耳なし兎
◇◆◇
――一九七〇年頃、幻想郷――
満月の夜だった。因幡てゐは迷いの竹林を軽快な足取りで駆ける。師匠である八意永琳の依頼で、人里に薬の材料を買い出しに行った帰り道、てゐはなんとなく、迷いの竹林を散策するように彷徨っていた。かすかに香る鉄の匂いをてゐは感じ取る。
「なんだい、これは血の匂いか?」
気になるてゐは匂いの源を探す。竹が茂る藪の中、それはすぐに見つかった。
「こいつは……人間の子どもか? 血だらけじゃないか……」
紫の髪色をした幼女が竹林の中でぐったりとした様子で倒れていた。気絶しているその幼女は頭を怪我しているのか、顔中血だらけ……。幻想郷では見慣れないブレザー服姿の幼女。歳の程は人間でいう5歳くらいであろうか。
「この服装……。どうやら外の世界の住人か」
……ここ幻想郷に外の世界の住人が迷い込むことは稀にある。そういう類の人間は野良妖怪の餌となるのが常であり、幻想郷の賢者たちにも推奨されている。
人里の人間を殺すことは幻想郷に住む妖怪に許されてはいない。人間を食さなければストレスを抱えてしまう妖怪たちにとって、外から迷い込んだ人間は欲求不満を発散できる数少ない存在だ。
因幡てゐ自身は人間を食す妖怪ではないが、調和のために外の人間を妖怪が喰ってしまうのは仕方のないことだと考える価値観の持主でもある。もし、目の前の迷い込んだ者が成人した人間であったならば、因幡てゐは放っておいただろう。だが、傷ついている幼女を視界に入れた因幡てゐは幼い姿に思わず同情してしまった。
気付けば、因幡てゐは怪我をした幼女を永遠亭へと運び込んでいた。
「あらあら、これは珍しいお土産を持って帰ってきたことね。因幡の素兎殿」
永遠亭で薬の材料を待っていた八意永琳が出迎える。
「ちっちゃい子が倒れていてさ……。可哀想でつい……。いけなかったかい? お師匠様……」
「まさか。そういう感情を未だに持っているからこそ、あなたに一目置いているのよ。……この子のこの服装は……」
「ん? どうしたんだい、お師匠様。この子の格好、知ってるのかい?」
「この服装は……月の兎『玉兎』の制服……」
「月の兎の服? へぇ。そいつは珍しい。……お師匠様、月からの侵入者がいるよ」
「言われなくてもわかってます。当たり前のことを言わないでちょうだい。笑えない下手な冗談を言う場面じゃないわ」
「しかし、あたしにはこの子ども、月の兎には見えないけどねぇ……」
因幡てゐが不思議がるのも無理はなかった。目の前の幼女には兎の特徴がなかったからである。そう、幼女の頭には兎の耳が生えていなかった。
「この子、人間じゃない。耳がついていないもの」
八意永琳は幼女の側頭部の髪をかき分けていた。永琳の言う通り、人ならば耳がついているはずの場所に耳が生えていない。
続いて永琳は幼女の頭頂部を観察する。そこには兎耳が生えていたであろう痕跡が見つかる。幼女の顔を真っ赤にしているのは、切られた耳から流れ出ている血に違いない。八意永琳は確信する。
「この子、兎に間違いないわ。……耳を失くしている……。……『読取術式』」
永琳は幼女の頬に手を当て、術名を唱えた。永琳の手がおぼろげな紅い光に包まれる。
「なにしてるんだい、お師匠様?」
「……玉兎には、個体識別番号が割り振られている。それを読み取っているのよ。……この子は……、依姫の兵……!?」
「よりひめ?」
「……私がまだ月に居た頃に弟子に取っていた子よ。この子兎は依姫の所有物だったみたいね。……こんな小さな兎まで兵として動員するなんて……。一体月で何が……?」
地上に堕ち、幻想郷に身を置いていた八意永琳はこの時まだ、『アポロ計画』を知らなかった。表向きには月面着陸を目的としていた計画だが、真の目標は月の技術を狙った外の世界の人間の『月面侵略作戦』。月の民と人類は歴史の裏で見えない争いを行っていたのである。
「うぅ……」と声を上げながら、眉間をピクつかせる幼女兎。眼を覚まそうとしているようだ。
「あぁ……?」
目を覚ました幼女は自分の置かれた状況を確認するように周りを見渡す。永琳を視界に入れた幼女は何かに怯えるように飛び退いた。永琳は優しく諭すように喋りかける。
「怯えなくても大丈夫よ。私たちはあなたに危害を加えたりしないわ」
穏やかな表情を浮かべる永琳だが、幼女はそれを信用していない様子だった。耳がなく、言葉を聞きとれないのだから無理もない。幼女の怯える感情は恐怖を通り越し、身を守るための敵意に変わる。
「あぁあぁあああああああああああああああああああ!!!!」
紫髪の幼女はその能力を開放する。彼女の能力は狂気を操る程度の能力だった。紅く染まった両眼から狂気の波長が放たれる。狂気という名の激しい頭痛と嫌悪感が永琳とてゐに襲いかかった。二人は思わず頭を抱える。
「くっ……。助けてやったってのに攻撃してくるなんて……。恩知らずも良いとこだよ!」
「てゐ、こんなちっちゃい子に手を出しちゃダメよ……!」
「わかってるさ、お師匠様。でも、こんなの長時間耐えられるものじゃない」
「……たしかに凄い能力ね。玉兎は波長を操ることができるけど……、ここまで強力な力を持っている兎は初めてだわ……! どうやって、これほどの高出力波長を……!?」
「お師匠様、研究者として知的好奇心旺盛なのは結構だが、時と場所は考えてほしいもんだね」
「ふふ、悪いわね」
未知の強力な攻撃を受けているにも関わらず、緊張感のない会話を重ねることができるのは二人が経験豊富な長寿の存在だからだろう。それに永琳には勝算があった。
「……この子は怖くて寂しいだけ。寂しさを紛らわすように怒りの波長を放っているんだわ。兎が寂しいと死ぬという迷信は、恐怖からの暴走で力を使い果たし、命を失うことがよくあることから来たものなのよ……」
「……お師匠様、そいつは本当かい?」と、疑り深い眼差しでてゐが永琳を見つめる。
「どうかしら?」と永琳はいたずらに微笑んだ。
永琳は幼女にゆっくりと近づき始めた。永琳のことを敵だと認識している幼女は、さらに波長を強める。
「……くっ……!? 本当に強力な波長……。……大丈夫よ、おチビさん。私は貴方を傷つけたりしない」
「あぁあああああああああああああああああああああぁああああああああ!!」
高い叫び声を上げながら、更に強力に能力を発する幼女。なんとか近づいた永琳は幼女を抱きしめた。だが、幼女は暴れ回り、永琳の肩口に噛みつく。激しく噛みつかれた肩部分の服が血で赤く染まってしまった。それでも永琳は幼女の兎を優しく抱きしめ続ける。
「大丈夫よ、落ち着きなさい。私は貴方の味方……。安心して……」
攻撃し返してこない永琳の姿を見て、幼女は噛みつく力を緩める。幼女の視界に入ったのは穏やかな表情で微笑む永琳だった。優しさを多分に含んだその微笑みに幼女は安堵したのか、永琳を強く抱きしめ、胸に顔をうずめる。……そして、すやすやと眠り始めたのだった。
「……こりゃ驚いたね。まさか、お師匠様がそんな母性溢れるような行動をするなんてねぇ」
「どういう意味かしら、てゐ?」
「おっと、これは機嫌を損ねちゃったかな?」
「さ、この子の治療をしなくちゃね。てゐ、診療ベッドの準備をしてちょうだい」
「ほいほい」
………
……
…
兎の幼女がベッドで眠りに就いて数時間が経過した。少女の頭部には包帯が巻かれている。永琳の治療が一通り終わったのだろう。幼女はゆっくりと瞼を開く。
「あら、目が覚めたのね?」
「あぁああ!」
永琳の顔を見た幼女は安堵したような表情を浮かべた。決して自分を攻撃することなく、抱きしめてくれた永琳をある程度、信頼しているのだろう。
だが、その安堵もすぐに絶望の表情に変わる。
「あぁ……。あぁああああ。あぁあぁあああああああ!」
耳を失くした子兎は何かを確認するように声を出す。だが、結果は残酷なものだった。子兎が出す声は子兎自身に届くことはなかったのである。子兎は恐る恐る自分の頭に手をやった。そこにはあるはずのものがなかった。そう、耳である。子兎は自分の耳がなくなっている現実に直面し、めそめそと涙を流した。
落ち込んでいる兎の肩に永琳がそっと触れる。
「そう悲しい顔をしないの。作ってあげたから……。ちょっとボタンが付いてるのは我慢しなさい」
永琳は子兎の頭に何かを取り付ける。……それは、義手、義眼ならぬ『義耳』だった。もちろんただの義耳ではない。月の賢者、八意永琳が造ったそれは本物の耳よりも、『本物』だった。
子兎は自分の耳が聞こえるようになったことに気付く。
「あぁ……。あぁあああ。あぁあああああ!」
義耳を取り付ける前と同じ『あぁ』という発音だったが、子兎の顔は笑顔だった。永琳の義耳から聞こえる自分の声。もう聞こえないと思っていた声。それが再び聞こえるようになったことが、当たり前だが嬉しかったのである。
子兎は嬉しさのあまり、ベッドから飛び降り、永琳の足に抱き着くようにしがみ付く。
「あ、ありがとう」
子兎は永琳を見上げながら小さくお礼の言葉を述べた。兎の義耳がピンと立つ。それは兎が喜んでいるサイン。
「どういたしまして」と永琳は満面の微笑みで子兎の礼に応えた。
「あなた、月の兎『玉兎』ね? お名前は?」
「レ、レイセン……」
「そう。レイセンちゃんというの……」
「あ、あの。なんでわたしが『月のうさぎ』だってわかったの?」
「……私は月の民。だから、解るのよ」
レイセンはビクっと身震いさせると、先ほどまでピンと立たせていた耳をしおれさせる。兎が何かに怯えているときのサインだった。
「な、なんで地上に『月のたみ』が……? わたし、ころされちゃうの……?」
心配する子兎、レイセンの頭を永琳は優しく撫でる。
「大丈夫よ。私たちは貴方を殺したり、傷つけたりしない。月に送り返すこともしないわ」
「ほ、ほんとう……?」
「本当よ」と微笑む永琳。だが、正直なことを言えば葛藤もあった。輝夜も永琳も月からのお尋ね者。目の前の子兎が月からの刺客ならば、命を助けることは自分たちの居場所を教えるようなものだ。レイセンが眠っている間の数時間、輝夜と永琳はこの子兎を始末するべきか、生かすべきか頭を悩ませたが、自分たちの身を守ることよりも幼い命を守ることを選んだのである。
永琳は言葉を続ける。
「……月で何があったのかしら? どうして、そんな大けがを負ってしまったの……?」
「……地上の人間が攻めてきたの……」
「地上の人間が……!?」
「うん……。変な乗りものでやってきたの。玉兎の先輩たちもたたかってたけど……、みんなころされて……。くんれん生のわたしたちも戦場にだされたの……。でも、わたし死ぬのが怖くて、みんなを置いて月から逃げ出しちゃった……。羽衣を使って……」
「そう……。じゃあ、耳は人間に攻撃されて失くしてしまったのね……?」
永琳の問いかけにレイセンは首を横に振る。
「これはね……。自分でやったの……」
「なぜ、そんなことを?」
「地上に逃げる途ちゅうで、地上の人間に会っちゃったの。だから、わたし……わたし。殺されたくないから、自分で耳を切っちゃったの。耳さえなければ、地上の人間と見分けがつかないと思って……、殺されないと思って……。でも、騙せなかった……。それでもわたし、一生懸命逃げて、ここまできたの」
レイセンは恐怖の逃亡を思い出し、涙目になっていた。永琳は沈痛な面持ちでレイセンを見やる。幼い兎が生きるために必死で考えた『愚策』を聞き、同情を覚えた。そして、こう答える。
「バカなことをしちゃったのね。……決めたわ。やっぱりあなた、この永遠亭に住みなさい」
「え……?」
「姫様と貴方の処遇をどうするか、考えていたのだけど……。そんなに考えなしの性格でこの幻想郷に放り出すわけにはいかないわ。ここで私が生きる術を教えてあげる。立派に独り立ちできるまでこの永遠亭で暮らすこと。嫌でも我慢しなさい」
「ここにいていいの……!?」
「ええ。よろしくね、レイセンちゃん。……自己紹介がまだだったわね。私の名前は八意永琳。輝夜姫様ととものこの永遠亭を仕切らせてもらっているわ」
「八意様……」
「……そうだ。貴方に名前を付けてあげなくちゃね。何にしようかしら?」
「名まえ? 私にはもうレイセンって名まえがありますよ。八意様!」
「違うわよ。私が言っているのは名字のこと」
「名字……? 名字は月の民しか付けちゃいけないんじゃ……。ペットの兎は付けたらいけないって、依姫様が……」
「……貴方はペットなんかじゃないわ。この幻想郷では貴族も奴隷もないもの。だから『地上人らしく』貴方にも名字が必要よ。まあ、どんな名字にするかは追い追い考えていきましょうか。……さ、行くわよ」
「ど、どこに?」
「我らがお仕えする姫様のもとに挨拶に行くのよ。……階級による上っ面の忠誠ではなく、心から忠誠を誓うにふさわしいお方。きっと、貴方も好きになるわ」
……こうして、レイセンは永遠亭の仲間になった。彼女が『鈴仙・優曇華院・イナバ』という名になるのはもう少し時が経ってからのことである。