表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

蜜枯らす

作者: 胡桃ヌイ

最初は、財布からこっそりと数百円を盗んでいく程度だった。


それが日に日に続いては味を占めてしまったのか、数百円が数千円になり、ついには平気な素振りで万札をも抜いていくようになった。


私は小学6年生の息子を居間に呼び出し、妻の財布から夜な夜な金を(かす)めていることを問い詰めた。


(とが)めるつもりではない。どうして金を欲しがるのか、その理由が聞きたかったのだ。


だが、息子はとくに悪びれる様子もなく無言を(つらぬ)き、私から目線を()らしては、終始畳の縦横線を追って聞く耳を持ってくれなかった。


隣のキッチンでは、息子の反省のない態度に救いのなさを感じたのか、妻が床に崩れて紅涙を絞っている。


「わかった。もう行きなさい」


これ以上の会話に進展がないことを悟った私は、息子を部屋へと戻らせ、大きな溜め息を吐いた。


どうして……どうしてこんな風に育ってしまったのだろうか? 昔はちゃんと、私たち夫婦の言うことを素直に聞いてくれる良い子だったのに。


いったい何が悪かったと言うのだろう。


私は一人残された居間で頭を抱え、良心の呵責(かしゃく)(さいな)まれた。


それから一年後。息子の素行は、中学に上がる頃には一段と酷くなっていた。


妻の財布から金を盗むだけでなく、妻に対して暴力を振るうようになったのだ。それも決まって私のいない時に。


息子は成長期に入り、体格でも筋力でも、すでに妻に(まさ)るほどの体つきになっていた。専業主婦である妻は暴力を受けるたび、仕事から戻ってきた私に顔を腫らして泣きついた。


私はすぐに息子の部屋に飛んでいき、勢いそのままに息子を張り倒した。いくら息子が中学生になったとはいえ、まだまだ私のほうが背丈も高く力も強い。


息子は私を睨みつけ精一杯の強がりを見せたが、私を前に怯えている様子は隠せていなかった。


しかしながら、返ってそれが増悪の種に火を着けてしまったようで、息子の悪態は以前にも増して激甚(げきじん)していった。


手始めに、息子は私に反抗するかのように、学校へ行かなくなった。登校の時間になっても部屋から一切顔を出さず、平気で学校を休むようになったのだ。


それは、高校生に上がる歳になっても、成人して社会に出る年齢になっても、ずっとずっとその調子だった。


進学もしない。アルバイトもしない。もちろん就職活動もしない。一日中部屋に(こも)ったきりで、成人しているにもかかわらず親の金で生活をする。それほどまでに落ちぶれてしまったのだ。


引きこもり。自宅警備員。ニート。今では、子ども部屋おじさんなどと呼ばれている、社会不適合者の仲間入りを見事にやってくれたのである。


そして、息子が部屋に閉じこもってから数十年。


私たち夫婦は、毎晩息子から隠れて暮らさなければならない生活に変わった。


まず、妻にだけだった暴力が私へも向き始めたのだ。今まで我慢してきた鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように、とにかく暴れ回り、私たち夫婦へ自分の力を誇示し始めた。


「やめてくれ、やめてくれ」


私は妻を庇いながらそう叫ぶしかなかった。体格でも力でも、老化した今の私では、息子にとうに勝てなくなっていたからだ。


私は財布から金を取り出して息子に渡した。息子はそれを強引に奪い取りその場を去っていく。


情けない話だが、これが唯一息子の強圧から身を守る方法になってしまっていた。


それからだ。息子が私たち夫婦に暴力を振るっては、毎晩のように金を巻き上げていったのは。息子は叩けば金が出る打出の小槌が何かと私たちを思っているのだろう。


とはいえ、私の懐も無限ではない。昨年長年務めてきた会社を定年退職し、年金生活となった今、持ち金は退職金の数千万と二ヶ月に一回支給される年金のみ。


それだけが私たち夫婦に残された全財産だ。


だが、それも今や暴力から逃れるための資金でしかない。老後の生活も考えると、この貯蓄が尽きてしまえば私たちはお終いだ。


ざっと計算してみても、このままだと早々に底を突くのが見えている。私たち夫婦が、この先の生活に不安を抱いていたのは間違いなかった。


そして、今晩も息子はやってくる。


毎日毎日、決まって20時頃。二階の自室から息子は姿を現し、私たち夫婦の元へと近づいてくる。


ガチャリとドアノブを回す音。乱暴に扉を開ける音。それから、ドタ・ドタ・ドタと身体を左右に揺らしながら階段を踏みしめる音。足音が近づいてくるたびに、私たちは身体を震わせた。


(ああ……どうか見つかりませんように)


そうやって合わせた手に額を当て、懇願(こんがん)するように祈る妻。私はそんな妻を抱き寄せて、一緒にその瞬間が過ぎるまで時を待った。怖いのは私も同じだ。もし、息子に見つかれば、何をされたか分かったものじゃない。


ただただ身を隠して、息子が二階に戻ってくれるまで辛抱するしかなかった。


やがて息子はキッチンのほうへと足音を向けてきた。どこにいるんだ。隠れているのは分かっている。早く出てこい。出てきて金を出せ。出てこないとぶっ殺すぞ。


息子はいつもそう言って、私たちを脅し立てる。


狭く暗い戸棚の中。それでも痩せ細った夫婦二人が身を隠すのには十分な広さだ。


息子は部屋中に罵声を浴びせ、時にはバットを振り回して室内を滅茶苦茶にしていく。


戸棚の中にあった食器類なんて、ほとんどが床にぶちまけられ、ステンレス製以外のガラス物は全てが割れている。当然、戸棚の保存食もすでに空っぽで、現在その空間が皮肉にも私たちの隠れ場となっていた。


息子が近くで暴徒化している間、私たちは生きた心地がしなかった。何故なら、もう息子に渡せるだけの金がなくなっていたからだ。もはや私たち夫婦には、身を隠す以外息子の暴力から身を守る方法がなくなっていた。


数分後。ついぞ息子は諦めたのか、ドタドタドタと二階へと戻っていった。


私たちは足音が消えたのを聞いてそっと戸棚を出る。割れた食器類から使えそうなカップを拾い上げ、凹んだヤカンで湯を沸かす。


その日の夕食は、お白湯を飲んだだけだった。


ああ、私たちはいつまでこんな生活を続ければいいのだろうか。

息子に怯え、隠れて、毎日を細々と生きる生活。これならいっそのこと……


私のそんな想いを妻も感じ取ってくれたのか、妻は時おり「疲れたね」と呟くようになった。


最後の晩餐(ばんさん)は、無けなしの金を集めてコンビニで買ってきたおにぎりだった。


少し冷たい蓄米庫の中。ここが今日の隠れ場であり、終の隠れ場だ。庫内に入ると二人で中から粘着テープで隈無(くまな)く隙間を埋めた。


これでよほどの力でない限り、外から開けられることはないだろう。私たちは二人で一個のおにぎりを分け合い、それをゆっくりと食べた。


床上では、今日もまた息子が暴れている。しかしもう、これから先息子に怯えて暮らすことはない。


ようやく楽になれるのだ。遠のいていく意識の中で、私はふと私たちが死んだ後のことを考えた。


それは、最後の最後まで息子のことだった。


実のところ、私たちは返す宛もないのに闇金に手を出してしまっていた。それは私たちが生活するために仕方なく借りたものではあるが、この先、その返済に追われるのは息子だったからだ。


もちろん、そんな金など無職の息子にあるわけがない。親としては非情かつ心残りだが、今度は債権回収業者から息子が身を隠すはめになるだろう。


毎日毎日、返済の催促。居留守を使うにしても、息子もまた、この家が私たちと同じ終の隠れ場になるのだ。






もっとも、息子が"生きていればーー"の話だが。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ