1-7 個と個
アーロンとハミドによって、倒れた2人は部屋に寝かされ、深い眠りの底に落ちていた。異世界という特殊な環境と、戦闘による肉体、精神的な疲労が積み重なっていたのだろう。睡眠はそれを回復するに手っ取り早い方法なのだ。
「アーロン、どう?」
ショウヘイは部屋を出てきたアーロンに兄の様子を訊く。アーロンは心配ないとでも言いたげに少しだけ微笑んで見せた。穏やかなその顔はショウヘイを少し安心させた。とりあえず大丈夫なのだろう。
「疲れが出ただけさ。寝てればまた元通りになるはずだ。心配はいらない」
「そっか……」
レンジャーとて人間だ。鍛えられた精鋭でも、こうして疲れる。今は寝かせてやろう。今は自分が兄の代わりに動く番だ。頭脳労働なら得意分野である。
「アーロン、取り敢えず情報収集したいから何か資料はない?」
「あるぞ。書庫に資料がいくらでもあるが……読めるかな?」
「まあ、見てみればわかるさ」
アーロンは軽く縦に頷くと、来いとばかりに歩き出した。広く、赤い絨毯の敷かれた廊下は大きい窓から差し込む暖かな陽光に照らされている。窓の外の花壇には色とりどりの花が咲き誇り、時折風に揺られ、穏やかな光景が広がっていた。
「……この世界、好きか?」
「え?」
アーロンからの突然の問いかけにショウヘイは咄嗟に答えを出すことができなかった。どう答えればいいかわからずに口ごもっていると、アーロンはクスリと笑った。
「悪い、来たばかりなのに好きも嫌いもまだわからないよな。意地悪した」
アーロンはそう言って会話を切ろうとする。そんな時、ショウヘイはやっと答えと言えるものを纏め、言葉として紡ぎ出した。
「確かに、来て1日2日でわからない事だらけだ。だけど……何か懐かしい感じがして、嫌いじゃない」
ショウヘイの目は外から差し込む暖かな光に向けられていた。いつか見たような、だけど違うであろうその日差しに目を奪われていた。ずっと、部屋の中に閉じこもって教科書やノートと向き合う日々に慣れてしまい、こうした暖かな日の光を忘れてしまっていたのかもしれない。
兄のように、果てのない山道を歩き、日の光に照らされ続け、冷えた風の吹く夜に大地に寝転ぶのは辛いが、自然を肌で感じられるという点には少しだけ羨ましさを感じる。
この世界に来てから、元の世界のような巨大な建物は殆ど見ていない。コンクリートジャングルはなく、代わりに高く、青い空が広がっていて、とても気分が晴れる気がした。
「嫌いじゃない、か……」
アーロンは遠くの空を見つめるようにしながらそう呟いた。何か思うところがあるのかもしれないが、ショウヘイはそれを訊かずに置く事にした。もしかしたら傷口を抉ることになってしまうかもしれないから、踏み出せなかったのだ。
※
アーロンに案内された書庫で、ショウヘイは歴史や文化に関する書籍を読み漁っていた。殆どがスピエルで書かれたものだが、中には日本語や英語も混ざっている。他にもスペイン語やドイツ語と思わしき言語もあるが、そっちは読めそうにない。
スピエルはパスカルが埋め込んだ魔晶石と暗号で読めるし、日本語も読める。あとは手元には通学用のリュックに入っていた電子辞書がある。それを使えば英語の本を読める。
ショウヘイは読みながらも疑問に思っていた。自分たちの世界の言語がここにもある。スピエルだけは聞いた事がない。電子辞書でもそんな言語は出てこない。だけど、他の言語はなぜここに存在しているのだろうか。
手元のノートにはこの世界についてわかった事と、成り立ちについての仮説がズラズラと書かれている。全てショウヘイが記したものだ。腕時計を見れば、既に4時間は経過している。すっかり陽は落ち、窓の外は暗い。そう言えば晩飯の時間だな、そう思ってショウヘイはノートを閉じた。そろそろ兄貴も起きているだろう。
だとしたら、起きた兄にわかった事を教えなければならない。不可解な事が多過ぎる。兄はどう判断するだろうか。ショウヘイは少しだけレイジの反応が楽しみでならなかった。
兄は自分の知らない世界を多く見て来ている。そんな自分はどうだろうか。兄と同じ学校に通って、ここまでは同じような生き方をしているのではないだろうか? 違うのと言えば、兄が理系で生物を履修し、自分は物理というくらいだ。成績は自分の方がいいが、それも兄の失敗から学んだ結果だ。
もしかしたら兄は元からレンジャーの素質を持っていたのだろうか。道無き道を進み、道を切り開いて仲間の為に行動する。その姿が、羨ましく思えた。そして思うのだ。自分はこの世界で兄と違う世界を見て、自分でいられるような生き方ができるだろうかと。
生き方について悩むのは若者特有の悩みかも知れない。特に、受験生は大学からその先を見通して進路を考えるから、その傾向が強くなるだろう。ショウヘイもまた然り。
先生たちからよく言われた。お前は兄よりは優秀だと。だけど、その後に言うのだ。兄は頭は良くないけれども、最後まで自分の意思を貫き通したと。
「強いよな……兄貴……」
閉じたノートを見つめ、ポツリと呟く。自分らしさ、自分だけの強さが欲しい。何かないだろうか。そう思ってショウヘイは手頃な本を取り出した。棚にあった魔法の研究論文が載っている雑誌だ。それには色んな研究論文が載っている。もしかしたら、何か使えるものがあるかも知れない。そんな藁にもすがる思いでショウヘイはその雑誌を読み始めた。
そこには、未知の世界が広がっていた。ショウヘイはいつしか夢中になり、知識欲の赴くままに探し出してきた暗号魔法の入門についての本を片手に、その研究論文を読みあさっていた。
一応、暗号が使えることは分かっている。パスカルに埋め込まれた魔晶石がなければできないことではあるが、魔晶石はまだ体内にある。どれほどの力が出せるかは未知数だが、やってみるだけの価値はある。
「ええと、この暗号式を組み合わせて……ん? こっちの方がいいか?」
暗号式には他の暗号式と結合させるためのジョイント部が決まっている。それをどの暗号式とどんな形で組み合わせるかで効果が決まるのだ。幾つもの組み合わせのあるその中からお目当ての効果を得るには手間がかかる。
ショウヘイは何も喋ることなく黙々と作業を続ける。こうして何かを作るのはとても楽しい。神にでもなった気分になる。掌の中で生まれていく新しい何かを見て、1人悦に浸るのも楽しみのうちだ。自分に理解出来ればそれでいい。そんな楽しみだ。
暗号を組むに当たり、スピエルは何故か使えないようだ。ショウヘイはその理由については後で調べると決めて、母国語の日本語を使って暗号式を作り出す。アリソンからもらった氷の暗号を改良したものだ。きっと上手くいく。
※
「おい何がどうなってるんだよこれ!?」
「分からない。とりあえず一杯やって落ち着こうじゃないか」
「アーロンに同意見だ」
ハミドは何が何だかわからないといった混乱を丸出しにしつつ屋敷を右往左往している。パスカルとアーロンはとりあえず落ち着いて温かいコーヒーを飲み出し、アリソンとルフィナはコートを着てガクガク震え、ゼップとレイジ、ケイスケは臨戦態勢を整えていた。
館の室温がいきなり急降下し、あちこちに霜が降り始めている。まず間違いなく異常現象だ。人狩りが仕返しに来たのだろうかと最初は全員が戦闘体制に入ったが、ハミドが館周辺に仕掛けまくったトラップには何も異常がないことから、外敵はなしと判断され、今に至る。
「なあアーロン、豆変えたか? いや、比率を変えたな?」
「正解だ。トリモントとラディアの比率を変えたオリジナルブレンドだ。レイジ、ケイスケ、これをどう思う?」
意見を求められたレイジとケイスケはアーロンの用意したマグカップを手に取り、コーヒーを啜る。その間にも脳にトリモントとラディアはこの世界のコーヒーのブランドだということを刻み込んでいた。
心の落ち着く香ばしい香りに加えて程よい苦味と温かさが極寒の館の中でレイジの心を落ち着かせる。休暇にはカフェにしょっちゅう行っていた2人にはよくわかった。これは美味いと。そしてチョコケーキが食いたいと思った。
「アリだな」
「確かに。ワッフルに合いそうです」
「何言ってんだお前は? チョコケーキだろう」
「待てレイジ、ケイスケ。そんなに落ち着いてお茶をしている余裕はないはずなんだが……」
「まあまあ、こんな時だからこそ落ち着くのが必要なのさ。急いては事を仕損ずる、だ」
「そうですよ。少し落ち着いて見れば見えるものがあるかも」
レイジとケイスケは焦るゼップへそう言って宥めるが、2人とも違和感を感じていた。ショウヘイがいないのだ。レイジに至っては左手でコーヒーカップを持ちつつも利き手の右手は拳銃を握っている。
「ねえ……ショウヘイはどこ行ったの?」
アリソンが唐突に言った。室温がもう一段低くなったようにも感じられる。そう、この部屋にいた誰もが感じていた違和感なのだ。
「……多分、書庫だ。入ってから出てきた気配がない」
「書庫か……っ!」
アーロンの言葉を聞くや否や、レイジは手書きの地図を頼りに書庫へ向けて走り出した。
「あ、ちょ……行っちゃった……」
「……弟想いなのは良いこと……多分、大丈夫」
その走っていくレイジの後ろ姿を呆然と見送るしかないゼップの隣でルフィナがボソリと言った。
「……アーロン、コーヒーが冷めちまったな」
「アイスコーヒーも悪くないと思うが?」
「ヴァンパイアが血の代わりにコーヒーねぇ……」
「血の栄養価が体に良いから飲んでるだけさ。食べる量次第では人間と同じものでも生きられるよ」
「そんなことよりあの2人、大丈夫かなぁ……」
心配の欠片もなくコーヒーを楽しむパスカルとアーロンを尻目に、ゼップはレイジとケイスケの身を案じていた。
「……お姉ちゃん、私たちどうすればいいの?」
「そうねぇ……ついて行くと面白い事がありそう!」
アリソンはそういうとルフィナを小脇に抱えて走り出し、自衛官2人組を追いかけ始めた。この姉妹は常に面白い事を探している。こんな異常事態も楽しむ気なのだ。
「仕方ない……ハミド、来てくれ」
「はいはい、行きますよーっと」
ゼップはパスカルとアーロンが動かないと見るや、ハミドを引き連れて先行した4人を追いかけ始めた。
「……分かってるんだろ、パスカル?」
「ああ。屋敷の中で誰かが凍結系の暗号を使ってる。場所は書庫」
パスカルの手からは青白く光る線が伸び、それは複雑に絡み合い、暗号式を形作っている。その上には青白い線で館を立体的に映し出されている。
「お前のシーカーを振り切れる奴はそうそういないだろうからな」
「ショウヘイが書庫の本で見つけた暗号を試しに使ったんだろ。まあ、使って死ぬような暗号じゃないが……多分凍えてるな。間接的に殺せる奴か」
「死ぬような暗号じゃないと言わなかったか?」
「過去を振り返るな。ロクなことがないぞ」
パスカルはそう言って冷めてしまったコーヒーをそっと啜った。シーカーの暗号は青白い線が蛇のように動き、パスカルの手の甲へと収束していった。
※
レイジとケイスケは書庫に辿り着くなり観音開きの扉に体当たりして開け、89式小銃を構えて周囲を警戒した。書庫にはあちこちに氷の鎖が張り巡らされ、霜が降りていた。息が白くなるほど寒く、ずっとこんなところにいたら凍死してしまうかもしれない。
そんな書庫でショウヘイは倒れていた。白い息が出ているところから、まだ生きていると見えた。それを見つけたレイジはすぐにショウヘイに駆け寄り、体を揺すった。
「ショウヘイ! 起きろ!」
「あ……兄貴……」
「何があった!?」
「暗号……使ってみたら地獄見た……」
「自滅かよ!」
ショウヘイはカチカチと顎を震えさせながら答えた。とりあえずこの氷の鎖をどうすればいいのかがレイジには分からなかったが、そんな不安もすぐに消えた。いつの間にか入り口に立っていたルフィナの周囲から青白い光が霧の様に出ていて、それに触れた氷の鎖がどんどん溶けていく。そして、それに伴って部屋の温度も上がり始めていた。
「凄い……一瞬見てこの暗号を解読出来なかった……」
ルフィナは机に近寄り、ショウヘイの書いた暗号を見て呟く。遅れてやって来たゼップとハミドも驚いたような表情をしているが、アリソンは何が凄いのか分からないようで、暗号を見て首を傾げていた。勿論、首を傾げているのはレイジやケイスケも同じだ。
「ショウヘイ、何だこれ?」
「暗号、本見て見よう見まねで組んでみた。化学式っぽかったから環状構造で作れるかなーって……」
「で、この化学でやったベンゼンみたいなの書いたのか?」
ショウヘイの暗号は6つの暗号式を環状に繋げたもので、高校化学の有機化合物で習うベンゼンの形に似ていた。
「そういう事……暗号式の組み合わせと結合の形でも結構違いがあるみたいで……」
机の上にあった紙には何通りもの暗号が書かれていた。ショウヘイはずっと実験をしていたらしい。調べ物が脱線してこのザマである。加減がわからずに自分の判断でやった結果こうなったのだ。次はちゃんとプロの指導のもとでやろう。ショウヘイは心の中でそう誓っていた。
「加減しろ。死ぬ気かよ?」
「面目ない……」
レイジはショウヘイをひょいと持ち上げて肩に担ぐ。ショウヘイはグッタリとしているがちゃんと意識はあるから、手当てすれば元通りになるだろう。低体温症の処置も一応知っているのだ。
すると、廊下の方から青白い線が伸びてきた。その線は床を這い、机の脚に絡みつくようにして天板まで登って行くと、ショウヘイの暗号に繋がった。
「あら、パスカルが遠隔解除してるのね……」
だが、その線が暗号を辿るのが遅い。ルフィナはその様子を不思議そうに見つめている。
「パスカルのコードディフューザーがこんなに遅いなんて……」
「何なんだこれ?」
ケイスケはまじまじと伸びてきた線、コードディフューザーを見つめる。まるで生き物のように動く線がどういうものなのかに興味を持っていた。
「コードディフューザー。遠くから暗号を読み取り、解除するパスカルの暗号よ。この遅さからして、パスカルでもこれを解くのに苦労してるわね……」
アリソンが解説するが、そもそも暗号の解除の仕方を知らない3人には分かりにくいようだ。その間にもコードディフューザーはショウヘイの暗号をなぞり、その上に形は同じだが暗号式に書き込まれた言葉が違うもう1つの暗号を描き出した。
「暗号を解除するにはその暗号の形をなぞり、式に使われているのと同じ言語で解除する事を書き込む。それが解除方法よ。簡単そうに見えるけど、その言葉を知らないと出来ない芸当だから大変なのよ」
「なるほどな。」
ケイスケが感心している間に、コードディフューザーはショウヘイの暗号を上書きし、解除してしまっていた。氷の鎖は霧のようになって消滅してしまう。それと同時に部屋の温度も元に戻り、何事もなかったかのようにそれぞれはまた広間へと戻り始めた。
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