旅立ち
「はぁっ! はぁっ!」と激しく息をするグラサン。その足元に折れた刀を刺された霧雨の身体が横たわる。霧雨は既に意識を失っていた。呼吸もしていないようにリサには見える。
「……グラサンの勝ちか……」
陰から二人の死闘を見守っていたオールバックは呟きながら、携帯電話を手に取る。
「ああ、オレだ。組の連中に伝えとけ。グラサンの勝ちだ。霧雨は胸ぇ刀で貫かれた。じきに死ぬだろうよ。助かったとしても……、無事には帰ってこれねえだろうな」
部下に連絡を終えたオールバックは再び視線を横たわる霧雨に向けた。
「……残念だな。できれば、てめえに勝って欲しかったんだぜ、霧雨」
呟いたオールバックはその場を歩き去って行った。
「おっさん! おっさん!!」
リサは折れた足を引きずりながら横たわる霧雨の元に歩み寄る。
「しっかりしろ! おっさん! 眼を開けろよ!!」
眼に涙を浮かべながら叫ぶリサ。しかし、霧雨が開眼する様子はない。呼吸はさらに弱弱しいものに変わっていく。リサはグラサンを睨みつけた。
「ちくしょう! よくもおっさんをぉお!」
リサはグラサンのスーツのズボンを強く掴みながら、睨みつけた。
「ガキ、恨むなら勝手に恨め。こちとら恨まれることには慣れてんだ。それより、霧雨の方に付き添ってやれ。もうじきそいつは死ぬからな。最後は二人きりにしてやる。きちんと別れの挨拶を済ますんだな」
グラサンはしがみ付くリサを振り払うと、その場を去って行った……。
「ち、ちくしょう。ちくしょう……! おっさん、死ぬんじゃねえぞ! 救急車……、そうだ救急車呼べば……!」
リサは霧雨のポケットから携帯電話を取る。しかし、争い続きだった霧雨の携帯電話は壊れて動かなくなっていた。救急車を呼ぶ術がなくなり、自身もまともに動けないリサは大声で助けを呼ぶしかなくなる。
「だれか……、だれか助けてくれ! おっさんを助けてくれよぉ……!!」
悲痛の涙が混じった少女の叫びに集まってきたのは、ダウンタウンに住む日雇い労働者とホームレスたち。
「おい、あんたたち、だれか携帯電話持ってないか!? 救急車呼んでくれよ……!」
しかし、誰も救急車を呼ぼうとはしなかった。このダウンタウンに住む奴らは皆訳あり。携帯電話も持つことができないほど貧しいか、持っていても外部に連絡することで素性がばれるのを恐れて躊躇する奴らしかいなかった。リサからすればただの烏合の衆で野次馬でしかない。
「くっそぉ! おっさんは見世物じゃねえんだぞ! 散れよ! 助けてくれないんなら集まるんじゃねぇ!」
そうこうしている内にさらに霧雨の呼吸は弱くなっていった。リサもそれに呼応するように取り乱す。リサが混乱し、石ころをダウンタウンの住人たちに投げつけ始めた時だった。一人の青年が野次馬の中から現れる。
「……一体何の騒ぎですか! けが人でもいるんですか……!? ってえ!? き、霧雨さん!?」
リサとは面識のない青年だが、彼は霧雨のことを知っていた。彼は霧雨の身体を観察し始める。
「これはいけない。既にショック症状が……! 早く治療しないと……! 僕の医院に運ぶ! 誰でもいい。手伝える人は手伝ってくれ!」
青年は、見ることしかできないホームレスたちに指示を出し、霧雨を運ばせる。どうやら医療関係者らしい。病院に辿り着いたリサは青年に尋ねる。
「お、おい兄ちゃん。あんた何者だよ。なんでおっさんのこと知ってるんだ!?」
「……昔少し世話になったんだ。詳しいことは後で話すよ、お嬢さん。今は一刻を争う……!」
青年は霧雨をホームレスたちに指示して手術台に乗せると、単身手術室へと入って行ったのだった。
………………
…………
……
「んあ? あ、ああ……。……どこだ、ここは? そうだ、俺ぁグラサンに刺されて……」
霧雨はベッドの上で眼を覚ます。自分の身体に何やら管がたくさんついているのが見えた。刺された胸とナヨナヨに撃たれた腕がわずかに、じんじんと痛む。ベッドの傍らには座ったまま、顔をうつ伏せにして眠るリサの姿が見えた。
「……クソガキ、無事だったか。……ここは、病院か……?」
霧雨が呟いていると、病室の扉が開かれ、医師と思われる男が入ってきた。「えらく歳の若い先生だな」と霧雨は思いながらマジマジと医師の顔を確認する。どこかで見たことがある……と霧雨は思う。霧雨は脳内アルバムをめくり、男の顔を検索した。そして、思い出す。医師の正体を。
「気付いたみたいですね、霧雨さん。本当に危ないところだったんですよ? 普通なら死んでます。でも、そこはさすが霧雨さん。人並み外れた生命力のおかげで助かったんです。神様とご両親に感謝しないといけませんよ」
「て、てめえ、坊主じゃねえか!? い、医者になったのか!?」
霧雨は医師の青年の言葉を聞き流し、自分の聞きたいことを尋ねる。霧雨は医師のことを『坊主』と呼んだ。そう、この医師はかつて霧雨が助けた『クスリ漬けにされていた少年』だったのである。眼の下のクマが取れ、青年となった元少年は笑顔で答えた。
「ええ。おかげ様で医者になりましたよ。霧雨さんの激がなかったら、きっと僕はここまでたどり着くことはできなかった。感謝してます」
「だ、だがよう、てめええらく若くないか。まだ二十になってねえぐらいだろ。俺ぁよく知らねえが、医者ってのは大学に6年間くらい行かなきゃいけねえんじゃねえのか?」
「……霧雨さんと別れてから、心入れ替えて頑張ったんです。霧雨さんの言う通り、絶対に実の父親を見返してやろうって……! ……僕、アメリカに留学して向こうの大学卒業して医者になったんです。あっちは飛び級が認められてますから。そして、帰ってきてこのダウンタウンで開業したんですよ。成長した僕の姿を霧雨さんに見せたくて……。まさかこんな形で再会するとは思いませんでしたけど」
青年は爽やかな苦笑いを浮かべた。
「……立派になりやがったな、坊主。それに比べて俺ぁ情けねぇ男に成り下がっちまった。喧嘩三昧の下らねえ仕事をやってたんだからよ。てめえに偉そうに説教してたのが恥ずかしいくらいだ……」
「くだらない仕事なんかじゃないと思いますよ。このダウンタウンで開業しているとそう感じます。弱い人間に集る輩は後を絶ちませんから。リサちゃん、言ってましたよ。『おっさんの仕事は正義の味方だ』って」
「このガキ、そんなこと言いやがったのか。……そんな格好の良いもんじゃねえよ、バカ野郎」
霧雨は眠っているリサに視線を移す。
「霧雨さん、丸3日寝てたんですよ? その間、ずっとリサちゃんが看病してたんです。自分も足の骨を折ってるっていうのに……」
「……そうか、迷惑と心配かけたな……」
霧雨はリサの頭を撫でると、体を起こそうとした。
「……霧雨さん!? まだ、無理したらいけません。安静にしてください!」
「……うっ!?」
体を起こした霧雨は自分の身体に違和感を覚える。あるはずのものがない。そんな感覚だった。霧雨は青年に尋ねる。
「坊主……いや、先生。俺の体、どっかおかしくなっちまったのか……?」
「……奇跡だったんですよ。刃物が胸を貫通していましたが、幸い心臓や重要な血管は無事でした。ただ、その代わり、肺の一部を切除する他ありませんでした」
「そうか」
霧雨は自分の感覚が正しかったことを確認し、眼を閉じる。
「今まで通りに動けるように戻るのか?」
「失われた肺は戻りません。リハビリすれば日常生活に支障はないでしょうが、激しい運動はできなくなるでしょうし、少しの運動で息切れを起こすことになると思います。……とりあえず、2週間は絶対安静。その後は経過次第です」
「……わかったよ、先生」
霧雨は自分の胸に手を当てる。血止めの包帯が巻かれていた。
「潮時だな……」
霧雨はこぼすように言葉を落とした。三十後半で慣れ親しんだ漁村を出ることになり、日雇い労働者を経て暴力的仲裁者となった霧雨。気付けばもう四十を超えている。自慢の体力も失われた今、かつてと同じような仕事はもうできないだろうと霧雨は確信した。
「うーん……。私、こんなとこで寝ちゃってたのか……。っておっさん!? 眼、覚めたのか!?」
「……起きたか、クソガキ。……迷惑かけてたみてえだな」
「……良かった。私、心配したんだぜ? 本当におっさんが死ぬかと思って……」
リサは霧雨の胸に飛び込み、霧雨の服で涙を拭っていた。医師は席を外す。霧雨はリサが泣き止むまで頭をなで続けたのだった。
――2か月後、霧雨もリサも傷が癒え、歩けるまでに回復した。マンションに帰れない二人は医師となった青年の家に匿ってもらい、生活していた。霧雨は家賃代を青年に払おうとしたが、青年は「あの時、電車賃として貸してもらった2千円のお返しですよ」と言って受け取ろうとはしなかった。
だが、いつまでも青年の厚意に甘え続けるわけにもいかない。霧雨もリサも次の場所へ移らなければならない日がすぐそこまで近づいていた。
「……クソガキ、お前いつ『幻想郷』とやらに向かうつもりだ?」
「……そろそろ」
「そうか」
「あ、あのさ、おっさん。おっさんは家族いないんだよな……?」
「ああ。前にも話したことあるだろ。もう親父もお袋も死んで、兄弟もいねえ。天涯孤独ってヤツだな」
「だ、だったらさ、その……。おっさん、もし行くとこないんならさ。わ、私と……」
「……俺も行く」
「…………え?」
「俺もその幻想郷とやらに行く。……もう前みたいな無茶な仕事はできない体になっちまったからな。ここに残っても、組の奴らに見つかれば闘争になる。……そんなことにはもう体が耐えられねえからな。それなら、異世界か、異次元か、結界の中か何だか知らねえが、幻想郷とかいう天竺に行った方がましだろ。……クソガキ、お前がイヤじゃなければ付いて行ってもいいか?」
「そ、そうか。し、仕方ないんだぜ? 特別サービスで一緒に行くの許してやるよ、おっさん!」
リサは満面の笑みを浮かべていた。
リサと霧雨は青年の車で中部地方のとある場所へと運んでもらった。とある山の麓で車が停まる。周りには山しかない。商業施設などはおろか、民家の一軒すら建っていない。正真正銘文字通り、山の中だ。
「……本当にいいんですか、霧雨さん? こんなところに置いて行って……」と青年は不安そうに霧雨に再確認する。
「ああ。助かった。最後の最後まで迷惑かけたな、先生」
「……本当にこんな場所にあるんですか? その隠れ里みたいなものが……」
「……本当さ。このクソガキが調べ上げたんだからな。こいつ、こう見えて賢いからよ」
霧雨はリサを指さす。リサは「こう見えて」は余計だろと霧雨に突っ込んだ。
「……何から何まで世話になって悪いんだが、最後にもう一つお願いきいてくれねえか、先生」
「何です、霧雨さん?」と尋ねる青年に霧雨はメモを渡す。そこにはかつて霧雨が漁師をしていた九州地方の村の名が書かれていた。
「……これは?」
「その村は俺が昔、漁師やってた村なんだ。……もし、旅行でも行って立ち寄れることがあった時にはよ。そこの組合の奴らに伝えてくれ。……今までありがとよってな」
「……霧雨さん?」と聞き返す青年に霧雨はそれ以上の言伝てはしなかった。
山への入り口で霧雨たちは青年と別れることにした。
「じゃあな、先生」
「霧雨さん! ……また、会えますよね?」
「……たりめえだろ。……また、いつかな」
霧雨は青年に別れを告げて、リサとともに山の中へと歩いて行った。きっと、これが最後の別れになる。そう感じ取った青年は渡されたメモを握り締め、霧雨たちが見えなくなるまで手を振り続けたのだった。
リサと霧雨は山道を歩き続ける。リサの研究結果が正しければそろそろこの辺りで見えてくるはずだ。
「……あった。あったぞ。クソガキ、お前の言う通りだったな。神社があったぞ……!」
霧雨はリサの予想通りに古びた神社があることに興奮を隠せない。
リサは神社周辺に目を凝らす。運、魔力、気質、技量……。魔法に必要な全ての才能を奪われたリサだが、それらを全く感じ取れなくなったわけではない。リサは探す。幻想郷と外の世界を隔てる結界の裂け目を。そして、見つけ出した。裂け目は神社から少し離れた樹の幹に存在した。
「おっさん、この樹だ。ここに空間の……結界の裂け目がある。……おっさん、準備はいいか? もうこの世界には帰れないからさ……」
霧雨は空を仰ぎ見た。この世界との別れが寂しくないわけではない。だが、霧雨は決めたのだ。人生の再出発地点を『幻想郷』というまだ見ぬ土地に。霧雨は意を決するように口を開いた。
「いつでもいいぞ」
「……わかった。行こうぜ、おっさん……!」
リサは幹に手を触れる。瞬間、霧雨の視界がぐにゃりと歪む。強烈な立ち眩みにあったような不快感だ。次に意識が戻った時、霧雨は先ほどの山とは似て非なる山の中にいた。
「く……? 何が起きた? 移動は成功したのか……? クソガキ、どこだ!?」
「こっちだ、おっさん」
リサは茂みの向こうから呼んでいる。合流した霧雨は尋ねた。
「……ここが幻想郷か?」
「……ああ。間違いない。外の世界とは比べ物にならないくらいの運に溢れてる。おっさん、あれ見えるか?」
霧雨がリサの指さす方に視線を向けると、そこには背中に美しい羽を生やした女児がいた。
「何だありゃ……。幼稚園児みたいなガキが羽生やして空飛んでやがるぞ」
「妖精さ」
「妖精だぁ?」
「ああ。外の世界ではもういなくなっちまったけど、昔は外の世界でもよく空を飛ぶ姿が目撃されてたらしいぜ? ……とにかく、妖精がいるってことは、ここは幻想郷で間違いない」
リサは確信するように霧雨に妖精を紹介する。目の前の非現実的な光景に目を奪われながら霧雨はリサに尋ねた。
「さて、これからどうすんだ?」
「……コミュニティってのは色々な理由で作り出される。だが、共通しているのは、妖怪や妖精が存在するってことだ。そして、妖精や妖怪は人間が認識しなければ存在できない」
「……よくわからんこと言いやがって……。要はどういうことだ?」
「コミュニティ内には人間が必要。そして大概の場合、一か所あるいは限られた複数個所に集めているはずなんだぜ。つまり、人間が暮らしている村のようなものがあるはず。そこを探すんだ」
「なるほどな。で、どうやって探すんだ?」
「幸いなことに、あそこに川があるだろ? あれを伝って川下に移動する。本来山歩きでは下るより昇る方が迷わないけど、今回の目的は人里を探すことだからな。川下には人間が住居地を作っている可能性が高い。さ、行こうぜ」
リサと霧雨は川に沿って歩き出した。しばらく歩くと、川幅はどんどんと大きくなり、広い石河原に出る。そこで二人は小休憩を取ることにした。外の世界から持ってきたペットボトルの水を飲み、エナジーバーを頬張る。
「食料は多くはないからな。早く人里に辿り着かねえといけねえな……」
「…………」
霧雨の会話に対して水を飲みながら無言で何かを察するリサ。リサは眼を見開き、叫ぶ。
「……何か、来る!」
リサが振りむいた視線の先には10歳ほどの少女が立っていた。少女の頭部には猫耳が付いており、腰から2本の尻尾が伸びている。少女と霧雨たちとの距離は5メートルも開いていない。
「な、なんだこいつ!? さっきまでこんなヤツいなかったはずだぞ? いつの間に!?」
驚愕する霧雨をよそに猫耳少女は大声で喋り出した。
「みぃつけた、みぃつけた! 藍しゃま! 見つけましたよ、しんにゅうしゃ!」
「偉いぞ、橙。あとでご褒美をあげよう」
「う……!?」と思わず霧雨は声を上げる。橙なる猫耳少女に『藍しゃま』と呼ばれた美女がただならぬ気配を纏わせていたからだ。ビリビリとしたプレッシャーを感じる。この美女もまた、人間とは思えなかった。腰には9本のふわりとした狐のような尻尾を生やしており、奇妙な被り物もしていた。被り物には獣耳を収納するように2対の出っ張りが備わる。
中国風のような和風のような……その中間くらいの白を基調とした服に、青の長い前掛けを付けた美女は霧雨たちを厳しい視線で見下していた。
「残念だったな、侵入者共。お前たちはここで終わりだ」
狐美女、『八雲藍』は縦長に切れた冷たい瞳で霧雨とリサに死を宣告するのだった。