番外編「温室の午睡と甘やかな鎖」
王都の空は高く澄み渡り、雲一つない青が広がっている。
分厚いガラス屋根を通して、斜めに差し込む陽光が温室の石張りの床に白い四角形を描き出す。
閉ざされた空間の空気は豊潤な水気を孕み、呼吸をするたびに肺の奥まで甘い湿気が満ちていく。
多種多様な植物が葉を広げ、青々とした命の香りが幾重にも層を成して漂う。
ロイは両膝を折り、新しく用意された木箱の前に身を沈める。
黒く肥沃な土が、彼の手のひらを柔らかく受け入れる。
細かく砕かれた土の粒が、指の腹を滑り落ちていく。
かつての路地裏や枯れ果てた領地の土とは違う、生命力に溢れた温度がそこにはある。
ロイは息を深く吸い込み、手のひらに集めた熱を指先へとゆっくり流し込む。
無理に命を引き上げる必要はない。
ただ、土の中で眠る小さな種に、外の世界の暖かさを教えるだけでいい。
微かな熱が指先から土へと伝わり、黒い表面がわずかに盛り上がる。
やがて、摩擦を伴う小さな音とともに、淡い緑色の双葉が顔を覗かせる。
生まれたばかりの柔らかな葉脈が、太陽の光を透かして美しい網目を描いている。
ロイは唇の端を和らげ、双葉の周囲の土を指の背で優しくならす。
背後で、紙の上を走る羽ペンの音が規則正しく響く。
足音を忍ばせて近づいてきたシュウが、手元の記録簿に目を落としたまま口を開く。
「見事な発芽率だ。魔力枯渇地で採れた種が、王都の環境でもこれほど早く適応するとは思わなかった」
シュウは丸眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、新しい双葉を興味深そうに観察する。
だぼだぼの白衣の裾が、彼が身を乗り出すたびに擦れる音を立てる。
「土の配合を変えてくれたおかげです。前のままでは水分が多すぎて、根が腐る危険がありました」
ロイは指についた土を払い、立ち上がってシュウに向き直る。
「君の指先から伝わる魔力の波長が、この植物に最適化されている証拠だ。アレクの領地で完全に開花させたあの経験が、君の力をさらに洗練させている」
シュウの言葉に、ロイは自分の左手に視線を落とす。
薬指には、銀色に輝く細身の指輪が収まっている。
中央に埋め込まれた深い青色の宝石は、光を吸い込んで静かに瞬く。
これを見るたびに、彼が誓ってくれた言葉の重みと、分け与えられた熱の記憶が蘇る。
ロイの頬に自然と熱が集まり、彼は無言のまま右手で左手の薬指を覆い隠す。
シュウはそれを見て、肩を揺らして声を出さずに笑う。
「それにしても、あいつは遅いな。今日の会議は午前中で終わる予定だったはずだが」
シュウの言葉が終わるより早く、温室の分厚いガラス扉の向こうに長身の影が現れる。
磨き上げられた金属の取っ手が下がり、重い扉が開かれる。
冷たい外気が一瞬だけ流れ込み、植物たちが身を震わせるように葉を揺らす。
それ以上に濃厚で鋭い気配が、温室の湿った空気を押し退けて侵入してくる。
冬の森の奥深くを思わせる、凍てつくような針葉樹の香り。
アレクが、漆黒の執務服に身を包んで立っている。
夜空のように深い色の髪は一糸乱れず撫でつけられ、端正な顔立ちには宰相としての隙のない冷徹さが張り付いている。
しかし、彼の視線がロイを捉えた瞬間、瞳の奥に潜む氷が音を立てて溶け出す。
アレクは無言のまま長い足を交差させ、石畳の上を進んでくる。
上質な革靴が床を打つ音が、静寂な空間に規則正しく響く。
彼が近づくにつれて、冬の森の香りの奥に隠された、甘く火傷しそうなほどの熱がロイの肌を直接撫でる。
シュウは短く息を吐き、記録簿を小脇に抱える。
「僕は蒸留室でこの結果をまとめてくる。邪魔者は退散させてもらうよ」
シュウは二人の間を通り抜け、足早に温室を去っていく。
扉が完全に閉まり、再び密室となった空間には、二人の呼吸の音だけが残される。
アレクはロイの目の前で立ち止まり、黒い革手袋に包まれた手をゆっくりと持ち上げる。
「帰りが遅くなった。老獪な貴族どもの無意味な長話に付き合わされた」
低い声は疲労を帯びて掠れている。
ロイは一歩前に出て、彼の手袋の指先を両手で包み込む。
「お疲れ様です。冷たい手をしていますね」
ロイが自分の体温を分けるように手を擦り合わせると、アレクの喉が微かに鳴る。
彼は空いている方の手で自らの首元のタイを乱暴に緩め、執務服の第一ボタンを外す。
隙のない装いが崩れ、彼の素肌から放たれるαの香りが一段と濃くなる。
アレクは手袋を外した指をロイの髪に差し込み、後頭部をしっかりと掴んで引き寄せる。
抵抗する間もなく、ロイの顔がアレクの硬い胸板に押し当てられる。
上質な生地越しに、彼の力強い心音が耳の奥に響く。
「お前の匂いを嗅ぐと、狂いそうになる。会議の間も、お前のことばかり考えていた」
耳元で囁かれる声は、宰相としての威厳をかなぐり捨てた、一人の男の切実な欲求に満ちている。
彼の腕がロイの腰に回り、逃げ道を塞ぐように強く締め付ける。
ロイの体内で、血液が急速に温度を上げて巡り始める。
「アレク。服が、土で汚れてしまいます」
ロイが弱々しく抗議するが、アレクの腕の力は全く緩まない。
「構わん。私のすべてはお前のものだ。泥にまみれようが、お前が触れるのならそれが至上の喜びだ」
彼の鼻先がロイの首筋に触れ、熱い吐息が直接肌を打つ。
Ωの急所を的確に探り当て、そこに唇を落とす。
皮膚の薄い部分から、彼の唇の形に合わせて甘い痺れが放射状に広がっていく。
ロイは足から力が抜けそうになり、彼の上着の背中を両手で強く握りしめる。
シワ一つなかった高級な生地が、ロイの指の力で無惨に形を崩す。
アレクは首筋からゆっくりと顔を上げ、ロイの瞳を真っ直ぐに射抜く。
その瞳には、底知れぬ独占欲と、満たされることのない深い飢えが渦巻いている。
「今日、親族の一人から新たな縁談が持ち込まれた」
その言葉に、ロイの肩が小さく跳ねる。
不安の波が胸を叩くが、アレクの瞳は微塵も揺らいでいない。
「私が既にお前を伴侶として迎えていることを知っていながら、血統の優れたΩを側室にと勧めてきたのだ」
アレクの指が、ロイの左手を取り上げる。
薬指に光る指輪を、彼の親指が力強く撫でる。
「当然、その場で破談にした。私の隣に立つ資格があるのはお前だけだ。他の者が入り込む隙など、一寸たりとも存在しない」
彼の言葉は重く、そして甘い鎖となってロイの心を縛り付ける。
身分も血統も持たない自分を、彼は国を動かす権力よりも重く扱ってくれる。
ロイは彼の瞳に自分の姿が映っているのを確かめ、深く息を吸い込む。
「俺も、あなただけです。他の誰にも、俺の指先は使わせない。俺の花は、あなたのためだけに咲きます」
ロイの言葉を聞いた瞬間、アレクの顔から険しさが完全に消え去る。
彼はロイの顎を指ですくい上げ、わずかに上を向かせる。
影が落ち、彼の冷たい鼻先がロイの頬に触れる。
次の瞬間、重なり合った唇から、互いの熱が直接流れ込んでくる。
塞がれた口内を彼の舌が割り入り、呼吸を奪うように深く絡みつく。
冬の森の香りと、青々とした植物の匂いが混ざり合い、新しい世界を作り出していく。
ロイは目を閉じ、彼の肩に回した腕にさらに力を込める。
衣服の擦れる音が、温室の湿った空気に吸い込まれて消える。
どれほどの時間が経ったのか、息が続かなくなり、ロイが微かに胸を叩く。
アレクは名残惜しそうに唇を離し、銀の糸が空中で切れて落ちる。
彼の瞳は熱に潤み、ロイを逃がさないという強い光を放ち続けている。
「午後からの予定はすべて白紙にさせた。今日はもう、この場所から一歩も出るつもりはない」
アレクはロイの体を軽々と持ち上げ、温室の奥にある休憩用の長いすへと歩き出す。
足が宙に浮き、ロイは彼の首に腕を回して身を預ける。
「仕事が、溜まっているのでは」
「国政の遅れなど、私が一晩で取り戻す。今はただ、お前を満たすことだけが私の義務だ」
傲慢で身勝手な言葉の裏にある、不器用なまでの愛情表現。
ロイはもう反論する気力を失い、彼の胸に顔を埋める。
長いすの上に静かに下ろされ、アレクの大きな体が覆い被さってくる。
光を遮る彼の影の中で、ロイは左手の指輪を彼の胸元に押し当てる。
「アレク」
名前を呼ぶと、彼からの熱い口付けが再び降ってくる。
温室の植物たちが、二人の体温の上昇に呼応するように葉を伸ばす。
王都の真ん中に作られたこの閉鎖空間は、誰にも邪魔されない二人だけの楽園だ。
甘やかな鎖で互いを縛り合い、永遠に解けることのない絆を確かめ合う。
午後の太陽がゆっくりと傾き、ガラス越しに赤みを帯びた光が差し込むまで、二人の重なり合う影が離れることはなかった。




