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多恵さん 旅に出る Ⅰ   作者: 福冨 小雪
1/1

画家の多恵さんと悲しくも可笑しい幽霊3人組の長野スケッチ旅行顛末記

「わたしと時々妄想ばっちゃんの日々」のわたし(真理ちゃん)の母である多恵さんが、真理ちゃんが小学5年になったのを期に最初の取材旅行に出ます。それは今から二年ほど前の話なんですが・・・

  それは二年前の話だ。5月になった。その5月も終わりに近ずき、段々一番良い季節も過ぎて行く。心もそわそわ、腕もうずうず。娘、真理ももう小学5年生、ママが少し位いなくたって大丈夫だよね、大樹さん。と多恵さんはじっと夫を見つめる。

夫はきっと快く承諾してくれるに違いない。夫である大樹さんは哲学者であるが、妻の多恵さんにはめちゃくちゃ優しい、うんざりするような小難しい事も決して言った事がない。理想的な夫、額に入れて飾って置きたいような夫の鏡みたいな人だ。元々東京都美術館(当時新国立美術館は存在しなかったにクロード モネ展を見に来ていて、たまたま別の部屋でやっていた多恵さんの属する団体の美術展も見てみようかなと云うノリでフラフラッと入ってしまい、フラフラッと多恵さんの画の前に引き寄せられ、その画にいたく感動し、そこに居たその作者にもついでに一目惚れしてしまったのだ。それまで碌に女性と言うものに殆ど関心を寄せた事のなかった大樹さん、しどろもどろで、でも必死でデートを申し込み、しかも驚く事に結婚まで漕ぎ着けたのだ。住まいも東京の親元を離れ、この東京の隣の勾玉県マガタマ市月見区の六色沼を見下ろすマンションに構える事と相成ったのだ。大樹さんは多恵さんにとって夫であり、殆ど売れない画家の大切な理解者であり、パトロンでもある。でも、それだからこそ中々切り出せない。多恵さんも少しは後ろめたいのだ。

「うん?何か言いたそうだね」

夕食も終わり、台所の片付けも済み、皆がほっとする一時。普段なら娘の真理に「じゃあ,ママはこれからお絵描き始めるから、真理ちゃんは学校の事ちゃんと済ませてね。訪ねたい事があったら何時でも言って頂だい」と隣の仕事部屋に行くはずの多恵さんが何だかもじもじしてる。

「えっ、あ、御免なさい。季節もいいし、緑も一番美しい時でしょう。ちょっと若い頃行った長野辺りを描きたいなあって思ったりして。長野は季節的には、これからかも知れないけど・・」大樹さん噴出す。

「はっきり言えば良いのに。長野に画を描きに行きたいから真理の事宜しくって」

「えー、ママ旅行行くの、一人で。良いなあ、真理も行きたいよう」

「馬鹿だなあ、学校どうすんだ?いくらママが好きでも仕事の邪魔は出来ないよ。それにさ、こんな素敵なパパと二人きりで居られるんだよ、夜には。それにパパの料理好きだろう?」

「御免なさい、お隣の藤井のおばさんに,よおーく頼んで置くから、おやつの事もその外の事も」

「ふうん、ま、何時かこういう日が来るんじゃないかって、思わないでもなかったんだあ。言って来て良いよ、ママ。わたしもう5年生だもん、パパと楽しくやってるよ、大丈夫、パパの事は任せて。安心して」

と言うわけで多恵さん、無事家族の承諾を得る。と言っても家族は多恵さん入れて3人だけどね。

 早速何処へ行くか決めなくちゃ。長野と言っても結構広い。それに交通手段だ。「わたし、ペーパードライバーなの」と宣言してきたけど、実はコッソリ実家(ここ月見区の隣、イザナギ区で薬屋をやってる)に行って父の指導の下、運転を再開していたのだ。勿論大樹さん(彼は運転免許すら持っていない)には知らせてあるけど、娘には内緒だ。そんな事を言ったが最後、やれ車を買ってあっちに行きたい、こっちに行きたいと騒ぎ出すに決まっている。今はひた隠しにするのが賢明と云うものだ。それにここいらを運転するのは一寸自信がないかな?目的地の近くまでバスか電車で行き、そこでレンタカーを借りて周ることにしよう。もしかして借りる必要も無かったりして。それよりか矢張り目的地、目的地。長野は描きたい所が一杯で多恵さん迷いに迷う。でも幾ら大樹さんや真理ちゃんが承諾して呉れたとはいえ、そんなに長居は出来ないだろう。手始めに一泊で帰るしかないかなあと多恵さん。

地図を睨みつける、うーん決めかねる。でも少しミーハー的ではあるけれど、始めの一歩と言う所でビーナスラインの辺りを攻めて行こう。もし人だかりしているなら、そこから一歩、入れば良いだけの事。例え人だかりがしていても、そこが素晴しいものならそれはそれで是非描きたい。でも、考えてみれば今はシーズンオフだもの、そんなには混んではいないに違いない。

決まった、先ず8時に新宿を出発するスーパー梓に乗って茅野で下り、レンターカーを借りて蓼科湖から女の神氷川辺りを探して周ろう。この名前からして素晴しい。まあ今の季節、何処へ行っても描きがいがあるに決まっている。と多恵さんは勝手に一人合点するのだった。

一応主婦として5時少し過ぎに起きて、朝御飯の仕度を済ませ、皆(自分も含めて)の身支度も確認すると、一番最初に家を飛び出した。一番近い駅から新宿まで乗り換えなしで行けるのがありがたい。ただ物凄い混みよう。新宿駅の中も人人人。掻き分けて目的の列車の出発ホームまで進む。

然し、スーパーあずさその物は拍子抜けするほど空いていた。そりゃそうだ、平日でシーズンオフのこの時期、よほどの人でなければ美しい景色や登山を楽しんだり、レジャーに現をぬかすなんて事は出来ない。乗り合わせた人達の殆どが仕事や止むに止まれぬ用があっての旅に違いない。

え、どこかで見かけたような人。あれは!そうあれは確か死んだと、しかも自殺したと噂に聞いた杉山君だ。彼がニッと笑う。多恵さん、ギョッとする。むこうは3人連れだ。彼らは音も無く近づいてくる。多恵さん、周りを見回す。よりによって近くには誰も居ない。そんな座席を選んだのは自分だ。あのギュウギュウ詰めの満員電車が今は愛おしい。

「河原崎さん」終に彼らは側までやって来た。

「な、何?あなた、死んだんじゃないの」

「そうなんだけど、ホラ自殺しちゃたから、未だ成仏出来ないんだ。折角未だこの世にいるのならって、あっちこっち見て周ってんだ。仲間も出来てさ、俺、人付き合い良いだろうって、幽霊づきあいかなあ」

「で、でも,どうしてわたしの所に出るのよ、奥さんの幸恵さんのとこに出なさいよ」

ガタンと列車は大きく揺れて出発進行らしい。何時もは嬉しい旅の始まりを知らせる合図だが今回は一体どうなる事やら。

「俺もさあ、一応申し訳ないと思ってさ、幸恵のとこに出てみたんだ。でもあいつには幽霊を見る力が無くって、次に娘の所に出てみたんだ」話が長くなりそうだ。

「立ってても目障りだからそこいら辺に腰掛けて話したら。ただ、わたしの横は辞めてね、幾ら旧知の仲と言っても幽霊さんとは勘弁して欲しいわ」

3人ゾロゾロと向かい合った席に腰掛ける。こいつ等無賃乗車だけど、幽霊はタダ乗りしても構わないのか。あたりまえだ。

「それでお嬢さんはどうだったの」

「娘には見えたみたいだった。でも娘が言うには化けて出たいのはお母さんの方だって言うんだ。謝金山ほどこさえてお母さんがどれほど途方にくれたかって」

「そりゃそうだ、幸恵さん困っただろうね」謝金の事も彼の友人から聞いていた。

「だからさ、俺の生命保険で支払うように遺書に書き残したんだよ」

「屹度それだけじゃ足りなかったんじゃないの」

「そうかな、十分足りていたと思ったんだけど。て訳で娘にも冷たくされて、ふうらふうらと流れて行き昔、恋焦がれた河原崎さんの周りをうろついていた訳。そして今回めでたく一人で旅に出掛ける事になり、お供をさせてもらおうと張り切って友達も引き連れて参上いたしました」

「わたしからも言わせて貰うわよ『君が今他の人を好きなのはよおく分かっている。、でも何時か、僕の事少しでも好きになったら言って。何処にいても飛んでくるよ。その日を何時までも何時までも待つよ』なんて嬉しがらせた上、初めての給料で口紅まで買ってくれたのに。それから半年もしないうちに幸恵さんと結婚するんだもん。あの頃、わたし仕事が上手く行かなくて。毎日毎日残業をしても駄目、その上日曜、祝日返上、人生で一番辛い時だったから余計ショックだったわ」

「そうだったんだ。幸恵は君がもう直ぐ誰かと結婚する予定と聞かされたと言ってたよ」

「あなたに冷たくされてノイローゼ気味に成り、入院し、手術までして、殆ど死に掛けてた彼女が、あなたが会いに来たとたん元気になったって話を聞かされていたし、多分彼女はわたしの様子を探りに来たのだろうな、わたしの様子をあなたに報告するだろうなって思ったから、安心するように作り話をして上げたのよ。これであなた方二人は上手く行くと信じていたんだけど、でも少しは裏切られた気持ち。まあ彼女に始めに勘違いさせたのはわたしだし、いえヤッパリあなたがいけないと思う」

車窓には未だ東京の色、空も建物も。ふと気がつくと入り口のドアが開いて車掌さんが入場。

「あなたたち、切符無いんでしょ、どこか隠れてよ」顔色悪い3人組が笑い出す。

「河原崎さん、俺たちあなた以外には全く見えませんよ。それに特殊能力者で見えたとしても、幽霊に乗車券を請求しやしませんよ。それより少しの間、静かにしましょうか」車掌さんが近づく。

「特急券を拝見させて下さい」切符を渡す。切符が返る。車掌さんちょと首をかしげる。多恵さんドキッとする。車掌さん心配げに尋ねる。

「あのー、何かここ寒くないですか?」

「い、いいえ、べ、別に寒くはないですが・・・でも5月には早すぎますよね、矢張り真夏に限りますよ、こういうのは」

「あ、未だ冷房は入れてないんです。何しろ涼しい所に向かう電車ですから」

かみ合わない会話の後、車掌さん次の乗客のところへ去って行った。

3人組、明らかに笑いをこらえている。失礼な奴らだ。健康オタクの母の元(当時母自身は物凄く寒がりだったゆえに。今は漢方のお陰でその面影はないけれど)薄着で育てられたから、寒さにどちらかと言うと鈍感だ。それ故この冷気あふれる幽霊の、しかも3人連れ、この場所の温度が他の所よりグッと冷えているのは確かなようだ。一枚何か羽織るものを出して着た方が良いようだ。

「で、話は戻るけど、幸恵さんに勘違いさせたのは、彼女の下宿の引越しの手伝いに男手が欲しいと言うので、わたしがあなたに冗談半分に『今度の土曜日、幸恵さんの引越しなの。手伝ってくれる男の人が入用であなた、頼まれてくれない。屹度あなた一人で大丈夫だわよね?』言ったのが始まり。一人で頑張ったあなたに、彼女は感激してあなたの下宿にお礼に行った。そこで何があったのかはわたしには分からないけど、随分男性軍が騒いでいたわ。彼女はあなたには勿体無いような美人だし、わたしなんかより人間的にも出来てるから、本来ならこれで一件落着って事なのよ。でもそれからもあなたはずっとわたしの事 気に掛け続けていたわ。でも気に掛けているだけじゃ誰にも分かんないし、彼女にもわたし自身にも伝わらないの。それが悲劇のもとなのよ。最後の仲間の集まりでやっと『本当は河原崎さんが好きなんだ』って言ったけど、そこには幸恵さんもいなかったし、彼女の友人もいなかったから、彼女が知る由も無い。当然自分の事愛していると信じていたあなたから何の連絡も無く時が流れていく、ノイローゼに成って,病気に罹る、入院、手術。遅いのよ、何もかも。どうしてもっと早く、わたしがフリーの時に、付き合ってっ下さいって言わなかったのよ。彼女もうすうす感じていただろうから」

「で、でも俺、めちゃ気が弱いから、い、言えなかったんだなあ。そ、それに河原崎さんて何時も彼氏がいるみたいで」

「芸術家は何時の世も情熱家なのよ。分かっているでしょう、あなたも芸術家の端くれなんだから」

「うん、まあ・・そうだけど」

「でも良かったあ、あなたと結婚しなくて。床の間に飾っとくって言ってたけど、その間に借金貯まって行ったら画どころの騒ぎじゃなかったわよ。今の夫に感謝感謝」

「確かに今の旦那さん、善い人だよな。男前だし、酒もタバコもアンマリやらないし、性格温厚、掃除も料理も俺なんかよりって言うか、数倍上手い。奥さん一筋で浮気なし。何が面白いのだろう。」

「ははは、彼、元々女性には余り興味が無いのよ。考えるのが趣味であり、仕事なの。料理だって掃除だって色々考えるととても楽しい、奥深い。そんな人なのよ、彼は。女性に興味ないのは、わたしの父と同じ。と言っても父はお酒一筋だけど」

列車の外は、少しずつ人家が途切れ緑が多くなっていく。山梨に入った辺りだろうか?

「わたし、こういう景色をぼんやり眺めているのが大好きなの、心の洗濯みたいで。旅は一人に限るわ、増して幽霊のお供じゃね。スマホをいじってる人も多いけど勿体無いわよ、折角の景色を楽しまないなんてね」

「御免、と言ってもまだズーと付いて行くつもりなんだけど、許してくれる?そ、それにお、俺が君がその気になるまで、何時までも待つって言った事も水に流してくれるかな」

「良いわよ、としか言いようが無いじゃないの。それにあなたが噓つきだなんて言ってやろうと考えてたのは、うーんとわたし達が年を取ってからの事。冗談話として言いたかったのよ。わたしもあなたと結婚するなんて全然考えていなかったのだから」

そこで気が付いた。後の二人の事。少しは笑ったりするけど、殆ど気配が感じられないのだ。いないような、いるような、そんな二人。

「ねえ、そこのお二人さん、あなた方はどうしてこの世に留まっているのかな」

二人とも下向いてもじもじしてる。

「あなたから言いなさいよ、年上みたいだし。あなたももしかして謝金まみれで柱にぶら下がったの?」

「いえ、いえ、そんなんじゃないですよ。それに俺はあ、俺はあ・・一応病死と言う事になってるんですよ」

「じゃあどうして幽霊になってここにいる訳。何かし残した大事な用でもあるのかな」

「まあ聞いてやってよ、こいつの話。聞くも涙、語るも涙なんだから」

「ふうん、そう。でもアンマリ聞きたくないな、聞くも笑い、語るも笑いが良いな、なんかここ暗くってぱあっと明るく行きたいんだけど、駄目?」

「駄目です。幽霊に明るくなんて無理です。暗くってお涙頂だいが一番相応しいんです」

「うーん、ま、そうだねえ。無理なら仕方が無い、話してみたら。心が軽くなって成仏できるかもしれない」

「そ、そうですか、俺もそんな気がするんです。生きてる人に聞いて貰えたら成仏できるって」

多恵さん、観念するしかない。この少し年が行った(50歳前後に見えるが、顔色が悪いので本当はもっと若いのかも知れない)中年男性をまじまじと見つめる。

「いやあ、美人にそんなに見つめられてはちょとばっか、こっぱずかしいな。生きてる時にもそんな経験が無かったもんでへへへ」

多恵さん、少し気分を害す。

「幽霊さんに美人と言われても全然嬉しくないわ。あなたは何をやってた人。サラリーマンには見えないけど」

「はあ、実は長野で蕎麦屋をやってたんです。長野は蕎麦が名物ってご存知ですか?」

「学生時代に長野に行った事あるからその時に食べたわよ。母は元々うどんが好きだったけど、こっちに来てからはうどんを頼むと真っ黒なお汁で、味もしょうゆの味しかしないって、外では絶対に食べなくなったわ。あ,御免なさい、、母は長崎人なの。だから、蕎麦も殆ど家で作るの、勿論乾麺や、茹でた奴ね、父が蕎麦好きなものだから」

多恵さんはグルメではない。「うーん、これ、喉越しがたまらねえな」とか言われれば良く噛んで食べなきゃ胃に悪いよと突っ込みを入れたくなるし「わあ、素敵な蕎麦の香り」なんてお尻辺りが痒くなるようなコメントを吐くタレントには絶対なれないなと思う。

「そうですか、お父さんがお蕎麦、お好きですか。嬉しいな、それじゃあお父上が亡くなったあかつきには腕によりを掛けて蕎麦を打ち、飛びっきり美味しい奴をご馳走しますよ。そう伝えて置いてください」

「あ、ありがとうって縁起でもない。でも、わたしの母は蕎麦は体に良いのよ、特に血圧の高い人は下がるとか聞いてるし、血管も丈夫にしてくれるらしいって言ってるけど、父は血圧ズーと高いままだわ、効き目なし、疑わしいもんだわね。でも,もしかしたらお酒の飲みすぎかしら」

三人一同、一斉に頷く。

「それは多恵さんの父上が元々お酒が一滴も飲めない家系、おじいさまも、おばあさまも飲めない家系なのに、友人と騒ぎたい、仲良くしたい。酒を飲めば楽しくなるに違いない。否な事も忘れられる。屹度初めは不味くって、体は苦しくって否だったに違いないですが、回りが俺が飲む事を期待してるに違いない、飲んじゃえって。面白半分、興味半分、ズルズル深みに嵌って行かれて今の状態に成られたのだと思われます。飲み始められたのは、随分若い時だったそうですよ。多恵さんの事が心配で色々調査させて頂きました」

多恵さん、杉山君をぐっと睨む。そう、そうだった,彼も又、仲間と群れたいと云う理由で学生時代から、友人、知人、果ては教授辺りまで引き込んで、否、から引きずり込まれてが正しい、マージャンなんかに現をぬかしていたんだっけ。そして社会に出た後は屹度面白くない事や心配な事がある度に、それから逃れたい一心で賭け事の中に飛び込む。悩みは消えて呉れない。又ギャンブルに走る。やがて何時の間にか借金が増える。然し、時には勝つ。それがギャンブルの怖い所、もっとやったら、屹度大もうけ、借金なんて直ぐ消える。でも消えない、消えるどころか増える一方。その悪循環の果て生命保険の中に助けを求めるしか無かったんだ。仕方の無い男たちだこと。でも仕方の無い男たちだけではない。大樹さんもそうだけど知り合いの人達の大方が、仕方のある男性達だ。

いよいよ窓の外は緑と青の世界だ。何故、こうも山を背景にした空は涙が出るほど美しく見えるのだろう?なぞだ、今度大樹さんに聞いてみよう。案外、俺にはこれぽっちも見えないよ、なんて片付けられてしまったりして。いやいや、大樹さんに限ってそんな事はない。彼は一生懸命考えてくれる。多恵さんが納得できるまで。

「あ、あの家可愛い、この風景にピッタリ」「おう、矢張り、古い家は何か落ち着くな、どんな人が住んでいるのかしら」なんて興味の尽きない窓の外ではあるけれど、目の前には顔色、抜群に悪い男性ありき。

「俺は、蕎麦屋を高遠って所で遣ってたんです」其の抜群に顔色悪い男がボツボツ喋り始める。

「高遠って知ってます?」

「あの高遠桜で有名な」と多恵さん答える。彼、嬉しそう。

「そう、そうなんです。少し濃い目の桜色なんです、見たことあります?」

「写真や画像でしか見たこと無いけど、一度本物を見てみたいものね」

「是、是非見てやってください」死んでも故郷を愛する気持ちは変わらないらしい。

「その桜の季節になるとどっと見物人が押し寄せる、蕎麦屋にもお客がどどっと遣ってくる」

「そ、そうでしょうね。それでどうしたの?」

「人手が足りなくなるんです、女房と二人では。女手は近くの人に来て貰う事にしたんですが、蕎麦職人が足りない。中々これが見つからなくて、何処も矢張りその時に来て欲しいもんで」

男の顔が実に寂しそうだ。

「見つからなかったの?」蕎麦屋の、もとい、元蕎麦屋の旦那、益々暗い顔。

「いえ、知り合いの紹介で、まだ蕎麦を打って間もない若い奴が居るとかで、仕方なくそいつを雇う事にしたんです。腕がまだ不確かなので少し早めにね。本とにまだまだだった。飲み込みも悪くって、イライラするじゃないですか、怒鳴りもするし、時には手も上げたりもする。内の奴が同情して、優しい言葉をかけたり、美味しいもの作って遣ったり」

「ここで辞められたりしたら大変ですもの」

「俺もそう思っていたんです。今辞められたら困るなあって」大将大きく溜息をつく。

「シーズンが来て、見物人もどっと押しかけて来る。夕方辺りまでてんてこ舞いですよ。朝が早いので夜はグッスリ、死んだように眠りました。でも花の命は短くって桜は段々散っていく。花見客もそれに伴い減っていきます。もうそろそろ若いのも他の所を紹介して辞めて貰う事にしよう、なんて考えながらその日はそのまま寝てしまいました。ふと誰かが俺の枕元を通っていく気配に目が覚めました。家内でした。トイレにでも起きたのだろうと又うとうと。大分時間が過ぎた頃再び目が覚めて隣を見ると、居ないんです、誰も、女房も。どうしたんだろうと不安になりました。まさか食べ物に当たってトイレの中で倒れているんじゃないだろうかと。食べ物を扱う店にとってそれは命取りになる位怖いことですからね」

「それはそうだわね、で奥さんは?」

「慌てて起きてトイレに様子を見に行きました。でもトイレには誰も居ませんでした。不思議に思いつつ引き換えしてくると、何時もは物置部屋にしてるんですが、今は若造の為に片付けて使わせてる部屋から僅かな明かりが漏れているんですよ。一瞬躊躇はしましたが、ガラリと戸を開けました。わたしの気配に気づいていたんでしょうね、二人とも起きていました。『何をしてるんだ、今すぐとっとと出て行きやがれえ!』そう怒鳴りました。直ぐ二人とも荷物をまとめて、女房のほうは少し手間取りましたがね、一緒に出て行きました。女房までがさっさと出て行くとは思っていませんでした、子供を残してね」

「え、子供さんがいらしたの?」

「はい、当時8歳と5歳、娘と息子です。翌日子供たちに何と言えば良いのか困りました。チョとの間使いに行って貰ってるてことにするしかなかったんですが」

「言い訳もそうだけど、お店と子育て、両方するのって大変だったでしょう、まだ手がかかる年頃だし」

「ま、娘が何となく気づいていたんでしょうか、あれこれ手伝って呉れまして助かりました。女の子がいて良かったなあとしみじみ思いましたね」

いよいよ目的地まであと僅か。ここいらで降りても良い画がかけそうな場所が沢山ありそうだが、ここは我慢、我慢、初志貫徹で行こう。

「でもその後帰って来ましたよ、女房の奴。あいつも流石に子供のことをほっぽり出す訳にはいかなっかったようで」

「良かったじゃないの、奥さん帰ってきて。ま、不愉快ではあってもここは我慢のしどころよ、表面的であってもにこやかにね。商売の為にもお子さんの為にもね」

「俺もそう思いましたよ、そうすればそのうち何とか元に戻るかもしれないとね。でも、色々聞こえて来るんですよ女房がまだあいつとあってるって。この間も二人で楽しそうに茅野の街を歩いていたとか、諏訪湖の辺のレストランで食事を取っていたとかね。これじゃ酒でも飲んで忘れてしまえ、てな事になるじゃありませんか」

「母が、あ、母は薬剤師なの、薬屋さんなの、漢方しか扱ってないの。だから養生法とか食養に煩いの。その母が言うには、お酒は楽しく飲まなきゃいけない、面白くないとか、嫌な事を忘れたいから飲むのって体に一番悪いことだって」

「御名答。でも飲まずには居られないんですよ。周りからも離婚を勧められましたがね、子供のこと考えると出来ません。朝早く起きて蕎麦を打つ、タレやだしを作る。学校から帰った子供の顔を見る。後は酒、味なんてどうでも良いんです、あの刺激だけが自分の味方だった。気が付くと、アル中ですよ」

茅野に到着。外に出る。結構気温は低いが日差しが強いので日向は矢張り暖かい。

「ええっと、車を借りなくちゃ。レンターカーのお店は何処かしら」後ろから付いて来る3人を見ると、この日差しの中で今にも消えてしまいそうなくらい、その存在が薄い。

「ほら、左手ですよ、あなたの直ぐ左」

元蕎麦屋の旦那が教えてくれる。

こじんまりした店に主人らしき男性が一人。

「あのう、車借りたいのですが、車借りるの初めてなんだもんで。今日と明日お願いします」

「そう、何人で乗るの?一人」

「え、あのう、それがあ・・・ええっと」

「ああ、後から乗ってくるのね」

「あ、はあ、今はそんな所で。うーん5人乗りでお願いします」

ピカピカの紅いセダンを借りた。

「うひょー、こりゃ新車みたいだ、乗り心地良さそう」三人とも、大喜びだ。

「あなた達幽霊なんでしょう。乗り心地なんて関係ないでしょうに」

「俺たち幽霊でもガタガタよりもスーイスーイが良いに決まってます。オンボロよりもピッカピッカ。汚いものよか綺麗なもの。ま、中にはその反対の者も居ますがねえ。俺たちまともな幽霊はまだまだ感性もまともなんですよ。それよか、早く出発しましょう、店主が見てますよ」

「でもあなた達、大樹さんに感謝してよね、この車のレンタル料殆ど彼の懐から出てるんだから」

車が爽快に走り出す。うん、成るほど実家の車とはちょっとばかり違うような、そうじゃないような、多恵さんには良く分からない。

一先ず落ち着いたら多恵さん、お中が空いてる事を思い出した。電車の中で何か買って食べようと、碌に朝御飯を取らずに家を出たんだった。仙人行を遣ってる母なら兎も角、まともな人間を志す多恵さんにはこのまま空腹なんぞではいられない。

そうだ、この先の蓼科湖で車を停めよう。矢張り湖は魅力的、画家心を擽るわと多恵さん、目標を先ず蓼科湖に定める。

駐車場に車を入れる。なるべく日陰になっている所を探して停まった。

「あなた達、わたしお中が空いたの。車の中で待っててくれる」

「俺たちにお構いなく。俺たちは俺たちで何か探して、小腹満たしますから」

「え、幽霊でもお腹空くの?1日3食食べるわけ?」

「ははは、俺たち、幽霊になったものは、現世に未練が有るんですよ。それに意地汚い。車もそうだし、ケーキの好きな者は1日中食べてる奴も居ますし、これなんかこの世で酒飲んで体壊したくせに、俺たちが友達になって、言い含めるまで新宿の飲み屋で飲んだくれていましたよ。女の幽霊なんか着物やドレスをとっかえひっかえ、着替えて喜んでる者も居ます」

「へえ、そうなんだ」と多恵さん感心する。

ま、一先ず鍵だけはしっかり掛けて、湖に面した洒落た喫茶店に入る。

店から眺望は素晴しいものだった。南にはまだ少し残雪を残しているらしい山々、手前には芽吹いたばかりの木立が湖面を彩る。時々吹く風に波立つその湖面。

「素敵なロケーションですね」とお水を運んできた女性に声をかける。

「ええ、まだ夜は冷えるし、花も少ないですが、人も少ないし新芽も綺麗。わたし、今が一番好きなんです、この季節の蓼科が」

「本とにそうですよね、これから頑張って自然を盛り上げて行くぞう!て、声が聞こえて来そう」

お水を一口飲んでから女性に尋ねる。

「ここの湖、一周するのに時間掛かるかしら、徒歩でだけど」

「そうですね、そんなに掛からないと思いますよ、一周1キロ位ですから」

「あらそれなら大丈夫ね、脚には自信あるんだ、おまけに平地だもの」

チーズケーキとコーヒーは砂糖抜きのミルクたっぷりカプチーノをお願いする。雄大な景色を眺めながらいただくって最高、しかも幽霊抜きなんて!ようし、描いて、写真とって仕事するぞと多恵さん張り切る。本来あいつ等なんて連れ歩く旅ではないのだ。もっと自由に、描きたい物を描きたい様に、探して見つけて自分のものにする旅なんだ。

「ここのケーキ、美味しいって書いてあったわ」「そう、そう。わたしも見たわ」と言いながら、客が、女性が4,5人程入ってくる。

ここの店評判いいんだ、それとも宣伝上手なのかしら。兎も角、ケーキもコーヒーも美味しかったけど。

ご馳走様と店を後にする。本とに5月末にして良かった。ありがとう、大樹さん、そして真理ちゃん。この素晴しい世界を見せてあげたいけど、お仕事、お仕事。しっかり良い画を描かなくちゃ。

矢張り山が一番映えるのは喫茶店などがある辺り、それから少し言った所までだろう。写真数枚と心にしっくり来る場所でスケッチする.水の煌きも大切だ。持ってきた色鉛筆で上手く表現できるかな?少し心もとない。でも大丈夫、この脳裏に、この心に焼き付けたから。後から油絵に描き上げる時、その時の感動が甦るはず。グッと来る場所はアングルを変えたり、座ったり、又立ったりして最高の地点を探す。こうやって画を描き出すと夢中になる。時を忘れる。

ふと時計を見るともう1時を回っているじゃないか。未だ他にも回らなくてはいけないし、ここはこれ迄としよう。本来ここは描く予定には入れてなかったんだけど,余りの八ヶ岳の凛々しい姿とそれを写す湖の煌きに、描かずには居られなかったんだ、と自分に弁解しつつ多恵さん、慌てて引き返す。

あいつら怒ってるかな、なんて覚悟しながら車に戻ると誰も居ない、周りを見回してもその気配が無い。ははは、しめた、このまま置いてけぼりで出発しようかな?でもあのお蕎麦屋さんの話ももう少し聞いて上げるべきだったのかも。それにもう一人の哀しそうな若者の話なんて皆目聞いていない。多恵さん少し迷う。わたしってお人良しよねえ、さっきもっと自由に勝手に旅をしようと決心したじゃないか。

その時、向こうの茂みから手を振る杉山君。しぶしぶそこへ向かう。

おお、凄い!ご馳走が、然し儚げに、今にも消えかかりそうに並んでいる。

「これ3人で調達したんです。結構ここいら豪華なフランス料理とかイタリア料理とかのレストランが多くて何を食べるか迷ったんですが、まあ色々取り合わせてみました」

「はあ、それで勿論お金払ってないんでしょう?」

「勿論です」と皆胸を張る。

「俺たち幽霊はその料理の味や形、噛み心地、それから匂いも少しだけ頂きますが、そのものは頂きませんから。無料に決まってます!」

「そうよねえ、安心したわ。じゃあ早く召し上がれ。どれも美味しそうだわ、本物だったらお相伴させて貰いたい位」

「お相伴、大歓迎です。カロリーも無いから幾ら食べても太りません。ただ生きてる人間には腹持ちはしませんが、ははは」

「遠慮しとくわ。湖1周してたら又少しお腹空いた気分だけど、これ食べてもお中は満たされないんでしょう?何か虚しい感じ」

「でも気分的には満たされますよ」

「良いから、あなた方だけで盛り上がって頂だい。でも早くしてね、そうしないと次のとこがメインなのに時間失くなっちゃうわ」

自分のことは棚に上げて3人を急かす。三人この時ばかりは悲しい過去の事を忘れ、楽しげに,旨そうにわいわい騒ぎながら食べている。多恵さんはその間車に戻って、今までのスケッチや写真の写り具合をチックする事にした。

少しして3人組が社内に戻ってくる。

「御免、御免、じゃ次の目的地まで出発進行!」

若しかしたらわたしが居ないのを幸いにこいつ等飲んだな、上機嫌だもの、と多恵さん懐疑的な目で幽霊君達を眺める。幽霊3人組も多恵さんの心を読んだ。

「へへへ、済みません。ワインが、とても良いワインがあって、それで試しに飲んでみたら、そりゃとろけるように旨くてつい飲み過ぎてしまいました。河原崎さんにも是非飲んで欲しいと持って来ましたよ、お詫びのしるしに」

な、何て奴らだ、酒まで、それもどうやら最高級の奴を飲むなんて。ふうん、最初は幽霊に成ったのを

同情してたけど、こいつ等を見てると幽霊も中々捨てたもんではないようだ。

「ありがたい様な、迷惑な様な。兎も角わたし運転手、それも俄か運転手。今は駄目、幾ら本体の無い酒とは言いながら、あんた達の様子見てたら危ない危ない。さあ早く行きましょう」

すっかりテンションの上がった陽気な幽霊3人組。これじゃあ誰も怖がらないわねえ、例え元蕎麦屋の主が元奥さんの所にヌーと現れたとしても「あんた、死んでからも酔っぱらてんの。好いかげんにしてよね!」と追い出されるのが落ち、と多恵さん心の中でクスリと笑う。

道は爽快、高度が上がるに連れ、まだ新芽の多い木々の間から下になだらかな丘が重なる。チラホラ青く見え隠れするのは白樺湖だろうか。白樺湖も中々捨てがたいもんだ。

その時唐突に元蕎麦屋の旦那が喋り出した。

「やっぱり、あなたの言う通りですね。酒は楽しく飲むに限りますよ。第一旨い。気分が良い。愉快だし、人との仲も深まります。あの頃の酒は味なんてどうでも良かった、酔いたいだけ。酒の刺激だけが俺は未だ生きてるって感じさせてくれる、そんな思いで飲んでいたんだから。まあ、蕎麦を打ってる時とか、子供が学校から帰って来た時もほっとしていたんですが。さっきも言いましたっけ。そう、そうやって毎日酒を飲む日が続いて4,5年もすると当然体壊しましてね、病院通い。それで酒を止めれば良かったんでしょうが、根っから酒好きと来ている上にアル中でしょ、止めれませんよ。内のだって浮気を止めたなんて情報全然入ってきませんし・・・」

「まあ,会ってるて云うのは見れば判るけど、会ってないのは判りようがないから。奥さん信じるしかないわねえ」

「あいつ見てても浮気をしてんのか、してないのか、見方によって違って見える。一つ確かなのはあいつが俺の事をもう何にも思ってない、否むしろ嫌っている、只子供の為だけにこの家に留まっていると言う事。そんなこんなしている内に、ある日吐血、即入院。店も閉じなくちゃいけなくなりました。子供は中1と小4に成ってました。あいつも途方にくれたと思いますよ。まあ一応保険に入っていましたから、遣り繰りすれば何とかなるだろうとは思いましたが・・・」

「じゃあ、まあ、仕方ないじゃないの。奥さんが原因だとしても、自暴自棄になって酒を飲んだくれたあなた。それが肝臓にとっては一番悪いんだから。恨みを残してこの世を去るのって良くないと思うわ」

「そうじゃないんです。矢張り内の奴未だ切れてなっかたんですよ、あいつと。そっと囁く奴がいるんですよ、こんな死にかけてる俺に。それを聞いてから暫くしてから、気落ちもあって現実世界からおさらばって事になりました」

女の神氷水と云う標識が見えたので駐車場を探して停める。氷水なんて言葉に惹かれてそれを今日の第一目標にして遣って来たんだ。日陰が多いので、場所を選ばず車を停める。うん、結構見物人が多い。良く見るとタンク等を持った人達が5,6人。そう云う人達がうろうろ。うーんここは画を描くというより、名水を汲んで帰る所らしい。でも折角来たんだから、ちょっと覗いていこう。

「少しの間、大人しく車の中で待っててちょうだい、酔っ払い幽霊さんたち」

「はあーい、はい。行ってらしゃい、お姫様」矢張りこいつ等酔っ払っている。

成る程清らかな水がいたる所から流れ落ちて、小さな滝のように見える所もある。然し画を描く意欲は余り湧かない。この場所は夏だったら最高に気持ち良いだろうが、今は5月も末とは言いながら、結構気温が低い上に幽霊3人も引き連れて、狭い車の中で過ごしていたんだから、多恵さんには余りありがたくない。どちらかと言うと冷えに冷えてる感じ。むしろ今は無性に暖かい蕎麦が食べたい。

うーん、どうしても食べたい。この辺に蕎麦屋さんは・・在った。少し離れた所に手打ち蕎麦のひらひら舞う上りが見える。ありがたい、天の助けかな。

まだ開店してからそんなに年数は行っていないだろう、と思える佇まい。暖簾を分けて中に入る。

「いらしゃいませ!」もう直ぐ2時だもの、客は他にはいなかった。多恵さんと同じくらいの女性が声をかける。何か後ろに気配を感じる。あいつら食べ物に引かれて又出てきやがったな。後ろを振り向くと元蕎麦屋の旦那が一人立っていた。

「あのう、あったかい、蕎麦、山菜蕎麦が好いかな。一つ貰えます」彼を無視して注文する。

「山菜蕎麦ですね、畏まりました。山菜蕎麦一つ!温かいの」女性は奥の方へ声をかける。

「あいよ」と返事がかえる。

「ここいらは水がとても綺麗で美味しいからお蕎麦も素晴しいんですよ」と女性はお茶を出しながら微笑みかける。

「そうでしょうね、水を汲みに沢山の人が来てましたものね」

そう言いながら元蕎麦屋の旦那を見る。彼も多恵さんの方を無視している。只管、この女性を見つめている。ああこういう人が彼の好みなんだなと多恵さん一人納得。

「ええ、あそこは何時も満員で羨ましいくらいです。それに引き換え、内はまだ月日が浅くて毎日大変ですから。あらやだ、お客さんにするような話じゃなっかったわ。内の人に叱られるわ」

「二人でやってらしゃの。初めは皆大変ですよ、何をするにも」

「ええ、でも土日には子供達が手伝ってくれます、こんな店ですが土日は矢張り忙しいもので」

「それは助かりますね、もう大きいの?」

「はい上は中3で女の子、下は小6で男の子です。それにこの9月にはもう一人」

そう言えばエプロンではっきり判らなかったがそんな感じがしないでもなかった。

「まあ、それは、それは。おめでとうございます。三人もお子さんがいるなんて今の時代珍しくなっていますけど、商売遣りながら育てるなんて大変でしょう」

多恵さん、実家の薬屋の事を考えていた。お店を始めた当初は母が一人、多恵さん4歳、弟はまだ半年をやっと過ぎたばかり。近くの保育所に預けようと申し込んだが、店は子育てしながらでも出来ると言って、断られてしまった。仕方なく、母は試験室に弟を寝かせ、しかもこの弟は脱腸を手術したばかりで何時見ても下利便で、まだ紙おむつも普及していなくて、それはそれは大変だったとか聞いてる。それにまだ幼稚園に行ってない多恵さんの面倒も見なくてはいけなかった。どちらかと言うと大人しくて静かな弟はおむつの取替え以外は一人にされがちだったが、その所為か殆ど言葉を暫くは喋らなかった。その後その弟が酷い喘息に罹ったのが切っ掛けで、父も会社を辞め、店を一緒に遣り出したのだ。

蕎麦が出来上がり、湯気を立てながら運ばれてくる。

「わあ、温かそう!こんな肌寒い日には温かいのが一番」

「そんなに気温低いですか?そう云えば何だか少し何時もより冷えるみたい」

多恵さん、その張本人の元店主の顔を見やる。さっきと同じように何か言いたそうに、少しばかり憎しみの混じった顔でその女性を見ている。

その時、又客が二人入ってきた。アベックのようだ「あ、温かそうで美味しそう!」女性のほうが叫ぶ。

「本とだ、何か急に肌寒くなって来て温かい蕎麦を無性に食べたくなってしまったよ」

またまた次の客が入ってきて同じような事を言って山菜蕎麦や天ぷら蕎麦を注文する。

何か怪しい、玄関の方を睨むと居た居た残りの二人も。ニヤニヤ笑いながら傍らに近づく。

「どうです、幽霊ですから人を冷やすのはお手の物です」

周りを見渡す。幸いな事に皆おしゃべりに夢中でこっちを気にしていないようだ。

「どうして、人を冷やす必要があるのよ」ささやく様に喋る。

「どうしてって、そうだよな、お客を増やす必要は無いのか。でも子供のこと考えたら矢張り増やしてあげた方が良いんじゃないの?」

「子供の為ねえ、いやに親切ね、お知り合いなの?」

「お知り合いなんて、彼女、この旦那の元奥さんですよ、知らなかったんですか」

「えっ!」突然大きな声を上げてしまった。皆一斉に多恵さんの方を振り向く。

「何か不都合な事でも?」心配そうに元奥さんが走って来る。

「いえ、いえ、時間を見て、もうこんな時刻かとびっくりしたもので」

成る程、彼がじいっと見ていた訳。

「お子さんの顔も見たいけど、先がありますので。お幾らですか?」と店を後にする。

車に戻る。一先ず発車。暫し皆無言。女の神展望台に着く。これは又素晴しい眺めだ。見渡す限りの山々

それに湖、町、点在する洒落たホテル。でも多恵さんの描きたい景色ではないようだ。

「どんな景色を探してるの?」杉山君が尋ねる。

「そうねえ、も少し木が一杯在る所とか、緑の多いとか、沼地とか描きたいな」

「じゃあ、もう少し行くとすずらん峠と云うとこに出ますから、そこから蓼科の登山道があって、そこを登って行くと屹度お望みの場所が2,3箇所は見つかると思います」

今まで沈思黙考の元旦那が口を開く。

「わたし、登山する気持ちは全く無いんだけれど。まあこうして見ると、一応格好はトレッキングの姿だわね」

「彼が言うには、山頂まで行かなくっても、少し入っただけでそれなりの所があるらしいですよ。若い時には良く登ったらしいですから、案内してもらいましょう」

入山手続きを済ませ登山道へ入る。平坦な山道だ。チラホラつつじや石楠花の蕾等が目に付いた。あれは何のつつじだろうか、少し葉の形も花の色も形も普通の山つつじとは違っているようだ。若緑と枯野の入り混じった世界に色を見せてはいるが、まだまだ咲き始め。そう云えば花を描くのを専門にしている友人は中禅寺湖へ八潮つつじを描きに行くと言ってたっけ。

「あれは蓮華つつじですよ。も少しすると真っ赤に咲いて目が覚めるようですよ」元蕎麦屋の旦那が教えてくれる。

白樺の根元に茂る笹に混じって必死で咲いてる白い花を見つけた。エ、スズラン?

「日本スズランですよ、外国のに比べたら花数も少なくて小ぶりですから、見過ごしてしまいます」

元旦那が寂しそうに呟く。

「でも可憐で,健気で・・なんか初めて会った頃のあいつ見たいな。それにスズランて毒があるんでしょう?そこまで似てますよ、ははは」

「分かったここが何故すずらん峠て言うのか、昔はもっと群生してたんでしょうね」

「はい、諏訪のほうに入笠山というのがあって、そこに行けば群生してるのが見られます。時期的にもう少し後に行ったほうがもっと沢山咲いてるでしょうが。でもこの頃は温暖化で分かりません、今までよりも、ずうっと早く咲くなんてことも考えられます。それに同じ時期に、布袋アツモリソウなんてものも、運がよければ咲いてるのが見つかります。すずらんはゆりの仲間でアツモリソウは欄の仲間、少し可笑しいですよね」

「わたしの母が花が好きで、アツモリソウの仲間の、クマガイソウをもう何十年も育てているの。でもアツモリソウは寒い所でしか見られないからと諦めているらしいけど、そこに行けば見られるのね。教えてあげようかしら」

「そうですか、是非見に来てくださいと伝えて下さい。それから、さっき行ったところ、女の神って名前が付いてたでしょう。あれは蓼科の別名なんですよ、良い名でしょう。女神様なんだ、蓼科は」

「屹度やさしくて美しい女神様なんでしょうね」

「日本では山は大抵女の神様て云う事になってますよ、結構嫉妬深くて女人禁制になってる所が、昔は多かったらしい」

杉山君余計な事を漏らす。

「それは屹度男の人が考えたんでしょうね。まあ女が登るのは危険だと云うのも有ったかも知れないけど、色んな利害関係も絡んでいたと思うわ」

多恵さん足を止める。多恵さんのお目に適う場所が見つかった。木の配置、見え隠れする山つつじも〔蓮華つつじ?〕丁度好い塩梅なボリュウム感、下草も山道の曲がり具合も申し分ない。先ずは写真を3枚ばかり。それからスケッチ。色鉛筆で大体の色を乗せて行く。

そこを済ませるともう少し登る。おう、やや苔むした岩場に辿り着く。勿論ここも写真とスッケチ。

「少し早めに下山したほうが良いですよ。山の日暮れは早いし、気温もグッと下がりますから」

少し未練は残ったが、ここは地元の人間の言う事を聞くことにしよう。

道具を手早くまとめて肩に引っ掛けて、地元の幽霊さんを先頭に下山を急ぐ。車に戻る頃には5時近く、

「夕焼けは好きですか?」友と旦那が聞く。

母は長崎の夜景で有名な稲佐山の反対側の山の中腹辺りに住んで、毎日その稲佐山の上で展開される夕焼けの姿に魅了され続け、テレビであるタレントか誰かが「夕焼け評論家」と称して毎週出ているのを見て、こんな職業があるんならわたしもなりたいと叫んだ程の夕焼け好きだが、多恵さんはそこまでの夕焼け好きではないが、と言うより、東京やマガタマ市なんぞに住んでると、碌に夕焼けなんて気が付かない内に夜になっているから、夕焼け好きかなんて聞かれても,[はあ、好きかも」と答えるしかない悲しい多恵さんだった。

「お宿の前にちょっと寄り道して行きませんか?夕焼けが良いとこあるんです。まあここいら、何処でだって夕焼け見れますが・・・」地元の彼が呟く。

「そんなに時間掛からなければ良いわよ。夕陽の丘と云う所でしょう?あなた、何か思い出でも有るの」

「へへへ、ばれましたか。本とに未練がましいですよね、愛想付かされた女房と結婚する前に行った思い出の場所に行きたいなんて。自分ながら情けない」

「普通は行きたくないのが当たり前だ!俺なら絶対行かないぞ」

これはこれは、今まで意見らしい意見を一言も発しなかったもう一人の男性、まだ死ぬのには若すぎる男が、急に喋りだした。何か憤慨してるらしい。兎も角ここは車を出そう。

「もう少し行ったら右折ですよ」と地元の幽霊君が教えてくれるが、ナビがあるから大丈夫。

丁度良い時間だ。流石の多恵さんも目の前の雄大な景色と今始まらんとする空の大スペクタルショウには心打たれて、母を飛び越えわたしも夕焼け評論家、そんな職業有ったら成りたいと思わざるを得ない。

慌ててスケッチブックを取り出し鉛筆を走らせる。幽霊3人組は夫々の思いに浸っているようだ。

「良い拾い物が出来たわ、ありがとう御主人。少し思い出して切なかったんじゃないですか?」

「ええ、まあ。でも良い時もあったんだな、あの頃のときめきをすっかり忘れていたんだって気が付きました。酒なんて飲んでいないで、もう一度ここに来てやり直そうって言えば良かったのかも知れないな」

「さあ、ホテルに向かって出発」と感傷には程遠い杉山君が張り切った声を出す。

宿は行く時散々迷ったが次の日程を考えると、月並みだが白樺湖の辺のホテルが一番良さそうとだと決めて、予算も抑え気味にごくごく普通の所、普通の部屋を予約した。多恵さんは主婦でもある。

「結構良いホテルじゃありませんか、楽しみ、楽しみ」杉山君偉くはしゃぐ。まだお昼のお酒が残っているのだろうか、それとも何か魂胆でもあるのかな?どうもその方が当たっているような感じがする。

4回の部屋に到着。やれやれ、一先ずこのトレッキングスタイルから気楽な服に着替えようと思ったら、目の前の3人組、部屋の中まで付いて来た。

「あなた達、わたし、これから着替えてお風呂に入るわ。それから夕食を摂る。ま、8時頃までどっかに行ってくれない。何ならこのままさよならしても構わないけど」

単刀直入に3人に告げる。

「そうは行きませんよ、このままお別れなんて。まだまだ案内したいと、こいつも張り切ってるし、この若いのなんか、まだ全く話を聞いて貰っていない。まあお邪魔なら8時まではこいつの子供たちのことが気になるので、あの店まで戻って様子を見て来ようとは思ってるんですが。河原崎さんも気になるでしょう?」

こいつらがそんなに簡単に退散するとは,端から思ってはいない。それに多恵さんも蕎麦屋の子供たちの今の状態が知りたい。

「分かったわ。そう云う事にしてここは一旦別れましょう」と3人組との暫しの別れ。

あーあ、清々した、そうだ、家に電話をしよう。茅野に着いたら直ぐ電話をしようと思っていたのに、あの3人組に振り回されて、すっかり忘れていた。何と弁解すれば良いのやら。

「あ、真理ちゃん、ママよ。今日、大丈夫だった?ママは、そうね、まあ大丈夫だったわよ、良いスケッチも描けたし、写真も取れたから。あ、パパの手が空いてたらちょっと代わってくれる?」

大樹さんに代わる。

「御免なさい朝連絡しないで。列車の中で昔の友人に逢って、その連れがとても不幸な人生歩いて来たとかで、長々と話し込んでて中々電話かけるチャンスがなっかったの。やっと今ホテルに着いて一息入れたとこ。ええ、良い画は描けそうよ、バッチリ心配無用って所。真理ちゃんは、良い子にしてるかしら。それから他の事で変わった事や、困った事なかったかしら?」主婦だもの家を離れても、いや離れているから余計気になるのだ。でも丸っきり大丈夫だった。

ヤレヤレ何とか今までの事は丸く収めた、しかも嘘は付いてない。只話したのが幽霊だったと言う事だ。

ベランダに出てみる。もう薄暗くは成ってはいるが、まだ湖も曲線を描いて折り重なる丘や山々もその赤紫の空の下にはっきり見える。では、大浴場に行くとしようか。

浴場も空いていた。伸び伸びと手を伸ばし、脚を伸ばす。矢張り少し疲れたみたい。それに冷えた。あと1日位しかあいつ等とは居られない、昔からどんなに好きな幽霊だろうが、場所だろうが、その幽霊たちに生気を吸い取られて、とどのつまり、死の世界に引きずり込まれてしまうというのが定説だ。増してあいつ等とは、一人は腐れ縁、後二人は縁もゆかりもない人達だ、ここは何としてでも言いくるめて、お引取り願おう。

風呂から上がって浴衣に着替え、今度は夕食、食堂へと向かう。

バイキングだ。ドリンクも食べるのも時間内なら好きなだけどうぞと言う訳だ。幸せな事に多恵さん、好き嫌いが無い。胃も丈夫。お酒は、父は前述のように、本当は飲めない性質なのに酒好き、母は酒豪の家系ときてる。多恵さんは真ん中とってまあまあ飲める程度。今日はビールを1杯とワインを2,3倍程度にしとこうか、部屋に戻ればあいつらと話さなくちゃいけないんだ。

歩き回ったのでお腹も空いていた。お肉もお野菜も味付けも多恵さんに合っていたのでもりもり食べた。デザートにケーキも3個ほど食べ、ついでにメロンや、スイカ、パイナップルも頂いた。

ああ、あ、お腹一杯、満足、満足。あいつ等に生気を吸い取られる前にこっちもエネルギーを満たさなくちゃ。と部屋へ戻る。ありゃー、もう3人組帰ってきている。おまけにこのそれ程広くない部屋一杯にビールに酒、ワイン。料理もワンサカ。酒盛りの真っ最中だ。

「やーお帰りなさい。待ってましたよ、如何でしたか、お風呂にバイキング。一人で少し寂しくなかったですか?」

「ぜーん、ぜん。すっかり温まったし、美味しくご馳走も頂きました。あなた達の事すっかり忘れて最高の気分だったわ」

「マタマタ、ご冗談を。如何です、俺たちの酒盛りに付き合いませんか?蕎麦屋の帰り、調達して来たんですよ。どれも一流品ばかりです」

「お腹一杯なの、遠慮しとくわ。これを食してわたしまで幽霊になったらどうしてくれるのよ。それより子供たちはどうだったの?元気で楽しく遣ってたかしら、新しいお父さんとは旨く行ってたのかしら?」

「残念ながら旨く行ってたんですよ。すっかり家族って感じ。こいつの入る隙間も無いくらい、仲良くて幸せそうでした。まあ仕方ないですよ、アル中で暗い顔した父親より、健康で明るい、愉快な父親のほうが何と言っても良いでしょうからねえ」

「うーん、そうか、そうじゃないかとわたしも思っていたんだ。でもそれで良いんじゃないの、子供達の事を一番に考えなきゃいけないわ」

「俺もそれが一番だと思います。でも今日一日は感傷に浸らさせて下さい。アルコールに溺れたのも只管子供可愛さ故だったんだから。ええ、分かってますよ、ちゃんと向き合えばもっと良い解決法があったんだとね。でも性格的に弱い人間にはそれが怖くて出来ないんだ。悪い事しか考えが回らないんだ。女房が子供連れて出て行くなんて、耐えられないって」うんうんと他の幽霊さんたちも頷く。皆気の弱い人間の集まりなんだ。

「なあに、今更アレコレ言ったって仕様がないじゃないの。じゃあ、今夜は子供達の幸せを祝ってあなたたちで乾杯しなさいよ。見届けて上げるわ、ここで」

「あれ、どうしても河原崎さんは俺たちの酒盛りに加わらないんですね。冷たいなあ、お酒結構強いと思っていたけど」

「嫌なものは嫌なの。まあ、話ぐらいなら付き合っても良いけど」

「じゃあ、そろそろ、ぼ、僕の話を聞いてもらおうかな。ぼ、僕はまだ何にも話していないんだから。此の儘終わちゃったら、やっぱ、何か心残り、化けて出て来るかも」

「じょ、冗談は止めてよね、まあ、ビールでも飲んで、もう少し明るくなってから話して頂だい。今のあなたでは哀しすぎる予感がするわ」

「そりゃそうですよ、こいつも又悲劇的最期を遂げたんですから。まあ他人から見たらちょとした喜劇かも知れないけどさ、他人の悲劇は蜜の味って言いません?」と杉山君。

「あなた、病死にしては若そうね、癌か何か。それとも矢張り自殺?」

「いえ、事故死です。でも自殺みたいなもんです、一応交通事故死として処理されてますが・・」

「ふうん、自殺みたいな交通事故死か、ま、ありそうなことね。運転する身としては良おく気を付けなくちゃ。で、自殺みたいな事故死になったいきさつは、あら、あなた、泣き上戸、もっと明るく、は、無理だとしても、普通に、淡々と話してよ」

でも、元若者は暫く泣き続けた。元蕎麦屋はしんみり日本酒を傾ける。杉山君はこれは一人明るく陽気にビールをラッパ飲み。幽霊もさまざまだ。

「ぼ、僕には好きな人が居て、ズーと片思いしてたんです。杉山さんみたいに他の人と結婚するなんてしません。待っていました、彼女が振り向いてくれるのを」

{おいおい、俺だってズーッと待ってるつもりだったんだから。でも待ってたら、今も独り身だったよなあ。矢張り結婚して良かったんじゃないかな」

「でも、もう少しぐらい待つべきだったと思いマース。人が苦しんでいる時に」

「そうだ、そうだ、愛なんてそんな薄情なもんじゃない。相手が結婚しようが、してまいが、待つと決めたからには待つもんだ」元蕎麦屋のおっさんが酒も入って喋り出す。

「済みません、本当は待つ積りだったんだ。でも前も言ったとおり、抜き差しならぬ状態で他の人と結婚してしまいました。御免なさーい」

「冗談よ、それよか、あなた、ズーッと待ってて、それで悲観して自殺だか事故死だか分かんない死に方した訳?」

「幾らなんでもそんな事しませんよ」少し彼の顔に笑いが見えた。

「そうよね、で、彼女は気付かずに良い人見つけて結婚しちゃった。これ当たりでしょ?」

「ブ、ブ^-。大はずれ」杉山君が大はしゃぎ。

「そうじゃないんです、ある日彼女が何故か僕に笑いかけたんです。舞い上がりました。そ、そこで食事に誘ってみたんです。オーケーでした。映画にも誘いました。それも、オーケー。人生ルンルン、バラ色でした。デートを重ね、色々プレゼントしました。今考えると夢のような日々でしたが、でも、思い出したくない、まだ片思いのほうが良かったんです}彼又泣き出した。

「どうしてなの、たとえ何かあって分かれたとしても、それは良き思い出として心の中に仕舞っておけば良いんじゃない?」

「只、僕が嫌いになって分かれてくれれば、僕も潔く諦めます。思い出も大事に仕舞っておきます。二人の仲は続いたんです、それからも」

「じゃ、泣く事はないんじゃないの、めでたし、めでたしって所よ、本来は」

「そう、そうなんです。めでたしめでたしとなる寸前まで来たんです。彼女、結婚を承諾してくれたんですから。嬉しくって嬉しくって皆に宣伝して回りました。会社でしょう。昔の友人でしょう。これが良くなっかったのかなあ。でも、僕が言わなくても屹度彼女か彼女の友達が言ったんだろうな」彼大泣き。

杉山君、優しく彼の背中をさする。元若者、顔を挙げビールをグラスに注ぐと一気飲み。ラッパ飲みの杉山君より、彼はデリカシーがあるらしい。

「親にも彼女を紹介し喜んでもらえたし、僕も向こうに挨拶に行き、気に入ってもらいました。結婚の日取りも式場も決まって、案内状も出しました。勿論婚約指輪も、ダイヤを奮発しましてね、新婚旅行はカナダが良いと計画も立てました。結婚式が秋だったもんだから、紅葉がカナダは素晴しいと聞いていたんです」

多恵さんも友人の2,3人からカナダの紅葉の雄大さを聞かされていた。見に行こう、描きに行こうと何度か誘われてもいる.心は勿論行きたいに決まっている。紅葉ならずともカナダの自然は素晴しいだろう、山も湖も谷も、川だって草原だってスケールが違う。画家心を揺すぶらない訳がない。

「わたしも行きたいな、カナダ。一体何が不満なの、ホテルか何か気に入らなっかったのかしら」

「言え、彼女まだその時は何となく上の空って感じはしましたが、別にカナダを嫌がってる気配はありませんでした。むしろ彼女も、カナダにはわたしも行きたいと思ってたと賛成してたんです。ホテルや飛行機,その他細々とした向こうの予約も取りました。新居には僕の職場に近い所に良いアパートが見つかってそこに決めました。式も近い事なので、先ずは僕が先に住むことにしまして」

「順風満帆だったのね、そこまでは」又泣き出しそうな元若者の様子を伺う。

元若者は大きくため息をつく。それから気持ちを抑える為か、整える為か暫し瞑目した。

「いよいよ式が後1週間に迫った土曜の夜でした。彼女、その日、一人の男性を連れてきたのです、僕達の住む予定のアパートに。何だか膨らんだ封筒を渡されました。中を見ました。それは指輪の入ったケース、あの婚約指輪だったんです」多恵さんも幽霊3人組も暫し沈黙。

「連れて来たのが、彼女の本命だったのね。うーん、式間近まで言い出せなかったのには屹度訳があるんでしょうね、そうじゃなくちゃ酷すぎるもの」

「初めは本命に冷たくされて、振り向かせる為に僕を利用したらしいですが、僕の舞い上がり振りを見ている内にいい出せなくて、ズルズルここまで来てしまったらしいんです。喜劇ですよね、全く。明日からの事を考えました。先ずは予約したもの全部解約、それから親戚、友人に連絡。何て説明すれば良いんですか。ピエロですよ、完全に。勿論解約金は二人に出させますよ、勿論。打ちひしがれながらもそれははっきり言いました。結構相当の金額になると思いました。舞い上がった分奮発しましたから」

「それであなたの気持ちが治まれば、それは仕方が無いと思った事でしょうよ、二人は」

「二人は一応話が済むとアパートを出て行きました。ぼ、僕もとてもここには居られないと、と云うか、居た堪れない気持ちで、冷蔵庫にあった缶ビールを3,4本、杉山さんのようにラッパ飲みすると外に飛び出しました」

いきなり自分が引き合いに出されて杉山君、目を白黒。

「俺はそんな荒れた気持ちでラッパ飲みしてるんじゃないぞ」杉山君抗議。

「分かってますよ、杉山さんは何時も明るくて穏やかです。幽霊にしとくのが勿体無いと、かねがね感じてました」

「俺もそう思っていたんだ、守護霊だって良いんじゃないかって。へへへ、少し柄が悪いけど」

杉山君、今度は大いに喜ぶ。単純な奴だ、幽霊になったんだからも少し思慮深くあって欲しいものだ。

「外はまだ夏の名残で暖かく、時折吹く風がこの荒んだ心を慰めているようでした。でも、そんなもんで慰められはしないですよね。段々酔いが回って来たらしく、そんなにアルコール弱い方ではないんです。が、晩飯も食べていなかったし、気分も最低でしたから、千鳥足になっていました。何か宙を歩いているような、何処を歩いているのかも定かではありません。ふわふわ、このまま何処かに飛んで行けそうな、でも心は鉛、反対に重いんです、飛べるような、このまま地面にのめり込んでしまいそうなこの両極端の思い。あの時大泣きしてればも少し意識もはっきりしてきて、何処を歩いている位は分かっただろうにな。でも先のことを考えたら、あのままの状態で良かったのかも知れない」

大分夜も更けてきたようだ。眠い、睡魔が忍び寄る。思えば多恵さん、今朝早起きしてのだ。それに明日もそんなにゆっくりはしていられない。

「御免なさい。あなたの話をも少し聞いていたいけど、もう無理、わたし、寝かせてもらうわ。あなた達幽霊さんには眠りなんて関係ないでしょうが、生きてる人間にはとても重要なの。わたし寝るからとっとこの酒盛り会場を取っ払って、あなた方も何処かトオークに行って頂だい」

と言うが早いか、そのままベッドに倒れこみ寝てしまった。

その後の幽霊君たちがどう云った行動を取ったかは、多恵さん、知る由もない。

その朝、6時には目を覚ました多恵さん、先ずカーテンを開ける。おう、今日も良い天気だ、山に雲も掛からず、上空に真っ白なのが浮かぶのみ。湖は今昇ったばかりの朝日に煌く。娘の真理ではなくともヤッホーと叫びたくなる。?いや待てよ、わたしの方が先に叫んでいたんだっけ、小さい頃。兎も角気分が良い、さっさと着替えて朝御飯食べて出掛けよう。多恵さん上機嫌。用意も直ぐ出来たし、食堂もそんなに混んでいなっかったので、ゆったり落ち着いて、和食をメインにしっかり取った。朝御飯は和食に限ると多恵さんは思う。味噌汁が旨い。

夕べは元青年の泣きの涙の話を聞かされ、碌にスケッチも見直さなかったし、写真もチェックしなかった。イケナイ、イケナイ、こっちの方がわたしの仕事。最重要事項,気を付けねばと、多恵さん気を引き締める。まあ気を取り直して出発しようと荷物をまとめ、エイヤーと肩と手にして、お世話になりましたと外に出る。

車の所に来て乗ろうとすると、あーやっぱり、しかも3人ともしっかり乗り込んでいる。多恵さん、少々気分がへこむ。

「お早うございます。姫君には、ご機嫌麗しく嬉しく存じます」

「今の今までご機嫌麗しかったけど、あなたたちを見た途端、麗しくなくなったわ。最低の気分」

「そんなー。今日も姫君を良い所に、最高の場所にご案内申し上げようと、昨日からずっと車の中でお待ち申していましたのに」

そうだったのか、あれからこいつ等ここに場所を変えて一晩中ワイワイ酒盛りを遣ってたのに違いない。そう云えば何だか仄かに車中酒臭い感じ。ほんの少し匂いも失敬すると昨日言ってたもの。窓を開けて換気をしなくては、要らぬ嫌疑を掛けられちゃ詰まらない。

「それに引き換え皆は随分ご機嫌さんね、今まで飲み明かしたわけね」

「何しろ、こいつを慰めなくちゃいけなかったし、他に何にもする事なかったもんで」

まあ良いわと、車を発進する事にした。今日も路は快調、草原に吹き渡る風も爽やか?え、何か寒い、矢張りここはまだ車の窓を開けて走るのには向いていないようだ。もう、車内の空気も浄化されたに違いないから、ここは窓を閉めて次なる目的地、車山高原、リフトの一つ目であるスカイライナーの乗り場へ向かう。しかし車窓の景色を楽しむ間もなく辿り着いてしまった。

リフト券を買う。4人乗りだがシーズンオフもあり、朝もまだ早く、客も少ない。因って一人、ど真ん中にを陣取る。幽霊さんたちも一緒に乗り込んできた。仕様がなく少し右寄りに体をずらす。

少し揺れながらリフトが動き出した。

「ヤッホウ、こりゃ気持ちが良い、生きてる内に一緒に乗りたかったですね、河原崎さん」相変わらず杉山君は顔色は悪いが、元気で明るい、こんな奴、幽霊にしとくには勿体無いと多恵さんも思う。そうか、こやつ鬱病とか聞いたぞ、鬱病と言うからには躁病も併せ持つ。屹度彼は今躁期なんだ。と言うか多恵さんは彼の躁の時しか知らないのだ。

「ぼ、僕も彼女と乗りたっかったです」元若者は矢張り今日も涙を落とさんばかり。

「俺は乗ったよ、若い頃。それに子供が出来てからも。それから2,3年ですよ、あいつが浮気したの」

こちらは憤懣遣る方なしの元蕎麦屋の旦那。リフトに乗るのにも人、いや、幽霊夫々だねえ。

リフトを乗りかえる。今度のほうが少し長め。どちらにしても眺望は最高。何しろ周りを取り囲むものは無いに等しいのだから。

山頂に着く。そこに鎮座まします車山気象レーダー観測所がちょっと無粋に見えるのは、多恵さんが主に自然を相手にしている絵描きだからだろうか。それが証拠にそこに居合わせた人達がその建物をバックに写真を撮っている。その傍らには鳥居が合って石道を行くと小さな小さな神社、車山神社がある。4本の木、元店主によればそれは御柱といって、9月には諏訪大社に合わせて小宮御柱祭りが行われるらしい。

それらを差し置いても、そこからの眺望は元蕎麦屋の旦那が恨みを忘れて,胸を張るほど素晴しい。左には八ヶ岳連邦、真ん中にうっすらと富士山、右手には南アルプスの山々が広がる。まだその頂には雪が残っているものが数多く存在している。反対側に目を向けると今通ってきたビーナスラインやそれを取り囲むなだらかな丘、若草色に今燃え立たんとする木々、草原、湖、玩具の様に見える建物。

「如何です、気に入りましたか?良い絵、描けそうですか?」

「そうね、あんまりスケールが大き過ぎてわたし向きではないようだけど、でもこの景色の雄大さや少し赤み帯びた新芽や柔らかな緑の木々は大いにわたしの心を揺すぶっているわ。取り合えず写真数枚とスケッチもさせて貰う事にするわ。悪いけど暫くの間、皆、あっちへ行っててくんない」

幽霊君たち、段々日差しが強くなりかけていた事もあり、大人しく何処ともなく消えて行った。

確かに多恵さん、余り遠景を得意としない。然し今まで描くチャンスが無かっただけで。,描こうと思えば描ける。プロだもの、目の前に素晴しい材料が転がっているのに、描かないなんてそんな勿体無い話はない。高山が連なっている方も、下の方のなだらかな丘や湖の方角も伴に満足の行くスケッチに仕上がった。ついでに写真も4・5枚ほど取る。

ここはこれで良しとしよう。次はどうするか?歩いて車山湿原の方に向かおうか、それとも一旦下山して、車で車山肩まで行ってそこから湿原を見学しようかと、計画の段階で散々迷った。時間的には下山する方がずっと短くて住む。脚にとっても極めて楽チン。でも見える景色は捨てがたい。今も少し迷っている。

だが、今見たパノラマで心も少しは満足したし、これから先の八島ケ原湿原の方にに時間を割きたいと、

決意を固める。

あいつ等はどうした、どうせ何処からか現れる、と荷物を肩にしてリフトに戻る。今度は日差しを遮るものの無いリフトを避けてかどうかは分からないが、幽霊ご一行様は乗って来なかった。

車に戻る。居た居た、矢張り車に戻っていたのだ。

「お疲れ様。少し日差しが強すぎましたね、でもほら、雲が出て来ましたから、これからはも少し楽になりますよ」

「わたしは晴れていた方がどっちかと云うと良いと思うけど」

「またまた、晴れていたら疲れ易いし、大体お肌に悪い」

多恵さん吹き出す。

「幽霊さんたちにお肌の心配までして貰うなんて、ありがたいこと」

「で、これから何処へ?」

「ちょと車山肩に寄って、そこの湿原の状態や回りの状態を見て、描きたくなったら描くし・・ま、行って見ましょう」

「湿原なら八島の方が良いと思いますよ。描きがいがある、あそこはとても神秘的で、お勧めです」

旦那がここは俺の出番と張り切って声を上げる。

「そう、そうよね。でも折角来たんだから、少しだけ寄ろうと思って」

「姫君がそうおしゃってるんだから、その通りにしなくちゃいけないよ」

「でもわたしも写真で見た時から八島ケ原湿原には心惹かれているんだ。だから車山湿原は、あそこに在るカフェに立ち寄って、そこから湿原を見てもいいかなぐらいに軽く考えているんだ」  

「そ、それがいいですよ、河原崎さん。カフェに寄ってコーヒーとケーキ。旅の定番ですよ、ははは」

調子の良い杉山君。矢張り彼は今躁期に違いない。

「そしたら、そこで僕の話の続きを少ししても良いですか?」

元若者が遠慮深げに口を入れた。ああ、そうだった、元若者の話し、途中までしか聞いてない。

「良いわよ、じゃ、そう言う事で発進」車が走り出す。

目的地は直ぐの所だから、またまた、走り出したと思ったらもう停めなくちゃいけない。

趣の在る喫茶店は直ぐ目の前。宿も併設されているそうだ。

テラス席もあるそうなので、一応幽霊君の話も聞かなくちゃいけないのでそちらの方にした。

ミルクコーヒーが評判らしいのでそれとチョコレートケーキをお願いする。

吹き渡る風が心地よい。少し冷たくは感じられるが、この景色にはぴったりだと、寒さに強い多恵さんは思った。日差しはまだあるが時々雲に遮られる事もあるし、テラス席には夫々パラソルが差し掛けてあるので幽霊君にも大丈夫みたい。先ず多恵さんが一番見晴らしの良い正面の席に着き、他の三席を正面が見え易いように多恵さん自ら少しずらした。当然水を持ってきた女性は首をかしげた。

「あのう、後からお連れさんでも?」

「いえ、こうしないと前が少々見えにくいもんで」言ってから、しまったと思う。ここは「え、まあ」と誤魔化すべきだった。

「ま、一応絵描きなもんで、こうしないと落ち着かないんです。御免なさい」

「いえいえ。ごゆっくりどうぞ。お荷物は椅子の上に置かれた方が楽ですよ、スケッチなさるんでしょう?」

「ええ、そうですね、後から乗せますので・・どうもご親切に」

笑い転げる三人。あの泣き虫君さえも笑っている。

ミルクコーヒーとチョコレートケーキが来た。この頃はコーヒーに砂糖は入れていない代わりに家で飲むコーヒーは(インスタントだけど)何時もミルクはたっぷり目だ。そう云えば昨日もカプチーノだったっけ。「うん美味しい」と三人の目の前で見せびらかして食べようとした時、三人さっと立ち上がり、消えたかと思うと又ぱあっと現れた、手には夫々コーヒーとケーキ。

「俺、ウインナーコーヒー、向こうのお客さんが飲んでるので。ついでにチーズケーキも」

「俺は、あんまりケーキ食べないんですが、一応皆に合わせて、コーヒーはブラック、ケーキの方はよして蕨もちが有ったのでそれにしました」

「ぼ、僕は、あなたに合わせて、ミルクコーヒーとあの頃彼女と行った喫茶店で食べたマロンケーキにしました」三人夫々席に着く。

ここから見渡す景色は、今登って来た車山から続くなだらかな丘と草原。その草原の手前に見える低地になっている所が車山湿原らしい。日が差す度に白く輝く。周辺でチラホラ紅く見えるのは「あれは蓮華つつじです」と元蕎麦屋さんから教えられた、そのつつじらしい。山つつじほど赤くは無いようだが、湿原にはお似合いかも知れない。

「も少しするとそりゃ綺麗ですよ、六月に又来て下さい。屹度素敵な画が描けますよ」とさっきの女性が残念そうに言っていた。

一先ずケーキを食しながら泣き虫君の話を聞こう。

「で、酔っ払って歩いていてどうなったの」と切り出す。元青年少し嬉しそう。

「やっと聞いて貰える時が来たんですね。ありがとうございます」中々礼儀正しい男性だったらしい。

「あの夜は月も出ていなくて、それもドライバーさんには悪さしたんですねえ、本とに。いや、彼も少し飲んでいたらしいですよ、ビールコップ一杯とか言ってましたがね.薄暗くて細い道、酔っ払いの千鳥足相手もほんの少し酒混じり。事故起こらないほうが不思議ですよね」

元青年の顔に苦笑の色が浮かぶ。自分を引いたドライバーに対して同情しているようだ。

「もし生き返れたら、あの人にあなたは悪くない、全部僕が悪いんだと、言って上げたいなあ。彼、その後随分悩んでいたようだし。若しかして今も悩んでいたら気の毒だなあ」彼は痛いほど優しいのだった。

「即死だったの?」ずばり聞いた。彼、首を振る。

「いえ、意識は無かったものの、暫くは生きてました。彼女も知らせを受けて一応駆けつけました。勿論婚約を破棄したなんて言いっこありません。皆僕が酔っ払って夜道を一人で歩いていたのか不思議がっていました。兎も角式は延期、新旅行も取りやめと言う事に成りまして、キャンセル料は保険金で支払われる事に成ったようです。その間も彼女は婚約破棄の話は一言も漏らしませんでした。彼女は忽ち悲劇のヒロインです。それから1週間して、本来なら結婚式を挙げるその日の明け方に亡くなりました。彼女はますます悲劇のヒロインでした。でも、母が僕のあのアパートに行った時、無造作にテーブルに置かれた指輪ケースともみくちゃになった封筒を見てしまったんです。母はその時、何かを感じました。でも母は息子の名誉の為、グッと堪えました。彼女を問い詰める事はしなかったんです」

「あなたのお母さんもあなた同様心の優しい人なのねえ」他の二人も頷く。

「全ては保険金のお陰で旨く納まったんです。婚約指輪?あれは彼女の承諾の元、わたしの妹の物に成りました。幾らなんでも、彼女、強欲ではないですから、ハハハ。若しその指輪を自分のものにしたら、僕の呪いみたいなものに、遭うんじゃないかとも考えたんでしょうね」

日が雲に隠れ少々風が冷たく感じられる。

「寒くないですか?」杉山君が尋ねる。冷やしが専門の幽霊に、寒くないかと尋ねられて多恵さん少し苦笑い。

「そうね、もう一杯ミルクコーヒーを貰って、それからスッケチをしてから、大将お勧めの八島ケ腹湿原に行きましょうか?それから悪いけど皆は車の方へ戻っててくんない。わたし、こうやって側に座ってじいっとスケッチしている所を見ていられるの好きじゃないから。直ぐ済むわよ、ここの景色は手間取る所は無いみたいだし」幽霊君たちは彼女の側から大人しく消えて行った。コーヒーを注文し、トイレも借りて済ませ、ヤレヤレとスケッチに取り掛かる.良い事に又日が差してきた。早く日の差してる内に描いてしまおう。何と言ってもこの画には日差しが似合う。

女性に世話に成った事に礼を言う。そうだ、彼らもコーヒーやケーキを失敬したのだっけ。

「それから・・他に色々頂いてしまったようで、そちらの方も有りがとうございました」

「え、何をさしあげました?」

「あ・・・ほら、美味しい空気と素敵な風景を、ですよ。ははは」

ここも彼女には通じなかった様で?の顔をされてしまった。どうも幽霊と付き合いだしてから間が無いので、現実の人間世界との折り合いが旨く行かない。ここはさっさと車に戻ろう。

「やあ、画旨く描けましたか?こいつも河原崎さんに聞いてもらったお陰で大分楽になったと言ってますよ、なあ、良介」

このお人良し幽霊君の名は良介君と言うのか。じゃ、この旦那の名は?

「じゃ、この旦那の名は?」別に聞かなくても何の問題も無いのだけどとは思ったが聞いてみた。

「あ、これは失礼しました、始めに自己紹介すればよかったんですが,幽霊の身で自己紹介しながら現れるのも可笑しな感じで、止めといたんです。遅ればせながら石森邦夫といいます。今後とも宜しく」

「今後とも宜しくねえ、幽霊さんにそう言われたら,何て答えれば良いのかしら」

「良いんですよ、はい宜しくて言えば。お父上が亡くなったらお蕎麦ご馳走に成るんでしょう」

「まだそんな事言ってるの、縁起でもないって言ったじゃないの。でもまあよろしく」

ここは丸く収まった。では出発しようじゃないか、いざ、八島ケ原湿原へ!

でもそこまでも大した距離ではなっかった。

先ずはビジターセンターあざみ館へ。

「この地はアザミの歌、ご存知ですか?それが出来た所とかで、それに因んで名づけられたと聞いています」と石森邦夫さんが教えてくれる。

「ああ、高嶺の花のそれよりもって言うあの歌ね」

「そう、それです。紅燃ゆるその姿、アザミに深き我が思い。あいつはアザミの花だったのになあ」

「昨日はスズランって言ってなかった?」

「スズランでもありアザミの花でもあるんです。兎も角あいつは素朴で可憐で、でも棘や毒があるんです残念ながら」

「でも、ここに咲く野アザミは色も優しいし、棘もさほど鋭くないように見えるわ」

「俺もそう思う。幸恵は優しくて綺麗で殆ど棘は無かったようだが、も少し棘があって、それもちょっと痛い位の棘で、俺のこの弱い性格を停めてくれれば良かったのになあ」杉山君がしみじみと語る。

「若しかしたら、幸恵さんはあなたとどちらかと言うと無理やり結婚したという負い目を感じていらしたのかも知れませんね」良介君がおずおずと言葉を挟む。

「そうそう、俺もそう思うぞ。幾ら今旨く行ってるとしても、この人はもしや、心のそこではあの人のことを思い続けてるんじゃないかとか、その不満があって賭け事に現を抜かしているんじゃないかと考えれば、あんたを突き詰める事もなじる事もそりゃ出来ません、出来っこありません」元蕎麦屋、石森邦夫氏も同調する。

彼女の友達に宛てた手紙の中に(多分、多恵さんが読む事を予想して書いたに違いない)二人とも今何だかガリガリに痩せてきたけども、似た物夫婦で旨く行ってる、と云う言葉の中に、垣間見える危うさを感じ取るべきだったのかも知れない。

「ぼ、僕は彼女の気持ちをズーと知らなかったですからね。高値の百合が急に降りてきてウインクして来た、そんな思いでしたよ。只眩しい位に美しく、毎日毎日彼女に会えることが嬉しくて、彼女の為なら何でもしようと思っていました。そうなんですね、彼女の為に出来る事それは彼女を恨むことでは無く、彼女の幸せを祈ることなんですね。でも、出来ない、出来ないんです。どうしても」又良介君が涙声。

アザミ館で湿原の事、そこに茂る草花、木々、生息する鳥や獣、虫たちの事を学び、花達が鹿の食害に遭わないようにしっかり柵等を閉めるようにすること、植物を踏み荒らさぬように木道から外れない様に歩く事等を教えてもらい、さあ出発。と言っても他の人から見れば何やら大きなバックを肩に掛けた女が一人やけに張り切っているとしか見えない。

所がここでストップ。待てよ、このまま湿原に出てしまったら、2,3時間、いやもっと時間を費やす事になるだろう。どこかでお昼を頂かねばならぬ、腹が空いては(さっき食したケーキがまだお腹を少しだけ空腹を阻止してはいるが)兎も角も戦は出来ぬ。

と云う訳で近くのレストランに入る。勿論4人掛けのテーブル席を見つけて、すばやく陣取る。二人掛けの方を勧め様と思っていたらしい女性は少し戸惑いの表情を見せた。これがも少し混んでる時だったら、決して許されないだろうと思う。

本来ならたっぷり食べたほうがこれからの事を考えると良いのかも知れないが、胃に相談してごく普通のマルガリータピザとサラダ、スープを頼んだ。他の三人もそれぞれ、パスタやグラタン、ピラフ、ピザにリゾットなどなど山ほど並べて食べている。まあ、良く食べる事。お腹を壊さないか心配する程だが、3人に聞いても多分幽霊だから心配無用と笑うだけだろう。

さあ、お中は満タン、今回はあっさり「ご馳走様、お世話に成りました」とだけ挨拶をして店を出る。

いよいよ、湿原への旅立ちだ、なんて大げさなもんでは無いけれど、先ずは中にはいろう。

おう,いきなり八島ケ池。幽霊君達には悪いけど今雲が切れて青空である事がありがたい。雪解け水なのか湧き水かは聞き損ねたが可なりの広さに水を湛え、白い雲と真っ青な空を映している。その周りを芽生えたばかりの草木が覆う。しかもその池の中には小さな島が点在し、美しさを倍増させている。湿原の向こうには男女山(ゼブラ山)、喋々山等も見える。

ウーン、ここは外せないだろうと、3人を無視してバックからカメラやスケッチブック、色鉛筆などを取り出し仕事に取り掛かる。幸いにも行きかう人が少なくてとても助かる。

次に向かおう。次は鬼ケ泉水,鎌ケ池と続く。木々の中によく見るとうす赤い若葉の中に白っぽい花がちらちら、「あれは山桜、タカネ桜とここいらでは呼ばれています。ま、本州では一番遅く咲くとか聞いていますが」と、石森氏が教えてくれる。

「随分控えめの桜なのね、でも好き」とこれも勿論回りの木々達と一緒に写真をとり、スケッチする。

鎌ケ池からは又角度が違って捨てがたい。スケッチしてると足元にヒッソリ咲く花たちに気付く。

「ほら、あそこに紫色の花、見えますかね、あれが羅生門かずら。それからそこに咲いてるのが二厘そうです。少し地味ですが、健気でしょう。九輪草は桜草の仲間ですが、これはとても綺麗ですよ。ウーン、何処か咲いていないかな、も少ししないと無理か知しれませんね」

「石森さん、あなた、詳しいのね、勉強になるわ」

「へへへ、店遣ってるとね、こういった知識が役に立つんです。お客さんに教えてあげると,喜ばれてね

茅野や高遠に来たら又寄ろうとね、言って貰えるんですよ」

「成る程ね。知ってると知らないじゃ大違いよ。知って描く。まあとことん知らなくても全然知らないで描くよりも、有る程度知ってて描く方が愛がある、深い所まで描けると言うものだ。色々教えて頂戴と言うか教えて下さい」

「ハハハ、生きてる人間に教えて下さいなんて。良いですよ、知ってる事は教えましょう。ほら、あそこに白く見えるのがノリウツギで、ちょと遠方に見えるのが白雲木、白い雲のように見えるでしょう。まあどうしてもこの季節は白い花が主流で・・」

「あらわたしは白い花が大好きよ。勿論赤い花は赤くて素敵だけれど、花夫々よ。夫々の色があって美しい、そして夫々の虫達を引き寄せては命を繋いで行くんだわ」

「どうも俺たち雪国の者にはずーと春まで雪を見て暮らさなくてはいけないもんで、つい春に成ったんだから、色の付いた花を見たいって思うんですよ」

「成る程、そう云う訳なんだ。でも綺麗じゃない、若草色にうす紅い芽吹きの色、白い清楚な花達、青い輝く空。全然冬とは違うわ」

「へへへ。とは云うものの決して雪景色が嫌いって訳じゃないんですがね」

おしゃべりをしている間に池や周りの木々、遠景のスケッチも、可愛い花達の絵も数枚ほど描き終わった。

そこを過ぎると急に開けてゆるやかな登り坂があり、石森氏によるとその道はゼブラ山や、物見岩を経て蝶々山に続く道らしい。

「登りますか?」と杉山君が聞く。それで気が付いた、この日差しの中でこの三人大丈夫なのか?この場所日を遮るものが少ないようだ。

「あなた達平気なの?このまま日向を歩いてて。なんなら車に戻ってて良いのよ」

「大丈夫ですよ、大分慣れました。それに河原崎さんを一人で行かせる訳にはいかない」

「あらあ、わたしは大丈夫よ。脚には自信があるんだから。それに疲れたからってあなたたちに荷物を持って貰える訳でもないし。道案内と言っても、物見岩まで。あそこまで行って帰って来るだけよ。蝶々山までは登らない積り。あそこまでは1本道でしょう」

「ええ、この天気だったら大丈夫とは思いますが・・山の天候は変わり易いと言うでしょう。ここは霧ケ峰と言うくらいですから、若し万一霧が発生したらどうします?今日は特に・・特に人が少ないでしょう、まあ、スケッチも終わった事だし、そろそろ結界を解いても良いと思うんですが」

杉山君が事も無げに言う。

「え、何、結界ですって。そもそも結界って、人間が幽霊さんたち来ないでって張るものでしょう、どこかの徳の高いお坊さんが」

 何かおかしいと思っていた。幾らシーズンオフとは言ってもこんなに人が通らない訳が無い。そんな力がこんなちょと情けない幽霊君たちに有るなんて。

「兎も角、みんなの迷惑よ。早く解いて頂だい」

「はい、はい。今すぐ解きます。ヘヘヘ、驚いたでしょう。こんなへなちょこ幽霊でも冷やす事と、結界を張る事は出来るんです。まあ、坊さんの張る結界とは反対の働きですがね。しかも3人分ですから可なりの威力ですよ。うんうん、少し騒ぎになってる様ですが、直、収まりますよ。ハハハ」他の二人も一緒になって大笑い。

結局、3人を引き連れて物見岩まで登る事にする。本当だ。何だか雲行きが怪しい。少しガスが出てきたようだ。物見岩まで辿り着く。物見岩とは良く名づけたものだ、その岩場から振り返れば、ガス掛かった世界に浮かび上がる八島ケ腹湿原。実に幻想的だ。蝶々山を見上げればもう霞んで殆ど見えない。

ふと、多恵さん思い出す。この霧の中から昔、山頂で出会ったあの時のように、彼がにっこり笑いながら現れたらどうしようか?彼は矢張り昔のように笑いながら片手を挙げて「やあ」と言うだろう。

あれはもう随分前の話し、多恵さんの学生時代だ。グループで新入生歓迎会を兼ねて山に登ったんだった。少し遅れて来た多恵さんを麓の駅で待っていた・・そうだ、待っていたのは杉山君とその友人2,3人だったけ、彼等と伴に御岳山目指して登って行った。その山の頂上に着く所で彼に出会った。見上げた所に彼が現れたのだ。

「やあ、大丈夫ですか?」と彼は清清しい笑顔で笑いかけた。あの時、あの瞬間に二人は多分恋に落ちたんだと思う。

「今から水を汲みに行くんです」彼は少し下の水の出る場所まで降りていった。

山の上で彼と何の話をしたのか今は何も覚えていない。多分画の話をしたんだろう。彼は一浪して、杉山君と同じ建築科で新入生、当時3学年だった多恵さんより一つ年下だった。

何故か下山する時には彼と二人だけに為っていた。5月の御岳山からの帰り道、まだ山桜も咲いていたっけ。

「今度は画を描きに来ましょうか?」と彼が言った。「ええ、屹度ね。今度は遅刻しないわ」

その名前を川西孝一君と言う。帰りの電車も当然一緒だったが、これからバイトに行くと言って夕闇の中、新宿の街の中に消えて行った。その後、1週間しても2週間しても彼は一向に現れなかった。

多恵さんの周りには杉山君以外にも彼女を狙う男性諸君が沢山居る。現れない彼よりも、目の前の積極的な男性と付き合う方が多恵さんと云うか、一般的に若い女性には重宝するのだ。美術館に行くのにも、コンサートに行くのにも、映画や演劇を見るのだって、勿論女友達と行くとしてもカップル同士で行く方が楽しい(そうでない事もあるけど)。勿論心の中に常に彼は存在した。一体彼は如何したのだろう、事故にでも遭ったんじゃないか、あんなにハンサムなんだから他の女性と付き合うことになって、もうわたしの事を忘れてしまったんじゃないかしらとか、色々考えを巡らしつつ、その目の前の積極的男性の形ばかりのガールフレンドに成った。その名を田村君と言った。彼は実に優しかった、杉山君と同じくらいか、積極的な分、より小まめで気を使ってくれた。色んな所に足繁く通ってくれたし、勿論近場の山にも登った。海にも遊園地にも計画を練っては連れて行ってくれた。多恵さんは心の中で彼、田村君に感謝しながらも、彼じゃない、彼じゃない、わたしの側に居て欲しいのは川西君なんだ。遭いたい、彼にもう一度、いやいや、ずっと側にいて欲しいと思い続けた。

やがて9月の授業が始まる頃、彼が、川西孝一君が現れた。何事も無かったように爽やかな笑顔と共に。

「久しぶり、この所ずっとバイトで忙しくてさ、あっちこっちバイト掛け持ち。俺ん家、母子家庭だから学費も趣味の登山の費用も全部稼がなきゃいけないんだ」

そう、そうなんだ。勿論多恵さんの家だってそんなに裕福とは言えないから、バイトはする。でも掛け持ちまではしない。あの御岳山に登った後、これからバイトと言って、新宿の街に消えたんだっけ。

「大変そうね、大丈夫なの?体、壊さないでね」

もう直ぐ学園祭も近づく中、彼と再び巡り会い、たとえ学園の中とは言っても語り合いそぞろ歩くのはこの上も無く幸せだった。

で、田村君はどうした。彼が傷ついたのは当たり前だった。学園祭の一つの呼び物として持久走がある。

少し離れた所の公園を一周して学園のゴールまで戻ってくるコースになっている。

彼も田村君も勿論走る。

「若しかして杉山君も走った?」一応気になったので多恵さん、側に突っ立ってる幽霊さんに尋ねてみた。

不意を突かれて杉山君目を白黒。

「学園祭の持久走大会の事思い出してたの、3年の時の」

「この霧と何か関係あります?」

「いえ、この霧でつい思い出に浸ってたの。あの頃わたし達随分若くって青春してたなと」

「持ててましたよね、河原崎さん。綺麗でしたよ、輝くようでした。僕の方も少しは見てて欲しかった」「今更言っても遅いわよ。ま、どうでも良いやあなたの事」

「あ、酷い。ちゃんと出てましたよ。ほら、途中で河原崎さん、手を振って呉れたじゃないですか」

「え、そうなの。全然覚えてないわ、悪いけど」

あの時川西君が優勝し、田村君が2位だった。そうだ、確か杉山君が3位か4位だったような。微笑む多恵さんに二人ともそれに答えて笑っていた。そして杉山君も!

その夜の打ち上げ会、多恵さんも川西君も幸せの絶頂の中に在った。二人の目には彼と彼女以外は誰も映っていなかった。田村君の心の内を分かってはいても、多恵さんにはその時どうすればよかったのか判らなかった。

然し、バイトに精出す彼と情熱家の多恵さん。時が過ぎ行く内に、いつしか二人の間に亀裂が入り疎遠になってしまった。

多恵さんもその後懲りずに恋らしき物をしたが、どの恋も実る事無く心は成長し、大人に成った。

そして大人に成った多恵さんは田村君のことを思い出す。何とわたしは残酷な事を仕出かしたのだろう、今度、そういう人が現れたならばもう2度とその人を裏切らないと心に深く刻み込んだ。その時、彼女の美術展に現れた大樹さん、そうその人を決して裏切らないと。

その誓った矢先、友人が彼女にある事を知らせた。

「彼、川西君は今もあなたを愛してるわ。彼はあなたの連絡を待ってると思う」

な、何てこと、あの人がこんなわたしを待っていてくれたなんて。ありがたい、でももう動かない、と多恵さんは自分に言い聞かせる。

「ありがとう。でもわたしは決めたの、もう誰も裏切らないと。今の人と一緒にこれから先歩いて行くわ。若し彼に伝える事が出来たら、思い出をありがとう、色々思い出は在るけれど、あの山頂の思い出だけで十分、それだけでわたしは十分幸せで居られるわ。弱いわたし、待つ事が出来なかったの。あのまま時が止まってたら、誰も傷つけないで生きて来られたのにって」

そして今この霧の中から、彼が現れたとしても、昔のままの輝くような笑顔で「やあ、大丈夫ですか」と手を差し伸べられても、多恵さんはもう動揺はしない。

「ええ、大丈夫よ。ありがとう」と同じく笑って答え、二人はすれ違い別れて行くだけだ。

そうか、この目の前の良介君の高嶺の百合さんだって、今本当に幸せだろうか?彼を死に追いやった苦しみが、愛する人との生活の中にも必ず暗い闇と成り、苛まれる事があるに違いない。

ウン、彼女は矢張りある意味で悲劇のヒロインかも知れない。

「ねえ、良介君、あなたの彼女を憎む気持ちは痛いほど分かるけど、屹度彼女も、そしてその恋人もあなたの事で悩んだと思うわ。人はその時、特に恋してる時は、自分と恋人の事しか考えられないもの、彼を手に入れる為に犠牲に成る人の気持ちを思いやるなんて、中々出来ないものだわ。ちょっとその二人、あなたに報告するのが遅すぎた感は否めないけど。熱が冷めれば,自分達のやった事の重大さが、そのもたらした悲劇、悲しみに気付き、おののかずにはいられないと確信するわ」

霧で下の景色が覆い尽くされない内にと多恵さん思い出の中にあってもスケッチの手は休めない。

「何か思い出しました、俺、何時もいましたよ、河原崎さんの側に、それだけで十分幸せでしたから」

「そう云えば、あの時もいたような位にはね。そうそう、何か学園のイベントがあった時、少し雨が降り出してあなたが少し待ってて、と言って走り出し、下宿に傘と自分のカーデーガンを取りに行き、わたしに貸してくれたっけ。『これ、クリーニングに出したばかりだから大丈夫だよ』って。本当にあなたって優しいなと思ったわ。こんな人と付き合ってみたいなと考えていたのに、何故かあなたは雲隠れ。仕方が無いのであなたの友人に傘もカーデーガンも託すしかなっかたわ。あなたは折角のチャンスを逃したのよ。あなたが現れたのはそれからズーと後、そんな事があった事さえ忘れる程あとだったわ」

杉山君、何も言わず下を向いてる、さっきまでニコニコ笑っていたのに。

「それが哀しい片思いの男の性なんです。若し、迷惑がられていたら如何しよう、反対に感謝されたら何て言えば良いのか、とか。人から見たら本とに馬鹿馬鹿しいと思えるでしょうけど」

良介君が代わって答える。

「そうなんです。そんな事考えていたら俺、俺、鬱期に入ってしまって。だから、暫く大学休んでしまう事に成ったってことです。でもその中でも河原崎さんの笑顔を思い浮かべていましたよ、毎日」

「あなたが躁鬱病だなんて、あなたが自殺してから後、あなたの友人から聞いて吃驚したわ。わたしの中のあなたは何時も明るくて元気一杯、どうしても病気なんて考えられない、増して鬱病なんて」

「俺たちも知り合いになって、常に慰めてくれたり励ましてくれたり、俺たちが暗くなると冗談言って笑わせてくれる杉山が、鬱病だ何て信じられませんでしたよ。でも時々怪しくなるんです。そして今も競馬や競輪、モーターボートなんかに行って幽霊仲間と賭けるんですね。と言ってもお金も皆幻ですが。なあ良介」石森氏の発言。

「賭けてる対象に自分を重ねるんです。彼等が一生懸命に頑張っていれば、俺も何だか頑張れる、そんな気がするんです。でも実際には、現世では何にも頑張らなかったけどね、ははは」

杉山君自嘲する。でも寂しそう。若し、彼が賭け事の対象ではなく自分自身に賭けて懸命に頑張ったら、妻や娘を残して旅立つ事は無かったと,後悔しているのだろうか?

「後悔先に立たずですね、僕も高嶺のユリでなくごく普通の、そうだ幼馴染の輝美ちゃん、どうして、今まで気付かなかったんだろう、あの子と付き合っていれば良かったな。あの子、いい子だったんだ。僕が死んで一番泣いてくれたのは母と彼女だったかも知れない」

今まで3人の中でも、極めて暗い顔をしていた良介君の顔色が急に明るくなった。自分を、こんな自分が死んだ事を少しでも悲しんでくれてる人が居たんだ。今、彼はそれに気付いた。

「俺は今更後悔しても仕方ないから、この霧の中で考えたんだ.この幽霊界で、出来るか出来ないかは分からないけど、もっと旨い蕎麦を作る修行を積もうかなって」

石森氏が明るい声で断言した。

「え、それは素晴しい。死んでからでもその道を極めるのはとても立派な事だわ。そして、わたしの父が死んだら、それを食べさせてくれるのね」

「ハハハ、そりゃお世話に成った河原崎さんですから、そのお父様には是非食べて頂きますよ。それだけじゃないんです」

「勿論俺たちにもだろう」杉山君が元気を取り戻して混ぜっ返す。

「そりゃそうですが、そうじゃなくて、アイツにあの憎たらしい奴に、何とか教えてやって、あの店を盛り上げて行きたいんです。あの時少し失敬して食べてみたんですが、ウーン今一、って所でしたから、この先ちょっと心配なんです。可愛い子供を二人も面倒見て貰うんですから、何か役に立たなくちゃと思ったんです。それから思い出したんですが、俺が入院してる時、内の奴、温かいタオルで体拭いてくれたんです、一生懸命。あの時は・・本とに嬉しかったなあ」

「偉い、偉いわ。憎しみの海の中で、相手の優しい心を思い出すなんて普通の幽霊さんには出来っこない。そう思うでしょ、あなた方も」

「ええ、勿論です。で、でも、どうして伝えます。俺たちに出来る事は冷やす事と結界を張ることだけなんですから」

「そうね、例えば、いい材料を仕入れる時は結界を張らないで、これは止した方がいい時は結界を張って交渉を止めるとか。も少し良く捏ねたり打ったりさせたい時は・・・」

「ハハハ、そういう時は少し冷やして遣りますよ、背中をね。そうすりゃ、アイツ、ゾッとして『あ、俺何かおかしい、捏ね方が足りないのかな』何て考えるんじゃないですか?」

おーポジテイブ、ポジテイブ.あの気味が悪い位な色をしてた石森氏の顔が輝いて見える。

「これであなたも屹度守護霊に何時かなれると思うわ。顔色もすっかり良くなったし、アル中もさよならよ。そうじゃない?」

石森氏、自分の顔をなで次に肩をまわし、深呼吸みたいな仕草を一つ。

「あ、本当だ、体も大分軽くなったようだ。空気も旨い」

「え、幽霊になっても息をしてるの?空気が無くったって平気でしょうが」

「はい、平気ですが、お酒や食べ物と同じで感じる事が出来るんです。感じる事が出来るって事は矢張り旨い、不味いがあるんですよ。だからこの世界、幽霊のためにも綺麗な空気の世の中でいて欲しいです」

杉山君が答える。

「さあて、スケッチ描き終えたし、そろそろ下りましょうか」

「霧の所為で道が滑り易くなってますから,充分気を付けて」石森氏が注意を促す。

多恵さんは、武道家、少しぐらいの泥濘で脚を取られる事はない。でも石森氏の言葉に感謝の念を覚えて素直に「ありがとう」と答えて下って行った。

何時の間にか霧が晴れて青空が覗き始めた。

旧御射山もとみさきやまに寄って行きましょう。余り河原崎さんの絵心はくすぐらないと思いますが、通り道ですから。それにヒュッテ、喫茶店みたいなものもあります。少し休みましょうか」

石森氏何だか言葉使いまで優しくなったようだ。

旧御射山には気の看板が立ち、かってここが諏訪大社の祭儀場であったことが記されていた。そう云えばここに来て良く諏訪神社なるものに出くわす。あの車山神社だって諏訪大社の分家みたいなものだった。他でもチラチラその名を目にしたような。この地の人々がどんなに諏訪大社を敬いあがめているか思い知らされる。

そう云えば母の育った長崎、祖父の故郷の鹿児島から、祖母の故郷である長崎に子供の行く末を考えて移り住んだ長崎。その長崎で最初に住んだ町を出来大工町と言う。直ぐ近くには長崎一大きな諏訪神社が鎮座する。そこのある所を諏訪町、もう一つの隣接する町を伊勢町と言い、そこには伊勢神宮が存在する。それを長崎人、少なくとも其の周辺の人々は愛情を込めて「お諏訪さん」「大神宮」と呼ぶ。母は其の二つの場所を幼い時から小学生の5年生になるまで広大なる遊び場としていたが、なぜ小さい方を大神宮と呼ぶのか可なり大きくなるまで分からなかった。勿論お諏訪さんは日本三大祭(と長崎人は固く信じている)あの蛇踊りで有名なお宮日の発祥の神社である。蛇踊りを始めとする奉納の踊り等は諏訪神社の後、次々と旧長崎の大きな神社を周って行くが、お諏訪さんの次は大神宮なので、学校が(街中の学校は初日は早く終わる)引けると足早に家に戻るとカバンを放り投げるようにして、大神宮に駆けつけ人人の間を潜り抜けて見たものだったと多恵さんに語った。今もその日が近づくと、耳の中にあのシャギリの音が甦るんだとも言っていた。

勿論、お諏訪さん自体(御神体)もお旅所と言う所に移動するらしい。その御神体も神輿に乗せられ、神主さんたちはあの長坂(坂の多い長崎でも長い〕の石の階段を馬に乗ったまま駆け下りるとか。今も行われているのかは不明。そう言う母でも見た事がない。何故見た事がないのか?それは祖母が祭りを好きでなかった(本当かどうかは不明)からと母は残念がる。やっと、仕事が人並みに成ろうかと云う時に此方に職を変えて、長崎を旅立ってしまったのだもの。

「もう一度、いえ、一生に一度で良いから、始めから最後まで奉納踊りや御神体や神主さんたちが下って行く所を見てみたいなあ。大分奉納踊りも縮小されてるみたい出し、消えて無くなら無い内にね」と母は遠い目をして呟く。

母どころか、その母、祖母だって根っからの長崎っ子だ。今は長崎には住んでるが旧長崎ではなく、浦上地区にある有料老人ホームに住んでるから(浦上地区は昔隠れキリシタンが多く住んでいた所だ)シャギリの音さえ届かない、余り母と違って祭り好きではないと聞いてはいるが、屹度も一度、若い時のように元気であれば見たいだろう。

その長崎人が大好きなお諏訪さんのルーツがこんな激寒の地にあるなんて、長崎のその何人が知っているのだろうか?大体九州に住む人間は(まあ何処に住んでいようが)余ほど地理が好きでない限り、他の土地のことは知らない、増してこんな山に囲まれた土地、そこに存在する湖に原点があるだなんて。

「何か感じる所がありました」と石森氏に尋ねられた。

「ええ、ここの人達と諏訪大社とは随分昔から深い関係があるんだなあと思って」

「そりゃ、諏訪湖が存在する昔からですよ。この周りの人間は皆諏訪湖と共にあるんです。諏訪湖の恵みもあれば、諏訪湖自体がもたらす被害だってある。それらをゼーンブひっくるめて、俺たちは敬愛してるって事ですよ」

「ひっくるめて敬愛してるのか。人も良いとこ、悪いとこ。魅力的な所も、憎むべき所があるわよね。でも中々ひっくるめて愛せない。それどころか、かって愛した人を嫌いになってしまう事もある」

「も、若しかして河原崎さん、ご主人を」それまで大人しかった杉山君が大声で叫ぶ。

「まさか、そんな事ある訳無いでしょう、彼はわたしの大事なパートナーであり、大切なパトロンでもあるのよ。可愛い娘もいるんだから。一般論を言ってるの。兎も角人間て、悲しい生き物、でも素晴しくもある。一方では自然を破壊し、一方では保護する。矛盾だらけの人間か、行き過ぎないようにブレーキを踏みながら生きて行く。ブレーキを掛け損なったとき事故や事件は起こるのね」

「ある動物園に鏡が合って、そのプレートに『世界中で一番恐ろしい猛獣』って書かれているとか聞いたことありますよ」

「俺は何かの本で人間は若しかしたら破壊獣かも知れない。最後には自分たち人間も破壊してしまう。何てこと書いてあったのを読んだよ。心して人間も歩いていかなくちゃね」

幽霊さん達の議論は続く。

「何だか脱線してしまったわね。わたしは只、人間て矛盾だらけだけど、それをひっくるめて互いに敬愛して生きていかなくちゃいけないんだと思ったの」

ヒュッテと呼ばれる建物を発見。一息入れようと中に入る。余り人がいない。これももしや3人の結界の所為、とんだ営業妨害だ。

今回は4人揃ってアップルパイとコーヒーを頂く事にした。

出来る限り、店の奥まった所、小さな声で囁けば何とか怪しまれないだろう。

「ありがとう、良い画がかけそうだわ」ぱらぱらと描いたスケッチブックをめくって目を通す。

「本とだ、旨いですね。僕はこのスミレの花の絵が好きだな」良介君が指差す。

「どれどれ、俺は、これこれこれだな、この物見岩から見たこの景色。丁度良い具合にガスが掛かって。

人間もこんな具合に欠点を覆って生きるとか、欠点には目を瞑って付き合って行かなくちゃいけないんだな」これは石森氏の弁。

「益々、旨くなったなあ。どれも自然への愛情に溢れているよ。内のは、俺が死んだ後、色々苦労させたし、今も娘との生活に追われて忙しくて、中々画どころの話ではなかったからスケッチ力、落ちたんじゃないのかな?」しみじみ語る杉山君。

「大丈夫よ、才能は逃げていかないわ。幸恵さんは抽象画を遣ってたから、特にね。遣りたい、描きたいと思う、その時、どんな忙しい時でも隙間を縫って描けると思うし、描かずには居られないと思うわ。始めの内はもどかしい事もあると思うけど大丈夫、その時の自分にに合わせて描ける筈。若し何処にもいけない環境であっても、目の前の、自分の手の中にある物を描けばいいんだもの。わたし思うんだけど、彼女,もう始めているんじゃないかな?心の苦しみから抜け出るのに、画ほど効き目のあるものは無いと思う。これって薬事法違反かしら、ハハハ」

「何ですか、その薬事法違反って」石森氏が問う。

「母が薬剤師って言ったでしょう。たとえそれが薬よりも効いたとしても、効くと言っちゃあ駄目なのよ。良いですよ。とか回復しますよとか、そう言わなきゃ成らないの。そう言う事を書いて問題になって保健所に呼び出されたりして、大問題になってノイローゼの挙句、自殺した人、記者だとか作家だか知らないけども、そんな人が居たんだ。彼、わたしの母の知り合いの女医さんの夢枕に現れて、彼、生前の知り合いなの、彼女が『どうしたの?』って尋ねたんだけど、静かに頭を下げて消えて行ったんだって」

「ひえー、こ怖いなあ、幽霊よりもずっと怖いんだな、保健所て云う所」3人とも震え上がった。

「何処にでも権力を振りかざす人がいるのよ。注意しなくちゃいけないわねこの世の中」

写真の方も一応見直し、一同満足。ケーキもコーヒーも完食して立ち上がる。

「あと少しで一周です。これからどうします?」石森氏が尋ねる。

「大体の取材は終わったわ、これからわたしは茅野駅に向かって懐かしの、と言っても一泊しかしてないけど、懐かしの我が家へ向かう事にするわ。その前にもう一度,女の神氷水のあの蕎麦屋さんに寄って、

夕ご飯代わりにお蕎麦を食べようと思うの。どう?」

「それはそれは、毎度御贔屓に。ありがとうございます」嬉しそうな石森氏。あの昨日、店で見せた恨みがましい表情は微塵も無い。

「あなた方は?」残る二人に尋ねる。返事がない。

霧がすっかり晴れたようだが、夕暮れ時が近いせいか日差しが弱く、気温も低くなってきた。やがて再び八島ケ池が見えてきて、この湿原とも名残惜しいがお別れだ。

「本とに素晴しかったわ。今度はも少し後に来て、緑と花で溢れる世界を見たいわ。それから、あなたのお店もどうなっているのか、蕎麦の味はどうなってるのか、知りたいわ。楽しみ、楽しみ」

車を発進させてビーナスラインを下っていく。

女の神氷水に着いた。蕎麦屋はぎりぎりまだ遣っている。

「いらしゃいませ」と昨日の女性。ちょと首を傾げる。

「確か昨日もいらしゃいましたよね?」

「ええ、2度目です。昔この店が高遠にあった時、ご主人に親切にこの土地の事、色々教えて貰いまして。その後行ったのですがあの店が無くなっていました。昨日偶然この店に寄り、その時は思い出さなかったんですが、後であなたがあの店の奥さんだと思い出しました。それで又寄らせてもらったんですよ」

奥さんの顔が少し曇る。

「あれから主人は肝臓を悪くして亡くなったんですよ。それでわたし、再婚してここで又蕎麦屋を始めたんです」

「そうだったんですか、全然知らなくて済みません」後ろの杉山、良介君、両名の笑い声が煩い。

「いえ、こちらこそお客様の顔を覚えていなくて済みません。そうですか、前の主人がここの事を話して聞かせて、ああ、思い出しました。お客さんにもっと良く、高遠や、茅野の事を興味を持って貰いたいと一生懸命勉強してました。そうですね、わたしもこれからここの事勉強して、ここに来たお客さんに喜んでもらわなきゃ」

今日は矢張り寒いのでホットで天麩羅蕎麦を注文した。幽霊諸君も席に着き同じ物を食べるらしい。

湯気、ほやほやの蕎麦だ。一口すする。温まるー!

傍らで石森氏が呟く。「この汁じゃ・・なんか物足りないな・・」

多恵さんは関東の人間だけど、食べ物はどうしても母の好みにならざるを得ない。特にうどんや蕎麦の汁は醤油臭くて、口に合わない事が多い。

「わたし、わたしの母が長崎出身なもんで、向こうではアゴダシをウドンなんかのお汁に使うんです。母がこちらで所帯を持って、ウドンを作ろうとしたけれど、どんなに良い鰹節を使おうが、利尻昆布の最上級を使おうが、どうしても何か足りないとずーっと思っていた所、偶々帰長する時乗った飛行機の中で、

アゴダシのスープが振舞われたそうです。それを飲んだ時、ああこれだ、これが足りなかったんだって気付いたそうです。もし良かったら、一度試しにアゴダシ、飛び魚の干した物を使った出汁で、この熱々の蕎麦作っていただけたら嬉しいな」

「そしたら又着ていただけます」奥さんが笑顔で応ずる。

「勿論ですよ。今度は夫や娘、それに母も連れて来ますよ」

戸が開いて男の子が入って来る。ランドセルを背負ってるが、体の方が大きくてちょっとチヅハグ。何となく石森氏に似ている。思えば隣の武志君と同じ年だ。

「昨日話されていた息子さんですね、跡を継いで下さるかはまだまだ先の事ですが、でも矢張り楽しみですね」

嬉しそうな彼女の顔。横を見れば石森氏も嬉しそうに笑っている。

ここはこれで良しとご馳走様と店を出た。無論石森氏は居残るかと思いきや、彼も着いてくる。

「あら、あなたはここに居なくちゃいけないわ」多恵さん、吃驚して彼を制した。

「勿論、後から帰ってきますよ。こんなにお世話になって、茅野まで送らなくちゃ、申し訳ないですよ。それにこのままお別れするのが名残惜しくってねえ、へへへ」

幽霊に名残惜しいなんて言われて、迷惑なようなチョピりだけ嬉しいような。それに後2名はどうするのだ?答えはまだ聞いていない。このまま付いて来られては大迷惑だ。

兎も角茅野へ向かおう。

茅野の駅前、車を返し終わって、多恵さんヤレヤレ。幾ら保険代込みとは言いながら人の車、気を使う。

余り人が居ない所を探して3人と向き合う。

「さあて皆さん、いよいよお別れの時が来ました。又電車の中まで付いてきて、新宿まで一緒に帰ろう何て絶対言わせないぞ。ここは潔くおさらばしよう」

「わたしはあの店に帰ります。せっせと出来る限りの事をして客を増やします。燃えてます、幽霊でも燃える気持ちが持てるんですね。いつの日にか守護霊になって、冷やす事と結界を張ることじゃなくて、あの店を盛り立てて行きたいんです。本とにお世話に成りました、ありがとう、本とにありがとう」

石森氏が泣いている。

「いやあね、お世話に成ったのはわたしの方かも知れないわ、色々教えてもらったし」

多恵さん慌てる。

「俺はも少し河原崎ざんと過ごしたいなあ。学生時代あんなに憧れていたのに、碌に話しさえ出来なっかったんだもの」

哀しそうな杉山君。

「駄目。あなたが付いて来れば屹度良介君も付いて来る。そうだあなた方も石森さんと一緒にあの店に戻って、彼を手伝いなさい。そうすればあなた方も守護霊までは行かなくても、屹度それに近い者に成れると思うわ。そしたら杉山君は幸恵さんの所に帰って守護霊になり、良介君はあなたのお母さんか妹さん、もしくは幼馴染の輝美ちゃんの守護霊を目指せばいいわ。何事にも切っ掛けが要るわ、それが今なのよ。それにその為の努力。3人の友情があれば絶対上手く行くわ」

「そうだよ、君たちが居てくれれば心強いよ。なあ助けてくれよ、今迄だってずっと一緒だったじゃないか?それにここいらにはホテルレストラン、より取り見取りだぜ、蕎麦に飽きたら、豪華ホテルで酒盛りし放題」石森氏が助け舟か、もしくは本音を吐く。

「ふうん、それも悪くはないな。それに・・・河原崎さん凄く迷惑そうにしてるから諦めるしかないようだ。いいよ、な、良介もそうするか?でもせめて列車が出発するまで居させてよ。お願い、見送らせてくれよ君の乗る車両が消えて行くまで」

あくまでも、往生際の悪い杉山君。

まあ何とかして、ここで杉山君をくい止める事が出来た、良しとしよう。後は土産だ。

駅前の土産物屋を物色。真理ちゃんや隣の武志君には甘いもの。信州はリンゴの産地、アップルパイにする。それに牧場もあると言う事で、大樹さんにはワインとチーズ。藤井夫人には野沢菜の漬物と石森氏のお墨付きの生蕎麦つけ汁付きを買う。勿論多恵さんの島田家の分も確保した。

3人に見送られ、いざ我が家へ、愛しい夫や娘の元へ帰ろう。


旅は終わった。景色は素晴しかった。天気には恵まれたし、良い絵も描けた。楽しかったような、迷惑だったような、思えば奇妙な旅だった。

「ママ、この写真、珍しく人が映ってるんだね。男の人が3人、笑ってる。何か楽しそう」

「そんな筈はないわ,写してないもの。どうれ」多恵さん吃驚して覗き込む。

居た居た、あの幽霊3人組みだ。しかも写真の中で多恵さんに向かって手を振ってる。あいつ等、こんな事まで出来るんだ。

「ああこれね、これは・・・そうだ、霧で道に迷いそうに成った時、一緒になって道を探しあった人達、とても愉快な人達だったわ」

「そうか、それで何かぼけてんのね、霧でこんなに心霊写真みたいに写ってるんだ。幽霊がこんなに笑ってる筈ないもんね。ははは」

ああ、あ。最後まで迷惑な奴等だ、と多恵さんは真理ちゃんには見えないように写真に向かって、思い切り、アッカンベ-をした。


    次回に続きます、お楽しみに!























































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