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第一話 ジャメヴ

ある朝目覚めた村井は、奇妙な感覚におそわれた。不安にかられ、訪れた病院で……

 デジャヴ(既視感)というのは誰でも時々は体験するらしい。村井も以前経験したことがある。つまり、初めて見る景色のはずなのに、以前に確かに見た気がする、というやつだ。だが、今、村井が感じているのはまったく逆の感覚であった。

 朝、いつものように起きて顔を洗い、じっくり鏡を見た。そこに映っているのは、まぎれもなく村井の顔だ。しかし、何かが変なのである。どこがどうとは言えないのだが、違和感がある。

「あなた、どうしたの。ボーッとしちゃって」

 振り返って妻の顔を見たとき、さらに違和感が強くなった。

「何なのよ。知らない人を見るみたいな顔をして」

「あ、いや、何でもない。おはよう」

 なんとかごまかしたが、そのままリビングに行こうとして、妻に注意された。

「あなた、そっちは玄関よ。寝ぼけてると危ないわ。もう一回顔を洗ったら」

「ああ」

 村井はもう一度顔を洗い、再び鏡を見た。見慣れた自分の顔だ。妻の顔だっていつもと変わらない、と思う。だが、違和感は高まるばかりだ。どうしたのだろう。考えながら歩いていると、玄関に出てしまった。

 リビングに戻りながら、住み慣れたはずの我が家が、まるで他人の家のように感じられてきた。

「早く朝食を食べてちょうだい。わたしも今日はPTAの集まりがあるから、時間がないのよ」

「うん」

 村井はバタバタと身支度をしている妻に急かされて、とりあえずトーストにジャムを塗って食べた。味はいつもと変わらないようだ。食べ終わるとすぐに家を出た。

 いつものように駅に向かおうとして、ハタと困った。

 駅は家を出て右に曲がるはずなのだが、なんだか反対のような気がするのだ。だが、試しに反対側に行ってみると、やはり行き止まりだった。元々方向音痴ではあるが、通い慣れた道を間違えるとはどうかしている。どうにか駅に着いたが、違和感はますます強くなってきた。自分が間違った場所にいるような気がして仕方ないのだ。

 その時、駅の横にある、心療内科という看板が目に入った。村井はすぐに決心し、会社に電話をして少し遅れると伝え、その病院に向かった。

 早い時間なので、どうかなとは思ったが、幸いもう開いていた。

「どうされました」

 おだやかそうな若い医師に、村井は自分の状態を説明した。

「ほう、ジャメヴですか」

「え、デジャヴじゃありませんよ」

「いえいえ、ジャメヴとういうのはデジャヴの逆です。日本語では未視感みしかんと言いますが」

「未視感?」

「ええ。いつも見慣れているものを、まるで初めて見るように感じることです」

「そうです。まさにそれだ」

「まあ、ストレスが原因でしょうが、一応、体に異常がないかてみましょう」

 聴診器を村井の胸に当てた医師は、息を呑んだ。

「ほう、珍しい」

「え、何がですか」

「あ、失礼しました。あなたは心臓が右側にあるんですね」

「え、え、そんな馬鹿な」

 村井は急いで確かめてみた。別に異常はないようだ。

「おどかさないでくださいよ。ちゃんと左にあるじゃないですか」

 医師はさらに驚いた顔になった。

「すみません。右手を上げてみてください」

「はあ、いいですけど」

 村井自身、手を上げて初めておかしいことに気付いた。

 右手を上げようとしたつもりなのに、左手が上がっている。

「ど、どうなってるんですか、わたしの体は」

「ちょっと待ってください。これは単なる心の病気ではないようです」

「じゃあ、何なんですか」

「ぼくの知り合いに、こういうことの専門家がいますので、ちょっと待ってください」

 そういうと医師は部屋を出て、誰かに電話をかけた。

「はい、そうです。ええ、駅前の。え、近くにいらっしゃるんですか」

 医師が電話を切ると、すぐに誰かが入って来たようだ。

「昨夜、研究所の空間異常探知機が警報を出してのう、この近辺を調べておったんじゃ」

 そう話しながら診察室に入って来たのは、白衣を着た白髪の老人だった。

 医師は村井を老人に紹介した。

「古井戸博士、こちらの患者さんです」

 老人はニッコリ笑って村井を見た。

「心配はいらん。別にあやしい者ではないよ。あんたに聞きたいことがあるんじゃが、昨日の夜九時頃、どこにおったかね」

「はあ、ええと、その時間には会社から帰る途中だと思いますが」

「ふむ。会社から家に着くまでに、何か変わったことはなかったかね」

「別に、あ、いえ、そういえば、駅を出て歩いている途中、マンホールのフタが開いていて中に落ちました。でも、手を伸ばせば穴のふちに届くぐらいの深さだったので、すぐに自力で出ましたけど。記憶にはありませんが、あの時、頭でも打ったんでしょうか」

「いや、頭を打ったわけではないじゃろう。あんた、メビウスの輪というのを知っとるかね」

「えっ。ああ、確か学校で作りました。紙テープを一回じって輪にするんでしたね。それが何か」

「メビウスの輪というのは、一般的には表と裏がつながった不思議な輪として認識されておるが、実はもう一つ、大事な性質があるんじゃ。例えば、文字などを表面に沿ってグルリと元の場所まで動かすと、左右が反転してしまう。もちろん、それを表面から離して三次元空間の中で回転させると元に戻せるがね。但し、今のは二次元の話だから、二次元の中で元に戻すには、もう一度表面に沿って回すしかない」

「あのう、さっぱり意味がわからないんですが」

「ああ、すまんすまん。わかりやすく言うと、あんたは捻じれた空間に落ちたんじゃ。そのため、肉体の左右が反転してしまった。これを戻すには、もう一回その空間に落ちればいい、ということじゃ」

 博士の言うことは半分ぐらいしかわからなかったが、それで元に戻れるなら、何でもやろうと村井は思った。

 医師も含めて三人で、昨日村井が落ちたマンホールへ行った。昨夜這い上がった後、村井がフタを閉めたので、他に被害者はいないはずだ。何か機械のようなもので中を調べていた博士がうなずいた。

「やはりそうじゃ。この下の空間に捻じれがある。じゃが、だいぶ弱まってきているようじゃから、急いだ方がいいじゃろう」

「わかりました」

 村井は覚悟を決め、思い切って穴に飛び込んだ。

 昨日はいきなりだったので気付かなかったが、確かに体が捻じれるような、変な感覚がある。特に具合が悪くなることもなく着地し、すぐにい上がった。

 だが、上には誰の姿もなかった。

「あれっ、博士、先生、どこですか」

 すると、村井の背後から博士の声が聞こえた。

「うーむ、今度は前後が入れ替わったか。よし、もう一回」

 博士の横にいたらしい医師が、あわてて止めに入った。

「いいんです、いいんです、博士、これで合ってます。村井さんは、反対側を向いてるだけですよ」

「はあ、そうじゃったか」

 村井が振り返ると、博士が照れくさそうに笑っていた。

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