とりとめのないこと
私は、瀬原勝が里見景輔に言い寄られているのをながめていた。そのそばで、美架が不思議な笑みを浮かべていた。
私は何もする気が起きなかった。昨日あまり寝てなかったのが原因だ。腹の奥で、何かがいまだにこびりついている感触がある。どうしよう。あまり食べ物を咀嚼してなかったせいだ。
しばらくして、勝が出ていった。景輔が、ちょっとおかしな動きで勝を追いかける。
二人がすっかり姿を消した後で――
「奴ら、何か関係でもあるのかな」
大貴が、彼の出ていった扉を指さしていった。
「景輔はあんなに勝のことが好きなのか? もう何回もこんな風景を観てるんだが……」
もしこの時の私が普通の調子だったら、くすくす笑っていただろう。
だが、眠気のせいで、そんなことに気をそそられる時ではなかった。笑ったにしても、こういう状況に限って十島美架が真剣そうにつっこみを入れるので、面食らった気持ちになってしまう。
「そんなわけないでしょう。ありさはただ、誰かに構ってほしいなのですよ」
彼女は床の上に立ちながら、腕を組んでいる。大人びていて、澄んだ色の目の持ち主だ。その姿には流線型のなよやかな少女らしさとともに、武骨さがある。元からその手の武術で身を鍛えていることもあり、常に美架のまわりにはそういう雰囲気が漂っている。
「彼女がそんな理由で誰かを追っかけ回すとは意えませんからね」
もっとも大貴も、美架の持っているこの雄々しさにおいては引けを取らない。
「でも、ありさは李駿をまるで……特別な奴みたいに追っかけてるじゃないか」
くだけた態度ではあるが、ある程度の『気配』を感じる。近づくものを、決して油断させない何かを持っている。この手の人間が必ず持っている性質の一つを。
だが、美架のそれは、明らかに大貴を上回っているかのよう。
「違う。そのような意味ではありません」
美架は苦笑した。だが、私にはそれが神秘的な、あるいは非人間的なものさえ感じていた。美架は他者との間に決して溶け込もうとはしない。そこになじむが、決して同化などしない。
確か……大貴と美架は過去に何回か対戦したことがあったと聞く。だが、大貴がいかに闘っても、美架には一向に歯が立たなかったという。
不思議だ……。美架にそういった荒々しさがあるわけではない。元から乱暴な気配など少しも感じない。いや、美架はそんなものを超越している。人ではないような感覚が、彼女にはある。ずっと視続けていると、その『人ならざるもの』に飲みこまれるような気さえした。
美架は、常人とは明らかに違う――そう考えながら、今机の上に倒れこんでいる私。
さて。もし、今ここで美架と大貴が正面切って闘ったらどうなるんだろう?
「ねえ、大貴」
私が頭を上に挙げようとした時、響く小雪の声。
「あの二人を探しに行ってもいい? もうすぐチャイム鳴るだろうから。今すぐ呼び留めないと」
先ほどの空想は、もう霧消していた。
青山小雪は小顔で、臆病そうな女の子だ。私は彼女の笑顔をほとんど見たことがない。むしろ、不安でおびえているような表情ならたくさん見ているが。
「俺も行くよ。こんな、一人じゃ」
それは、大貴にとってはごく普通の返事だったのだろうが、
「え……? あ、あり、が、とう……」
両手を合わせて、小雪は感極まったように顔を赤らめる。小雪はそういう少女だった。
大貴に対しては、特に。
「あっ、麻里香、えらいならいいんだよ?」
小雪と目が合うと、彼女はあわてて両手を突き出す。
「いや、別に……」
小雪のびくびくしている動作は、恥じ入っているようにも見えた。
すると、他の少女の声がして彼女を引き留める。
「こんなことで話し合っている内に時間は過ぎてしまいますよ? あなたに残されている時間は長くないんですから」
小雪がおじおじしている姿を、あまり快くないように眺める美架。
「あ……うん! じゃあ、もう行くね」
この時もなお、ほかの人々とは隔絶した雰囲気。
「彼女はいつも体面を気にしすぎます。いや、恐れなくてもいいものを恐れているかのように」
彼女の顔は笑っていたが、かといって笑いそのものであるわけでもない。
美架の顔の半分は、少しいじらしく所はあるが、優しい表情をしていた。一方で、何かに深く心を傾ける、憂えの気持ちがこもっている表情もあった。
「彼女は弱い心の持ち主だから。私たちが力を合わせて支えてあげなければならない」
一瞬だけ、彼女の頭の背後に、光の輪が現れたかのように見えた。
見えなくなった。
昼食の時間になった。
私は、勝や李駿らと一緒に、弁当を食べていた。
「美架って不思議だよね」
たわいもない話がその前に続いていたが、私はある時点でそう言ったのである。
「何ていうかさー……。目の前にいる感じがしないっていう……」
「分かる」 一人の女子生徒があいづち。
「確かここに転校した時からそうだったろ?
初めて見た時、僕もそんな気がした」
美架が私たちの学校に来てからもう一年ほどか。
確か美架の顔を初めて見た時の李駿は、たいそう神々しいものを眺めているらしい風情だった。
「でも、そんなの何回も話しただろ? なんでなんだ」
「今日の朝だけど、不思議なことが起こったのよね」
するとみんなが私の顔を凝視し始めた。
「起こったって、何?」 珍しく自発的に問う小雪。
「一瞬、美架」
「ひ、光の輪?」
「それって、はっきり?」
「いや……実際に視たわけじゃない。でも、なんだかそんな感じがしたの。
例えば、頭の中で音楽を再生しているようなあんばいでさ」
「それ、アニメの観すぎか?」
李駿が笑えないぞ、という表情でつっこみ。
「いや、私も感じなかった……」 もう一人の女子もあっけにとられている。
ああ、今回もこうだ。昔から、私は真剣にこういうことを話す。なのに、大概は信じてくれないことが多い。
「いや、本当なの!」 両腕をふりかぶる私。
李駿はあくまでも否定的。
「だとしても、異世界で冒険する夢とか話してくれたけど……あれとおんなじだ。確かめようがないよ」
すると横から、
「だが、彼女の話が嘘とも確かめられないぞ」
と言ってくれるのは勝だ。
彼は色々な知識に通じていることでみんなに定評がある。
「昔からそういう幻を見る人はよくいる。ただ他の人にはそれが分からないだけなんだよ」
「またそれか」 李駿があきれたように片腕をつく。
「冗談でいってたらそんな驚いた顔で言わないだろ、麻里香?」
「うん、もちろん!」 私はいつも本気なのに。
「……なら勝君って、麻里香がその一人だって、思うの?」
小雪が怖ろしいものを見るような目で勝に問う。そんなに私のことが不安になってるのか。
「さあ。人間の頭の中は誰にも分からないからね。本気にするのも何か……」
なんだよ。
「ただ、美架はそういう奴だからな。麻里香が彼女の中の精神的なものを読み取った可能性もある。それを認知するのはなかなか難しいが、だが実際に存在するものだ。たまにそれが感覚的な事象に現れることがある。ポルターガイストみたいなな。もっともあれは誰もが気づけるたぐいのもんだ。むしろごく微小な段階でしかそれが現れないことの方が多い。まして、個人的な経験は……」
とここで勝の長談義が始まろうとした時、
「はあ? そんなのよくあることじゃないですぅか」
妙に高く、印象的な声。
私は、声の方向――教室の隅の席に目を向けた。
一人で食事にふけっている、眼鏡をかけた小柄な少女。細い背に、小さな顔。
ともすれば私たちより歳が低いのではと錯覚してしまう外見だ。
もしちょっとでもあどけなさというか、笑顔を見せてくれたら、クラスでもてはやされる星にはなれるかもしれない。
けれども、その顏は陰気。細い目つきで、私たちを避けているようだった。
彼女が言葉を出した時、私たちの一人が反射的にこれに応える。
「ありさ、あんた信じるってのか?」
李駿だった。
あざける声とともに、持っていたはしでありさを指す。
ありさは硬い口調によってその無礼に答える。
「あの我らが美架姉さんだ、そこらへんの人間とはわけが違う……光の輪が見えるくらいおかしくはないさ」
すると、
「そっか。お前、美架さんとばっかりくっつき回ってるからな。それで美架さん持ち上げてるんだ?」
ありさの顔はますます険悪に。
「はあ? 美架たんのことも分かっていないで、そんなこと言うんじゃねえ!」
ありさは押すから勢いよく立ち上がった。
「美架たんはあんたたちじゃない。あんたたちは美架たんのことをそういう面でしか視てない。だが俺は違う。僕が知っている美架たんはおまいらとは違うんですぅ!」
違う、そんなはずない。
誰もがありさの顔を見つめていた。
ありさは怒っていた。しかし、自分が言いたいことがどうしても伝えられない怒りであることのように、私には。
「お前が美架さんとしか分かり合えないことは知ってんだよ。お前は理解できない存在だ。
俺たちの中に入ろうとしないで、それどころか積極的に距離を取って離れようとするんだから」
二人の仲は、前からこんな風だった。
「お前何様なんだ? なんのわけで『こっち』に溶け込まないんだよ? お前はなんで、自分で辛い思いをしようとする?」
李駿がこの上なく見下げた口調でしゃべる。なんだかありさ以外の誰かにも向けられているような調子だ。
ありさも叫ぶ。
「あんたはずるい! そうやって大勢の人間を小手先で味方につけて、自分が普通じゃないことをうまく隠しやがって」
思わず、息をのむ。
ありさの顔の中に火が仕込まれているかのようだ。
「ああ……本当は隠してるんだ。テメーだって分かってるんだろ? 自分がその中で孤独なんだってことくらい。お前は心の中でそれをごまかしてる。本当の気持ちを殺して生きてる」
「小娘、何をぬかすか」
李駿の顔立ちも言葉遣いも変わっている。
「ちょっと、李駿!」 私は不意に大声を出していた。
李駿は、先ほどとはもう別人の感がある。まるでずっと年上の人間が乗り移っているかのように。
「ほら、それな?」
「おい、落ち着きなってさあ、二人とも」
別の席から景輔が中に割って入る。ありさと同じくらいの背丈で、どこか女の子らしい顔つきだった。
「俺ら友達じゃん? 友達同士で争っても何もいいことなんてないぜ。けんかしないでさあ、仲良くしようぜ? ほらみんな悲しい顔してる。そんな硬直してないで、笑顔浮かべなよ。みんなと、その、一緒に……」
愛想をふりまくような態度で二人に向かったが、それは見事にすべっていた。
言葉の最後までありさは沈黙。うつむいて、その言葉を無視。
だが、景輔の口がとまると同時に、
「友達だと!?」 ますます感情を高ぶらせ始めた。
「私をそんななれなれしく呼ぶなんて……」
「こいつは友達ではない!」 李駿がありさの顔を指さしさけぶ。
「ちょ、お前らさ……」
景輔は憮然としてしまった。自分の言葉が裏目に出たと気づくや、その顏は一気に老けこんでしまったかのよう。
「ひどいよぉ……」
李駿はさすがに気が咎めたのか、少し沈んだ表情になる。それから小さな声で、
「もういいよ。僕一人で食べる」
そういうと、元の席に移って荒々しく弁当を食べ始めた。その様子を見ると、はなはだ腹を立てているかのようだ。
私たちは沈黙してしまった。
ありさは真っ赤な顔で床につったち、そのままじっとしていたが、突然身を震わしてこう叫ぶ。
「――ですぅ!」
時を同じくして、何か空気の一気にほとばしるごとき音。
すると――
「うわっ!」
急に突風が吹きつけた。弁当が動いて落ちそうになり、私は一瞬それをとどめるのに精いっぱいだった。
ありさはものすごい速さでここから出ていったらしい。目の端が、わずかにありさはもう教室の出口まで移動したのを捉えていた。スカートがめくれかけていたような。
「ねえ、ありさ――」
と誰かが呼びかけた時、ありさはもう目の前から消えていた。
「くっそ、弁当が……」
「あいつ、何様なんだよ……」
なかなか強風だったらしい。机からプリントや床にばらばらと吐き出され、弁当のおかずがこぼれていた。教室の中がたちまち弁当やプリントを台無しにされたことへの怨嗟の声であふれた。
私もお手製のおにぎりをこぼしてしまった。幸いラップで包まれたままだったから無事だったが、他のおかずはもろに汚れてしまった。
ああ、食べられなくなってしまう。今さら拾って食うことなんて。
ありさを恨む気はない。だが、たった一人に怒って、全員にその仕打ちをやるなんて、ひどすぎではないのか。
それに、こんなことで食べ物を無駄にするなんて。人のことを考えろよ。
だが、これはありさに対して怒りを表しているということじゃないのか。彼女に感じているやりきれない感情が、一気に負の感情に黒くなっている。それに気づきかけた時、少し悲しい気持ちになってしまった。
李駿とありさを仲直りさせるにはどうすればいいんだろう。
ずっと前からそう考えている。小さからぬ頭痛の種だ。
二人が初めて知り合った時はあんな感じじゃなかった。だがとある会話がきっかけで、急に二人の関係は冷え込んでしまった。あれ以来ずっと。
ありさが巻き起こした突風から教室はいち早く立ち直った。紙のたぐいが少し学舎の外に放り出されてしまったが、それは他のクラスの子との協力でなんとか回収することができた。だがありさはそれきり教室には戻ってこなかった。おかげで私は、短からぬ間友達のありさへの悪口を聴かねばならなかった。
そういえばあの時美架もいなかった。……なぜだろう。
色々ともやもやした気持ちを抱えたまま、時間は経っていくばかり。
その日私は部活があった。ここで私はありさへの負の感情をいくぶんか振り捨てることができた。
かなり長い時間がやっていたように思う。いずれにせよ帰ろうとした時は空の色は赤から青に変わりつつあった。
途中で私は、ゆっくりながら何か話している勝と景輔を見た。ちょうど学校を出ていく途中の。
「ありさのあの怒りようはやばかったね」
「いや、マジで」 景輔はあの時のことを思い出しているのか、少し気後れしたような声だった。
「まして、俺たちまで巻き添えにしたんだからな! きっと今も怒ってるに決まってる」
あれはありさがやったことだと、自然に私たちは受け入れていた。
ありさが、普通の人間にはない力を持っていることは誰もが知っていたから。もっとも、これは学校の外の人間には絶対内緒なのだが。
「ただ怒ってるだけじゃない。何かを隠したがってるんじゃないかな」
勝は、単なる疑いと言う以上のものを含んでいるように私には思えた。
「隠してるって、何を?」
「分からないな。ただ、ものすごく隠したいものがありそうだと思う」
「隠したいもの?」
彼は低い声でささやくに答える。
「そりゃ李駿ってあれだろ。一部に限ってなんかあやしい雰囲気なんだよ。ありさにしても」
すると、私の心に怒りが生じた。単に友達を馬鹿にしているという感じではない。
今すぐにでも、大きな声で反論したかった――けど、しなかった。
「おいおい、やめなってば。友達を疑うなんてあっちゃだめじゃん」
景輔は軽く笑う。
「いや、俺も分かってるけど……あの二人は明らかに俺たちとは違う。考えてもみろ、李駿は時々別人みたいに、すごく態度変わったりするだろ。ありさもだ。それどころかありさは変な力が使える。俺たちが知らない変な力を持ってる。あればかりはただじゃおけない」
分かった。彼は恐怖を抱えているのだ。二人が普通の人とは違うから。
でも、そうじゃない。そんな怖いものを見る目で、語っていいものじゃない。
「やっぱりあの二人、きっと言えない秘密を持ってるんだ。それを隠すためにあんな風に振る舞ってる。つまり……」
すると景輔は笑いを含んだ声で叫んだ。
「あ、分かったぞ! あの二人は運命の関係なんだよ! ちょうど俺たち二人みたいにな――」
と言って、勝に抱きつこうとする。
「や、やめろぉ!」
私は二人に声をかけるかどうか迷った。だが、それを考えている内にもう彼らの姿は見つけられなくなってしまった。
いたたまれない気持ち。
「……馬鹿な奴ら」
後ろから、誰かの声。驚いて振り向くと、
「あ、大貴……」
「ああいう中途半端に頭のいい奴が、自分の賢さにつまずいて変になる。いい例だよ」
大貴は冷笑気味に言う。
それから、思いがけないことを私に提案した。
「なあ麻里香、今日は俺と一緒に帰らないか?」
凄然とした気もちを持っていたので、私は最初戸惑った。どう返事すべきか迷ったが、結局私は彼の言葉に素直に従った。なにしろ、この時間ならほかの人にちやほやされなくても済みそうだから。
しばらくとりとめもない雑談が続いた後で、私はこう切り出した。
「どうすれば、あの二人は仲良くなれるのかな……」
「仲良く? あの二人が?」
大貴は低い声を出して首をかしげる。
「どんなに手を尽くそうとしても、できないことはある。あの二人にはできそうにない」
私は、はっとした。
「そんな、ひどいよ!」
「でもあの二人の関係を簡単に理解できるとは思わない方がいいぜ」
大貴はあくまでも真面目な顔。
「なんせ俺も、駿とありさがどういう感じなのかよくわからないんだから。
ただ……あの二人がケンカしてる姿って、なんだか『自然』な感じだ」
予想外の言葉が出てきた。
『自然』だって?
見当違いな発現をするこの人にはあきれてしまう。
「何、どういうこと?」
大貴は指を鳴らす。
「ケンカするほど仲がいいっていうだろ?」
「はあ?」 まるで、空気が読めていない。
「まさしく犬猿の仲って空気だが……あの二人、本当は気が合うような気がすんだ。何か共通点がありそうなんだよ」
「そう? 全然ないように思えるけど……」
「そっかな」
こんな会話があってしばらく歩き続けた後、大貴は急に考え込むような表情になり、
「……えっと……」
数歩後突然、立ち止まった。
この直後、
「あっ……やばい」とつぶやく。
「どうしたの?」
と私が問うと、こちらに顔を向けて
「忘れものだ」
血相を失いかけた顔で、
「明日、宿題があるだろ? あれをまだ終わらせてないんだ」
「そりゃ大変!」
「明日学校で解き終われるくらいやってないんだ。このままじゃ悪い成績がついちまう!」
私と大貴はすぐ、学校の帰路を激しい動きで逆戻りしていった。
それは私にとってかなり苦痛だった。これからようやく休めると思ってたのに、こんなことで体力を費やすなんて……。
私たちは学校の敷地の中に入り、数十秒か後に学校の玄関があるピロティのすぐ目の前まで接近していた。
ちょうどその時、美架が玄関から出ようとしていた。
「あら、二人ともどうしたの?」
平常心を大きく逸れていた大貴は、ろれつの回らぬ口調でまくしたてる。
「急に忘れ物のことを思い出したんだ! やばい、もう閉まる時間だ……」
よく聴き取れなかったせいか、美架は一瞬首をかしげたが、
「そうね……行きましょう!」
それ以上尋ねるようなことはしないで、共に急いで学校の中へと駆けていった。
廊下を通って、教室を探す。
昼だったらなんでもないことなのだろう。だが夜の学校は、ことさら状況が違う。
窓から藍色の光が差し込み、黒の輪郭がその中に映し出される。あらゆる物がその中に閉じ込められ、異様な雰囲気を放っている……人間さえその例外ではない。
私たちは美架を先頭にして廊下を歩く途中だった。
「もう少し暗かったら、肝試しにでもなるんだろうな」
大貴が少し落ち着いた声でつぶやく。
「はあ? 冗談いわないでよ」
実際、そうだったのだ。私は恐怖の片鱗を感じていたから。
だが私がそれを言った瞬間、何かが変わった。
急に、気持ち悪くなってきたのだ。
今すぐ、ここから逃げ出したい衝動に駆られた。
「すごく……嫌な予感がする」
単に不気味さを感じさせる闇ではない。
異様な闇だった。
「何か感じるのか?」
大貴が訊いてくる。
「よく言いあらわせないけど、ここから早く逃げたほうがいいような」
「確かに……、危なそうな雰囲気だ」
だが、言いも果てずに美架が。
「いや、もう遅いかも」
「――えっ?」 いつもの彼女の様子からは考えられないほど鋭く強い声だった。
その後姿も、冷厳とした気配を四方に放っている。
「悪霊め、ここから出て行け」
明らかに、美架は平常心ではない。
「ここにお前たちはいるべきではないはずだ。今すぐ立ち去れ」
虚空に向かって叫ぶ。彼女は明らかに本気だった。
自分たちが、理性では理解できないものに遭遇したことを知っているかのように。
「美架」
大貴があっけにとられたように後ろから呼びかけた。
だが、振り向きもしなかった。
私が何か言おうとした時――まさに予想外なことが起こった。
まさに信じられないことが。
突然緑色の光が床からほとばしった。燃えるように、刻み付けられていった。まるで霧のように、こちらにむかって走り出していく。
脳裏の奥に、重い異様な音がこだまし始める。
それだけじゃない――足が、勝手に動く。
「す、吸い込まれる!?」
光の中心に向かって、私たちは引き寄せられていた。
急いで、脚をその反対側に動かす。
だが、光の勢いが強まるとともに体が重々しくなっていくように感じられた。
これは、ただごとじゃない。
一瞬美架を見る。恐怖を感じてはいないようだった。いやむしろ、怒りにさえその顔は見える。
大貴を視る。
「おいおい、とうとう俺たちもかよ!?」
まるで笑っているかのように。
「まさかこれって、いわゆる――」
「そんなことはいい! 早く逃げなきゃ」 私はもう、ここを抜け出すことで頭が精いっぱい。
光はすでに教室の壁にまで拡がっていた。細い光や球形の光やら、様々な形が組み合わさって複雑な模様を形作っていた。
その光の中心である、小さな火の玉から光や風が流れ込んで来ていた。そして、今聴いている音は、風の音なのかそれ以外の音なのか区別がつかない。
ふと火の玉に目を向けた時、私は一瞬その中が非常に広大な世界であるかのように思えた。ふと、不可思議な既視感が湧き上がってきた。
何だろう。この光、以前も会った気がする。
一瞬光が怖ろしい物ではなくなった瞬間――その直後、なだれこんでくる恐怖感。
何を考えているのだ。これは危険だ。私は今すぐここから離れなければならない。今すぐ!
光はますますあざやかになっていく。光はますます私たちをのみこもうとする。
「だめだ、出られねえ!」
大貴は光の外に向かって出ようとしたが、光の壁に阻まれている。
美架は静かに後ずさりしながら、その場でじっと光をにらみつけている。
私は美架の顔をじっと見つめた。彼女なら、今ここを抜け出す考えがあるかもしれない。
なんの根拠もないはずだが、そう期待してしまう。
ああ、だめだ、そんなの無駄だって分かっている。心の奥底から忍び寄る絶望。
すると、ふと美架が私のほうに向きなおる。
「……麻里香、前、夢の中で冒険したって話、聴いたんだけど」
何かを導くような言葉ではなかった。それどころか質問だった。
「あ、それが一体――」
一体それがどうになるというのだ。
とその時、美架は私の頭を――
私は、気を失なった。
気づくと、私は学校の玄関の前、ピロティの下で目覚めていた。
空は、さらに暗くなっていた。……まずい。どうしよう。
「起きたのね、麻里香」
美架の声がしたかと意うと、その顔が視界に入りこんだ。
「ごめんなさいね、さっきはあんなことしてしまって」
しゃがみこんで私の横から話しかける。
「え……何のこと?」 正気に返ったばかりだったので、うまく事情が飲みこめなかった。
「大丈夫。あなたの家のヘルパーさんに電話をしておいたから。もう家に帰った方が良い」
「ああ、帰ろうぜ。さっきはどうなることかと思ったよ」
すぐ隣には、立っている大貴が滅入った表情で頭をかいている。
「一応適当な理由を教えてあげたから。……でも、一つ言っておかなきゃならないことがある」
すると美架は、耳によると小声で。
「いい? さっき起こったことを誰にも話してはダメ」
美架は人差し指を立てて告げる。
「あれは悪魔の仕業よ。神秘でも何でもない、ただの幻覚よ」
「……幻覚?」
そういう風には、意えなかった。
「……違う。そんな感じじゃなかった」
「なんですって?」 美架は私が何かにしれているような雰囲気を感じ取ったようだ。
「なんだろう……さっきの光、もしかしたら私を、求めてたのかもしれない」
「求めてた?」
「うん。なんだか、この世界にはいない誰かが「そんなの、うそよ」
美架は冷たい声でいなんだ。
「さっきのはただの悪い夢。語る意味なんてない」
納得できなかった。確かに恐怖があったけれど、それ以上の何かをあの時私は感じてしまっていた。
「違う……あれは何かがあるの。だって私は、私は」
だが、美架は決して手のひらをかえすことはなく。
「それこそ、あなたのおかしくなっている証拠。世の中には信じられないような経験を見せびらかして人々を惑わす不届き者がたくさんいる。あれもその類の一つ」
すると、またもや不思議な感覚に襲われた。
美架が何か強い光を放っているように思えたのだ。不可視の光が彼女の体から放たれていたように見えた。それは思考の中の想像のように、見えも聞こえもしないが、本当に感じたのだ。
「何しゃべってんだお前ら」
私と美架が言っていることを知ってか知らずか、大貴はのびをして言う。
「今日は特別なことが経験できた。ありさはまた不思議なことをしでかしたし、俺たちも不思議なことを経験した。
それでいいじゃないか」
「よ、よくありませんよ!」
美架はいよいよ真剣な顔で大貴に。
「いい? これは重大なことなのですよ! 彼女はもしかしたら今「だからさ、そんなことを聞いている暇はもうねえんだ。麻里香の時間を減らすつもりかよ?」
美架はあきれたようにため息。
「……仕方ありませんね。麻里香、このことはまた後でゆっくり説明してあげるから」
美架は一体どうしたのだろう。私に、何か危なそうな目で察るなんて。
それまで彼女がこんな顔をしたのを今まで見たことがなかった。そして、単に怒っているという感じではなかった。
今日も色々と不思議なことが起こった。
これはよく経験していることの一部に過ぎない。たいして驚くにはあたらない。
誰かがたずねるだろう。「こんなことを、驚くにあたらないと言えるの?」と。
でも、私はそう思わない。
なにしろ、自分にとっての日常が、他の人にとっての非日常というのは、よくあることだから。