赤のルージュ
ルージュを引くのは、まるで儀式のようだ。
元々赤い場所に、更に濃い赤で線を引く。
恋をしていようが、していなかろうが、一体何にアピールをしているのか、というほどに。流行の色や、季節の新色。それらに踊らされながらも、何故か油脂の塊を唇に塗ったくり、不自然に笑う。
私は、唇が嫌いだ。
「……え、っと……」
その概念が覆ったのは、本当に、本当に偶然だったのだろう。
恋人の部屋に、渡されていた合鍵を使って入り込んだときに、見てはいけない者を見てしまったのだ。
「あの、こ、これは」
必死にいい訳を探す君。その唇は、不自然に真っ赤だ。
手には、私が以前置き忘れて行ったルージュ。私の唇には丁度良い色合いになる筈のそれは、彼の唇には赤すぎる。
「何? もしかして、興味があったの?」
私はゆっくりと近づく。彼は後ずさりしたが、それはそれで気分が良い。
己の物だけではなく、唇が赤く染まるのは嫌悪の対象だった筈だが……彼の今の姿は、凄くいい。
申し訳なさそうな顔に、情けない姿に、赤い唇に、たまらなく興奮する。
ぞくぞくと、快感が背骨を這うようにして駆け巡った。
「ねぇ、どうなの? いい訳を聞かせて」
私の口元には、きっと笑みが浮かんでいる。
「で、出来心で」
「女の子になりたいの?」
「ち、違う」
彼は必死に首を左右に振った。これ以上後ずされない、という所まで後ずさっているので、後は憐れな恋人と、じっくりと距離を詰めるだけだ。
必死な姿も、もうすぐ間近で見る事が出来る。
「お化粧がしたいの?」
「きょ、興味があって」
興味、ね。
本当は焦っている顔を直ぐにでも間近で見たい。けれどもあまり余裕がない姿を見せたくもなかった。
がっついている、なんて、はしたない。ここは自分なりの優雅さは崩さずに行きたいのだ。
「いつから?」
「……」
「ほら、言ってくれないと分からないじゃない。いつから?」
ゆっくりと詰めた距離も、いよいよほとんどない。
「別に私は怒っている訳じゃないの。そう、これは純粋な興味」
「純粋ではないだろ」
「邪な興味」
私は笑いながら、膝を折る。
座り込んで後ずさっていた彼に身を寄せれば、本当に、数センチの距離まで近づく事が出来た。
「ねぇ、いつ? 貴方の事なら、みーんな気になるの」
真っ赤な唇。こんなに唇を好きになる事なんて、ありえないと思っていた。
「……君と、キスした時から」
ふい、と、抵抗するように視線を外す君。可愛い。
「君のルージュが、俺の唇に移って……それに、鏡を見てから気が付いたんだ」
ぞくぞくとした快楽は、いつまでも消えてくれない。いや、今は消えてくれなくてもいい。
もう少しだけ、この興奮に身を委ねていたい。
「ずっと、君の綺麗な唇が食べたいと思ってた」
今の私のように? この疑問はさすがに口にはしない。
「だけどあの時、本当は俺の唇が食べられたんじゃないか、って」
ああ、私が彼の唇を食べた。中々に甘美な響きだ。嫌いじゃない。
「だから……」
「だから、今度は自分の唇を赤くして、私の唇が食べたかった?」
「そう」
私は相槌を打つ。そうしながらも、わざとらしく首を傾げた。
「あら、でも、おかしいわ」
きっと今も、私の赤く塗った唇は弧を描いたまま。
「それならどうして、一人の時にルージュを塗ったの?」
「よ、予行練習?」
苦しい言い訳。
「……ま、いいわ」
苦しい言い訳を、私は飲み込んであげることにした。
本当は、こんなに間近にいるのだから、気付かない訳は無い。彼も今、私に負けず劣らず、興奮している事を。
「ルージュ、貸して」
「あ、ああ」
私はルージュを受け取ると、彼の顎を上げる。
「目、瞑って」
彼はそっと目を瞑った。全ては私の言うがままに。
キャップが取れたままのルージュを、そっと彼の唇に乗せる。
真っ赤な塊が、薄い唇に色を落とした。端から端まで。ゆっくりと滑らせれば、美しい唇が、より美しく彩られているかのよう。
「素敵」
私は目を瞑ったままの彼に、口づけを落とす。
このまま食べられてもいい。いや、私が食べてしまいたい。
今すぐにでも、君が食べたい。
私の歪んだ心を引きずり出したルージュは、床に放った。
出しっぱなしの赤が、フローリングの床にまで色を付ける。今度はもっと、彼に似合う赤いルージュを探して来よう。
プレゼントしたら喜ぶ? 喜ばなくても、それならそれで――。