魔物と旅人10: 誘われる男と魔物
夕暮れの街に上流からの船がついた。
この街は大きな川のほとりにあり、大小様々な船が行き交い、多くの物と人で活気づいている。
この街で船に乗り換える者、ここから陸路を行く者、皆明日の旅に備え、この街の宿を利用する。
さほど裕福でもない俺は、そこそこの安宿を見つけ、その日はそこに泊まることにした。
1階は居酒屋になっていて、既に酒を酌み交わしている奴もいる。
今日は下で1杯やって、明日に備えて早々に寝よう。
向こう側の席には、夫婦と思われる二人連れがいた。
女のしゃべる声がうるさいが、男は黙って聞いていた。
男の食べているチキンがうまそうだったので、同じものを頼んだ。
隣の席の男は1人だった。
手元で何かがごそごそと動いている。
よく見ると、黒くて丸い生き物だった。
男の手から何か食べ物を分けてもらって食べている。
ずいぶんおとなしく、人になついている生き物だが、この辺りでは見かけない種類だ。
チキンを持ってきた女が、街の様子がちょっと変だと言っていた。
俺たちよそ者にはいつも通りに見えるが、今日は遅れ気味の船が多いらしい。
後から来た客が、船の後方から甲高い音がして、船長が埠頭まで飛ばしたから船が揺れて大変だった、と言っていた。
やがて、いつものように人で賑わい、不安な声はかき消されていった。
どれくらい時間がたったか、そろそろ部屋に戻ろうと思っていた頃、急に周りがしん、と静かになった。
何人かの男が聞き耳を立て、ふらりと立ち上がると、外に向かって歩き出す。
誰かがドアを開けると、1人、また1人と、食べかけの食事もそのままに、何かに誘われるように外に出て行く。
「ぷきゅ?」
黒い生き物を連れていた男も、椅子から腰を浮かせた。
その目つきはぼんやりとして、さっきまでかわいがっていた生き物を机の上に置いたまま、ゆっくりとドアに向かって歩き出した。
それを、黒い生き物が追いかけ、肩に乗ると、服を引っ張った。
懸命に引き留めようとしているように見えた。
「ちょっとあんた!」
さっきの夫婦も、夫の方が立ち上がり、妻が声をかけても見向きもしない。
「きゅ、 きゅきゅ、 きゅー!」
黒い生き物が耳元で何を言おうと、まるで聞こえていないかのようだ。
「ぷ、ぷ、…きゅうううう!」
引っ張る力もむなしく、男は外へ出、手が離れた黒い生き物は、勢いのまま後ろに飛ばされた。
外には、何人もの男がいた。
誰もが焦点の合わない目をして、ふらり、ふらり、ゆっくりと、だが進む方向は誰もが川のある方向だ。
かすかに、川の方から少し甲高い音が聞こえた。音…声と言うべきか。
突然、黒い生き物がさっきまで一緒にいた男の元へすごい勢いで突進した。
男は少しふらついたが、振り返りさえせず、ゆっくりと足を進める。
魔物は手に持っていたスプーンと小皿を男の耳元で、かん、かん、かん、と何度も何度も叩いた。
すると、男は立ち止まって、軽く首を振った。
それを見ていた、さまよっている男達の連れと思われる女達が、一斉に行動に出た。
旅の者は近くの皿や瓶を鳴らし、大声を上げて連れの名を呼び、近くに家のある者はフライパンや鍋をお玉で叩き、あちこちで大きな音が鳴り響いた。
すると、ふらふらと歩いていた男達がその歩みを止めた。
中には、その音が届かず、まだ川まで歩こうとしている者もいた。
その先の川の中には、何人かの女がいた。
どれもみな髪が長く、服を着ていない上半身を水面から出し、一見美しい姿で、笑みを浮かべ、声高らかに歌を歌っている。
しかし、陸の女達の騒音で、自分たちの声が届かなくなっていることに気がつくと、その表情が怒りに満ち、キイキイと甲高い声を上げたかと思うと、裂けた口からより大きな音で歌を奏でだした。
陸の女達も黙っていない。
「さあ、手伝うんだよ!」
「ほら、あなたも叩いて!」
周りの正気な男達や子供達にも声をかけ、より大きな音、声で応戦する。
そこへ、突然、教会の鐘が今まで聞いたこともないくらい乱暴な音で町中に鳴り響いた。
いつもは美しい鐘の音が、グァオン、ボアオン、ガヤン、ボリョン、と、とてつもない音を立て、でたらめに鳴り続けた。
町の者も耳を押さえるほどのうるささに、とうとう川にいた女達は、どこかに泳ぎ去って行った。
乱雑な鐘の音はやがてゆっくりと収まっていった。
静まりかえった町に、しばらく呆然と立ちすくむ男達。
やがて、ゆっくりと我に返り、今まで自分がどこに行こうとしていたかも判らず、すぐ近くにいた連れの女に泣かれ、しがみつかれ、叩かれ、微笑まれて、それぞれ元の場所へと戻っていった。
その中で、旅の男だけが、共に帰る者がなかった。
男は足下に落ちている割れた小皿とスプーンを見て、何かを思い出しかけていた。
そして、周りを見回すと、そのままどこかに走って行った。
あの黒い生き物は、どこにもいなかった。
1時間ほどして、あの男が、黒い生き物を連れて帰ってきた。
黒い生き物は、男の手の中で眠っているようだった。
一緒にどこかの子供が数人、ついてきていた。
「あの変なの、教会の鐘の中に入って、体当たりしてたんだぜ。変な音で鐘がすっげえうるさかったの、あいつのせいだ」
「いっぱい当たった後、目を回して倒れてたんだ。ばっかみたい」
「きっと頭がおかしいんだ。魔物じゃないのか?」
「わあ、怖ーい!」
「何言ってんだい!」
奥から出てきた店のおかみが、子供の1人にげんこつを落とした。
「あの鐘の音のおかげで、父さんは川の魔物に連れて行かれなくて済んだんだよ。感謝こそすれ、悪口言う奴があるかい!」
おかみさんは、さっきフライパンを持って、旦那の耳元で大騒ぎしていた女傑の1人だった。
「子供達のおかげで見つかりましたから…。あまり叱らないでください」
男は、軽く会釈をして、そっと借りている部屋に戻っていった。
両手で包み込むようにして運ばれた黒い生き物は、かなり激しく鐘に体当たりしたのだろう。毛並みもずいぶんボロボロになっていた。
黒い生き物は翌日になっても動けず、男はもう1泊その町で過ごすことにしたらしい。
俺はそのまま旅を続けたが、帰りに立ち寄って聞いた話によると、その後、あの黒い生き物は元気を取り戻し、男と一緒に次の街へと旅立ったそうだ。
川の魔物に呼ばれた者は、皆、連れに呼びかけられ、誘われた、と言っていた。
愛妻家ほど狙われたという訳か。
なるほど、独り身の俺が誘われなかった訳だ。
あの男は誰に呼ばれていたんだろう。
まさか、あの黒い生き物じゃないだろう。どんなに可愛いがっていたとは言え…
元ネタはローレライ、セイレーン、ケルピー(馬じゃないけど)あたりのよくある伝承。
血を流さない女の戦いを書いてみたかったのですが、あらすじに書くと完全ネタバレなので、後書きに書き添えます。