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幸と幸 (さちとゆき)

作者: 神邑 凌

高校三年生になった男女が、それまで顔さえ知らなかった二人で在ったが、クラス替えによって

運命の糸が繋がれる事となった。


そして一番の思い出になる日にとんでもない不幸な出来事に遭遇した二人は波乱の青春を駆けのぼる

                      

 滝川幸子(さちこ=さち)と但野幸夫(ゆきお=ゆき)はともに高校三年生になり新しいクラスに気の引き締まる四月を迎えていた。


 この度のクラス替えが二人を近づける事となり、同じクラスに成った滝川幸子と但野幸夫はあいうえお順で前と後ろの続きの席に座る事となり、これまで顔さえ知らなかった二人の波乱に満ちた人生がこの日を境に始まる事と成った。


 滝川幸子は清楚でその後姿は首が細く襟足に貴賓を感じさせる女であった。当然前から見たその顔は決して美人とかでは無かったが、それまでスポーツをしていた性か、やや浅黒くきついくらいの目鼻立ちで、それでいてどことなく奥深しい優しさも兼ね備えている女であった。


 真後ろの席に座る但野幸夫は、時たま意識をして見つめる滝川の容姿や印象をその様に捉えていて、決して一目ぼれをしたとかそのような感情はまるでなく、一口で言えば前の席に座る女子で過ぎなかった。

 それは滝川幸子も同じで、但野はただ後ろの席で座る男子生徒と言う他に何ら感情など何一つ無かった。


 そんな二人であったが、五月の半ばに成ったころにはお互いを意識するほどに成っていて、それが六月になり七月に成った頃には、まるで夫婦のようにいつも二人で何かをしていた。


 何かとはともに本屋へ行ったり喫茶へ行ったり、人生を語り合ったり、どれだけ充実した日を重ねているかと感心する毎日に成っていた。


「幸せ」と二人はいつも感じていて、半年もすればやがて別の道に進む事が気になり始めたが、そんな不安も二人で吹き飛ばすようにと心の内を確かめ合っていた。


 但野幸夫は少々気が小さい。だから正直幸子の手を握った事もあまりない。口づけを交わした事もなければ、ぎこちなく肩を抱き寄せて自分の肩に近づけた位が精々であった。


 誰にも負けないくらい好きだったが、その辺は相当臆病であって、幸子はそんな但野の仕草に少々苛立った事もあった。しかし幸子はそれでも良かった。

但野の純真な心の良さが身に沁みて解かっていたから納得できた。

 

幸夫は二人が卒業しても変わらない愛が二人を包み、未来永劫その関係は続くように思えていて、その思いを幸子に話すと、幸子もまた目頭を熱くしてその言葉を耳にしていた。




 高校生活は屋の如く過ぎ、とうとう新年を迎える事となり、あと僅かで二人は別の道に進む事になる現実に、それまで持ち合わせていなかった苛立った感情が見え隠れし始めていた。


 初詣に二人で手を繋ぎながら詣で、神様に二人の思いを打ち明け、未来永劫限りなく愛し合う事を誓い、その帰り道別れ際に幸夫は幸子の唇に初めて唇を重ねていた。


「好きだよ。これからもずっと変わらないから」

「ええ、どこまでも付いていきます。どんな事があっても、わたしも貴方しかいないから。貴方だけを愛します」

 二人の思いは盲目の如く只管であった。



やがて二月になり自由登校の身に成った二人は、話し合ってアルバイトに行く事にした。

二人で量販店のアルバイトにせっせと通い、帰りは二人で喫茶へ行って話し込みと言う毎日を繰り返していた。

実に充実した毎日であった。

 アルバイトも二週間目に入り、それまで一緒だったシフトが別々に配置され、偶然であったが会社の方針で幸子と幸夫は別々の勤務になり、幸子はこれまでの部署から営業の店頭に回されるように成り、幸夫はこれまで通り製品の配送が主であった。



 三月三十一日とうとう二人はアルバイトを満了して仕事納めになり、翌日の四月一日から幸夫は東京の大学へ行く為の準備に入る予定で、幸子もまた大阪の短期大学であったが、入学の準備に掛からなければならなかった。


 三十一日二人はアルバイト料を手にして、高校生活最後の記念の日を迎えていた。

 幸夫は何日も前からある事を決意していた。


それは高校生活最後の日に幸子と、深い、とても深い関係になりたいと思っていた。

 だから三十一日の夕ぐれになり、幸子を公園に誘い硬く抱きしめてその思いを口にしていた。

 幸子は幸夫のぎこちなくも真剣なその眼差しや言葉に、何ら躊躇う事なく頷きながら幸夫の顔を見て笑顔を作っていた。

 目の前にはホテルが・・・

それでも幸夫は幸子に打ち明けた筈が一歩が動かなかった。


それは初めてであった事もあるが、それだけではなかったのか「さあ、行こう」とその一言が出てこなかった。


幸夫は所詮純朴な青年である。今時と言われてもあっさりと簡単にはいかなかった。

 幸子は幸夫に打ち明けられて、その高ぶりざわついた心の内が手に取るように判ったが、それでも女の方から「何故行かないの?」とは言えなかった。


 結局もじもじして幸夫は踏み切る事が出来ず、その日は気まずかったが、二人は何もなくお互いの家に帰る事に成った。

幸子はそれでも一向にかまわなかった。むしろそれで良かったと思うようにした。

幸夫も情けないように思いながらも、何事もなかった事の安堵感が、幸夫を落ち着かせていた事も確かであった。



 それでも二人の心は、いつかはそんな日が来る事を共に願っていて、幸夫がその気に成れば、幸子も躊躇うことなく応じるつもりであった。


 そして当然のように幸夫が東京へ行くその前の日に、二人は会う約束をして大人になる日を迎える積りであった。


 この一年間に再三デートを重ねてきた隠れ家の様な無人の尼寺で出会う積りであった。そこはどこよりも二人が愛を語り合った場所で、どれだけ多くの思い出が詰まっているか計り知れない様に思えていた。


 苔むした石垣、常に静寂に包まれた小さな本堂滅多と誰とも出会わない二人だけの世界。

一番近い建物や人影は可也離れた所であった。

だから二人が一日中境内でデートを重ねていてもまず誰にも遠慮する事など無かった。

一年中でほんの僅かの時だけが何か行事の様なものがあり、その時だけ近づく事が出来なかっただけである。


 幸夫は前回のデートの時のように、幸子を抱きたいと思いながらも、必ずしもそう成りたいと頑なだったわけではなかったが、何しろ明日か明後日には二人は別れ別れに成って、新しい道に進む事に成る事は間違いないのだからと言う焦る気持ちもあった。


 デートの日が来て、幸夫は約束の時間に尼寺へ自転車で向かった。ところが少し走った時、自転車の後輪が異常な事に気が付き、停めて見ると空気がまるでない。家の下駄箱の隅に古びた空気入れが

ある事を思い出し、慌てて引き帰し空気入れの埃を払いながら取り出し、それで慌てて空気を入れ始めた。


 時間をロスした幸夫は少々焦っていた。自転車で飛ばして行っても、約束の時間は間に合いそうもない、最後のデートだと思うとなお焦った。


 空気は上手く入らず、よく見ると空気入れのゴムが割れていて、空気が自転車まできちんと届いていない事に気が付き、空気入れを修理して、それで再度空気を入れてみると、今度は上手くいき、空気は自転車のタイヤを硬く成程に入れる事が出来た。

 

それでも何だかんだと空気入れの修理に時間が掛かり、二十分ほど時間が過ぎ、とうとう自宅を出る時は幸子と約束をしていた時間に成っていた。

尼寺に着くまでに二十分は掛かる。


「ごめん、こんな時に運が悪いよ、自転車の空気が抜けていて走れなかったから、家に戻って空気を入れていたら今に成ってしまって、直ぐに行くから待っていてくれるかな。ごめんな」

「そう、あぁいいわよ、待っているから」

「ごめんな」

「気を付けてね。」

「あぁ飛ばして行く。」


 幸夫は持っていた携帯を片手に持ち、其れで自転車に乗ろうと跨いだが、その時あまりにも息が荒れていて、思わず自転車から降りて玄関のドアを開け炊事場へ行き、水道の水をがぶがぶと飲んだ。

そしてまた自転車に飛び乗って幸子の待つ尼寺へ一目散に向かった。

「しまった携帯を忘れた・・・」


携帯は水を飲んだ時に、炊事場のどこかへ置き忘れた事に気が付いたが、今一番大事な事は幸子を待たせている事だったから、振り向く事もなくサドルを夢中に成って漕ぎ続けた。

 

時計を見た時すでに三十分が過ぎている。幸子から電話が掛かっていて心配かけている事も考えられたが、一刻でも早く着いて彼女に笑顔を見せるべきだと心は焦る一方であった。


 何とか尼寺に着いた時はすでに四十分ほど過ぎていて、まだ四月の初めだと言うのに幸夫の額から汗が湧くように流れている。


「はぁーはぁー」と荒れた息が止め処もなく湧くように繰り返され、幸夫は相当苦しそうに自転車を止めて降り、押しながら尼寺に向かおうとした。

 石垣が長らく続いているその寺は、門から境内まで可也距離があり、松の木立を潜り抜け本堂に着く


その時幸夫は境内で二人の若そうな男がいる事に気が付き、この一年もの間に無かった事に驚かされ、思わず足を止め木陰に隠れてそっと見つめた。 


じっと見ているとその二人は二十代初めの若者で幸夫より少し年上の感じであった。

 彼らは何者かなど全く判らなかったので、遠慮気味に彼らを見ていたが、その時一人の男はよく見るとズボンを下げていて、もう一人の男が座り込んでやや細い目の手を握っている。


それでも幸夫には何が起こっているかなど知る由もなく、やがて一人の男はズボンを持ち上げるように履き、その時幸夫はまさかと思いながらも何が起こっているかを想像していた。


 二人の男はそそくさとその場から立ち去ろうとして、幸夫の方に向かって来たので、幸夫は慌てて身を隠し、男たちが去って行く後姿を見送る様にしながら、幸子の事が気に成りだしていた。


「あの場所は幸子が待っている筈の場所・・・」

その事を気にしながら、男たちが完全に消えるまでその場から動く事が出来ず、幸夫は恐る恐る境内を見ると、そこで衣服をはぎ取られた幸子が、重そうに体を起こして乱れを直している姿が目に入って来たのである。                 


「まさか幸ちゃんが・・・」


幸夫はそれ以上の言葉など見つからない。


流れる汗が冷や汗に代わり、目の前の光景を今自分はどのように対処すればいいのかと、心の中はパニックに成って狼狽えている。

「幸ちゃん何があったの?」

其れも出来ない。見てしまった今「ごめん遅く成って」と言う事も出来ない。


《いや今声を掛ける事など俺には出来ない。どうすればいいこんな時は・・・・・》


服の乱れを整えて幸子は膝を立て、両手でそれを包むようにして座って俯いた儘である。今、惜しさと辛さと歯がゆさと辱めを受けたショックで苦しんでいる


幸夫はその様に思いながら、震える心で自転車をそっと押し、その場から離れる事を思いついた。

《今幸ちゃんは誰とも会いたくないだろう。俺が何食わぬ顔をして「遅れてごめん」と言った所で、

俺の態度がいつもと違う事で尚更苦しむだろう…》


幸夫は自転車を漕ぎながら、そんな事を頭に浮かべて家路についていた。

罪悪感もあった。こんな時だからこそ役に立つべきだとも思った。愛する人に今自分が役に立たなければと、

自宅に着いた幸夫は、忘れていた携帯に幸子から電話が入っている事を知ったが、その時嘘を思いついていた。


「ごめんね。携帯落としてしまって。其れで探していて今見つかったんだけど それに自転車もまたおかしく成って変な事重成ってしまって」

「そうだったの」

「これから行くから」

「幸夫さん今日は私もう帰るから、また明日にでも会って、もう会えないかなぁ」

「そう、ごめんな。折角楽しみにしていたのに残念だけど」

「じゃぁまたね」

「あぁ」


 幸夫は何か判らなかったが、胸に支えていたものが落ちて行く様に思えた。

幸子の傷ついた心を幸夫はどうする事も出来なかった事は言うまでもない。幸子もまた思わぬ事が起こり、それをどう処理すれば心が落ち着くのかなど知る由もない。


 二人の電話はその全てを物語っていて、幸夫はおそらく明日に成っても幸子から電話が入り、デートしようなどとは決して言って来ないだろうと思えた

それは幸子も同じで、あの尼寺で起こった事を幸夫は知っているかも知れないと思うと、自分が悪い訳では無かったが、言い様のない辛さが滲み出ていた。


 結局翌日は共に忙しく、幸夫はその翌日東京の大学へ荷物とともに旅立った。


「ごめん慌ただしくて何とか落ち着いたから、今大学の寮の隅っこから電話している」

「そう、これから簡単に会えないね。」

「そうだね。でも落ち着いたらまたいつでも会えるから」

「本当に?」

「会えるって」

「本当に、変わりなく?」

「どうしたんだよ。本当だよ。」

「でも・・・」

「でもってなに?」

「でも、あの日会いたかった。いつもの所で」

「そうだったね、ごめん。」

「ねぇ・・・」

「どうしたの?」

「いえ、何でもない」

「幸ちゃん、俺たち離れ離れに成ったけど元気出してね。夏に成ればまた会えるから」

「ええ」

「今までと一緒だから」

「ええ」

「神社で誓っただろう。初詣に行って」

「ええ。そうだね。」

「ごめん。寮長が集まれって言っているから電話切るよ。」

「はい」

「また電話するから・・・」

「ええ」



 ❷

幸夫はたまらなく成って嘘を言い電話を切った。

幸子が一人で苦しんでいる姿が目に浮かんでいた。

本当なら警察へ行って、被害届を出すべきであったが、それは理不尽だけど誰でも出来るわけではない。

 幸子は乱暴した男の顔をはっきり見ている筈が、それさえ思い出すのも辛い事は言うまでもない。

同じような事件が後を絶たないのも事実で、純朴な性格の幸夫は、正直どのような判断が正しいのかわからなかった。


 只幸子が一人で苦しんでいる事だけは間違いなく、今誰でもなく幸夫が彼女の心を和ませられる第一人者である事は重々承知していた。



 一か月が過ぎ二か月が過ぎ、幸夫は大学生活を負担に思いながらも、次第にその環境に成れて行き、いつの間にか幸子の事が逆に負担に成っている事に気が付いて、過ぎた過去と思うほど、二人の為には良いのではないかと思いだして来ていた。

 それは言い換えれば、共通する嫌な思い出より、二人が離れればそれで何もかもが忘れる事が出来、そして幸子にとって何よりも正しい選択ではないかと思うように成っていた。


その様にしないなら、本来幸子は警察へ行き被害届を出し、犯人をお縄にすれば済む話であって、それが出来なかったから、今二人は現実に苦しめられているのである。


 幸夫は次第に幸子の事を忘れるように努め、それが何よりの思いやりであり道であると、自分に言い聞かせる日を重ねていた。


 だからあれほど電話をした事も今は遠い過去と成り、とうとう夏休みに成って幸夫は故郷へ帰る日が来たが、幸子には電話さえしなかった。

 不思議に思ったのか幸子からメールが来て、幸夫はドキッとしながらも恐る恐るそれを読んだ。


「幸夫さん夏休みは帰らないのですか?この頃貴方が遠くへ行ってしまった様に思えて来て、私の心を埋め尽くしていた筈が、今はあんなに愛おしいかった貴方が見当たりません。きっと私の性でしょうね。あの日の事が全てでしょうか?」


 意味深なメールが幸子から幸夫に届けられて、思わず幸夫は自分の心の移り変りを顧みていた。

《結局俺は幸子の事を案じながら、実は自分自身を守っているだけじゃないのか》ともう一人の幸夫が問い訪ねていた。


 男は幸子の様な不慮の出来事に曝された女を、これまでと同じように愛せるのかと、そんな事を考えた事もこの数か月の間に何度かあった。


 幸夫は幸子からのメールで揺れ動いていた自分の心が嫌に成って来て、辛抱しきれず幸子と出会う事を決意した。

「帰っていたなら連絡してくれればいいのに」

「ごめん。」

「幸夫さん、もう私たちは会わないほどいいの?」

「どうだろう・・・」

「あの日が何もかもを変えたのね?」

「・・・」

「幸夫さん、あの時来ていたのでしょう?全部知っているのでしょう?言って、正直に言って、其れで今この様に成っているのでしょう?」

「いいよ。過ぎた事は」

「やっぱりね。どうして助けてくれなかったの?好きな人が辛い目に遭っているのに。そうでしょう?あいつらを追っ払い助けてくれなきゃ、私の言ってること間違っている?それが男でしょう?」

「もう終わった事だよ。悪かった・・・」

「そうね。やっぱり何もかも知っていたのね。辛かったわ。一番頼りに成って貰いたい貴方が、遠くへ行ってしまうんだから・・・」

「ごめん、俺どうしていいのか判らなかった。正直」

「そうね、幸夫さんの気性を考えたら、貴方の気持ちはよく解かるわ。嫌よね、どんな事情があるにせよ好きな人が辱めに遭っていたら」

「幸ちゃんもう止そうよ。ずっとそんな事考えて俺達苦しんでいたんだから。でももういいから・・・忘れられるものなら忘れるほどいいから」

「でも幸夫さんは決して忘れられないのでしょう?

だからこの休みも私に帰る事言ってもくれなかったじゃない。

それってわたしを避けているって事でしょう?全部あの日の事が原因しているのでしょう?」

「かも知れない。でもこうして話し合って二人で解決するように持ってゆけば、解決出来る事だと思うよ。


俺が何よりいけなかったと思うけど、正直幸ちゃんにどのようにすれば良いのか判らなかった。あの時側へ行って声を掛けるとしても、どのように言えば良いのかさえ分からなかった。

俺も男だからかも知れないし、俺には兎に角わからなかった。

自転車で走りながら涙が迸るように出て、辛くて辛くて堪らなかったよ。

一晩中寝がえりをしながら悔しくて悔しくて泣き続けたよ。


それから東京へ行っても、何時も情けない俺が居て苦しんでいる俺が居て、その向こうで泣き叫んでいる幸ちゃんが居て、どうして良いのか判らなかった。

大学を辞めようとも思った。幸ちゃんに謝りたくて言い訳をしたくて、堪らない日もあったけど何も出来なかった。


 それで正直幸ちゃんから逃げて、もう会わないでおこうとも思った。それが幸ちゃんにとっても一番楽な道じゃないかと思った。

 

過去の事なんか俺が口にしなかったら判らない事。それを知っている人が居たとしても、出会わなかったなら、二度と会わなかったなら、嫌な過去何て思い出さないで済むと思った。


だから今も休みに成って帰って来たけど、幸ちゃんには何も言わなかった。

其れがいいと思った。

悪かったね。本当にごめんな・・・」


「有難う、ごめんね。気を使ってくれていたんだね。もうそんなに泣かないで・・・そうね、みんな過去と思えばそれで済むかも知れないね。

もっと無責任に思って、笑い話のように捉えればいいかも知れないね。」

「警察へ行こうよ」

「いやよ、今更。今更行っても警察が真剣に受け止めてくれないわ。何故すぐに来なかったとか言って、診断書はとかと成るのでしょう?私あの時その様に考えたけど、でもそうする事が良かったのか何て判らなかったわ。誰にも相談出来なかったから」

「そうだね。今更言っても余計な事を思い出して、辛い思いをしなければいけないかも知れないね。」

「だから何が良いのか私も判らないの」

「幸ちゃん変な事言って気を悪くしないでね。幸ちゃんを辱めた奴の事覚えている?」

「そんな事言わないで、嫌な事思い出したくないわ。」

「でも俺が探してみるから、敵を取ってやるから」

「そんな事出来ないでしょう。東京へ貴方は行ってしまうのだから」

「いやどんな事があっても探しだすよ。警察に言うのが嫌なら」

「でも正直思い出せないの。泣き叫んでいたから、それに口を押さえつけられて苦しかったから」

「そうなんだ、でも調べてみるよ。ただ誰にも話してはいけないから、幸ちゃんが困る事の無い様に考えるよ。


 幸ちゃんメールくれてよかったよ。正直俺幸ちゃんに会わす顔無かったから、どんな顔をして会えば良いのかそれさえも判らなかったから、

でもこうして会って、お互い一番言いにくい事を言い合って、それで一歩は前に進んだと思うよ。

俺なんかの苦しみに比べれば、幸ちゃんはどれだけ苦しんでいたか計り知れない事を、俺わかっていなかったんだろうな。申し訳なかった。でも敵を取ってやるから・・・絶対!必ず!」

「よかった。幸夫さんがそんな風に考えてくれていて・・・負けちゃだめね。」




 あの日から五か月と言う月日が二人の間の痛々しい過去を少しは和らげていた。

それはこの日を境に形を変えて、心に刻まれる事となり、幸夫は休みの間中幸子を辱めた二人の男の事で終始しようと考えていた。




 翌日幸夫は高校の時担任だった東田幸三先生を訪ねていた。

「おぉ但野幸夫君、よく来てくれたな。」

「お久しぶりです。お世話に成ったお礼も言わずに慌ただしく東京へ行って仕舞って・・・本当にお世話になりました。お蔭様で大学生活楽しくやっています。」

「そうかーでもお前さん手ぶらじゃないか?私の好きなもの判っていないのかな?」

「お酒ですね。」

「そう、判っていながら手ぶらとは寂しいぞ」

「いえ、先生まだ十日もこちらで居ますので、帰るまでにはきちんと」

「いいよ、いいよ、冗談だよ。どうした少し痩せたのじゃないのか?頬骨が突っ張って、東京は厳しいかな?それとも大学かな?何かあるのなら言ってみろ?」

「流石ですね先生は。何もかもを見抜いていますね。」

「やっぱりそうなのか。其れで手土産も忘れて、のこのこやって来たわけだ。」

「すみません。」

「それでどうした?」

「ええ言っていいものか悩んでいます。」


「でもここへ来たと言う事は、私には話すべきだと思って、それで私の考えを知りたくてやってきたのだろう。違うか?遠慮なく言ってみろ」

「はい、それが・・・」

「言ってみろって。心に悶々としたものを詰めて東京へ帰るのか?先に引き延ばしても何ら意味がないと私は思うな。

どんな事でも心につっかえるようなものは、すばやく喉を超さないと、それが出来ないなら思い切って戻さないと。


しかしそれは元へ戻るだけだからな。喉元過ぎれば熱さも忘れ、笑える日も来るってものだよ。そうだろう?戻していては解決したことにはならないからなぁ」

「はい、実は僕の話ではなく滝川幸子の事で」

「滝川幸子?滝川は幸夫と付き合っていたな確か?違ったかな?」

「ええ、そうです。今でも付き合っています。」

「あの子は大阪の大学へ行ったよな。其れで何があった?恋の悩みなのかな?遠距離に成ったが為に」

「いえ、そうではなく・・・本当に言っていいのか悩んでいます。」

「そうか、女性の事となるとデリケートな事が多いからな、まぁここまで来たんだから言ってみろよ。私はいつも味方だから今迄もこれからも、そうだろう。そう思っているから来たんだろう?」

「じゃぁ言います。滝川は、いえ幸ちゃんはこの春高校を卒業して間もなく大変な目に遭い、今なお苦しんでいます。」


「何があった?」

「暴行されました。二人の男に・・・いや正式には強姦です。」

「なんだって?まさか?本当かよ?」

「ええ、本当です。自分も近くに居ましたから」

「じゃ何故助けなかった?」

「いえ、自分が行った時は既に手遅れでした」

「それで滝川は?」

「可哀そうに・・・」

「遣られてしまったのか・・・それで警察に言ったのだろう?」

「いえ、言わなかったです。言えなかったと言うほど良いのかも知れません。」

「お前が側で居てたんだろう?」

「ええ、でも自分はどうしていいのか判らず幸ちゃんを残して帰りました。」

「どうして?可哀想に」


「だからその時自分なりに考えたのです。側へ行って声をかけてあげるのが一番良いのか、それとも何も知らない振りをして、遅れて行った事だけを謝るのかと、自分には判らなかったです。

 幸ちゃんがどの様にしても結局傷つき、苦しまなければならないと思えてきて、だから卑怯だったかも知れないけど、自分はその場からそっと立ち去りました。

今、あの時の判断は男らしく無かったと後悔し、更に人間としても駄目だったと思っています。」


「そうか・・・そんな事があったのか・・・可哀想に・・・

幸夫は側に居たと言ってもその側とはどこを言うのだ?」

「実は僕、待ち合わせ場所に行くのが遅れて行き、そこへ行ったときは男が立っていて、もう一人は座っていて、倒れている女性らしき細い手を掴んでいるように見えました。

おそらくそれは抵抗する幸ちゃんを羽交い絞めにしていたのだと思います。何が起こっているのかわからなかったので、少し離れた入口の門の所から見つめていたのです。男がズボンを上げ、それで

次第に何が起こっているか判ってきて怖く成って驚き震えてきました。まさか幸ちゃんにとんでもない事が起こっていないのかと・・・そのまさかでした。」


「そうか・・・今幸夫の話を聞いていて私が同じ境遇にあったなら、はたしてどのようにしていたか、頭で描いてみたが、確かに難しい深刻な出来事だな」

「ですからその答えを未だ見い出せなくて、もしかしたらその事で、相当参っているのかも知れません。

あの時男たちに声を掛けていても、どんな目に遭っているいるかも判りませんでした。

何しろ自分が居た門の所へ、彼らは来て出て行ったからです。怖かった事も確かでした。」


「でも幸夫も滝川も、未だその事で苦しんでいるなら一層警察へ行って相談するとか、被害届を出すとかするほどいいかも知れないな。何もしなかったなら滝川が再度狙われないだろうか?その事も心配だな」

「ええ、だから僕もその様な言い方を彼女にしたのですが、其れもまた辛いようで・・・」

「そうだな、被害者でありながら結局汚点のような捉え方をされるからな。勝手なもので」

「どうすればいいでしょう?」

「そうだな、幸夫は滝川の事を今でも変わりなく好きなんだろう?」

「はい」


「変わりなくだよ。知り合った時も、一年前も半年前もずっと変わりなくだよ?」

「はいその様に思っています。でも東京へ行っているとつい面倒に思った事はありました。

何もしてあげれない事と、やはり離れていると拘わらない程彼女の為に良いのではないかと思うように成ってきて、それでここの所一番心が離れていた事は確かかも知れません。

この度実家へ帰って来ましたが、実は彼女には言っていなかったです。不思議に思って彼女からメールが来て、其れで昨日話し合って少しは溝が詰まったと思います。やはり自分の心は揺れ動いていたと思います。」


「そうなんだ。それじゃ普通じゃないなぁ。やっぱり幸夫も男って言うのか、気が小さいって言うのか、滝川は辛いだろうな。

なぁ幸夫、お前が見守ってあげないでどうする?一番好きな人が味方に成ってあげないでどうする? 彼女、お父さんやお母さんに慰められても意味が無い事が解からないのか?好きな人が笑って聞き流してくれてこそ滝川は忘れられるんだよ。 そうだろう、幸夫が逃げ腰でどうする?誰よりもお前が守ってあげる事だよ。


何も悪くないあの子が今お前に詫びていると思うよ。男ならわかるだろう?警察へ行く気がないなら私も気に付けておくよ。新たに犠牲者が出てはいけないから。辛い事をよく言ってくれたな。負けずに頑張れよ。」

「先生、幸ちゃんを頼みます。もし何かを相談しに来たなら話を聞いてあげて下さい。力に成ってあげて下さい。」

「解かっているよ。何時でも来てもらって」





 幸夫は東田幸三先生のもとを去りながら、まったく心が晴れていない事も感じていた。

ただ心で思っていた事が歪んでいて、幸子に対して思いやりが欠けかけていた事を、東田先生の言葉で気付かされた。

 

翌日幸夫から滝川幸子に電話を入れ、たった一日であったが頗る幸夫は笑顔で幸子に話しかけていた。


「今日はね一日中過去の話は止めよう。二人の未来の話をしよう。あと十日もすれば俺は東京へ行かなければならない。部活も始まるから」

「そうなの」

「だから二人で楽しい時間を過ごそう。幸ちゃんに思いっきり笑って貰えるように俺頑張るから。

この五か月の間に失ったものがあるなら全部取り戻そう。それでいいね?それでいいだろう?」

「ええ」


「昨日ね、俺東田先生の所へ行って来たんだ。其れで幸ちゃんの事話した。悪かったかも知れないけどでも話したかった。

何故なら俺幸ちゃんを愛し続ける自信を失くしかけていたと思う。正直に言うけど・・・だから東田先生に相談したかった。聞いて貰いたかった。

でも先生に叱られるように言われた。」


「どんなふうに。ごめんね嫌な思いさせて」

「そうじゃないよ。先生が俺を叱ったのは、滝川の気持ちをわかってやれと言われた。滝川が今一番守ってほしいのは、お父さんでもお母さんでもなく幸夫だろうと言われた。

幸夫が逃げ腰でどうすると叱るように言われた。先生幸ちゃんの事随分案じていたから。それにいつでも相談に乗るから来てくれていいからって」

「先生が・・・」

「幸ちゃん、悪かったかなぁ」

「いいわ。仕方ないわ。先生に出会ったら逃げそうだけど」

「でもね、先生は親戚に警察官も居てるし、幸ちゃんの事匿名で色々手を打ってくれるかも知れないよ。本当は幸ちゃんと同じ辛い思いをする者が出ては困るから、幸ちゃんが警察に勇気を出して言うべきかも知れないな。」


「でももういいの。忘れたいの。」

「でも本当に気をつけないと、犯人はどこかにいるのだから」

「そうね、気を付けるわ。出来るだけ友達と一緒に行動するわ。」

「出来る事ならそうしないと、俺東京へ行ってしまうから」

「解りました」

「辛かったら東田先生に相談して、頼んであるから

力に成ってくれるから」

「ええ、そうする」

「勿論俺にまず電話くれる。気休めかも知れないけど」

「わかった。」




 二人のその日は終日楽しく過ごし、別れ際にはまるで何もなかったように錯覚するほど心は解けていて、それは嘘であったかのように以前と全く変わらない二人に成っていた。


 幸夫は自分の心が晴れて行くのを感じてきて、それまで持ち合わせていた数々の雑念を払拭していた。それは東田先生に言われた言葉が示すように今幸子の一番側で居て心の支えに成ってやるのは自分以外に居ないと、彼自身も身をもって気付いたからであった。


《先生もう大丈夫です。僕はこれから幸ちゃんを守り愛していきます。今後心が揺れ動く事はないと思います。》

 その様に心の中で誓っていた。


 夏休みの十日間は見る間に過ぎ、二人は余る程の思いでを作り、新幹線に乗った幸夫を涙を一杯にして幸子は見送っていた。


 お互いの大学生活にも慣れて来て、寧ろ幸夫が居なく成った環境の幸子は気が少しは楽であった。

あの痛ましい過去が日ごとに消え失せて行く毎日に思えた。


 そんなある日、電車通学をしてる幸子は、いつものように橿原神宮前駅のホームの中央改札口を出ると、側へ一人の若者がやって来て小さな声で、

「すみません。お話が」と言って頭を下げた。

「えっ、わたしに?」

「ええ、お話があります。ちょっとだけ構わないでしょうか?」

「何です?人違いでは?」

「いえ、貴方にお話が、其れであの辺りにでも行って話を聞いて頂けません。」


その男はおどおどとしながら、時々幸子の顔を覗き込む様にして小声で話した。

「私に何でしょうか?どんな事を?」

「お願い出来ますか?何もしません。お客さんも駅員さんも見ていますから安心して下さい。」

二人は改札口の隅に行き


「ではお聞きします。何かわかりませんが」

「有難うございます。ではここで」

「はい」

「ではお話し致します。実は私貴方とこれで二度お会いしています。勿論こんな風に話しかけれたのには、これまで何度も同じ事を思っていて、実は私は何度も貴方を見かけているのです。

それでいつか話さねばとずっと思っていました。」


「何でしょうか?」

「実は私貴方の手を握った事が過去にあるのです」

「え、私の手を?知りません。間違いでしょう?」

「いえ、あります。私の顔を思い出せないでしょうか?」

「顔を・・・?判りません」

「そうですか、私今年の春に貴方を・・・思い出されたでしょうか?お寺で・・・」

「まさかあの時の・・・やめてください。変な事言うの」

「あの時貴方の両手を羽交い絞めにして口も押えていた男です。」

「まさか?どうしてそんな事を言うのです。信じられないです。それが事実なら、私になんか言わずに警察に言えばいいのではないのですか?」

「その様に毎日のように考えました。でも貴方は突然あんな事になり、考えられなかったと思いますが、あの時私は貴方に乱暴した男に、何もかもを命令されていたのです。

だから私は貴方の手を押さえて動けなくしましたが、それ以外の事は何もしなかった筈です。あの男が何もかもを、私は貴方の手を押さえただけです。

私はあの男に命令されていた事を思い出していただける筈です。」

「それで貴方は私に、ご自分は何も悪い事をしなかったと言い訳する積りですか?」

「いえ違います。私は貴方に警察へ被害届を出して貰いたかった。

その様に成るものだと思っていました。でも一向に警察が逮捕しに来る事も無く、未だに私は逮捕されていません。


ですから今貴方にあの時被害届を出されましたか等とは聞きませんが、もし出されているなら、其れでいまだ犯人が判らないなら、今ここで一緒に居た貴方に乱暴をした張本人を言っておきます。

春からは随分経っていて今はどうしているか知りませんが・・・


それで特徴として右の耳の下に大きな黒子があり、志野村純一と言う名前です。

彼が元々通っていた大学は、関西総合芸術大学で山岳部に所蔵していました。

それに私の名は金城隼人と申します。同じように関西総合芸術大学です。私は留年しています。

二人とも北生駒市在住です。今は離れ離れになっていますが何時あの男が現れて、これまでと同じ関係を強要されるか判りません。」


「でも何故そんな事を?」

「実は貴方にあの様な事をしながら、以前にも同じような事があったのです。それもあの時と同ようにあの男に命令され」

「待ってください。貴方一体何を言いたいのですか?それなら警察へ何故行かないのですか?罪悪感があるのでしょう?嫌なのでしょう?辛いのでしょう?何故警察へ」


「いえ、私がそんな事をすれば、私はあの男に殺されるかも知れません。

何故ならあの男はいつもナイフを持っていて相当怖い奴だからです。」

「でもどうしてそんな男と付き合うのですか?命令されてまで・・・考えられません。」

「ええ、仰る通りです。だから何度も警察の前まで行きました。でも入れなかった。自首したとしても私は事実を言わなければならない事は言うまでもなく、事実とは志野村純一が全てやった事を話さなければならなかったから、その結果志野村が逮捕され何もかもが明るみに成れば、私が自首した事も自供したことも全部わかり、あの男に比べれば少なくとも私は罪が軽くて済み、でも後に刑務所から出てくる志野村は、私に必ず仕返しをする事は間違いなく

それは殺されると考えられたのです。  


 ですから警察の入口で私は随分悩みました。色々なケースを考えた挙句、勇気が湧きませんでした。でももし貴方やもう一人の女性が被害届を出していたなら、あの男はすぐに逮捕されていたかも知れません。当然私も逮捕されていたと思いますが、実は一日も早くその様に成りたかったのです。」

「女性を苦しめておいて、逮捕されたかったなんてふざけていませんか?」

「実は私中学一年の時に万引きをして、店の主人に見つかり、それでこっぴどく説教され大事になりかけていた時、顔は知っていたけど話もした事がなかった同級生の志野村が、お金を払ってくれて事が収まったのです。


彼の家は立派な家で、言わばお金持ちで、私の家なんかに比べれば雲泥の差でした。彼は小遣いも潤沢だったようです。

そんな事があってから私は彼に金銭面でも色んな事に対しても、助けて貰う間柄に成って、役に立つ友達だと思っていました。


 でもその内彼が私の上に立っていると言うのか、支配されている事に気が付いてきましたが、でもその事に不満な顔でも見せるものなら、恫喝する様に私は睨み続けられ、私の心は委縮してとても辛い立場に成って行きました。

 彼は私に何かと面倒を見てくれて、お金の事でも何度も支払いをしてくれていましたが、それはそうする事で私の心を支配し、牛耳っていると言う事だったと思います。

 中学一年から三年間は勿論の事、高校時代、それから大学四年の春まで、私はあの男のまるで奴隷のように生きて来ました。


 ですから冒頭の話に戻りますが、貴方に被害届を出して頂きたかったのは、出しているのなら一日でも早く警察に捕まえて貰えます。あくまで被害者が訴えたと言う形で」

「何か私に理解して貰いたいと言われてもそれはできません。

そんなに嫌だったのなら、あの時相当な力で貴方は私を押さえつけていた事を忘れません。

貴方が私に乱暴はしなかった事は思い出しましたが、でもあの時貴方がその志野村と言う男に「止めれば」と言えば良かったのじゃないのですか?でもそれさえ言わなかった。」

「いえ、言えなかったのです。いつもお世話に成っていて、それも既に九年近くが経っていて、一度だって逆らった事のない私には・・・」


「それで私に今聞かされた事を警察に言えと」

「ではあの時被害届を出されていないのでしょうか?」

「それは言えません。貴方に言うべき事ではない筈です。」

「そうですね。もしまだで今の話で気が変わったのなら、私が言った事を警察に言ってください。

でも私が何もかもを言った事だけは言わないで下さい。むしろ彼が捕まり彼の口から白状して私も逮捕されるような形をとって頂ければ、私は彼に命を狙われないでしょう。


 もしその反対なら彼は私にとんでもない仕打ちをするように思います。長らくお時間取らせて申し訳ありませんでした。どんな罰でも受ける覚悟が御座います。

 貴方の人生を狂わせてしまった事を深くお詫び致します。

私は志野村に九年間支配されています。豚箱へ入ってあいつから逃れられたらどんなにか幸せかも知れません。御免なさい。本当に申し訳ありませんでした。

この紙にあいつと私の現状をメモってあります。警察へ行くのでしたらこれを見せて下さい。」


「解りました。まぁこうしてその様な話をされたと言う事は、貴方に覚悟があっての事だと思います。私を案じて下さっている人たちに相談して決めます。勇気を出して話して下さったと感謝しなければならないのでしょうね。」

「とんでもありません。罪は罪、私は罰を受けなけれんばならない事は充分判っています。では失礼します。」




 幸子は予想外の出来事に心がざわつくのを抑えきれなかった。よもや自分を手ごめにして辱めに遭わせた男が、昼日中目の前に現れ、思いもしない話をするとは・・・幸子はその男の事はまるで覚えていなかった。

乱暴を働いた張本人は目も合い姿かたちも見ていたが、後ろから羽交い絞めにされたその男の事は丸で何一つ思い出すものは無かった。


大きな声を張り上げたりもせず、金城と言うその男は、自ら言っているように、志野村に命令される様にしていたあの時の事も幸子は思い出して来ていた。


「まさか・・・九年間虐められていたのかあの男は…」


信じられなかったが、おどおどとした仕草、真面目そうで気も弱そうな言葉使い、男が口にした事を思い出しながら、幸子はまるで作り話ではない事が随所に見えていて、正直可哀そうにさえ成ってきていた。                         

「あの人の言った事が本当なら、明日にでも警察に捕まるのか・・・そんな重要な事を私に・・・」

幸子は早速電話を取り幸夫に知らせようと思ったが、電話を持つ手が固まったようになり躊躇してしまった。

 幸夫がすぐに「警察へ言えば」と即答すれば、果たしてそれでいいのかと思いだし、それが自分にとってどれだけ心休まり敵を討てるかと考えていた。

 其れと言うのは、駅の改札口で悲壮な顔をして話しかけてきた金城隼人の顔が、帰宅した今なお目に浮かんでいたからである。


 もし私が警察にあのメモ用紙を持って行くにしても、あの男はかもすれば私以上に、九年もの間苦しんでいたのではないかと思えてきて、もし私が警察にあのメモ用紙を持って行き、何もかもを話せば今夜にでも豚箱に入れられ、これから罪人として肩身の狭い思いをして、生きなければならないのだと思うと辛くさえ成ってきていた。


 それは言い換えれば、幸子があの日辛い目に遭わされている姿を、おそらく見ていながら、その場から何もせず幸子の味方にも成らず、立ち去った幸夫より、昼悲壮な顔をして、まるで懺悔をするように幸子に心の内を打ち明けた金城隼人が、余程男らしく思え、自分を酷い目に遭わせた男と思いながらも、今日を境に警察に捕まり豚箱に入れられる事を覚悟で、あのような判断が出来たその潔さが、幸子には何故か心が休まり、同時に幸夫に電話をするのが億劫になり、どうしても気が進まず、結局幸子は幸夫には電話を入れずその日が終わった。




 ところがそれから半年が流れ、幸子が災難に遭った一年前と同じ春が来て、一人の男が首を吊って自殺を図っていた。


【奈良県と大阪の県境にある生駒山の山裾で首を吊っている男の人を、山菜取りに来ていた大阪の老夫婦が見つけ奈良県警に届けられました。

 鑑識の見解では、死体は白骨化していてすでに数か月が経っていて、身元は持っていた免許証から、奈良県北生駒市在住で関西総合芸術大学四回生の金城隼人さん(二十三歳)である事がわかりました。

何があったのでしょうか?警察は関係者から事情を聞いているようです。

ご冥福をお祈りいたします。】



 幸子はそのニュースに度肝を抜かれた思いであった。まさかと言う事がまたしても起こり、いよいよ黙っては居られなく成って幸夫に電話を入れていた。

「幸夫さん、今日ね生駒山で男の人が自殺をしているのがわかったの。大阪の老夫婦が見つけたようよ」


「そうなの。其れでお年寄りなの亡くなっていたのは」

「いえ、若い人。」

「最近お年寄りが先を案じて自殺したりする事が多いからてっきり」

「いえ、違うわ。二十三歳の男の人。

幸夫さん、これから言う事よく聞いてね、実はね、その人はもしかしたら貴方が見ているかも知れないわ」

「俺が?見ている?」

「ええ、一年前あの事があったでしょう私に・・・」

「言いにくいけど乱暴された事を言うの?」


「そう、あの時私の手を羽交い絞めにして動けなくしていた人が、今日新聞に載っている自殺をした人なの」

「なんだって?まさか」

「そうなの。」

「どうしてそんな事わかるの?ニュースを見ていて顔を思い出したから。辛いね。」

「そうじゃないの。この人去年の秋ごろ橿原神宮の駅の中央出口で出会ったの。其れで色々聞かされて知っていたの。


 何を聞かされたかって言うと、この人私を羽交い絞めにしたのは、連れの人に命令されたからって言っていたわ。

それでこの人が言うのには、この人もう一人の人に九年にも渡り支配されるように虐められていたようなの。

中学一年の時からって言っていたわ。何か万引きをして警察沙汰に成りかけていた時に、もう一人の男の人に助けられて、それから今まで支配されていたと言うの」

「支配?冗談じゃないよ。其れで幸ちゃんに何を言いに来たわけ?まさか警察の手が回って言い訳をしに来たって事じゃないのかな?」


「そうじゃなくって虐められていたみたいだわ。橿原神宮前駅に来た時は、悲壮な顔をして、それで私に警察に被害届を出して下さいって言っていたわ。早く捕まってもう一人の男と縁を切りたかったようよ。

 何故なら私があんな事をされたけど、他の人にも同じ事をしたようよ。だから自首したいのだけど主犯がもう一人の男で、自首をすればこの人が何もかもをしゃべらなければならなくなり、それは主犯の男を警察に突き出す事になり、必ず仕返しをされるから、其れってもう一人の男は怖くて殺されるかも知れないと言っていたわ。


 だから私に被害届を出してほしいと、

主犯格の男が先に捕まり、その男の口から白状してこの人の事が判れば、主犯格の男はこの人を滅多と責めないと言うの。つまり殺されなくて済むと」

「其れって去年の秋だと言ったね。でも言ってくれなかったね。そんな大事な事を。」

「言いたかったわ。でもこの人自分が捕まるかも知れないのに、私に何もかもを言ってくれたの。

私に二人の名前や住所、其れに同じ大学に行っていた事も、山岳部に入っている事も全部書いたメモを手渡されたわ。


多分正直な人だと思うわ。それに泣きそうに九年間支配されている事が相当辛かったのだと思うわ。警察に捕まってもかまわないと思うほど。

幸夫さんに言おうと電話を持ちながらしなかったのは、幸夫さんがあの日私が大変な目に遭っているのに、助けてくれなかったからだと思うわ。

幸夫さん東田先生に叱られたと言っていたけど、私だって同じよ。」

「そうだね。一生の不覚だね。幸ちゃんと一緒に暮らすような事に成っても、その事は死ぬまで言われるだろうね。」


「そんな事ないけど、でも何かこの人可哀そうに成ってきて」

「自分が逮捕されるかも知れないと思いながら、幸ちゃんに・・・勇気が要る話だね。俺には出来ないかも知れないな。余程何かあるのだろうね。」

「幸夫さん、でも私この人本当に自殺したのか疑問に思うわ。だってこの人今でももう一人の男に支配されていたなら、それに捕まらない限り、もう一人の男は同じような犯罪を繰り返している事も考えられるでしょう。まさかこの人あの男の身代わりにされていないかと思うわ。勿論良心の呵責に耐えかねてって事もあるかも知れないけど」

「それで警察に今現在何も話していないの?」

「ええ」

「だからあの時二人で勇気を出して警察に行っていたほど良かったかも知れないね。今更だけど」

「それはいいわ。私そんな気に成れなかったから、その話は止めよう」

「幸ちゃん、主犯格の男の名前がわかるんだね?」

「ええ、メモをもらっているわ。」

「教えて貰っても構わない?」


「待って・・・言うから。志野村純一、今は社会人に成っているかも知れないわ。この人言っていたから今はわからないって。大学は卒業したみたい。

 それで大学時代は山岳部に入っていたと言っていたわ。ここにも書いてあるわ。志野村って人、右の耳の下に大きな黒子があるって、これは書いてないけど、自殺した人が警察に言ってくれていいからって言っていたわ。年齢は二十三歳らしいわ。」


「解った。もうすぐ帰れたら帰るから、幸ちゃんこれから絶対一人で行動しないように気を付けて、

主犯格の男が橿原神宮前駅に来ている事も考えられるから、怖いと思ったら警察に直ぐに駈け込んで」

「ええ、解かっているわ。でも正直自殺までしたのだから気が重くて」

「でも主犯格の男は鬼畜のような奴だと思うよ。十分気を付けないと」

「解りました。」

「また同じ事に成ったら大変だから」

「そうね。」



 生駒山の麓の山林で自殺をしていた男は遺書も残さず首を吊り死んでいた。奈良県警はあくまで自殺と発表して若い命が自ら断った事を嘆いた。

 幸夫は幸子から事実を知らされ戸惑ったが、考えた挙句高校時代の担任教師東田先生に相談するべきであると思えた。



 幸夫が東谷先生に電話を入れ何もかもを話すと、東谷先生は生駒で起こった自殺であった事から大層驚き、幸夫の話に食い入るように耳を傾けていた。


「そんな事が・・・世間って狭いなぁ。可哀想な男だな。でも死んで詫びるのも一つの方法かも知れんな。でも主犯格の男は今どうしているかだな。気を付けないと。警察に言っても、然し今と成っては難しいと思うな。第一被害届を出していないとなると・・・


 主犯格の犯人が未だ御用に成っていない事が何より懸念されるが、更に今更滝川幸子君が警察に被害届を出した所で、犯人はおそらく強かな男で万が一警察が起訴に持っていけなく、不起訴に成った時の事を考えるとやばいからな。

ストーカーに成って狙われる事も在りうるからな。この様な類の奴は隅に置けんからな。取り敢えずその志野村純一と言う名前控えておくから」

「先生は今更警察に言っても無理と思われますか?」

「判らないけど、でも正直物的証拠や診断書それに状況証拠など揃うだろうか?有耶無耶にした事はよくなかったと思うよ」


「ええ、自分に大いに責任がある事は承知です。

先生と去年お会いした時、先生がおっしゃった事が全てで」

「一応警察に言っておくから、同じ様な犯罪が起これば参考に成る事には間違いないと思うよ。犯人はまたやらかす事が考えられるからな。」


 然程成果はなかったが、ひとまず前進したように思えて幸夫は心が落ちつくのを感じていた。

 暴行魔のレッテルを貼られた志野村純一は、大学を卒業して、妹に北生駒の実家を任せて、東京の会社にフリータをした後就職していた。


幸夫は時間が許す限り幸子に乱暴をした志野村純一の消息を追っていた。

そして志野村が東京で就職した事を知り、心の中に燃えるものが生まれていた。

「必ず仇を取ってやる。幸ちゃん待っていてくれよな。志野村って奴を探し出し必ず仇を取ってやるからな」


その様な言葉が常に幸夫の頭でぐるぐると回り続けている毎日に成ってきていた。

それは言い換えれば、あの時の出来事が、どれだけショックであったのか計り知れないと思えた。


 幸子とは未だ深い関係などない。いつの日か幸子を公園で抱きしめて、それから目の前のホテルに入る積りであったが、それさえも出来ず、ほっとしながら幸子と別れた不甲斐な自分自身をはっきり覚えていて、あの事も幸夫にとって生涯忘れる事の出来ない弱点であると思っていた。


 更に去年の夏休みに実家へ帰った時も、心に迷いがあった性か、結局幸子とは深い関係に成る事もなく十日間が過ぎていた。

実に不細工で要領の悪い男であると、自分自身を分析する始末であった。


 志野村純一が東京の多摩山岳同友会に所属していることを突き止めた幸男は、【大学生も大いに歓迎】と言うキャッチフレーズを頼りに、同会に入会して志野村に近付いて行った。

案外簡単であった。幸子から志野村が大学時代に山岳部に入っていたことを聞いていたので、その線で探し出した。


 始めは同会の会長である西村順平に近づき、僅かの内に親しく成って、二人でプライベートで山に登る事さえあり、山登りは初心の幸夫であったが、素直な性格が西村に大いに好かれる結果となった。

随分幸夫は西村から、山登りの薀蓄を聞かされる事と成ったが、それでも一生懸命であった事から充実した登山家に成りつつあった。


 次第に誰からも話し掛けられる様に成って行き、遂に志野村純一からも声が掛かる様に成っていた。

幸夫が多摩山岳同友会に所属してから半年近くが過ぎていた。


「但野さん、こんど俺とも信州の立山へ登りませんか?」

「信州ですか?僕なんかに登れるかな?」

「大丈夫ですよ。山登りをする人なら誰でも経験する山ですよ。初心者向きって言うか」

「そうなのですか」

「その山はね、ライチョウと言う鳥が生息していて、その鳥に出会うのも結構感慨深いものですよ。日本であの辺りに生息しているから」

「確かそんな事聞いた事あります。」

「ええ、だから何回登っても気持ちいいから、是非お勧め致します。西村会長、言っている事間違っていないでしょう。」

「そうですね。但野さん一度登って来られては、立山は中々良い山ですよ。」

「そうですか。わかりました。」

「では時期的には今が一番で、何故ならライチョウは今が繁殖期で、見かける確率が今が一番高いと思いますよ。彼達の邪魔をしないように観察するのです。」

「解りました。志野村さんのご都合に合わさせてお付き合い致します。楽しみにしています。」

「じゃぁ貴方が楽しめるベストなプランを考えますから」

 

それから約一か月が過ぎた時に、但野幸夫と志野村純一はプライベートで信州立山を目指していた。


 志野村純一が幸夫に声を掛けて山登りを誘ったが、そこに至るまでには伏線があった。

それは幸夫が山岳会会長西村順平の心を掴んでいたことから始まった。


西村が山岳会のみんなの前でこう言った

「但野君は本当に遣り易いよ。新人だけどまるで筋金入って言うか、従順だから山登りをする相棒としてうってつけだよ。

みんなも但野君と一度ご一緒されたら、新人とは思えない気持ち良い男だから、何でも素直に答えてくれるのが何より気持ち良いから」


「会長さん、そんなに褒めないでください。照れくさいです。」

「いやぁっ山登りはね、従順で素直でないと一本のザイルで繋がれているのだから。一つ間違えば命に係わるのだから、何も遠慮しなくって良いんだよ。今言っている事は山登りの根幹と言うか一番大事な事だから」

「有難うございます。そのお言葉に恥じないように頑張って、そして楽しませて頂きます。」

 

こんなやり取りがあり、その言葉を耳にしていた志野村純一が幸夫に目を付けたのであった。

 志野村純一は幸夫がこれまで想像していた男とは、まるで人が違うかのような風情であり、それはいつも従えていた金城隼人が自殺をした事も、影響しているかも知れないと思えていた。


何しろ志野村は物腰が柔らかで、心の中に鬼畜が育っているとはまるで思わせない男であった。

 その志野村純一が幸夫に目を付けたのは、やはり西村会長の「幸夫は従順で素直に何もかも答えてくれる」と言う絶賛する言葉が、この男の心を動かせたのではないかと幸夫には思えた。

それは言い換えれば志野村にとって幸夫は、自殺をした金城の代役であったのかも知れないと思えてきて怖ささえ感じた。



 幸子は金城が自殺をしたときに「本当に自殺なのか」と疑問を持っていた事があったが、まさに今その言葉を幸夫は思い出さずにはいられなかった。


「この男饒舌に口が回り、しかも物腰が低くて優しささえ見え隠れして、一体何者なのか?幸ちゃんはこの男に餌食にされた筈、鬼畜が心の底に住んでいて、誰にも判らないようにしている魔物なのか、そしてこの余裕のある優しさや振る舞いは、もしや心を支配していた金城に、大きな罪を被せ命を奪った代償かも知れない。


 つまり金城は自殺ではなく、この男によって殺されたのではないだろうか? そして罪を金城に被らせ悠々と生きているのではないだろうか?被疑者死亡と言う形に持って行き、金城は中学一年の頃からこの男に支配され、悪事を封じられ、最後は命まで奪われたのかも知れない。

もしそれが事実なら絶対許す事など出来ない。


 そんな思いを溢れるほど心にも頭にも詰め込み幸夫は志野村純一と長野へ向かっていた。

ライチョウが巣作りをしている姿を見つける事も出来、二人は大いに有意義な登山であった事に表向きは満足であった。どれだけ幸夫の心に煮えたものが在ったからとて、終日幸夫は志野村のご機嫌を取っていた。

 

志野村は大学時代から山岳部に所属していた事もあり、かなりの急所でも難なく駆け登り、幸夫の慎重さを笑いながら少々馬鹿にしていた。




 月末に成り多摩山岳同友会の総会があり、そこで幸夫はあえて口にした事は

「いやぁみなさん、志野村さんは大したものです。相当危険な場所でも難なくこなしますし、僕の足に比べれば倍ですね。早いったら叶わないです。僕なんか石橋を叩いて渡る性格だから随分勉強になります。」


「そうだね、志野村さんは確かに健脚だから私でも付きかねますね」

「そんな事ないですよ。会長までそんな事仰って」

「でしょう」

 幸夫の大げさなセリフに西村会長まで声を大にして笑顔を作った。



幸夫には思惑があった。

志野村と二人で信州へ行った時にある計画を立てていた。その計画は愛する幸子の為のものであり、幸夫の為のものでもあった。


 大勢の中でまるでみんなから持て囃すように言われた志野村は機嫌よく終始していた。

そして幸夫の側へ来て笑顔で

「幸夫君、実はこの前行ったあの場所へ、来月位に又行ったら面白いと思うよ。この前は巣作りをしていたから、今度は鄙を拝めると思うよ。一緒に又行かない?行こうよ。一か月ほどしたら・・・」

「そうですか、お供しますよ、ライチョウの赤ちゃんみたいですね。」


この様にして再度二人で信州へ行く事が決まり、幸夫は心に中の魂のような何かが、燃え始めた事を感じていた。


それはまさに復讐であった。


 その思いに終始して心は燃え上がり、まるで血の色の様に赤一色となり、一か月と言う時は矢の如く過ぎて行った。


 その日は午後から雨に成るかも知れないと言う日であったが、逸る思いで志野村は幸夫を強引に誘って、早めに下山すると言う約束で、二人は信州へ向かう事と成った。

急ぎ足で登りながら、山登りに慣れた志野村の後を追うように幸夫は必死であったが、従順であらなければならないと思っていたので、無理やり笑顔を作り志野村に付いていった。


 そして以前来た時鳥たちが巣作りをせっせとしていた場所に到達して、早速志野村は双眼鏡で崖の中腹を覗き込むようにして、


「思った通りだよ。子供がかえっているから見てごらん」

志野村は笑顔で自慢げにそう言って幸夫に双眼鏡を渡して、自分は後ろへ引き下がり場所を開けた。

幸夫は崖っぷちの危なそうな所に恐々近づき、双眼鏡で志野村の言っている場所を見つめると、確かに鄙鳥が大きな口を開け、おねだりするように天を向いていた。


「あぁ見つけました。可愛いものですね。」

「そうだろう。あの小鳥もその内大きく成って俺達を和ましてくれるからな。山の神様の様なものだよ彼らは・・・」

「成程ね。その内大きく成ってあそこから巣立っていくのでしょうね。其れも見たく成って来ましたね。」

「そんな上手く行かないけど、その様に成る事は確かだね。

奴らこんな綺麗な風景に溶け込んで悠々自適に生きていると思うと、ある意味羨ましく思うね。そんな風には思わないか、幸夫君は?」


「考えたら鳥って凄いですね。水の中を凄いスピードで泳ぐ鵜の様な鳥も居れば、地面を素早く歩いたり走ったりする鳥もいるし、上昇気流に乗って優雅に飛んで居る鳥もいますからね。考えたら鳥って凄いと言う以外にないですよね。」

「俺たちが駅まで下りて行く間に彼らはひとっ飛びだからな」

「全くですね。働く事もしなくって良いですしね」


志野村は幸夫のその言葉に笑顔で首を縦に振っていた。


 暫くして幸夫と交代した志野村は、双眼鏡を片手にまた崖に乗りだし、岩を持ちながら小鳥の巣に夢中に成って更に体を乗り出し

「オー親が帰って来たぞ。みんなぴーちくぴーちくって大きな口を開けて、餌の取り合いに成っている・・・かわいいなぁ・・・面白いよ・・・」


 志野村は独り言を言うように、幸夫に巣の状況を解説しながら、いつまでも体を乗り出し有頂天であった。

 幸夫はその志野村の姿を後ろで見つめながら


「この男が、この貪欲さで幸ちゃんの足を強引に開き、言うことに逆らえない金城に幸ちゃんの両手を押さえさせ、口も押えさせ、幸ちゃんを辱めに遭わせたのか・・・畜生!許せない!絶対許せない!今だ!やるのは今しかない。死んでくれ!」」


 幸夫は自分の身体を寝そべるようにして、誰も人の気配が無い事も周りを見渡しながら確認し、岩の陰から崖の先まで身を乗り出している志野村の腰の辺りを右足できつく突いていた。

「あぶ な  い  よ~」

志野村はそう言って剣幕を変えた形相で、後ろを振り向きながら、崖から真っ逆さまに落ちて行った。


幸夫は恐る恐る身を屈めたままで下を見ると、志野村が遥か下方で大きな石にぶつかってくの字に成っている。

全く動かない。


《幸ちゃん、やったよ。今志野村は崖から落ちて百メートルほど下の大きな石に引っ掛かって、くの字に成って倒れているよ。


石に大きな血の様なものが着いていて、おそらく頭をぶつけて割れたと思う。

間違いなく志野村は死んだと思う。


 ざまあみろって言って俺笑いたいよ。


幸ちゃん、これで幸ちゃんは、綺麗な心と体に成ったと俺は思う。乱暴された事は忘れて良いと思う。


俺も今心の中が真っ白になったと感じる。


志野村は崖から落ちて罪を償ったと今なら思う。


でもこんなことがなく死んでいなかったなら、俺幸ちゃんをどれだけ愛しても、どれだけ大事に見守っても、決して百パーセントには成らないと思う。


 二人が白髪に成るまで愛し合ったとしても、志野村が生きていれば、絶対忘れる事は出来ないと思う。


俺志野村を殺してしまったけど、後悔なんか全くしていないから、幸ちゃんがそんな俺の事を嫌いに成ったとしても、俺それでもいいと思う。


でもそんな俺の事を解かってくれるのは幸ちゃんしかいない事も事実だと思う。

 志野村が崖から落ちてから五分ほどが経っているけど、全く動くような気がしないし、事実動かない。すでに息を引き取っているように思う。


頭は石や岩にぶつけ幾つにも割れ、肋骨は肺や心臓に突き刺さり、大腿骨はお腹に突き刺さり、苦しみながら息を引き取っていると思う。


 幸ちゃん、俺志野村を殺す目的で、奴が所属していた東京の多摩山岳同友会に一年近く前に入会して、殺す機会を伺っていて、其れで今日その機会が来た。

 思い通りチャンスをものにして、今慢心の思いで何もかもを振り返っている。


幸ちゃんと知り合った時の事、席が続きで次第に仲良く成っていき、その内二人で会うように成って教室の隅で二時間も三時間も四時間も、いえ七時間も八時間も話し合った事、朝に逢ったのに夕陽に包まれて話し合った日々もあったね。


そして幸ちゃんが一番思い出したくないあの尼寺に成ってしまったけど、あの境内でどれだけ二人の思い出を作ったか計り知れないね。


幸ちゃん、これから俺たちはあの尼寺の事を思い出してもいいんだよ。怖がるものも何も無いよ。楽しかった思い出だけだから。》





 幸夫は救急車の手配をする事もなく、涙を一杯にして天を見上げて、過ぎし二人の過去の日々を思い出していた。

気が付けば風が可也吹いていて、僅かの間に雲は黒く成って来て、雨さえポツリポツリと混じりだしていた。

                          

「すみません。今立山の中腹でおりますが、

同行の仲間が崖から滑落して、大変な事に成っております。至急救援お願いしたいのですが、」

「詳しい場所を言ってください」

「そうですか・・・でも私山登りはさほど経験なく土地勘はありません。立山の山頂に行く途中だと思います。其れで解かるでしょうか?タオルを振ってお知らせします。

早くお願いします。急ぎます。タオル振っている所から百メートルほど下の崖の途中で遭難しています。よろしくお願いします。」


山岳救急隊と電話で話している間に雨は本降りになり、風も更に強く成ってきて、幸夫は雨風に曝され乍ら、身体がガタガタと震えるのを覚えていた。


 ヘリコプターは見る間にやって来て、崖の横を慎重に降りて行き、間もなく啖呵にくるまれて志野村は運ばれて行った。

 幸夫は志野村の荷物をその儘にして下山しながら祈っていた。

《死んでいてくれ!死んでいてくれ!》と

そんな思いでいるとき電話が鳴り


「お気の毒です。我々が到着した時にはすでに亡くなられていました。頭がい骨に相当ダメージがあり、出血も相当していて致命傷だったと思われます。他にも体中の骨が折れていて、貴方が立っていた場所からあの地点まで落ちたのなら、まず助からないでしょう。殆ど岩盤ですから、

お気の毒です。くれぐれも気を付けて下山されますように、くれぐれも。」

「そうですか・・・つらいです。」

「決して慌てないように、こんな時は気が動転して思わぬ事が起こったりします。十分注意して下山して下さい。」


 救急隊のその言葉に、安堵の色を隠せないでいた幸夫は、再度してやったりと思う半面で、これで何もかもが終わるような気に成って来ている自分に気が付いていた。


それでも、もし今実行した事を躊躇していたなら、自分の人生が薄汚れた根性の持ち主に過ぎない事は確かで、山道を下りながら何度も一喜一憂している事に疲れる思いであった。 


 志野村純一は荼毘に付され帰らぬ人となり、幸夫は多摩山岳同友会のメンバーに励まされて気を落としているように見せかけていた。

「やっぱりな、志野村は大胆だったからな。危なっかしい所でも平気だったから、何時かはこんな事に成るかも知れないと思った事があったなぁ。どうか皆さんもこれを教訓にして彼の死を無駄にしないでください。」


 会長の西村順平が弔辞を述べ乍ら、そんな言葉を付け加えていた。それは残された者への警鐘のような響きであった事と、ショックで落ち込んでいる幸夫に対する同情と励ましの言葉でもあった。


 しかしこのニュースは、

【今日お昼頃長野県の立山で、二人で登山をしていた方の一人が崖から滑落して、全身打撲で亡くなられるという事故が在りました。

同行していた東京都杉並区の大学生但野幸夫さんから通報を受け、ヘリコプターで救助に向かいましたが、既に心肺停止状態で死亡が確認されました。


 亡くなられていたのは、東京都新宿区在住の会社員、志野村純一さん(二十四歳)と仰る方でした。お二人はライチョウの見学に行き事故に遭われたようで、

 気候が良くなり登山に行かれる方も盛んに成って来たようですが、ご計画されている方は十分に気を付けて行かれますように】


 瞬く間に幸子の耳に入り、自殺した金城隼人が残して逝ったメモ用紙を何度も見ながら幸子は思案に暮れていた。                    

『まさか幸夫さんが・・・どうして?どうして志野村なんかと・・・嘘でしょう・・・冗談でしょう・・・私の気持ちはどうなるの?どう言う意味?まさか、まさか幸夫さんが志野村を・・・』


 すぐにその思いにたどり着いた幸子は、幸夫に電話を入れようと思いながら怖くて出来なかった。幸夫もまた幸子に敵を討ってあげた事など言える筈がない。

直ぐに何が起こったのかを教えるようなもので、それは言い換えれば、二人の関係が終わりを意味しているようにも思えた。

 幸夫は志野村を仕留めてから、何日経っても同じ思いが右往左往している事に気が付き、それは志野村を突き落した時、全身で感じた思いがそのまま今に至っている事であった。


 志野村殺害は絶対してはいけない事をしてしまったと思う半面で、是が非でもしなければならない事でもあった。

その思いがあれから寸分の狂いもなく生き続けている事が幸夫を頑なにしていた。


《幸ちゃん、幸ちゃんに何もかも話したいな。怒るかも知れないけど、びっくりして何も口に出来ないかな、でも俺胸を張って言いたいな。

志野村をこの手で殺したと。幸ちゃんは初めは驚きびっくりするだろうが、その内冷静に成ってきて

俺に対して「ありがとう。よく私の思いを叶えてくれたわ。」と嘘でも言ってくれないかな。

そして「これで何もかも忘れて構わないのね幸夫さん」って笑顔で言って欲しいな。》


 肯定しながらも幸夫は、想像も出来ないはち切れそうに蠢く不安定な心で毎日を重ねる事と成った。

 そんな事があってから一か月にも成っていなかったが、幸夫は多摩山岳同友会に退会届を出していた。

 大学生活は何もかも忘れたい一心で、毎日を過ごそうと考えていた幸夫は、幸子から電話が来なかった事もむしろそれほど良いように思えていた。

もし幸子から電話が掛かれば、当然志野村との関係を聞かれる事は言うまでもなく、それは返事に相当困る事である。


 金城と言う男は幸子に悲壮な顔で、自分がしてきた罪を白状して、警察に言ってくれてもいいと覚悟を決めた話を、幸子から聞かされた事を思い出しながら、今幸子に何もかもを話して警察に言われれば、間違いなく殺人を企てた犯人となり、刑を受けなければならないのである。

幸夫は過去に在った同じ様な話を思い出し、自分には金城の様な事は出来そうもないと心を重くしていた。

 幸子もまた連絡さえして来なく成った幸夫の消息を案じながら、決して動く事さえ出来ないジレンマに苦しんでいた。動けば好きな人を疑わなければならない事が辛かった。


 そんな毎日を繰り返していて、とうとう幸子は高校時代の担任教師東田幸三を、本当は顔を合わすのが嫌だったが、そんな事を今は言ってられなくて、重い足取りであったが訪ねる事にした。


幸子にとって東田先生は、幸夫に悩みがあるなら相談する様に言われていた人で在ったので、尼寺で暴行された事を知っている先生に相談する事に抵抗があったが、それ以上に幸夫の事が案じられていたので勇気を出して尋ねていた。


 東田は幸子がやってきて少々驚きながら応対したが、それでも幸夫が新聞に載り、更にテレビでも流されていたから気が気ではなかった。

「よく来てくれたね。滝川君。幸夫君の事だね。一体どうした事かな・・・困ったね」

「先生も同じ事を思っておられるのですね。」

「まあなぁ・・・幸夫からあなたの事を聞かされていただけに、それにこの亡く成っていた男の事も聞いていたからなぁ・・・どうした事か・・・」

「先生、幸夫さんに私から何かアクションを起こすべきでしょうか?」

「いや、それはどうかな、彼も大人だし自分でした事は自分で責任を持たないとな・・・単なる事故ならいいけど」

「それはないと思います。ありえない事だと。私を酷い目に遭わせた男と二人で山登りをする何て事」


「そうだな。世の中がひっくり返ってもあり得んな。

幸子君、我々は今動くべきではないように思うな。暫く様子を見ようよ。幸夫に判断させる事が大事じゃないかな。大人として」

「やはりその方が良いのでしょうか?」

「私はそのように思うな」

「実は私も同じ思いでしたが、先生のお考えをお聞きしたくて・・・でもよかったです同じで」


「私は幸子君と幸夫の心の内を知っている。でもその事は誰も知らない筈。

私の甥っ子に警察官が居るから彼に話そうと思ったが、でも彼も巡査長の身、彼ではどうにも成らない話だったので、私は誰にも話していない。

幸子君が辛い目に遭った事は誰彼なしに話せる話ではないだろう。

幸子君が両親にさえ話していないなら、この話は幸夫と私と幸子君だけしか知らない筈。

 だから今は黙っていようよ。お互い窮屈で気にしなければならないけど、でも我慢して耐えようよ。何も悪い事をするわけじゃないし」

「解りました。」


「幸子君、変な事言うけど幸夫は完全犯罪を狙っているのかな?単なる事故で片付けばいいのだけどね。」

「・・・・・」

「かも知れんな。私にはあいつの気持ち解かるから」

「でも先生私から何も言えません」

「そりゃそうだな」

「とっても辛いです。」


 



幸夫は多摩山岳同友会を退会してから、大学へ入ったころ入っていて途中休部していた陸上部に再度籍を置いていた。毎日長い距離を走る陸上部は幸夫の体に鬱積した不安と言う汗を吹き飛ばしてくれていた。


 そうでもしないと持たなかった。

汗を一杯流し心に詰まった数々の雑念を汗と共に吹き飛ばし、幸夫はもがき苦しむように毎日を重ねていた。


敵討ちだから許されるわけではない。犯罪は犯罪でしかない。

人殺しは人殺しでしかない。そして取り返す事など絶対できない。やり返しはありえない。懺悔した所で許されるわけではない。だから幸夫は汗一杯にして志野村の亡霊と戦っていた。


 志野村純一の滑落は事故として処理されたので、疑われる事なく時は過ぎているように思えたが、

滑落事故から半年が過ぎた時、信州で写真の撮影を趣味としているカメラマン加絵信弘、加絵あずみ夫妻が長野警察立山署に出向いていた。


「気になる写真があり見て貰いたいのですが」

「はい、これですか・・・これはライチョウですね。ライチョウの赤ちゃんですね。」

「はい、実は妻と二人でこの写真を撮っていたのですが、大方百枚ほど自動シャッターで撮りまして、それで昨日パソコンに全部取り出してみますと変なものが写っていて、実はこれなのですが」

「変なものとは?」

亭主の加絵信弘が数枚写真を並べて


「この写真はライチョウの鄙が親鳥から餌をもらっている写真ですが、この場所はこちらの写真のこの部分なのです。

つまり望遠で撮っています。でも此方の写真は望遠ではなく山全体を写しています。つまり巣作りをしている場所の位置確認の為の写真なのです。そしてこの所が望遠で撮っている部分です。」

「なるほど判りますよ。同じ景色ですね。」

「それでこの山全体が写っている写真に気が付いた事がありまして、妻が昨夜見つけ気に成ったようで妻に説明させます。」


「ええ、私、家内です、では私からお話し致します。

この写真のこの部分が気になりました。詰まり何方がが写っていてその後ろにも何方かが写っていて、よく見ると後ろの方の足が前の方のお尻のあたりにあるでしょう。

それから此方の写真を見て下さい。数秒の内に撮っていますのでよく似ていますが、後ろの方の足が此方の写真は曲がっていたのに、この写真は伸びていて突き上げたように思うのです。でも前に居られた方が何所にも写っていません。」


「其れで一体何を?」

「もしかしてこの前の方は突き落とされたのではないかと思ったのです。」

「ええ~?物騒な事をおっしゃいますね?」

「わかりませんよ。判りませんが、あの日あの場所で男性の方が滑落して亡くなられた筈です。東京の方が・・・」

「あ~これってその場所を言うのですか?」


「ええ、そうなのです。思い出して頂けましたか?二人で登山され一人の方が滑落して亡くなられた事故です。半年ほど前の事です。」

「それであれは事故ではなかったと思うのですね」

「判りませんよ。この写真だけでは。でもいつもはこの山全体の写真は位置確認の為だから一枚しか撮らないのですが、この時はこの様に二枚撮っていてそれで気が付いたのです。確か急に雨が降ってきて慌てて撮ったのを覚えています。


 私たちは向かいの山から望遠で撮りますので、山頂まで目が行かず巣のある所にセットしますので偶々写っていた様です。尾根に誰かが居た事すら気が付かなかったです。この写真を見ておまわりさんはどう思われます?」

「一度調べる価値はありそうですね。事故と言う事で処理されていると思われますが・・・」

「面倒でしょうか?」

「面倒とかではなくて重要な事は、貴方方の単なる勘違いだと成ったら、疑いを掛けられた方は随分迷惑な話になりますからね。そうでなくてもショックですからね。仲間が亡くなったのですから、

でもちょっと待ってくださいね。」


おまわりさんは席を外し暫く二人を待たせていたが、その間に事務員風の女性がお茶を提げてきて二人はそれをすすりながら待ち続けた。

「お待たせいたしました。これがその時の調書ですが、え~と亡くなられたのは東京在住の志野村純一さん二十四歳ですね。そして救助を要請されたのが、同行していた同じく東京在住の但野幸夫さん二十歳ですね。此方の方は大学生ですね。

それでえ~と二人は、亡くなられた志野村さんがライチョウの鄙を見に行こうと登山の経験の浅い但野さんを誘って、日帰りで見に行って事故に遭ったようですね。


二人で同じ場所へ来た事が一か月前にもあり、その時はライチョウが巣作りを盛んにしていて、つまりあの事故に遭った場所は前もって知っていたようですね。

亡く成った志野村さんは大学時代から山岳部に入っていて、どうも結構危なっかしい事も平気でする方だったようで、多摩山岳同友会と言う所に所属していた様ですが、責任者の方がその様に言っていたようですなぁ。

どうやら奥さんの思い込みかも知れませんね。」


「勿論それほど良いのですが・・・」

「でもせっかくお越し頂いたのに、そんな不甲斐無い事申しません。再度二人の関係を洗い直してみます。あ~この二人・・・本籍は共に奈良県ですなぁ。わかりました。この写真お借りしても構いませんか?」

「ええどうぞ」


 

信州アルプスの写真を撮る事を趣味にしている加絵信弘、あずみ夫妻が立山署に持ち込んだ数枚の写真は、半年前志野村純一を単なる滑落事故で処理していた刑事課に話は戻されていた。

 

 翌日、立山署刑事大山道彦と井村亮は加絵夫妻が写真に収めている現場へ足を運んでいた。

現場についた二人は滲み出る汗を拭きながら、

「まさかなぁ・・・ここから鳥を観察している同僚を足で突き落せるかな?」

「確かに、この高さだから間違いなく死ぬでしょうが、そんな酷い事出来るとはあの大学生には無理でしょうね。」

「出来るとするなら、殺したいくらい憎んでいたとかだな」

「そう言う事でしょうね。」

「もしかするとこの二人の間に怨恨があるとするなら、それは多摩山岳同友会に所属してからの事ではないかも知れないな。

昨日調書をしっかり見直したら、どうも二人は結構仲が良かったようだし、それは誰もが当時同じ事を言っていたようだから、この但野幸夫に殺意があるとするなら、同じ奈良出身だからその辺りに何かあるかも知れないな。余程の事が」

「奈良へ行ってみましょうか?」

「その必要があるかも知れないな。其れに志野村が務めていた会社にも、但野が通っていた大学にも行かないとな、この写真を持って」

「加絵さん夫婦が言っている事が間違っていなかったなら、そうすれば何かが動き出すかも知れませんね。」

「一丁やってみるか・・・でも人間のする事って怖いよな。山岳会の誰にも仲がいい友達のように見せかけて相手も騙して、それでここまで態々来て、ここから突き落とすのだから、考えただけでも寒気がするな。夫妻の言うことがあっているなら・・・

こんな景色がいいのに・・・本当ならお互い労をねぎらい滲んで来る汗を拭き、爽やかな風を全身で浴びて・・・そうだろう」

「まさにおっしゃる通りです。人殺しなんて山の神様に失礼ですよね。」

「全くだな。急いで下って奈良へ行こう。」

「はい」





 二人の刑事は翌日奈良へ向かっていた。

名古屋まで出て新幹線で京都まで行きそこから近鉄で奈良へ向かい、北生駒迄行き志野村純一が生まれた近くまで来て聞き込みを始めていた。


「純一さん可哀想に、信州へ登山に行って崖から落ちて亡く成ったのでしたね。お気の毒に。あの子二年程前かなぁ一番のお友達が亡く成って可哀そうなものでしたよ。それが今度はあの子が・・・」

「そんな事がありましたか・・・」

「でもあの時変な噂もたっていましたよ」

「どのような噂が?」

「なんか自業自得とか、それは和尚が言っていましたから、ここだけの話と言って」 

「自業自得ね」

「ええ、そんな風に」

「私は知らなかったけど随分悪さもしていた様ですよ。刑事さん、無理かも知れませんが、純一さんのお友達だった金城さんのご家族の方にお聞きすれば、何か解かるかも知れませんよ。

何しろ息子さんは自殺までされたのだから。金城さんが生きている頃は、とにかくいつも一緒で二人を見かけましたから、余程私なんかには判らない何かがあったのかも知れません。」

「そうですか、ではその金城さんにこの後お邪魔してお聞きします。」

「ええ、でも私の事は内密に」

「解っています。」





 それから大山と井村の二人の刑事は、同じ在所の生駒の山の木立の中で、首をつり自殺をした金城隼人の両親に出会っていた。


「蒸し返すような話で申し訳ございません。どうも刑事とは無粋な職業でお察し下さい。

それで隼人さんが亡く成った原因はどんな事でしたかお聞きしたいのですが」

「はっきりはしませんが虐められていたと思う節が幾らかあります。でも本人の口からその言葉は出ませんでしたが、結果的に死を選んだと言う事はそうだったと思います。


腐れ縁って言うのかあの子はいつも純一さんと一緒でした。でもいつもあの方の後ろを歩かされているように私には見えました。魘されたような寝言を言っていることもよくあり、ストレスが溜まっていた気が致します。

其れが蓄積されあの子は死を選んだのだと思います。可哀想でしたが本人は逃げたかったのでしょうね現実から」


「生前何か信号を出されていたのでしょうか?」

「ええ、信号と言えるかどうかはわかりませんが、大学生活はどうだと聞くと、時折疲れたとかやりきれないとか独り言を言う様に言っていた事がありました。」

「疲れたとかやりきれないとかですか?」

「あまりにも純一さんと中学の頃からべったりだったからかも知れません。

その純一さんが長野へ行って山で亡く成った事を聞きましたが、正直私は可哀そうにとか思いませんでした。息子に憑いていた悪霊が取れたようい思いました。こんな近くで昔から住んでいて不謹慎でしたが」


「やはりご子息は純一さんに精神的に相当押さえつけられていたように思われるのですね?」

「ええ、おそらく」

「遺書とかは残さなかったのでしょうか?」

「ええ、まったく」

「ノートのどこかにでもそれらしい事書いているかも知れませんね。命を絶とうと考えた時」

「必要なら調べておきますが」


「実は純一さんは今に成って事故ではなく事件だったかも知れないと疑惑が出てきて、再捜査しているのです。ですから純一さんが生前憎まれていたとか怨まれていたとか、そのような事がなかったのか人間関係を調べさせて貰っています。」

「殺されたと・・・其れでは内の子が生きていたなら疑われていたかも知れませんね。」

「一応はお聞きするでしょうね。」

「それで信州から態々奈良まで来られたのは内の子の事を調べに?」

「いえ、それはこちらへ来て初めて知ったことで、実は橿原市に純一さんが山へ登った日に同行していた人がいまして、その方も奈良の橿原の方でしたから」

「そうでしたか?確か東京の大学生だったと記憶していますが」

「ええ、大学は東京でしたが出身は奈良の橿原で」


「橿原ですか、実は息子の大学は大阪なのに、時折橿原へ行って来るって言っていたことがありますね。私どもが知らない友達が居たのかも知れませんね」

「どの様な用事であったのかは全く検討が付きませんか?」

「しいて言うなら決して楽しそうでは無かったかも知れません。ただ日ごろからあまり明るい振舞いのする子では無かったですから。でも橿原にお友達が居たことなど聞いたことありません。」

「女性かも知れませんね。お母さんに一言も言わないようだと。照れくさくって」

「それって好きな子が居て?、でも本当に照れくさいからでしょうか?もしそうならあの子それなら死んだりなんかしないと思いますよ。」


「それもそうかも知れませんね。憶測で物事を言ってはいけませんね。ではこれで失礼致します。

又何かご子息が残された物で気に成るものがありましたらご連絡ください。」

「解りました。」


 大山、井村の両刑事は足早に橿原市へ向かうことにした。

電車の中で笑いながら

「気を付けないとな、写真家夫婦の言ったことを鵜呑みにして奈良まで来て余計なことをして、事績に陥る様なことに成っても困るからな」

「ええ、今更って気もしますからね・・・」

「それにしても金城隼人を更に掘り起こすと色々なものが出てきそうだな」

「そうですね。この写真で見る限り、あの写真家夫婦が言っていることに必ずしも信ぴょう性は無いですからね。突き落とした様に思うと言う話だけで、あくまで推測に過ぎないですからね。

だからこれから行く橿原の但野幸夫より、むしろ今お邪魔した金城隼人の詳細を深く調べれば、大山さんの言うよに何かが出てきそうですね。」


「金城隼人と志野村純一それに但野幸夫この三人の間に何かがある・・・違うだろうか。井村君、金城隼人は本当に自殺したのか、其れさえも疑問に思えてくるな。

志野村純一と中学生の頃からべったりであったと母親がさっき言っていたね、その言葉が私は気に成っていて、何故かって言うと志野村は生前新宿で住んでいたと記録されているだろう。余計な詮索かも知れないが、新宿二丁目ってゲイ達の一角があるように聞いているだろう。関係ないだろうか?」


「つまり志野村と金城はゲイの関係であったと仰るのですか?」

「解らないけどそうかも知れないと思ってな」

「それで男女の関係で再三起こる様に、志野村は金城のことが嫌いに成って自殺に見せかけ命を奪った。」

「もしそうなら洗いなおす必要がありますね。今更って気もしますが、金城が自殺をしたとされる日の志野村のアリバイってことでしょうね。アリバイが無ければ調べ直す必要があるでしょう」

「それは我々の及ぶとこじゃないな、話が反れて行くな」

「とりあえず但野幸夫を調べますか・・・無理をせず」

「そうだな」


 橿原市へ着いた二人は、早速但野の実家橿原市須美町に着いていた。但野幸夫が暮らしていた実家の直ぐ側に交番があり、二人の刑事は先ずそこから訪ねることにした

「長野県警立山署の大山と申します。」

「私は井村と申します」

「それでお聞きしたいのは、半年前私どもの管轄で登山されていた方が崖から滑落して亡くなられたのですが、同行していた方に嫌疑が生じ再捜査しています。


当時亡くなった方と同行されていたのが、この街に実家のある但野幸夫さん二十歳なのです。東都大学二年の方ですお解りになられるでしょうか?」


「ええ、知っていますよ。新聞でもニュースでもやっていたから。それに噂話として耳に入って来ましたから。

但野さん気の毒にって聞いた事ありますよ。二人で山に登っていて相棒が亡くなるなんて辛いですからね。何しろ自宅はすぐそこですから」

「それでですね。但野幸夫さんの何か噂でも良いですが、聞き捨てならない事とかなかったでしょうか?実は事件性があるように見える写真が出てきまして・・・これですが、つまりこの後ろで居てる但野さんが、前の崖っぷちで下を覗き込んでいる志野村って人を突き落したのではないかと、この写真を提供された方が言って来たわけです。」


「確かにそのように見えますね。しかもこの後ろの人、足で突いているように見えますね。此方の写真は足が曲がっていて、こちらは伸びていて前の方が写っていない・・・確かに変ですね・・・」

「その通りです。へ~そこまで解かりましたか、瞬時にしてたいしたものですね、洞察力が優れていると言うのが、

 貴方が言われたように前の方が居なくなっているのは、おそらく崖から落ちてしまったからだと思います。それでこの写真を撮った夫婦が我署に来られて、既に事故で処理していた事案でしたが、再捜査になりまして、面倒な話です。」


「でもその様な事実が隠されているなら、調べなおさないといけませんね、立山署の刑事課の権威にかけても」

「そうです。其れでこの但野幸夫氏に関して詳細をお聞きしたくて」

「そうですね。ここの人に前科があればすぐにわかりますが、善良な市民となると情報と言っても皆無に等しいですからね。変な噂があれば引き継ぎますし伝わってきますが、その様なこと一向になく、山で事故に遭われた時もお気の毒にと言う声しか聞こえて来なかった様ですよ。

 私この交番に赴任してまだ僅かでありますが、ややこしい話は全くありませんが」

「そうですか。其れともう一つ疑問に思うことがありまして、実はあの事故で亡くなっていたのは生駒市在住の方で志野村純一と言う方ですが、彼が但野さんと多摩山岳同友会で親しくなったらしく調べがついているのですが、二人とも奈良県出身であることが気になっています。


更に亡くなった志野村さんにべったりだった金城と言う仲の良かった同級生の男が居ましたが、二十二歳の時に自殺をしています。

同じ奈良県の出身で、はたして東京の多摩のような所で知り合いに成るのかと疑問に思います。


 志野村は大阪の大学へ通っていて、卒業してからはフリーターをしていてその後東京の会社に就職しています。但野は奈良の高校を出て東京の大学に進学しています。

私はどうも奈良の地で何かがありはしないかと思えて来ています。金城と言う志野村の仲間も自殺をしていることを思うと何かがあると、今回初めて奈良へ来ましたので今の所はっきりはしませんが」

「それでは気に掛けておきます。特に但野さんは近くにお家がありますから注視しておきます。」

「お願いしておきます。本署をお尋ねして挨拶をして帰ります。」


 時刻も夕方になっていて二人の刑事は、然程この事案を重く思わなかったのか、聞き込みもすることなく橿原を後にしていた。

 其れと言うのも但野幸夫を再捜査して、殺人犯ではないかと疑っている事が全てで、半年前に事故として処理している案件だけに、焼け火箸を触る様なもので、それは人権にも触れ神経を尖らせ無ければならなかった。


「大山さん、こうして奈良まで来ましたが、ここまでするものかと少々気になっています。

交番のお巡りさんは善良な市民を疑っても、何も出てこないと言うように、余計な詮索をしてもと私も思えて来ています。写真家夫妻がこの写真を署に持って来なかったなら、何も起こっていない話で」


「だから彼が言っていただろう、立山署の権威にかけてもって」

「そうですね。我々がしないで誰がするってことですね。面倒でも。」

とは言ったものの電車の中で二人は無口になっていて、消してしまった火をもう一度起こさなければならないことに少々抵抗を感じていた。

 其れと言うのも立山署は一昨日に起こった別の殺人事件で、刑事全員が慌ただしく動いていた。其れゆえにまるで暢気に過去を堀り起こしいているような事案に正直罪悪感さえあった。

大山は日報に


【立山滑落事故に関する再捜査に関して


再捜査したが、たいした疑問も浮かばずカメラマン夫婦の早合点ではないかと思われる。被疑者と思われる但野幸夫は地元では評判は良く、何一つ疑う余地のない青年である。よって本事案は現時点では何ら問題ないと判断する。】

                担当刑事 大山道彦


 大山井村両刑事はこれと言って奈良での収穫なく上司に報告を済ませ、他の者たちと同じ様に昨日管内で起こった夫婦殺害事件にかき出されていた。

夫婦殺害事件は金銭トラブルが原因で、身内の男に容疑がかけられ、新潟県まで逃走していたが、翌日検問に引っ掛かりお縄になった。



 重大事件も解決して「一件落着」と安堵感が漂っていた時大山刑事に一本の電話が入った。

「はい大山でございます。」

「わたくし奈良の金城と申します。先日お越しに成られた時に、息子の事で何か気に成るものがあれば言って下さいと仰っていましたね。


 実はあれから何となく気になって、息子の部屋を見ました。あんな事がありあの子の部屋をそのままにしていましたが、あの子はあまり自分を表現しない子と言いますか、親から見ても心の内の判らない子でした。

地味な性格と言うのか大人しいというのか、でもどこかで表現していると思ったのです。」

「其れで何か気になるものがございましたか?」

「はい、回りくどいことを申しまして、メモが書かれているのを見つけたのです。」

「メモですか?」

「ええ、メモと言ってもかなり長い文章で電話で言えるかどうか・・・」


「お母さん、それじゃそちらへ行かせて貰ってお聞きしますが、大体のことを今お聞き出来ますでしょうか?先日も行っていますから、今度は上司から許可が出ないかも知れません、重要な案件でないと・・・」

「解りました。それでは一番重要な場所をお聞き下さい。多分この辺が重要と思います。」

「ええ、お願いします」

「読みます。


俺はただ女の子の手を縛るように持たされ、口も押えるように命令され、俺は怖くなって来て目を逸らしたり瞑ったりしていた。

志野村は片手にナイフを持ち、ちらつかせて女の子にまたがっていた。


 それからあの時と同じ様に女の子に被さり志野村は腰を動かせていた。俺の手に女の子の嫌がり抵抗する力が伝わってきて、その口からは涎と共に涙が混じって、俺の手の平の中で苦しんでいる。もし今手を放せば震えながら激怒して大声を張り上げ俺を睨むだろう。

俺の両手に女の子の堪らない思いが伝わって来て、俺さえも同じように涙が出て来ている。


 志野村の激しく躍動していた身体が止まった時女の子は何とも言えない悔しさと虚脱感で朦朧としている。

志野村はまるで獲物を獲った様に仁王立ちして下着とズボンをまくり上げ俺に目で合図をする。

「次はお前がやれ」と言わんばかりに

俺はそんなことはできない。したくもない。早くこの場から立ち去りたい。この男から逃げられないのか、いつまでも俺はこの男の支配されて生きて行かなければならないのか。

泣くことも忘れた女の子を残して俺たちは去った・・・


 


刑事さん主だった場所はこの辺りだと思います。」

「そうですかそんなメモが・・・それに前と同じようにとも書かれているようですね」

「はい。」

「それで息子さんは耐えられなくなって命を絶ったのでしょうね。その内容だと。日付とか入っていませんか?」


「それは無いです。ただ私が思うにノートの後ろの方ですから、間もなく死んだんだと思います。」

「それで志野村が犯行に及んだ場所とか書いて御座いませんか?」

「この文の中にはありませんが、他にも書かれているものがあるかも知れませんから、更に調べてみます。教科書やノート類は二十冊ほどありますからどこかにメモしているかも知れません。」

「橿原市に拘った所がないでしょうか?」

「ええ、ときどき口では言っていましたが、ここにはそれらしい字は見つかりません。」

「被害者の名前とかは?」

「ありませんね」


「志野村は少なくとも二度以上女性に乱暴をしているようですから、被害届が出ていないか奈良県警に聞いてみます。特に橿原市で出ていないか」

「橿原市に拘られるのはどうしてでしょうか?やはり志野村さんの事故の関係で?」

「其れもありますが、と言うより志野村が橿原市で女性に悪いことをして居て、犠牲になった女性は、当時志野村と同行して山へ行っていた男性の関係者でないかと考えています。其れなら動機があり殺したくなるかも知れませんから。」


「ではもっと探してみます。何か見つからないか。でも刑事さんがあの時

来られてよかったです。息子はあの子なりに志野村と戦ってくれていたと思います。

死んでしまったけどまっとうな考えも持っていてくれていたと思います。

志野村とさえ出会わなかったなら・・・」

「奥さん、よくわかりました。今仰られた事はとても重大な内容です。でもよくお考えください。

貴方の息子さんも志野村も重大な犯罪を起こしているのです。立場は少し違いますが、でも被害者には同じに映るでしょう。


言い換えれば被害者が被害届を出せばどちらも刑を受けるのです。偶々被害届が出ていないだけで罰せられることなく収まっていますが、被害届が出ていたなら、相当の刑を受け賠償もしなければならないと思われます。

ただ息子さんも志野村も亡くなっていて今は居ません。言わば被疑者死亡と言う様な形ですから法に問われることはありませんが、道義的には進行形なのです。つまり被害者がこれから先に訴えることもありうるのです。家族として責任を問われることにもなるでしょう。

 もうお解りですか?これ以上深堀しても奥さんに何ら良い話ではないと思われます。


 実は先日志野村さんの家の近くへ行き、奥さんの家にお邪魔して、其れでわかった事は、両家はそんなに離れていないのですね。それに北生駒市ですが、奥さんの住まれている所は僅か二十軒程の在所ですね。

そんな静かな所で住む若者が二人不慮の死に方をした。それだけでも大変なことだった筈です。

更にこれ以上大きな事件を起こしたとなれば、奥さんの家族も志野村さんの家族もその地で暮らせなくなるかも知れません。


ですからこの話はこれで終わりと言うことでピリオドを打つ方が良いかと思います。如何ですか?」

「解りました。よくよく考えればおっしゃられる通りですね。ありがとうございました。親ばかですねやたらと息子が不憫に思えてきて」

「でも被害を受けた女性はそうは思いませんよ」

「そうですね」


 電話は切れた。


大山刑事は冷めたお茶をすすりながら一見落着したように安堵の溜息をついた。

横の席でその電話の声を聴いていた井村刑事が感心するように

「流石大山さんは落としどころを心得ていますね。

自分なら違ったことを言っていたかも知れません。

纏められずに・・・でもこれで何もかも解決ですね。それぞれ言いたい事は在るでしょうが」

「そうかな?」

「終わりではないのですか?」

「集大成だな。」

「何がです?」

「井村刑事、明日東京へ行こう。東京へ行って但野幸夫を訪ねよう。あの写真を提げて。ちょっと私に考えがあるから」

「はいお供します。」

「本人にぶつけようよ。回りくどいことをしないで」

「でもそんなことしても大丈夫でしょうか?」  

「だから私に策があるって」

「解りました」


 二人は翌日東京へ向かい授業の終わる時間を見計らって但野幸夫と出会った。


大山刑事が但野幸夫に口にしたのは

「但野さん、これから私たちがあるものをお見せします。其れでそのものについて一つの仮説を言います。そこでですね、その仮説に対して貴方の考えをお聞きしたいのですが、万が一失礼なことを言ったとしてもどうか「そんなことは無い」と一笑に付して頂けますように。妙に名誉が傷ついたとか言いがかりだとか言わないでくれますように。今言いましたように笑いながら「間違いです」と言って笑い話のように捉えて頂きたいのです。」


「其れでどのようなことで?」

「解っていただけますか?」

「ええ、わかりました」

「ではお話しします。其れでこの写真を見て頂きたいのですが、この写真にあなたが写っていることはお解りでしょうか?」

「さぁ・・・この格好は私かも知れませんね。随分小さいですね。でもここはどこです?」

「貴方と志野村さんがライチョウの見学をされていた場所です。つまり志野村さんが滑落して亡くなられた場所です。」


「解りました。ではこの方が志野村さんなのですね。確かにそのような格好をしていたように記憶しています。」

「思い出して頂けましたか?」

「ええ、あんな事故があったのですから当然です。」

「そうですか・・・ではこちらの写真を見て頂けますか?


実はこの写真は数秒後に撮られたものです。連写したようです。

それでですね、こちらの写真には志野村さんは写っていません。お分かりですね。わずか数秒の内に志野村さんが消えているのです。

それで重要なこと申します。この二枚の写真に大きな違いがあるのです。それは志野村さんが居なくなったことと、貴方の足が此方の写真はくの字に曲がっていて志野村さんの腰辺りにあり、此方の写真は真っ直ぐになっているのです。

曲がっている方には志野村さんが写っていて、真っ直ぐになっている方は志野村さんの姿が在りません。


何故こんな事が起こったのか貴方にお聞きしたかったのです。色んな事が想像出来ますが、それに冒頭で言ったように仮説も思いついていますが、あえて言いません。貴方のお口で説明して頂きたいのです。どうですか?思い出して頂けましたか?」

「・・・」

「どうです?」

「解りました。覚えています。あの日は日帰りでとんぼ返りでして志野村さん急いでいて、私彼ほど健脚でないので必死について登っていました。


 それでここに着いたときに彼が双眼鏡で崖の下のライチョウを見つけ、鄙がかえっていると興奮気味に嬉しそうに言っていました。

それで彼は私に双眼鏡を手渡し、鄙を見るように言われたので、崖がかなり危険であり、恐々覗き込むようにして巣を見ると鄙がかえっていて、暫く見ていると、息を止める様にして見ていたのか苦しくなってきて、彼に双眼鏡を預けて後ろの岩の上に寝転んで、大きく息をしながら休んでいました。

それがこの格好だと思います。空を見ていたから。暫くそうしていると彼がまたライチョウを見ながら私に、親鳥が帰ってきて餌をあげているとか可愛いとか言っていました。


 それから暫くの間彼は崖っぷちで、子供が遊ぶように独り言のように何か言っていましたが、突然大きな声で「うわ~やばい、やばい」と叫ぶような悲壮な声がして、私の足首に手をまわしたような感じでした。でも掴み損ねたのか触られるのを感じましたが、顔を持ち上げて崖を見ると彼の姿はありませんでした。

まさかと思い崖の下を見ると、彼が大きな石に絡まり、くの字になって倒れていました。救急隊の方が来られてこの話をしたかどうかは覚えていません。でも事実です。何しろあの時雨が近づいて来ていて走るような雲に気を取られていて、空を見ていましたから何が起こったのか正直わかりませんでした。こんなところで良いでしょうか。」


「この写真を見乍らあなたの話を聞いていると本当にそうかなと思いますね。疑問に感じるものもないですね。」

「多分志野村さんは無理をされたと思いますよ

一度あの場所に行かれて上から見てください。崖の中ほどにライチョウの巣があり、今でも巣は残っているかも知れません。


私が覗き込んだとき巣は半分ほどしか見えなかったですが、志野村さんは私に言ったのは、巣を見て親鳥が居ることも鄙が餌をついばんでいる様子も解説するように話していました。おそらく彼は必要以上に崖に乗り出しバランスを失い、其れであのような事故に遭ったのではないかと思われます。」

「解りました。よくわかりました。全ての疑問が解けました。」


 但野幸夫は白である。何らやましいものは微塵もない。


二人の刑事は意気消沈したように無口になって帰路についた。

一方幸夫は押し迫ってくる法律と言う壁の様なものに必死になって立ち向かっていることを感じていた。

 にわか芝居であったが巧く立ち回れて、二人の刑事から押し迫られた嫌疑を逃れた幸夫は、心の中に執念が在ることを感じたのは、今一番しなければならないのは懺悔でも法律に屈することでもなく、敵を取ってやらなければならない幸子と言う女性の存在であった。

 

刑事たちが去って行き、その日を最後に二度と刑事が来ることもなく、幸夫は満たされた大学生活を繰り返していた。

幸子とも再三電話でやり取りをしたが、決して過去のことには触れることはお互いタブーと考えていて触らぬようにしていた。


 それは共に解かっていて、忌まわしい過去を語らないことがお互いの絆をより深くしているように考えていた。

 幸夫も幸子も二人の間には切れることなど考えられない絆が、伊勢の夫婦岩に架かった縄の様に未来永劫切れる事などありえないと思うように成っていた。


 二人を繋いでいた糸は言うまでもない志野村純一のしかばねがその芯にあった。


 幸子と幸夫は常に同じ距離を保ち、幸子は大学を卒業して看護の仕事に就き、二年後に幸夫も目出度く大学を卒業する時期が来て、大阪の会社から内定を貰っていて、四月に成れば共に大阪で働く予定であった。

 幾ら忌まわしい事でも過ぎた事は遠い過去になり、二人の間に起こった出来事とは思わない様にさえ感じていた。

 

幸夫は目出度く卒業を迎え実家に荷物を送る手配を済ませ、彼自身は運賃の安い夜行バスで帰る事にしてバス停に向かった。

 やがてバスは走りだし幸夫は過ぎ行くネオンを見つめながら「東京ともこれでお別れか」と胸に詰まるものがあったが、東京の四年間は言い換えればいましめられる苦しまなければならない日々でもあったので、外を見るのを止めて鞄から缶ビールを取り出しそれを口にしていた。

目を瞑り、これから新しい人生が始まるだろうと思うと心が躍る思いになり、過ぎし日の出来事はバスが東京を離れた頃には、隙間もなく頑丈な袋でチャックで閉められたその中に納まっている遠い過去の様に思えた。


 バスは順調に滑るように走り奈良県に入った時、幸夫は財布に入れていた切符を取り出し、それだけをポケットにしまった。

そしてバスは大和八木駅について幸夫は大きく息をしてバスを見送った。

 タクシーで実家まで行き、待っていた母親に元気に挨拶をして一息ついていた。


「おめでとうさん。」

「うん。これから社会人か・・・厳しいなぁ何とか働き口決まったけど、まだ決まってない奴も何人も居るからなぁ厳しいよ現実は」

「そうなの、大変ね。もっと気楽な時代にならないとね。世の中が悪いのか、政治が悪いのか何が悪いのか、母さんにはわからないわ」

「俺だってどうなるか知れたものじゃないよ」

「この期に及んで泣き言も言えないわね」

「そうだよ。全くその通りだよ。」


 それから幸夫は鞄からお土産や汚れた洗濯物などを取り出し、鞄を空にして虫干しする様に大きく口を広げて陽の当たる窓際に置いた。

そして座布団を枕にして、然程眠れなかった慣れないバスの長旅の疲れが出て来たのか、いつの間にか眠ってしまった。


毛布を掛けられた幸夫は心地良さを全身で感じながら、目が覚めた時には数時間眠っていたようで気が付いた時は夕方になっていた。

「よく眠っていたね、随分疲れていた様ね。慣れないバスの長旅だったから気を使ったのね。」

「もう夕方?随分寝てしまったな~」

「そうよ。もうすぐご飯出来るから待っていて」

「うん、久しぶりだね。母さんの手料理」

「東京で美味しいもの食べて悪い癖付いていないの?母さんはいつまでも母さんの味だから文句言わないでね。」


「言わないよ。その味で俺大きくして貰ったのだから。」

「そうね。では張り切って作るわ」


 幸夫は母と何気なく会話をしながら次第に目が覚めて来てふと気になったのは、

「あれっかあさん俺の財布無い、どこへ置いたのかな?寝込んでしまって・・・」

そう言ってズボンのポケットや寝枕にしていた座布団、それに母が掛けてくれた毛布などを捲りあげたが見つからない。


「おかしいなぁ俺の財布どこにもないよ」

「えっ財布が?」

「そう、見つからないな。どこだろう?」

「鞄の中は?」

「いや帰った時全部出したから、そうだ!洗濯物の中に入れたかも知れないな」

そう言って洗濯機の前に置かれた汚れた衣類をくまなく探したが見つからない。

「あ~ぁ大変な事になったよ。財布の中に大事なものが入っているのに・・・バスから降りる時に切符だけ財布から出して、切符をズボンに裸で入れて、その時財布は?判らない・・・あぁわからない・・・」


「それならバスの中に落としたりしていないの?」

「わからない・・・これだけ探して無いのならバスの中かも知れないね。直ぐに電話するよ。でもバスのパンフレットは財布に挟んでいたからバス会社もわからないな。」

「幸夫、前の交番に行って落し物が出ていないか聞いてみれば」

「・・・」

「幸夫、どこにも無いのでしょう?前の交番へ行きなさいよ。案外届けてくれているかも知れないわよ。」

「そうしようか。困ったなぁ」

「行って来なさいって!」

「うん」


 幸夫は目と鼻の先にある交番へ行き

「今日の昼夜行バスで大和八木まで帰ってきて家に着き、それで先ほど気が付いたのですが、財布が見当たらなくって困っています。おそらくバスの中で落としたようで警察に届けられていないかとお聞きしに来ました。」

「お名前は?」

「但野幸夫と申します。」

「どのような財布で?」

「黒の牛革でお金は二万五千円ほど入っています。」

「待ってください。本署に聞いてみます。」

そう言って電話を取り確認を取っていたおまわりさんは残念そうに

「いや~そう言った遺失物は無いようですね。」と言い「取り敢えずお聞きしておきます」となって、届書に幸夫は詳細を書き込むことになった。

【但野幸夫 奈良県橿原市須美町四ノ六ノ十三

 二十一歳 財布の中身 現金二万五千円 キャッシュカード三枚 学生証 写真、お守りなど】

「解りました。届けられた時はすぐに連絡いたします。その時は届けて下さった方に謝礼をお忘れなく。」




 東京を引きあげて意気揚々としていた筈が、とんでもない災難に遭うことになった幸夫は、前途に嫌なものを感じずにはいられなかった。

それはこれまで生きてきた環境が普通ではなかったからかも知れないと思わされた。心に僅かでも後ろめたい迷う気持ちが潜んでいるのではないかとも思った。それはまさしく志野村純一の亡霊が憑いた惑う心なのか、一転して心の中に暗雲が立ち込めていた。


 それでも二日後交番のお巡りさんが訪ねてきて、

「よかったですね。財布見つかりましたよ。」と笑顔を満面にして但野の家の玄関に立っていた。

「確認してもらえますか?」

「はい、良かったです。流石我が国は捨てたものじゃないですね。助かりました。」

「それでですね。交番へ来て頂いて書類にサインして頂かないとお返し出きませんので」

「ええ、すぐに行きます。」


 おまわりさんの後を追うように歩いて幸夫は付いて行った。

「それではお渡しする前に中身について仰ってください。」

「はい、お金は二万五千円と私の学生証それにキャッシュカードなどです。」

「いいですよ。他には何か入っていませんか?」

「あぁバス会社のパンフレットとか」

「それだけですか?財布の真ん中がチャックに成っていて」

「あ~そこには橿原神宮のお守りが入っていました。」

「そうですね。結構です。住所とお名前をサインしてお持ち帰って下さっていいのですが、言っておかなければならないことは、財布を拾って届けてくださったのは大和高田市に住まれている木村さんって方です。


貴方が座られていた所から真後ろの席に座られていて、降りる時気が付いたようです。

其れで住所を見てこの交番の場所をよく知っていたから、今朝届けて下さったのです。良かったですね。謝礼はきちんとして下さいね。中身はこの様にして全部調べてますが、それは決まりですのでご了承ください。木村さんの連絡先はこれです。」

「解りました。」

 幸夫はアルミケースの中に置かれた財布を取り、それから中に入っていたものを一つ一つ順に仕舞い元のようにして深く頭を下げ交番を後にした。


 ところが財布が見つかり、肩の荷を下ろすように立ち去った幸夫の後ろ姿を見つめながら、おまわりさんの木下究きのしたきわむは心を震わせていた。

 それは幸夫の持ち物の中にチャック付きの入れ物から見つかったものが木下を震わせていた。

そこには橿原神宮のお守り、そして幸夫と幸子が一緒に写った一枚の写真、更に幅四センチで長さ八センチほどのメモ用紙 それは幸夫さえ気が付かなかったが、前日おまわりの木下究がお守りの中を調べて見つけたものであった。

其れと言うのも時たまお守りの中に覚せい剤が入っていたりすることがあり、そんな理由で調べたのである。


お守りの中に入っていたメモには字が書いてあり、それは名前であった。

(主) 志野村純一 奈良県北生駒市高倉二ノ八

二十二歳 大阪芸術総合大学四年 山岳部在籍

       卒業後は不明

金城隼人 奈良県北生駒市高倉四ノ一

二十二歳 大阪芸術総合大学四年 山岳部在籍


 メモにはこのように書かれていた。

この名前には薄ら憶えがあった。

木下究きわむはこの交番に赴任してから間もない時に、長野県警立山署から態々来られた二人の刑事が口にしていたことをはっきり覚えていた。

 それは交番のすぐ側で暮らす但野家の息子さんが犯罪に絡んでいるかも知れないと、聞き込みに来られていたことで覚えていた。

その内容は聞き捨てならなかったので緊張して応対していた。そんな事で昨日深夜まで当時の記録を顧みていた。

《 崖から滑落して亡くなった志野村純一と管内の但野さんの息子さん(幸夫二十歳)は、東京で同じ山岳会に所属していて、二人で山へ登り、但野さんが志野村さんを足で蹴って崖から突き落とし死亡させた嫌疑が掛かっている。 

しかし亡くなった志野村さんには金城隼人と言う同級生が居て、その同級生が二十二歳で自殺している。


 この三人の関係を立山署の西村刑事は疑念を抱いておられた。それは何故か・・・かもすると但野幸夫と志野村純一は東京で出会って知り合いになったのではなく、奈良でもっと以前に知り合っていたかも知れないと、更にそこに何かがあるようだと言われた。

西村刑事はその様に考えている様であった。でもその点は不明だと言っている。取り敢えず管内の但野幸夫を注視するように願われた。》


 古いノートにはそのように記されていたので木下究巡査は頭の中で整理していた。


 大山刑事はあの時疑問に思っていた事が、更に謎を深めたように思えて来た木下は、何が何だか解からなくなって、取り敢えず長野県警の大山刑事若しくは井村亮刑事に電話をすることを決めた。


「大山刑事を願い致します。」

「あいにく大山は前月をもって上諏訪署に移動致しました。」

「それでは井村刑事は?」

「お待ちください。かわります。・・・・」


暫くして

「はい井村でございます。その節はお世話になりまして」

「覚えていただいていましたか?」

「もちろん。其れで何か?」


「ええ、実は先日からある事が判りまして、それで気に成ったものですからお電話を差し上げた次第で、それで以前お越しになった時にわが管内の但野幸夫氏の身辺についてお調べだったようですが、ちょっと気に成る事が御座いまして、それで知らせておくべきだと考え、」

「そうでしたか。でもあの件は既に処理済みで・・・もう二年近く前の事でしたね。何ら問題なく」

「そうでしたか・・・それじゃもう良いのですね?」

「でもせっかくお電話頂いたからお聞きしておきます。失礼に成ってもいけませんから」

「いえ、構いませんよ」

「でも折角だから仰ってください。何か重要なことを見逃しているかも知れませんから。

そうそう、あなたは洞察力のある立派な方でした・・・思い出しました。きっと何かがあるのでしょう。あなたがおっしゃるのだから」


「兎に角簡単にお知らせしておきます。」

「お願いします。」

「実はあなた方が聞き込みに来られて大山刑事があの時言われたのは、亡くなった志野村純一と但野幸夫が東京で知り合ったのではなく、同じ奈良県人だったから、もっと以前に知合っていたのではないかと言う嫌疑でした。

其れに自殺した金城隼人のことも関係しているのではないかと、そんなことも仰っていたように思います。そこに何かがあるようにも。


 それでですね、実は但野幸夫さんが今月で大学を卒業され、奈良へ帰ってきたのですが、帰る途中財布をバスの中で失くされ、当交番に紛失届をだされたのです。

運よく二日後に財布は善良な市民に拾われ届けられました。其れで持ち物を検査した所、こちらの神社のお守りが入っていて、その中に女性と二人で撮った写真と、後生大事に紙切れと言うかメモが入っていて、そこに志野村純一さんと金城隼人さんのことを詳しく書かれた同じ様な内容の物が入っていたのです。


そして二人のことを大阪総合芸術大学四回生と書かれて居ます。

つまり但野と志野村さん、其れに金城さんとは、以前から知り合いであったかも知れないことが判ったのです。

其れで更に気が付いたのは、そのメモに書かれた文字は、但野さんが書いた文字でないことも判りました。

何故かと言うと但野さんが財布を取りに来られて、その時に遺失物引取り用紙に書かれた文字とは全く違うからです。

つまり但野幸夫さんが持っていたお守りに入れていたメモは、誰が書いたものであるかわかりません。以前来られた時、西村刑事が頭をかしげてられ困っていたことを覚えていたので、電話を差し上げた次第です。」


「何分唐突で必死になって思い出していますが、未だ焦点が合いません。電話を切らせて頂いてあの時の資料に目を通します。

重大な案件となれば他署へ移動しましたが大山刑事にも助けて貰います。

 

わかりました。要約しますと但野と志野村は東京で知り合ったと思われたが、もっと前に奈良で知り合っていた可能性があると言う事ですね。

それは但野が持っていた財布に志野村と金城の名を書いたメモが入っていて、彼らがまだ大阪の大学へ通っていた時の事まで書かれたいたわけですね。」


「その前後のことだと思います。其れで何があるかなど私には判りませんが・・・只、但野がその頃から二人を知っていたなら、東京で知り合いに成ったと言うことではないと思われます。それにこのメモではっきりするのは只野が金城を知っていたことでしょうね。」

「成程・・・ありがとうございます。誠意をもって慎重に精査致します。」

 

思いがけない電話に井村刑事は電話を切った後頭をかしげ眉間にしわを寄せていた。

 二年近く前の出来事となっていたことから、さらに既に線を引いた過去の出来事であったことも手伝って、然程気乗りする電話に思えなかったが、 それでも資料室であの事故の記録を見直していて、じわじわと当時引っ掛かっていたことが蘇ってきていた。



《まさかぁ・・・但野が志野村と金城の名前をお守りに入れているって、そんな事考えられないな・・・志野村と金城が大阪の大学時代に高校生だった但野と出会っているのか・・・どう言う事だろう?いやもっと後で卒業後か・・・

其れに書かれている字が但野の字ではないと木下巡査が言っている。あの人は間違ったことは言わないだろう・・・わからないなぁ。こうなったら一層上諏訪署へ行った大山刑事に聞いてみようか。それほど手っ取り早いか・・・》





「大山さん、井村です。ご無沙汰しています。過ぎたことですが不思議な出来事が起こっています。」

「なに?」

「大山さんと二人で奈良の北生駒と橿原市へ行ったことあったでしょう。そのとき疑念を持ったままで帰って来て、そのあとまた二人で東京へ行き但野幸夫と言う男に写真を見せ事実確認したことがあったでしょう。」

「覚えているよ。私が考えた策だったってことも。それに巧くかわされたことも。其れで?」

「実はあの時奈良へ行き疑問のままで帰り、つまり山で亡くなった志野村とその連れで自殺をした金城、それに橿原市に実家のある但野、その但野の近くの交番に聞き込みに行ったこと覚えていますね?」


「覚えているよ、当然、頭の切れるおまわりさんだったな」

「そうそう、そうです。其れでそのお巡りさんがここへ電話を掛けてきて言うのには、実は但野が奈良で少し前に財布を失くしたようで、それを拾われた方があの交番に届けらて、それで妙な事実がわかったのです。

但野はお守りを持っていてその中からメモが出てきて、そのメモに志野村と金城の名前が書かれていたのです。」


「そんな事ありうるのじゃないの?だって但野と志野村は山岳会の仲間だから、志野村の友達だった金城の名前が出てきてもおかしくないだろう」

「でもメモされている時期は東京に行ってからではなく、まだ志野村も金城も大阪の大学へ通っていた頃の物なのです。ですから大山さんがあの時電車の中で三人の接点が判らないと思案されていたこと覚えていると思います。」

「と、言うことは、その時点では但野幸夫はまだ高校生かな?」

「そうなりますね。若しくは大学生になったころに」


「それなら井村君、志野村が山岳会へ入会した時期と但野幸夫が山岳会へ入会した時期を調べる必要があるかも知れないね。

まさかだけど但野は志野村を追いかけるようにして東京へ行ったか、それとも多摩山岳同友会に入会したのか、つまりあの時考えたのは但野に志野村を殺す動機があるかだったから、但野が志野村を殺意を持って追いかけたのなら筋書きとして成り立つからね。」

「やはり事故ではなかったのでしょうか?」


「但野が計画した志野村純一の殺害だとしたら

筋道として成り立つね。お守りの中に大事にしまっているなんて、余程の思いがあるからだと思うよ。

其れが志野村であり自殺をした金城とするなら、

井村君、但野に姉さんとか妹とかいなかったかなぁ?そうそう恋人とかも?」

「居ますよ。兄弟の事はわかりませんが彼女なら、財布の中に二人で写った写真が入っていたようですから、其れもお守りの中に」


「まさかその彼女に何かあったのではないだろうか?金城が書き残していただろう。あれだよ!

メモだよ!

金城が両手を押さえて志野村が暴行したのはその彼女とかでは無いだろうか?」

「其れを知り但野は絶対敵を討つ事を神に誓い、お守りに二人の名前を書いた紙を仕舞って実行した。」

「それなら辻褄が合うね」

「でも交番さんが言っているのには、お守りに入っていた志野村らの名前は但野が書いた字体と違っているようですよ。誰が書いたのかわからないって」

「それは但野の彼女か、それとも志野村たちを知る第三の人物だろうな。どっちにしろ但野をしょっ引き尋問することだと思うよ。」

「そうなりますね。」


「井村君、私上司に事情を説明するから、合同で但野を追い詰めようか?上諏訪署と立山署と奈良県警橿原署で」

「ええ、そのようになれば・・・」

「まさかな~但野がな~気の小さい誠実そうな男なのに」




 それから二日が過ぎ、奈良県警橿原警察署交番勤務巡査木下究が但野家に向かっていた。

「幸夫さん、ちょっと申し訳ないですが交番へ同行頂けますか?」

「何でしょうか?」

「この前の件でお聞きしたい事がありまして」

「そうですか、その節はお世話になりました。仰られていたように財布を届けて頂いた方にはきちんとお礼をさせて頂きました。」


「そうですか。良かったですね。」

「それでこれから何を?その話では?」

「取り敢えず交番に」

「はい」

幸夫が交番へ木下巡査の後を追うように付いていくと、背広姿の男が遠慮気味に座っていて、幸夫に軽く頭を下げた。

目が合いそれが誰であるかすぐにわかり、幸夫も慌てて頭を下げ、


「ご無沙汰しておりました。」

「あ~ぁ貴方方でしたか。やっぱり、こんな遠くまで」

「はい。」


一通り言葉を交わし無口になった時、木下巡査が

「但野さんこの方々は長野から態々来られて貴方にお聞きしたいことがあるようです。以前にも一度来られています。その時も志野村純一さんって方が亡くなられた事でお聞きしたいと、今度もその事でお聞きしたいようです。

何分遠くから来られていますので、速やかにご協力お願いしておきます。橿原署としても全面協力させて貰っています。どうかよろしく」

「はい」

「私、長野県警立山署の井村です。それに今は上諏訪署に代わりましたが、こちらはご存知の大山刑事です。お解りですね。」

「はい」

「それで最近財布を落とされ、それでこちらの交番に届けられた様ですが、実は貴方の持ち物にこんなものが入っていたようですね。」

「それは何でしょうか?」

「メモですね。」


「知りません。」

「いえ、間違いなく入っていました。木下巡査が確認しています。」

「どこに?」

「あなたが持っていた橿原神宮のお守りの中に後生大事に畳まれて・・・わかります?」

「・・・」

「覚えてないですか?」

「・・・」


「私たちが気になったことを申し上げます。貴方が持っていたこのメモはよく見てください。志野村純一も金城隼人も大阪の大学へ行っている頃のことを書かれていますね。

貴方は志野村と多摩山岳同友会で知り合いになったのではないのですか?

実はそうではなかったのですね。もっと以前から知り合いであった様ですね、違いますか?それでこのメモの意味を聞かせてください。」

「思い出せません。」


「いや解かっていると思いますよ。後生大事にお守りの中にまで入れていたのだから、滅多にそんなことしないでしょう。態々お守りを開けてまで・・・余程意味があることだと思いますよ。

それともこちらの方ではお守りの中に大事なものを入れる習慣があるのですか?木下巡査はそんなことされますか?」

「いいえそんなことしたことありません。」

「そうでしょう。但野さん、どんな意味があって志野村と金城の名がお守りに入っているのですか?

長野から態々私たちは来ています。きちんと答えて頂けませんか?」

「・・・」

「但野さん、この人たちは遠くから来られて居るのですよ。

貴方にしっかり答えて貰えなかったなら、今は任意同行ですが、場合によっては逮捕状を取ることに成るのですよ。それだけこのメモに意味があると言うことだと私にも判りますよ。どうです?」

「でも警察はこんな事までしてもいいのですか?

プライバシーの侵害ではないのですか?」


「但野さん、貴方がお守りに隠されていたものはメモです。言い換えれば紙切れです。でもあれが小さなポリ袋なら間違いなく覚せい剤です。

そんな話幾らでもあります。言い換えたなら神頼みって言うのか、何よりも大事なものだからそこへ仕舞うのです。

つまり貴方が仕舞っていた物は覚せい剤と同じでとても大切な物の筈です。

それ故に思い出せないと言うことはあり得ないのです。更にこの紙には志野村が大学四回生と書かれています。卒後後は不明と、まだ四年余り前のことですね。覚えているでしょう?」

「・・・」


「それにあなたは好きな人がいますね?大事に写真を持っておられたその方ですね?今でもお付き合いをされていますか?」

「はい、でもそんなことまで」

「ええ、其れでこの方は今どちらに?」

「解りません。でも連絡は付きます。」

「この方のお仕事は?」

「大阪で看護の仕事をしています。」

「あなたとは高校時代からのお知り合いですね?」

「はい。」


「この方にお会いしても構わないですか?」

「・・・」

「どうです?」

「俺がなんと言っても貴方方は勝手にするでしょう?」

「では、明日にでも会ってみます。」

「でもなぜ?」

「あなたが何もかもを話してくださらないから」

「彼女には会わないでください。」

「どうして?」

「それは言えませんが会わないでください。」

「いいですか、但野さん、このメモは一体どのような意味があるのです?其れさえも答えて頂いていないのですよ。


貴方が抜き差しならぬ状態になっていることはお解りでしょう?木下巡査が先ほど言ったでしょう?今は任意同行だとその後のことも」

「解かりましたよ。言います。金城です。金城隼人が書いたのです。そのメモは」

「金城が?またそれはどうして?」

「金城が死ぬ前に書いたのです。罪悪感に耐えかねて」


思わぬことを聞かされて大山は声を荒げて、


「その罪悪感って、女性に乱暴して居たことなのか?」

「そうです。」

「なるほど。其れで金城は死んだと言うのだな。」

「はい。」

「でも何故あんたがそんな物を金城から手に入れた?まさか金城の自殺は本当なのか?あんたが関わって居ないのか?自殺ではなく・・・」

「いえ、自殺だと思います。罪悪なことを繰り返した報いに耐えられなかったと思います。」

「そうか・・・確かに母親が言っていたことと辻褄が合うが。でも何故あんたが金城のメモを持っているのだ?金城が憎んでいた志野村にメモが渡り、それをあんたが受け取った・・・そんなことありえないな。


なぁ但野さん、あんたさっき好きな彼女に会わないでほしいって言っていたよな。つまりその彼女が関係しているのじゃないのか?それで名前教えて貰ってもいいかな?」

「言えません。言いたくないです。」

「やはり彼女が関係しているのか?聞き辛いけど、まさか志野村に彼女が・・・そうじゃないのか?」

「いえ、言いたくありません。」



大山刑事の血相が次第にきつくなってきて鋭い眼光で但野幸夫を睨む様にして

「但野、この女性の名前は?」

「・・・」

「何所で住んでいる?言えないなら徹底的に探して突き止めるからな、

遅かれ早かれすぐに判るから言いなさい。今私が言った事が合っているのか?志野村に彼女が乱暴されたのか?」

「・・・」

「それであんたは許せなかった。違うか?殺したくなった?違うなら言ってくれ!但野!」

「・・・」

「私は無茶を言っているのか?」

「・・・」



但野が黙ってしまったので大山は巡査の木下に、

「木下さん、ご無理聞いて頂けないでしょうか」

「どんなことで?」

「この人の彼女を、そうです。この写真の人を任意で来て貰ってもらえないか検討して頂けませんでしょうか?携帯ですぐに判るでしょう」

「解りました。」

木下は但野を見ながら優しく、


「但野さん状況から言ってあなたは逃げられないですよ。橿原警察も聞いている通り、この方の身元確保しなければならなくなって来ていますよ。

何もかも判りますよ。時間の問題ですよ。それでも何も話さないのですか?」

「解りました。」

「何が?言っている意味が解かってくれたかな?」

「ですから・・・」

「ですから彼女は?どうした?」

「いえ、実は俺・・・・・志野村を崖から突き落としました。あの時咄嗟に」

「ええ、やはり・・・そうだったのか・・・どうして?どんな理由があった?」

「だから俺の口から言えないです。俺が志野村をやったことだけは言いますが」

「そうか。お前が志野村を殺したんだな?」

「ええ」


「ではたった今お前を緊急逮捕するからな。午後一時二十三分、志野村純一殺害容疑で緊急逮捕」


但野幸夫は素早く手錠を掛けられた。


「何故やった?動機は?」

「憎かったから」

「どうして?」

「どうしても」

「其れではわからん。はっきり言えよ」

「やったと言ってるからそれでいいでしょう」

「何故やった?」

「あんな奴生きていればまた誰かが苦しまなければならないと思ったから」

「それはこの写真の娘を言うのだな?」

「違います。この娘はは関係ありません。」


「おまえの彼女だろう?大いに関係あるだろう

違うか?彼女が辛い思いをさせられたからお前は志野村をやったのだろう?」

「違うって、この子は高校の時に一番仲が良かった娘だけど今は疎遠になっているから」

「携帯見るぞ」

「見てくれてもいいよ」

「結構掛かっているじゃないか?名前は幸ちゃんて言うんだな。姓は?」

「滝川幸恵です。」

「やっと言ってくれたな。其れでこの娘が志野村に」

「だから違うって」

「じゃ誰なんだ?」

「だからそれは言えないって、言ったところで奴は罪を償えないから」

「志野村がか?」


「そう。このメモはある女性から渡されたことだけは言っておくから、その人が誰であるかなんか言いたくない。言った所で裏を取ると言って貴方方は間違いなく彼女に嫌なことを思い出させ傷付けるから。俺がやったことは言うけど、それ以上は悪いけど言いたくないな。」

「でも事実は一つだから滝川幸恵さんに任意同行を求めることにするから、それでいいんだな?彼女に関係ない話なら傷つくこともないからな」

「・・・」

 

そうこうしている間に交番の前にパトカーが一台滑り込むようにやって来て、警察官が二人降りても来ず待機している。

その様子を見ていた木下巡査が表に出て

「ご苦労様です。」と頭を下げると長野県警の二人の刑事が立ち上がり幸夫に向かって、

「但野、何も話したくないなら本署へ行こう。これから我々は橿原警察にお願いして滝川幸子の身柄を確保するから」


 幸夫はその後無口を貫き、橿原警察署の留置所に入れられ、予期していなかった流れに憮然とし戸惑っていた。


 幸子のことを口にしなかったのは、それは裏切るようなものであると思えていたからであった。

 詰問されたからとて、軽はずみに何もかもを口にすることは、あの時と同じに思えたからである。


あの時とは、それはまさに幸子が尼寺で二人の男に乱暴されている姿を見ていた時である。

幸夫はあの時どれだけ無責任であったか、どれだけ情けない判断をしたか、どれだけ惨めであったかあの出来事が今なお幸夫の心の中で育んでいる。  


 だから今刑事たちに幸子のことを、自分の口で話すことなど出来なかった。あの時何も出来ず逃げた臆病な前科者として。

 幸子の詳細は幸夫の携帯によって判ることとなり、夕方になって仕事がはけた時橿原警察に出頭していた。



「滝川幸恵さんだね?」

「はい」


「今日はね、午後但野幸夫さんに逮捕状が出て今被疑者は留置場で拘留されているから」

「幸夫さんがですか?」

「そう、驚かないで・・・但野はね、志野村純一を殺害した事を自供したよ。あなたは志野村純一を知っているかな?」

「殺害?幸夫さんが・・・うそでしょう?」

「いや事実だから。自供したから間違いない。」

「そうですか・・・幸夫さんが・・・」

幸子の目から涙が一滴流れ出た。


「驚いただろうなぁ・・・でも事実は事実だから

其れであなたは志野村純一を知っているね?」

「志野村純一?あぁわかります。幸夫さんと山へ行って亡くなった人です。新聞で見て知りましたが

確かその人だったと思います。」

「もっと以前から知っていませんでしたか?」

「以前?・・・いえ」

「滝川さんとっても言い辛いけど、聞かなければならないから・・・あなた志野村純一に乱暴されませんでしたか?」

「いえ、されません。」

「本当に?」

「ええ本当です。」

「おかしいなぁ、但野は好きなあなたが乱暴され、其れで仕返しに志野村を殺したのと違うのかな?」

「知りません」

「そうかな・・・あなた方は口裏を合わせたように同じことを言うな。まるで他に誰かが居るように思わせるな。それじゃ金城って知っているかな?金城隼人って男を?」

「知りません。」

「それじゃ但野とあなたの関係はどうなの?恋人同士?」

「いえ、高校の時は随分仲が良かったけど大学へ行ってからは離れたからそれほどでも」

「では今はそんなには思っていないってこと?」

「ええ、でも嫌いじゃないからときどき電話をしたり掛かって来たり」

「正直に答えて、そうは言っても二人は男女の関係なんだろう?そうでないと但野は人を殺したりしないと思うよ。」


「でも私にはわかりません。それに彼とは男女の関係ではありません。」

「それなら但野は他に大事な人がいると言うことかな?」

「それは私にはわかりません。東京でそんな人に出会ったかも知れませんが」

「男女の関係じゃないんだね?」

「ええ」

「本当だね?」


 二人の刑事は当てが外れたように見合して、

「それじゃ帰ってくれていいから、送らせてもらうから」

「いえ結構です。近くで用事がありますから」

あっけなく幸子は解きほぐされ橿原警察を後にした。

そして歩きながら心の中で走馬灯の様にあの日のことを思い出していた。


 あの日、但野幸夫と滝川幸子は和歌山の海を眺めて涙を一杯にして誓い合っていたことを。

丁度二人が二十一歳になった時、幸夫が夏休みで東京から帰ってきて二人で和歌山の海へ行った時の事であった。

 それは言うならば懺悔に値する二人の旅であった。奈良の畝傍駅から電車で和歌山へ行き、特急黒潮に乗って白浜に着き、タクシーで海に出て誰も居ない砂浜を選んで、話し合ったことを思い出していた。


「幸夫さん有難うって言ったらいいの?」

「何を?」

「だって私黙っていていいの?貴方の気持ちを思うと十分理解できるの。だから有難うって言いたいの。解かるでしょう?私も苦しいの・・・辛くて辛くて耐えられないの、怖くて・・・」

「そうだろうな俺だって同じだから。とうとう話し合わなければならない日が来たね。お互い黙っているのも辛いね。幸ちゃんに余計な心配かけてしまって・・・」

「そうね、でも幸夫さんこそ大変だから」

「俺なぁ、びっくりしないでね。はっきり言うよ。


あいつ崖から突き落として、すっとしたから。正直に言うと、


それであいつ百メートルほどの下に落ちて、大きな石にくの字になって纏わりつくように倒れていて

その姿を見乍ら幸ちゃんの事思っていた。


これで幸ちゃんは綺麗な心を取り戻して、それに綺麗な体になって・・・そんな風に思った。当然俺も心に引っ掛かっていたものが、あの瞬間に全部消えてどれだけ心が晴れて行ったか見事だったよ。


だから俺全く後悔などしていないから。悪いとも思っていないから。

あの時思っていたけど、どんな事情があってもあの男は絶対許せなかった。

それは幸ちゃんに対する愛情であると思ったし、其れとあの時尼寺で幸ちゃんの何の力にも成ってあげられなかった、不甲斐無さや臆病で卑怯であったことに対する詫びだと思った。


 だから俺は微塵も後悔などしていないから。」

「初めてね。幸夫さんがあなたの口ではっきり言ったのは。私はそんなことだと思っていたわ。だからあなたが志野村を死なせたことが正直うれしかったわ。


でもそれは貴方を失うことになりはしないかと、あれから毎日思わぬ悩みが私を包んでいたわ。申し訳ないといつも思えてきて辛くて辛くて、

 

其れで東田先生にも相談したら、でも先生もそんなことに拘わるといけないと思ったらしく、静観することにしたの。教え子がもし殺人を起こしているとなると先生も私もつらいから。あなたの気持ちを尊重したっていうか・・・」


「先生もわかっていると思うよ。あれだけ新聞に載ってテレビでもやっていたようだから。でもこれで良かったと今でも思っている。

幸ちゃんを失うことになるけど、でも俺たちの愛は最高だったと思っている。誰にも負けないと俺は思う。」


「失うってそんな事言わないで」

「でも現実はそうだから。俺、人を殺したんだから

そうだろう?今までの俺とは違うから。でもそれでいいと思っているから。」

「・・・」

「これで幸ちゃんとお別れに成るけど、それでいいから。俺たちの恋は今日ピリオドを打って違う道を進もう。

俺は何れ警察に捕まるかも知れないし、敵を取ったからって許されるわけがないだろう。赤穂浪士じゃあるまいし、彼らだってお家断絶になり、みんな切腹しているじゃない。

俺もケジメをつけないとな。」


「幸夫さん今日はこんなことを言いたくてここまで来たの?」

「今日と決めていなかったけど、でもいつかは言わないといけないと思っていた。二度とあの時のようなことしたくなかったから。卑怯で男らしくないことを・・・」

「でも私は・・・そんな幸夫さんに付いて行っては駄目なの?」

「幸ちゃん俺達二人が一緒になっても、いつ警察が来て俺が逮捕されるかも知れないんだよ。子供が出来ていたなら、その子はその日から父親の居ない子に成るんだよ。周りの人から差別されることは言うまでもないよ。罪人の子って。

だから別々の道を歩もうよ。こんな事言うの俺辛いけど、悔しくて悔しくて堪らないけど、でも法律があるから。解ってほしいな。」


「いやだ~いやだ~こんな話になるなんて、せっかく楽しみにしてきたのに…この服も今日の為に買ったのに・・・幸夫さんお願い、あの日に戻れないの?」

「あの日って?」

「高校生のあの時、アルバイトをして仕事納の日に」

「それって?」

「だから幸夫さんが震えながら私に行こうって言ったでしょう。行かなかったけど、でも公園で二人ともその気になっていたでしょう?わかった?思い出してくれた?」

「それはやめておこうよ。」

「どうして?」


「俺たち今日で別れるほどいいから、そんなことしたらまた別れられなくなるから。また今までと同じ思いの毎日に成るから」

「・・・」

「幸ちゃんこの頃刑事来なくなったけど正直参っているんだ。あの事は後悔はしていないけど、でも警察は、それに世間は許してくれないから、どんな理由があっても、だから解かってほしいんだ。」

「私はどうすればいいの?」

「これからもうあまり会わないほどいいと思うな。それに電話も、もし俺は捕まって幸ちゃんのことを口にしなければならなくなったら、また幸ちゃん苦しまなければならないだろう。

だから俺仮に捕まっても幸ちゃんのこと言わないから。言わなければならない時は、高校の時に仲が良かったって事だけにするから、大学へ行ってからは離れていて疎遠になっていると言うから。

其れで東京で知り合った女性が居ると言ってもいいと思う。

だから幸ちゃんは志野村はわかっても、金城のことは知らないって事に成るんだよ。

橿原神宮で金城に会ったことも、あのメモも一切知らないってことに。当然尼寺であったことも無かったことに成るんだよ。それが幸ちゃんにとって一番だから。だから解かって」


幸子は大粒の涙をポタポタと砂に落として黙って幸夫の言うことを聞いていた。

辛かったが、それが最良の道かも知れないと思って来て、でもそれは辛いだけの道であった。だから何一つ口に出来ず涙だけが止め処もなく頬を伝っていた。


 幸子は過ぎし日に幸夫と和歌山の白浜へ行き

そんな切ない話をしたことを思い出していた。




 幸夫は橿原警察署に拘留されたのち翌日長野県警立山署に移送され、その二日後検察庁長野地方検察局に身柄を拘留され、十日間に渡り取り調べが続けられたが、この間に幸夫は志野村純一を殺害した動機に関して黙秘を貫いた。

更に十日間拘留延長が認められ、それでも殺害の詳細は口にすることはなかった。

金城が書いたメモも結局幸夫は入手経路を口にすることはなかった。


 しかし幸夫は志野村純一殺害を認め、起訴され一か月後初公判を迎えることとなった。


「被告は前へ出なさい。

 被告は志野村純一氏当時二十四歳を、長野県立山の中腹において、登山道の尾根の崖から、ライチョウを双眼鏡で見ていた同行の同人を、足で蹴飛ばし、百メートル下まで滑落させ死亡させた事象について審議します。」


 幸夫はこの裁判に於いて頑固として守るべきものを考えていた。それは言うまでもなく幸子のことであった。絶対幸子を表舞台に出ないように言葉を選ぶことであり、それは時には黙秘を貫き、時には架空の被害女性を口にすることであった。

 裁判長も検察側も幸夫が幸子を庇っていると思いながらも、それを裏付ける物的証拠も状況証拠などまるでなく地団駄を踏んでいた。

ただ殺人を認めていることだけは確かであったことから、粛々と公判は進んで行った。


 第二回公判になり第三回公判になっても一向に幸夫は口を閉ざして頑なであった。

「被告人前へ出なさい。あなたはこれまで殆どを黙秘で通され余程何方かを庇っているものだと推察いたします。

 それはやはり初公判で冒頭に言われた何方かを庇っておられるから、その様な態度を貫かれるのですね?」

「はい、私が何を言ってもその方には決してプラスにはならないからです。

嫌な思いをさせられて傷つき、忘れようとしていることが、また昨日の事の様に思い出さなければ成らないからです。そして無責任にあらぬ形で流布されることもありうるからです。」


「しかし被告人、あなたはこれまで潔く刑を受ける積りで、裁判に携わってこられたと思いますが、あなたが庇っている方に弁護していただければ、少しは減刑に成る事も考えられますが・・・」

「いえ結構です。志野村は女性の敵です。被害を受けた女性は私と同じことを思うでしょう。二度と顔を見たくないと、出来ればこの世から葬って貰いたいと。決して頼まれたわけではありませんが・・・

だから私は自分のしたことに誇りさえ感じるのです。好きな人の為にしたことです。後悔などありません。」


「被告にお聞きします。次回は求刑で、その次は最終弁論でその次は判決となります。

 次回までにもう一度よく考えて下さい。どなたかを庇うのも構いませんが、ご自分をもっと大事にされる事も大切ではないのでしょうか。

被害者の方の被害事実の確認をされれば、減刑は間違いないでしょう。

おそらく貴方が庇っている方が、この法廷に来られて居るなら、その方も辛いでしょうね。

諄いですがもう一度よく考えてください。


では次回の第四回公判【求刑】は六月一日に致します。」


 幸夫は裁判が終わり拘置所に護送されながら心の中は清々しく逞しくもあった。

それは幸子に対する果てしない恋心であり、懺悔でもあったが、何より過去に幸子を見捨ててしまった事に対するお詫びであった。           

「どんな刑が下されても微塵とも悔いはなく、俺は幸ちゃんを愛し続けるだろう。例え獄舎の中であっても」

鉄格子付きのバスの中から見る景色であったが、初夏の風は幸夫の心を癒していた。



 六月一日、 然程変わりなく幸夫の心は鉄の如く頑なで悠然として求刑の時を迎えた。


【求刑】

被告但野幸夫は、被害者志野村純一に恋人が強姦されたことで、敵を取るために被害者の後を東京まで追い、山岳同友会に所属した被害者を更に後を追い、平成二十二年五月二十一日、長野県立山の登山道の尾根において、登山のついでにライチョウの見学をしていた同行の被害者の後ろから背中を足で突き、被害者を崖から百メートル下まで突き落とし即死させた。

 よってこの犯行は紛れもなく計画性が明らかで、猶予するに値するものなど一切ない。


 尚好きな人が辱められた被告の気持ちを思うと、被告の屈辱は理解出来るとしても、敵を討つなどもっての他で、法治国家の心髄を狂わす考えに過ぎないのである。よって被告を殺人罪で懲役九年を求刑する。


 

傍聴席の隅で帽子とサングラスをして、求刑を聞いていた幸子は、背中から汗が激しく流れる思いで耐えていた。

九年もの間、幸夫は刑務所で暮らさなければならない現実を受け入れられ無かった。

 居ても立っても居られなくなった幸子は、裁判所を後にして一目散に家に帰り、机の引き出しから一枚のメモ用紙を手にして殺気立つように目を光らせていた。

 そのメモ用紙は金城隼人が書いたもので、いつの日か橿原神宮前駅の改札口を出た所で金城から受け取っていたものであった。

コピーをして幸夫に渡したものと同じで、幸子もまた大事に直していた。


「これで何とかしないと・・・幸夫さんはあの調子では誰が何と言おうと頑として動かない。心を変える事などありえない。少しでも刑を軽くなど全く考えていない。私を守る為に潔く刑に服する積りのようだ。急がないと! あぁ時間がない!」

 焦る思いで幸子は翌日も病院を休み、北生駒の金城の家を藁をもすがる思いで訪ねていた。


「私が貴方の息子さんと信州で亡くなった志野村純一に乱暴された女です。」

「えっまさかあなたが?」

「はい、とてもつらい思いをしました。」


その言葉を聞いて金城の母加奈は、玄関の土間に飛び降りるようにして素早く降り、正座をして三つ指をついて頭を地面まで下げた、


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」と繰り返して頭をさらに下げておでこは地面をこすっていた。

「お母さん、私隼人さんから何もかも聞いていますから、そんなに謝らなくってもいいのですよ。隼人さんが橿原まで来られて随分苦しんでおられました。志野村に虐められていると言っていました。

それに私に被害届を出して欲しいとも言っていました。

二人とも早く逮捕され志野村から解放されたかったようです。この様に住所も名前も聞きました。

ですからもういいのです。志野村も死んでしまったから。お母さん頭をあげて下さい。お母さん」


「でも息子は志野村に虐められていたとしても、あなたのそのか細い手を羽交い絞めにして・・・なんてことを・・・何と言ってお詫びしてよいのか」

「お母さんはそんなことまで知っているのですか?私を羽交い絞めにしたことまで」

「ええ、あの子は死ぬ前にメモを残しているのです。

このことは長野の警察にも言って在りますが、刑事さんはそれは聞かなかったことにしておきますと言ってくださり、でも大事にしまってあります。」

「どうして聞かなかったことにしたのでしょうか?」

「ええ、それを警察に証拠に出せば、被害者が被害届をもし出されたなら、息子さんを亡くされた上に、道義的に賠償となるのですよと言われました。」

「そうでしたか・・・それでそのメモとか見せて頂けること出来るでしょうか?」

「はい、見てください。お辛いのにごめんなさい。」

「ええ、とても辛いです。でも私なんかより幸夫さんが・・・」


「幸夫さんと申しますと?」

「志野村を」

「志野村を崖から突き落とした方ですか?」

「はい」

「でも私もあのニュースを聞いて随分気が楽に成ったのです。正直嬉しかった。九年も虐められていたあの子が、親バカかも知れませんが可哀想で。すぐに持ってきます。とにかくお上がりください。」


 メモはすぐに幸子の手で開かれ、あの時のことが鮮明に蘇っていた。真っ赤に目を染めて泪が一筋頬を伝っていた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。」

「お母さん、息子さん辛かったと思いますよ。長野の刑事さんも聞かなかった事にしますと言った意味良くわかります。息子さんは被害者です。私と同じ」

「有難うございます。そんなに言っていただけるなんて罰が当たります。」


「お母さん、お願いがあります。志野村を殺し今現在拘留されている但野幸夫さんを私は愛しています。彼は私のために敵を討ってくださったことはお解りだと思います。

でも彼は私と縁を切って刑を受けようとしています。何故なら人を殺したからそんな者と将来などありえないと考えています。

それは捕まる前から言われています。でも私としては彼に付いていきたいです。愛しているから、私のために彼は志野村を死なせたことは間違いないのです。


おかあさん、今度七月十一日は最終弁論です。その次は判決しかありません。時間がありません

このメモはこの事件の根幹に当たる筈です。志野村純一と金城隼人が居なかったならこの事件はおこらなかったのです。



最終弁論の日に証人としてこのメモを朗読して貰えないでしょうか?幸夫さんに叱られるかも知れませんが、少なくとも刑は少しは減刑されると思います。裁判長が彼にそのように促しているにも拘わらず、彼は私が辛い思いをしない様にと頑固に黙秘されています。」

「あなたを庇う為にですね?」

「そうです。」

「でもこのメモを裁判で話せば、貴方はとても辛い思いをしなければならないのではありませんか?」

「かまいません。大丈夫です。」

「愛しているのですね。」


「ええ、こんな事になって本当に辛いのに、今までよりずっと好きになっています。好きで好きでたまらないくらいに・・・助けて下さい。お母さん!」


幸子はそう言って涙をポタポタと畳に落として母の手を握った。




 最終弁論の日は容赦なくやって来て、幸子は満願の思いでその日を迎えていた。

 金城の母親加奈と万全に打ち合わせをして裁判所へ向かった。

 実は幸夫に、幸子も金城の母も法廷に証人として立つことは言っていなかった。言っていたなら幸夫は反対する事は間違いなく、余計なことに感じるかも知れないと幸子は捉えていた。

それだけ幸夫の頑なな気持ちは不変で、幸子は裁判長の言葉に甘んじて検察側の証人として申請していたのであった。


 幸夫はそんなこと知らない。覚悟を決めて求刑の九年を重んじ、悠然とその罰に服する積りであり、その間に幸子が他の誰かと結婚したとしても、それでいいと思っていたし、そう在ってほしいとも思っていた。


【最終弁論】

「検察側の証人の弁論を許します。一人目の証人どうぞ」

「嘘偽りがないことを誓います。

わたくし金城加奈と申します。この度の裁判において、被告の但野幸夫さんは最愛の滝川幸恵さんを庇い、相当無理をされていることを知りました。

それはあまりにも但野さんが幸枝さんを愛しているからだと思われます。だからどんなに強い雨が降ってもこの二人なら必ずしっかり地は固めるように思われます。」


 幸夫は目を見開いて驚きの表情を隠せなかった。何が起こっているのかさえ解からなかった。

金城加奈はさらに続けた。

「そもそもこの事件は私のむすこ金城隼人と同郷でしかも同級生の志野村純一とによって起こした強姦事件が発端でした。


 その強姦事件の被害者が被告の但野さんの恋人だったのです。誰だってそんな目に遭わされれば堪りません。

 私の子隼人は加害者です。でもそんな悪い事を強要させられていたことがわかりました。 

 それは志野村純一にです。九年間にも渡り息子は志野村に支配されていたと言うか、虐めに遭っていたことが判りました。そして息子は何もかもに耐えきれず二十一歳で自ら命を絶ちました。


 息子は亡くなる前に橿原市へ行って被害を遭わせた方にお詫びをし、そして警察へ被害届を出して下さいと言っていたようです。早く捕まりたかったから。

でも自首でもして自分が先に捕まれば、間違いなく志野村の事を白状することになり、志野村がそれを知ったなら、刑を終えた後殺されるかも知れないと思ったようです。

 息子は死を選ぶ前にノートにメモを残しています。

このメモはとてもリアルで被害者の方にとって、どれだけ辛いものか計り知れませんが、実は今日こうしているのも被害者の方からお願いされたからです。


 それは何故かと申しますと、やはり被害者の方が幸夫さんの事が大好きで、彼が頑なにこの事実が公に成る事を拒んでいる現状を危惧し、恥を忍んでも共に愛する人と戦いたいからだと思います。

被害者の方にとって私は憎き加害者の母です。

そんな私の家まで来られて、涙を流され「助けてください」と頭を下げられました。


 

これは息子が書き残したメモです。辛いですが被害者の方に読んで下さいとあえて頼まれています。


読みます。


俺はただ女の子の手を縛るように持たされ、口も押えるように命令され、俺は怖くなって来て目を逸らしたり瞑ったりしていた。

志野村は片手にナイフを持ち、ちらつかせて女の子にまたがっていた。

それからあの時と同じように女の子に被さり志野村は腰を動かせていた。俺の手に女の子の嫌がり抵抗する力が伝わってきて、その口からは涎と共に涙が混じって、俺の手の平の中で苦しんでいる。もし今手を放せば震えながら激怒して大声を張り上げ俺を睨むだろう。

俺の両手に女の子の堪らない思いが伝わって来て俺さえも同じように涙が出て来ている。


 志野村の激しく躍動していた身体が止まった時女の子は何とも言えない悔しさと虚脱感で朦朧としている。

志野村はまるで獲物を獲った様に仁王立ちして下着とズボンをまくり上げ俺に目で合図をする。

「次はお前がやれ」と言わんばかりに


俺はそんなことはできない。したくもない。早くこの場から立ち去りたい。この男から逃げられないのか、いつまでも俺はこの男に支配されて生きて行かなければならないのか。

泣くことも忘れた女の子を残して俺たちは去った・・・


 



息子が残して逝ったメモはこれだけと思っていましたが、その後で更に最も大事と思われるメモを見つけることに成りました。

 

それは息子は意識的に大学を留年して志野村さんと距離を作っていたようでしたが、お正月に彼が帰って来て息子を呼び出し、以前と同じような関係を要求されたようです。


それで息子は、折角大学を留年して志野村から逃れていたのに、また引きずり込まれる様にされそうになり、耐えられなかったようです。


 おそらく息子は逃げ出すことも警察へ行くことも許されなかったと思います。よくリンチされ殺される若者が居るのはまさにこの様な状態だと思います。息子も遠くない時期にそんな日が来ていたかも知れません。結局あの子は悩んだ挙句自殺を決意したと思います。


 とてもつらいです。  これで終わります。」


「検察官、二人目の証人の方を」 

「はい」


幸夫は頭の中が狼狽していて、訳の分からぬ汗が出ていることを感じていた。


「証人、弁論を述べてください。」

「滝川幸恵と申します。嘘偽りのないことを誓います。

 

被告の幸夫さんはこんな形に成る事を一生懸命に避けてくれていました。

私が志野村純一に酷い目に遭わされたことを隠し続けてくれていました。それが為に拘留されていた間も黙秘を貫き、頑なに心を閉ざして今に至っていると思います。


それは言い換えれば彼の罪がなんら酌量されることなく減刑に至ることはないのです。

でも私としてはそれは耐えられなかった。何故なら彼は私の為にしたことだから、それと愛してるから、私は彼を誰よりも愛しているから。


 だから今証言して下さった金城さんのお母さんにも辛かったと思いますがお願いしました。

加害者の母と被害者の私だったかも知れませんが、一刻の猶予もなく今日に至りました。

先ほどお母さんが証言されたように、私はとても辛い経験をしました。


 でも被告の幸夫さんとは愛し合う仲でありますが、今持ってその様な事は、つまり男女の様な関係は御座いません。

つまり私に起こったことは、男の幸夫さんにすればどれだけの屈辱か計り知れません。当然私も幸夫さんに申し訳ないと思います。


 幸夫さんとは高校三年のころは、毎日まるで夫婦の様に会って、色々な話をしたりふざけあったりそれは人知れぬ二人だけの桃源郷のような世界でした。どれだけ充実していたか、どれだけ幸せだったか計り知れません。


 私たち二十一歳になったころ、二人で和歌山の海に行き、初めて志野村の話をしました。その時彼の口から志野村を死なせてしまったことを聞きました。信州の立山に登って崖からライチョウを見つめる志野村を、咄嗟に突き落としてしまったと言っていました。

潜在意識の中にその様に考えていたかも知れませんが、その時は検事さんの言うように計画された犯行ではなかったことは聞いています。


 それでも彼は崖から落ちて百メートルほど下の石に纏わりついて死んでいた志野村を見て、

これで幸ちゃんの心も体も綺麗になったと、更に彼自身の心も綺麗になったと思ったと言っていました。私はまさにその言葉が何より私たちの心境として、相応しい言葉であるか身に沁みて解りました。


彼は私に最後に言ったのは、

幸ちゃん俺東京で好きな子が出来たことにして、幸ちゃんとは高校の時に好きだっただけの事にしようと言われました。その後疎遠になっていると。それは私にあの忌まわしい出来事が無かった事にしようと言う事でした。


 前回の公判で検事さんが彼に九年の刑を求められましたが、あの後裁判長が被告の彼におっしゃられましたね。人を庇うのも良いけど自分を大事にすることも大切ですよって。


 でも私は彼がどのような刑に成ったとしても付いて行きます。愛しているから。大好きだから。

彼がどれだけ心無い流布に曝されても私は彼を信じて付いていきます。


愛しているから。


好きで好きでたまらないから





【判決】


被告人但野幸夫さん、前へ出なさい。

判決を言い渡します。


主文 被告人を懲役四年六ヶ月に処す。




裁判長の私から被告に一言言っておきます。

前回の最終弁論の後、証人の滝川幸子さんから、証拠品としてこれを預かっています。


あーぁ遠くてわからないですね。


持って行きます。


たった一枚のペラペラの紙ですが、

お解りですね。婚姻届けです。

良かったですね。


私が思うに、


あなた方はよく見れば、共にお名前にしあわせと言う【幸】と言う字を、両親から頂いているではありませんか、そんな貴方方が幸せにならなくてどうするのです。


そう思われませんか?


被告人、被告人、幸夫さん、

泣いてばかりいないで何とか言ってあげなさいよ、


新婦が困っていますよ。

貴方だけが頼りだから・・・


こんな時こそ貴方が

新婦を庇ってあげなきゃ

その様に思われませんか?

                         


     了

             

この物語はフィクションであり

実在のものとは一切関係ありません。



題名 幸とさちとゆき

作者 神邑 凌

お疲れさまでした。

他にもこんな作品があります。


「あなたを殺したい」「葛城山 など数十点あります。

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