猫英雄エクトル
一匹の猫が港町を歩いていました。猫といっても、人間のように服を着て立って歩いています。猫はエクトルという名前の船乗りで、仲間たちとともに黄金の国を目指す航海の途中で、この港に立ち寄ったのです。
物珍しげにじろじろと見てくる人間もいますが、エクトルはいちいち気にとめることはありません。
あてもなく少し歩いたところで、エクトルは、十人ほどのならず者たちに絡まれている娘さんを見つけました。エクトルはすかさず間に入りました。
「なんだお前は」
下っぱ風のならず者がエクトルに詰め寄りましたが、エクトルの猫パンチ一発で、簡単に気を失ってしまいました。
ほかのならず者たちはそれを見て一瞬ひるんだものの、次のやつがまた殴りかかって来ました。エクトルは軽く身をかわすと、またしても猫パンチ一発でダウンさせました。
来る相手来る相手、簡単にやっつけて、ならず者たちのボスとエクトルの一対一の勝負になりました。
ボスは筋肉隆々の大男で、力まかせに攻撃してきますが、エクトルは簡単に身をかわします。
エクトルが大きな樽のうえに乗っておいでおいでをすると、ボスはむきになって拳を降りおろしてきて、樽だけがばらばらに壊れました。
無駄に暴れるばかりのボスが疲れ果てたところにエクトルの高速猫パンチが連続して炸裂して、さらには猫キックでとどめを刺されて、ボスは完全に戦う気力を無くしました。
ボスは急に弱気になって言いました。
「まいりました。どうか許してください、マオリー師匠」
「二度と悪事は働かないと誓うか」
「誓います。マオリー師匠」
「まあ、今日はこのくらいにしておいてやろう」
悪者をやっつけて、エクトルはちょっといい気分でした。でも、気になることがありました。
「だが、なんなんだ、そのマオリー師匠というのは」
「えっ、あなたはマオリー師匠じゃないんですか。伝説の猫拳の使い手の猫の」
「聞いたことないな」
「いや、こんなに強いんだから、マオリー師匠に違いない。おれたちみんな、ガキのころからあこがれていたんですよ」
「俺の名前はエクトルだ。ケンカには自信がある。だが猫拳なんか知らんし、俺は人間だ。湖の都で暮らす猫だったが、仲間たちと一緒に魔法使いに人間に変えてもらって船乗りになって、航海を続けている」
ボスはちょっと理解できないといった様子でしたが、真剣な顔で言いました。
「そうでしたか。マオリー……いや、エクトル師匠。しかし、あなたの強さには恐れ入りました。俺達は、いつももっと強くなりたいと思っているんです。どうか弟子にして下さい」
手下たちに頭を下げさせながら、ボス自身も頭を下げました。
エクトルは余裕の表情でならず者たちに言いました。
「まあ、考えといてやろう。だが、まずは悪事をきっぱりとやめることだな」
娘さんはいつのまにかいなくなっていました。
お礼の一言も言わないなんてと少し不満に思いましたが、怖い思いをしたのだから仕方がないと思い直して、エクトルもその場を立ち去りました。
数日後、エクトルは娘さんと一緒に港を行き来する船を眺めていました。
あれからすぐ、港に停泊中の船に娘さんからの手紙が届いたのです。助けてくれた猫さんに会いたいという手紙で、エクトルはラブレターをもらったみたいに喜びました。
娘さんはメイフアという名前で、両親といっしょに港町で食堂をしているとのことでした。
「猫さんは何て言う名前?どこから来たの?」
メイフアはたずねました。
「俺は人間だ。名前はエクトル」
「まあ、そうなの?猫にしか見えないけど」
メイフアはおかしそうにくすりと笑いました。
「湖の都で暮らす猫だったが、仲間たちと一緒に魔法使いに人間に変えてもらったんだ」
エクトルはメイフアに身の上話をしました。仲間内でもそのようなことはほとんどしないのですが、メイフアには話してもいいような気がしたのです。
湖の都で生まれたときから親はいなかったこと、家もなく、ネズミや虫を追いかけたり、残飯をあさって生き延びたこと、仲間と出会い、魔法使いに人間に変えてもらって航海に出たこと……。
メイフアは黙ってうなずきながら聞いてくれました。
エクトルは毎日メイフアと会うようになりました。
メイフアの持ってきてくれる肉まんが美味しいので毎日食べたいと言ったところ、メイフアは毎日食べさせてあげると言ってくれました。
エクトルはメイフアとずっと一緒に暮らせるのだと思いました。
エクトルは思いきってメイフアに言いました。
「君のお父さんにご挨拶がしたい」
その時代のその国では、結婚の申し込みは相手の父親にすることになっていました。なのでそのような言い方になったのです。
「ええ、喜んで。私もあなたを父に会わせたいと思っていたのよ」
エクトルはうれしくて、仲間たちの前でもついつい笑顔になってしまうのでした。
仲間の中でもいちばん信頼しているマヒコにメイフアのことを話すと、マヒコは言いました。
「あまり期待しちゃいけない。元から人間だったやつらは、口でどう言おうと、俺達のことを人間だと認めていなかったりするからな」
エクトルは、祝福してもらえるつもりだったので、ちょっとむっとして言い返しました。
「なんだ、俺が幸せになるのが気にいらないのか。まあ、俺だけここに残るとなれば、お前たちから見れば裏切り者だしな」
「そんなことは言っちゃいない。それで人間としての幸せをつかめるのなら、そうすればいい。去るものは追わずは、俺達みんなの約束ごとだ。ただ俺は、期待すればするほど失望も大きいと言いたいだけだ」
「何を言うんだ。メイフアは俺を父親に会わせたいと言っている。俺は人間だし、メイフアだって本気なんだ」
エクトルがメイフアの父親に会う日が来ました。
緊張するエクトルに、メイフアは大丈夫だと言ってくれました。この様子ならきっと、父親も歓迎してくれるでしょう。
メイフアは家につくなり、父親にエクトルを紹介しました。
「お父さん、これが私を助けてくれた英雄の猫ちゃんよ。名前はエクトルっていうの」
何だか少し様子が変だと思いましたが、エクトルは自己紹介しました。
「初めまして、エクトルです。娘さんとは……」
エクトルの言葉をろくに聞きもしないで、父親は話し始めました。
「君がエクトル君か。メイフアが君を飼いたいって言ってきかないんだよ。なんでも、危ないところを助けてくれたそうじゃないか」
「ええ、まあ……」
「もちろん歓迎するよ。私も猫好きでね。妻は猫が苦手なんだが、私が説得するから大丈夫だ。なにしろ、君は我が家の英雄なんだから」
「ええと、ですね……」
「それに君に手痛い目にあってから、やつらも急に真面目になって、町のみんなも喜んでいる。悪事を働かないばかりか、よそから来るならず者どもから、みんなを守ってくれる。君は我が町の英雄でもあるんだ」
メイフアが言葉を挟みました。
「お父さん、お願いね。私、ずっと前から猫ちゃんが飼いたかったの」
「まかせとけ。エクトル君も住む家ができて安心だろう。君は生まれたときから野良猫で、ずっと家もなく、放浪暮らしだったそうじゃないか」
「いえ、今日こちらに来たのは……」
エクトルはメイフアとの結婚の許しをもらいに来たのです。でも、もはやそういう雰囲気ではありません。
そもそも、肝心のメイフア自身が、猫のエクトルを飼いたかっただけなのですから。
エクトルはいたたまれなくなって、その場から逃げるように走り去りました。
「あっ、エクトル、どうしたの?」
呼び止めるメイフアの声もエクトルの耳には届きません。
エクトルは走りました。走りながら涙を流しました。泣いているのは人間の証拠だと思いました。でも、メイフアはエクトルのことを人間とは思ってくれていないのです。
エクトルは何か大きなものにぶつかってはじきとばされました。
起き上がると、あのならず者だったボスがいました。
ボスは言いました。
「あっ、これはエクトル師匠。ぶつかってしまって、申し訳ありません」
「いや、すまない。ぶつかったのは俺の方だ」
「どうかされたんですか。泣いておられるようですが」
「いや、足腰を鍛えるために走り込みをしていたんだが、目にごみが入ってしまったんだ」
「大丈夫ですか、エクトル師匠」
「師匠はいいが、エクトルはやめてくれ。俺の本当の名前はマオリーだ」
エクトルは、エクトルという名前の人間として幸せになれるつもりでいた自分が恥ずかしくて、忘れてしまいたいと思いました。
「えっ、やはり……」
「そう、マオリーだ。このあいだは、ごまかして悪かったな。伝説の猫拳の使い手の猫、マオリーとは俺のことだよ」
海の彼方からやって来た伝説の猫拳の使い手マオリー師匠は、元はならず者だった弟子たちを引き連れてその町の平和を守ったと記録に残っています。
海賊集団の襲来があったときにも、矢傷を受けながらも先頭に立って勇敢に戦い続け、町を守り抜きました。
マオリーチェンと呼ばれるようになったその町は、まわりの町との合併によって今では地図にその名前をとどめません。
でも、地元の人たちは今でも猫を英雄の末裔としてとても大事にしているということです。