力を帯びた空気を森の木々が吸い込み、そして木々は魔素を含んだ酸素を吐き出す。
その繰り返しでお互い共存して来たのが魔族と森の関係だ。
魔素は魔族の体の力の元でもあり、また毒ともなる。
それをうまく活かして生きて来たのが魔族だった。
だが、時として魔素を取り込みすぎて魔獣化して暴れて手の付けられなくなる魔族もいる。そんな時は仕方なく殺してしまう事もあるのだった。
逆にそれを使ってその力を利用しようとする人間がいるのも実情だった。
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ランフォードの精神状態は普通ではなかったし、彼の体は憎しみで極端に魔素の調整が出来ない状態に陥ったのだろう。
前に牢に入っていた時のように体が熱くなり、理性が奪われて行く感覚になる。
牢番に何とかそのことを伝えるが、全く相手にされない。
数日苦しみもがきながらそれでも何とか耐えていた。
だが、牢番達が話していた事でランフォードの中で何かがプツンと切れた。
「明日は国葬だな。これが終われば正式にディミトリー殿下が国王になられる」
「ああ、そうなればいよいよルヴィアナ様との結婚式か」
「だが、国王が亡くなったあとだ。すぐに結婚式は無理だろう。でも殿下はすぐにでもルヴィアナ様と一緒に住むつもりじゃないか」
「まあ、ルヴィアナ様はずっと殿下を追いかけていたし大喜びだろう」
「そうかもな。今も離宮にいらして殿下がたびたび通っているらしいぞ」
「じゃあ、結婚式前におめでたかも知れんな」
「ああ、最近は結婚式前に閨の睦言も当たり前だしな」
「そう言えばお前もそうだったよな?」
「それ、今さら言うか?勘弁しろよ!さあ、仕事仕事…」
ランフォードの脳内にブリザードのような嵐が吹き荒れた。
ルヴィアナがもう…まさか…いや、何を言っている。俺は自分で別れを切り出したんだ。そんな事関係ないはずだろう。
理性の強い俺でさえ、気づいた時自分も彼女を押し倒していたんだ。
だったらあのディミトリーの事だ。もうルヴィアナは…胸の奥が焼け付くように痛んだ。
理性は吹き飛び激しい憎悪が込み上げて来る。
一体誰のせいで…だが誰に対してと言うには決めてにかけていた。
逆に一つに固執できない憎しみが余計彼の混乱を招き憎しみを増幅させた。
そしてランフォードは魔獣に変異していた。
それからはここから逃げる事ばかりを考えていた。
ここにはいられない。俺はもう人間でもなくなったと…
ランフォードは牢の扉を思いっきり突き飛ばすと扉は吹き飛んだ。
あっという間に牢番をなぎ倒し塔から飛び出すと王宮を突っ走って王都シュターツの北側にある森の中に逃げ込んでいた。
それから走って走って気づいたら街はずれの修道院の近くだった。
そこまで来るとランフォードはばったりと倒れて気を失ってしまった。
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ジルファンはルヴィアナに治療してもらったおかげかあれからたいそう体調がよくなった。
今では修道院の診療施設で少しずつだが働けるようになっていた。
その日は修道院の近くにある森に薪を集めに来ていた。なにせ修道院は女性がほとんど、力仕事はやはり男でなければとジルファンは自分から薪を集めに来る。
そして倒れているランフォードを見つけた。
彼はほとんど裸に近い状態で、意識を失って倒れ込んでいた。
「おい!大丈夫か?しっかりしろ…」
ジルファンはランフォードに近づくと彼を抱き起す。幸い息はしているし、体も温かかった。
すぐに連れて帰って手当てしなければ…
ジルファンは背負っていた薪を放ると代わりに彼を背負おうとしゃがみ込む。
年を取ったとはいえ魔王との間に生まれたジルファンは力も強くたくましかった。若い男を背負うことくらいは簡単な事だった。
突然ジルファンの鼻腔に懐かしい匂いが漂った。
”なんだ?この匂いは…これは、いや。もしかしてレティシアの匂い?どうしてこの男からレティシアの?
年のころは30代、その男がしている指輪を見て驚く。
これは…シャドドゥール家の紋章ではないか。
忘れるはずもない30年ほど前、ジルファンはレティシアと出会った。
彼女はシャドドゥール公爵の妻で、鵜尺の父親は前国王の弟だと聞いた。だが、シャドドゥール公爵にはほとんど魔源の力がなかったらしく、次に生まれる子供には必ず魔源の力を持った子供が必要だった。
それでジルファンに白羽の矢が当たったのだった。
レティシアはこれも妻としても務めと諦めてジルファンと閨を共にすることを承諾したらしい。
ジルファンはレティシアに出会った瞬間、今までに感じたこともない高揚感を覚えた。彼女の香りに酔いしれ、全身が彼女が欲しいと告げた。
こんなことは今まで一度もなかった。何度も女と閨を共にして来たジルファンはあまりの剥がしい欲望に自分でも恐ろしくなるほどだった。
昔から魔族には、番となる相手と出会うと溢れんばかりの欲望をきたし相手を求めてやまないという。
それは理屈や道徳的な事は完全に超越したことで、自分の理性でどうにかなるものでもないらしい。
番と出会うとその途端その女性を求めその思いは強烈で、我が半身のような存在になるというのだった。
そしてジルファンは生涯で最初で最後の恋に落ちた。寝ても覚めてもレティシアの事が頭から離れず、閨では愛を告げて彼女を求めた。
だが、そんな関係もすぐに終わり、レティシアが身ごもるとすぐにふたりは引き離された。
レティシアには公爵夫人というはっきりとした名誉ある居場所があり、子供は公爵家の跡取りとして育てるという目的がある。
ジルファンがどんなにレティシアに愛を乞うてもレティシアは決してジルファンに振り向くことはなかった。
それは最初からわかってはいた事だったが、ジルファンにしてみれば運命の相手に捨てられたのだ。
彼はどうしようもない喪失感に見舞われ、それから後の自分の仕事がまったく出来なくなる。
要するに男として機能しなくなったのだ。
そしてとうとう理性を失い魔獣化してしまう。
その時の国王はニコライだったが、彼はジルファンにはもう使い道はないと判断する。
騎士隊が取り押さえに入れられてしばらくするとジルファンは亡き骸のような人間の姿に戻った。
そして生殖器を切り取られて修道院に送り込まれたのだった。
ジルファンの過去の記憶が蘇る。
レティシアは、それは美しい銀色の柔らかな髪、夜の闇をくぐり抜けて来たかのような光を携えた金色を帯びたひとみ、長いまつ毛はフルフルと瞬き、唇はまるでマザーベリーのように艶やかな赤色でその微笑みは蕩けそうなほどだった。
「ジルファン」そう呼ばれることがとても幸せでその響きが今も耳の奥で聞こえて来そうになる。
「レティシア…」思わず声が漏れる。
彼女は公爵夫人。シャドドゥール公爵のものだった。
この指輪はシャドドゥール公爵家の者しか出来ないはず…
もしかしてこいつは俺の……?
31年ほど前レティシアは俺の子供を身ごもったはず。
彼は俺の子供なのか?
お前が愛しい番の愛の結晶とはいえないが…
ああ…なんてことだ。
まさか巡り合えるとは思いもしなかった。
「おい、しっかりしろ。お前を何としても助けるからな」
ジルファンの身体中の細胞が覚醒したように沸き立つ。