第二十六話
宿から一人の男が出てきた。男はまるで薄闇の中に紛れるように、裏口からひっそりと出る。
そのとき、厩に繋がれている馬が嘶いた。
「起こしたか。悪いが見逃してくれ」
そう言って、ボルスは口の前に人差し指を立てる。
昨晩、フェガーリとザミュルの国境に位置する街ワイドに着いたボルスは、同行していたハルディ達に乞われ、一緒の宿に泊まった。彼らの使う宿は、普段ならボルスは泊まれない程値が張るが、わざわざハルディ達がボルスのために一部屋の料金を払ってくれた。
宿で食事を摂り、互いに長旅で疲れているため、すぐに床に着いた。
そして、ボルスはハルディ達よりも早く起きると、荷をまとめ一人宿を抜け出した。
その日は五日に一度の市が立つ日だった。
雪国であるザミュルに比べ、幾分か温暖なこの地域では、五日間に一回市が開催され、大いに賑わう。ボルスは干し肉やチーズといった保存の効くものを中心に食料を揃えていった。金はザミュルにいたとき、料理や雑用の礼金として親方から少なくない額をもらっていた(もらうつもりは毛頭なかったが、断固として退かない親方に根負けした)。
あらかた買い揃え、そろそろ行くかとボルスが考えていると、人だかりが出来ていることに気付く。
なんだと思い、人垣の後ろから覗くと怒鳴り声が耳に届いた。怒鳴り声を撒き散らしていたのは傭兵らしき男だった。地味な革鎧を着て帯剣し、無精髭や伸びた髪のせいで風貌が荒んで見える。似たような男がさらに二人おり、店の前に陣取って何事か叫んでいた。
「一体何の騒ぎでしょうか?」
「さぁな、俺も今来たばかりなんだ」
背後からの声に何気なく答えた後、ボルスは「どこかで聞いた声だな」と振り向く。
「ひどいじゃありませんか。何も言わずに行ってしまうなんて」
そこにはコーデリアが立っていた。
「うおっ!」
ボルスは驚く。
「うおっ、じゃありませんよ。まるでワタクシを化け物か何かみたいに……酷いです、ボル」
コーデリアが涙ぐむ真似をする。もっとも、涙は一滴も出ていない。
ボルスはその様子に呆れつつ、
「いつの間に……というか、ボルって呼ぶのやめろ」
「まぁ、そんなこと言うなんて……ワタクシ達の仲を考えればそのくらい」
「昨日会ったばかりだろ……って、昨日も似たようなこと言ったな」
と、ボルスは頭をガリガリと掻く。そこであることに気付いた。
「……そういや、あんた一人か」
「えぇ、ハルディさんは品物を卸しに行きました。アニスは宿で待っています。皆さん、急にボルがいなくなったものですから随分と心配していますよ」
コーデリアが今度は腕を組み、眉を寄せて睨む。一々ポージングを変えつつ、体全体で感情を表すとは中々忙しい人間である。
ボルスはバツの悪そうな顔をしつつ、
「そいつは悪かったな……だが、同行はフェガーリまでって契約だ。元々俺はあんた達と無関係だ。いなくても問題はないだろ」
さらにコーデリアが何かを言おうとしたところに、別の声が重なった。
「いい加減にせぬかお主ら!」
「何だ爺、引っ込んでろ!」
ボルスとコーデリアは論争を止め、再び騒ぎの現場に目を向けた。
店と三人の傭兵の間に、壮年の男が仁王立ちしていた。壮年と判断したのは、ほぼ白髪と化している短髪からだ。だが、見た目の年齢に反し、背が高く背筋もピンと伸びている。顔は彫り深く、眼光が鋭い。
だが、傭兵達は数の差か臆することなく、強気の姿勢を崩さない。
「どけ、じじい!」
「それは聞けぬ相談じゃな。先程から見てたが、言いがかりは良くないのぉ」
「言いがかりだと!」
男達が怒りを露わにする。
「なまくらを売りつけてきたのはそいつだぞ!」
そう言って男が指差した。人垣の間から、顔に痣が出来た男が地面に尻を着いているのが見える。
「そんな、なまくらだなんて……」
「じゃあ昨日買ったばかりの剣が何でこんな簡単に折れる! 危うく死にかけたんだぞ!」
ようやくボルスにも事情が見えてきた。
「死にかけた割には元気がいいな、あいつ。治癒魔法でも使える奴がいたのか?」
「ありえませんね。昨日今日であそこまで回復出来るはずがありませんもの」
ボルスの独白に、コーデリアが答えた。
「そうなのか?」
「治癒魔法は、傷を癒すことが出来ますが、欠点もございます。被使用者は怪我の程度に比例するように体力がなくなるのです。原因はよく分かりませんが、一説には何日も掛けて治すものを短時間で無理矢理治すせいでは、と言っています」
「初耳だ」
「あまり知られていませんからね。治癒魔法が使える人も滅多にいませんし。それに、使用者の魔力と被使用者の魔力が反発しあって、治癒魔法の効力は決して高くないんです。だから、命に関わるような傷が完全に塞がることもまずありません」
「なるほど……ってことは、あいつらが騙っているかもしれない、ってことか」
ボルスはコーデリアの解説を聞きながら、騒ぎの動向を見守る。
「折れた剣を見たが、折れ方は生き物を斬ったというよりも固いものにぶつけたといった方が正しいのぉ。それに、血が一滴も付いていない。折れたなまくらをわざわざ手入れするくせでもあるのか、お主等は?」
「や、やかましいっ! 剣代と治療費をもらわねば腹の虫が治まらんっ! どけっ!」
「どけぬのぉ」
「どかんというのなら、貴様から血祭だ!」
そう言って別の傭兵が剣を抜いた。
野次馬から悲鳴が上がる。
「まずいですわね……ボル、行きませんの?」
「何で俺なんだ?」
「昨日、ワタクシ達を助けてくれたではありませんか」
「俺はお節介じゃねぇんだ」
ボルスとコーデリアが言い合っている間にも、男達の諍いはさらに激化していく。
「さぁ、どけっ!」
「くどいっ!」
「もう容赦する必要はないぞっ!」
一触即発の雰囲気が漂う。
壮年の男が腰に右手を伸ばした。それによって、ボルスは男が帯剣していることに気付いた。
「お止めなさい!」
そこへ、コーデリアが割って入っていった。
ボルスは頭痛を覚える。
「あのじゃじゃ馬め……」
仕方なく、ボルスはコーデリアの後に続き、騒ぎの場に割り込んでいった。