雨の降る日だけ、すべて嘘になる。
ときどき自分が何をしたいのか分からなくなる。
何かによりかかっているときは、腹の底が熱くなって、からからの喉に水を注ぎ込まれたかのように充足感に満ち溢れるのに、ふと気づくと体の中にぽっかりと空洞が空いて、何もないのだ。
肺も心臓も腸もさっきまで感じていた熱も。何も。
ときどき自分がひどくつまらない人間なのではないか、と錯覚する。
いや、錯覚というかもはや真実なのだが、傲慢にも錯覚するのだ。
時計の針が歩を進める。
一歩。一歩。
一秒。一秒。
時が進むごとに目の前の景色も希薄になっていくような気がした。すべてがトーンダウンして、いつの間にか俺の目の前には白と黒しか残っていない。
何もかもが意味を失って、白と黒しか残っていない。
雨粒が窓ガラスを叩く。
その日はあいにく豪雨だった。
一滴。一滴。
残響と雨の足音だけが響く。
一打。一打。
足並みもまばらに響く。響く。
雑踏の中にいるようだった。
しだいに彼らは足早にどこかへ急ぐように降り続けた。
雨音はどこまでも響いて、俺の頭の中で鳴り響いた。
もうこの音は止められない。
どうしようもなくうるさくなって、ずっと反響して止まない。
白も黒も意味を失い、音だけが響いた。
そのとき。
「にゃ〜。今日はすてきな雨日和だね。」
俺の目の前にいたのは一匹の猫だった。
彼は濁りのない黒い眼光を俺に向けていた。
「にゃ〜。辛気臭い目をしているね。木偶の坊。君の目を抉り出して、僕の目に変えてやろうか。」
猫は自身が当然そこにいるかのように喋りつづけた。
猫が喋ることに不思議と疑念を抱かなかった。
彼の存在がただ不気味だったからかもしれない。
「……あんた、誰だよ。」
それがようやく俺が絞り出せた言葉だった。
「にゃ〜。私?君は私の名前について聞いているのかな?それとも出自?好み?あいにく今さっきすべての意味が失われたばかりだ。」
「……あんたは皮肉が好きなのか?」
俺は彼にとって喋ること自体が喜びなのではないかと思った。
彼は辞典を適当に開いて発音したかのように言葉を羅列する。
そのすべてに意味があるとは思えなかった。
「にゃ〜。皮肉は嫌いさ。私は皮肉混じりの皮肉を放つ嫌な皮肉屋。もちろん、君のことも嫌いだ。」
「あんたはこんなところでべらべら喋って、何がしたいんだ。」
純粋な疑問を述べたつもりだった。だが、彼は瞳孔をわずかに輝かせた。彼はその質問自体を待ち望んでいるようだった。
「にゃ〜。君は哀れで情動に振り回される血と肉の詰まった蝋人形だ。本当によくできた人形だよ。精密で精巧で人間をよく表している。でも、真に哀れなのはそれが何の意味もないってことだ。」
……。
「にゃ〜。こんな辛気臭いところには居られないよ。場所を変えよう。」
そうして、彼は机から飛び降り、ドアへ向かった。
俺は椅子から立ち上がり、彼の後ろをついていった。
「にゃ〜。君が偶然にも手に入れたのは幻想への片道切符だ。お代は君が僕を撫でるだけでいい。そして、このドアを開けるんだ。」
彼は自身の前に立つドアに顎を向けた。
俺は大昔のことだが、こんな夢を見た気がする。あれは確か小学生の頃だ。図書館で借りた本の大筋が主人公が開いた本が異世界に繋がっていて、そこで冒険が始まるという内容で、当時の俺は表紙を見ただけで興奮した。
その話にはこんなに喋るクソ猫も陰気臭い雨もなかった。
彼の言葉には何の意味もないのだろうか。扉の先には何があるのだろうか。それとも俺の頭がイカれただけか?
いずれにせよ、俺には彼の言葉に応じる以外の選択肢がなく、かつそれ以外のことをしようにも結局彼の言うとおりのような気がした。
「あんたの頭を撫でればいいのか?」
「にゃ〜〜〜。そうさ。優しくしてね。」
俺は彼の頭に掌を置いて、ゆっくりと撫でた。
そして、立ち上がり、ドアに指をかけた。
「にゃ〜。それでは、いってらっしゃい。肉人形。」
俺は扉を開けて、一歩を踏み出した。
横殴りの雨が窓ガラスを激しく叩いていた。
あまりのうるささに俺は目を覚ました。
窓から外を覗くと、バケツの底をひっくり返したみたいに雨が降り注ぎ、空は灰色の覆われて、絵に描いたような曇天だ。
そのとき、俺はわずかな違和感に気づいた。
明らかに俺の目線が低くなっていた。今俺は外を見るために大きく見上げなければいけない。
うすうす嫌な予感を感じつつも俺は自分の「足」を見た。
俺の目の前にあるのはもう人の手首ではなく、猫の足だった。
俺はため息をついた。
落胆というよりもこの状況で意外にも冷静な自分に驚いていた。
俺は無意味にペタペタと歩いて、自分が猫になった、と自覚した。
どうせ、あの猫のせいさ。感想は「そんなところか」って感じだった。
「びびっ。びびっ。」
不可思議な声がした。俺と同年代らしい少女の声が後ろから聞こえた。
振り向くと、一人の少女がまっすぐ俺を見ていた。
「びびっ。びびっ。」
彼女は何か擬音を口走りながら、俺を凝視し、一歩一歩と近づいていた。
俺は言いようのない恐怖を感じて、彼女が近づくたびに後ろ手に引いた。
「びびっ。びびっ。」
言葉も出なかった。第一あの猫がどこに行ったのかも分からなかった。俺はもう我慢できず、彼女に背を向け全力疾走した。
俺はどうやら30mはあるであろう廊下に立っていたらしく、一度走り出すと止まらなかった。
俺は後ろも見ずに走り続け、行き止まりにぶち当たった。
あたりを見回すと、右に階段があり、俺は下の階へ下がった。
その中途で何人もの学生とすれ違った。
俺は下の階に下りるとまた廊下を走り続け、別の階段からまた下へ下がろうとした。
廊下の突き当たりが見え、もう少しというところで曲がり角が手が伸び、俺を抱き抱えた。
「びびっ!と来たんだよねー。電波が。」
声の主はあのきもい声を上げていた少女だった。
「あはっ。君、中身は誰かな?」
「かわいい子猫ちゃん。中に誰かいるよね?返事できるかなー?」
俺は心底驚いていた。あのクソ猫にはめられて、俺は確かにこの猫の中に入っているのかもしれない。でも、なぜこの女にそれが分かるんだ?
理由は分からないが、彼女には一切の小細工が通じなさそうだった。
だから、まっすぐ行くことにした。
「俺に何か用かよ。」
「あはっ。喋れるんだねー。」
彼女はまっすぐに俺を見ていた。どこまでも透き通って、水彩画みたいに綺麗だった。
「用なんてないよ。だから言ってるじゃん。電波がびびっ!と来ただけー。」
「なんだよ、その電波って。」
「電波は電波だよ。そんなことよりさっ、君はなんであんなところにいたのー?」
「変な猫に絡まれたんだよ。多分、俺の体は今頃あいつに好き放題されてる。」
「んー、それってさー。」
彼女は頬に指先を当て、思案に暮れる動作をするように少し目を瞑り、顔を傾けた。
透き通った黒髪がはらりと俺の顔に垂れて、ほのかに清涼剤の香りがした。
彼女は次の瞬間には目を開けた。
その目は何か……。
「にゃー。角消し頭。君のすかすかの脳みそでもそろそろ事態は掴めてきたかな?それとも私が君の臓物で脳みその穴を埋めてやろうか?」
「ってやつ?」
その目はやつの目だった。
黒い瞳孔。一滴の曇りもない漆黒。
俺は彼女の腕の中でじたばたと暴れ始めた。心の中で激しく警笛が鳴らされていた。やつから逃げなきゃ、と。
「ちょちょちょー!冗談だってー。びびっと来ただけだから。ふんふん。でも、不気味不気味。」
彼は次の瞬間にはいなくなっていた。
いや、最初から彼女だった。彼女はただ彼の真似をしただけだ。不思議と直感できた。
しかし、不気味なのはどっちなんだか。
「てめぇ、あいつのことを知ってんのかよ。」
「あいつー?」
「ふざけんな!にゃー、っていうゆうのが口癖のクソネコだよっ!」
「あぁー、さっきびびっ!ときた人?残念ながら、びびっ!と来ただけなんだよね。ま、ここはひとまず落ち着いて、深呼吸ー。」
「深呼吸じゃねぇわっ!てか、いいから離せ!」
俺は彼女の腕から逃れるために身を捩り始めた。何か分からないがこの女は危険だ。というか、気持ち悪い!
「あわわ。」
俺は床に飛び降りた。
「あぁっ!びびっ!と来たーっ!君、そのクソネコを探してるんだね?」
「びびっと来なくても分かんだろ。話の流れで!」
「じゃあさー、私が探してあげるよ。そのネコちゃんを。」
彼女は頬に手を当て、怪しげな微笑みを浮かぶつつ顔を傾けた。
「か、わ、り、にー!図書館に行きたいんだよね。案内してくれるかなー?」
「はぁっ?はぁっ?勝手に行けよ。」
「あ、びびっ!と来たよー。いいからさ、君も困ってるんでしょ。私も困ってるんだよねー。1年3組11番。佐伯幸太郎君。」
「!」
それは紛れもなく、俺が所属するクラスの俺の番号で、俺の名前だった。というか、こいつは誰だ?
そういえば、彼女の胸元には1年生の証である、緑のリボンがあった。
「あはっ!」