3-11 湯煙の向こう
「凄い……これが温泉!」
温泉を目の前にしてアリソンははしゃぐ。生まれて初めての温泉なのだ。美春は久しぶりの温泉を前に尻尾をブンブン振り回し、シャロンも目を輝かせている。
「早く入りましょう!」
「待って、シャロン……最初に掛け湯してからね?」
美春が温泉の入り方をレクチャーする。天然の温泉ではあるが、人がよく来るからか整備され、男湯と女湯はしっかり仕切られており、屋根もあるし桶も置いてある。
「覗きとか大丈夫よね? ハミド以外に見られるのはごめんよ?」
「大丈夫ですよ、パスカルさんとハミドさんが認識阻害と侵入拒否の暗号をしっかり作ってくれましたから!」
「……鬼の形相だった」
ミランダは覗きの心配がないと知って安心したようだが、美春としては何やら鬼の形相で必死に暗号を組み立てるパスカルとハミドが恐ろしく感じたらしい。
アリソンは真っ先に掛け湯を終えて湯船に恐る恐る浸かる。肩まで浸かってその辺に背中を預けると、自然と体の力が抜けた。暖かさに筋肉が弛緩していくかのようだ。
「お姉ちゃん、顔がマヌケだよ?」
「うるさいわね! あんたも入りなさい!」
アリソンはルフィナを湯船へと引きずりこむ。しばらくするとルフィナもまた弛んだ表情になっていた。
「……お布団とはまた違う暖かみ。嫌いじゃない」
「でしょ?」
すっかり温泉にダメにされているアリソンとルフィナ。その隣にシャロンとミランダ、ニーナ、アリスも遅れて入る。
「本当に気持ちいいですね!」
「ええ、ただのお湯と思っていたけど良いわね」
「ここのお湯には、美肌効果とか肩こりの解消とか……色んな効能があるってお母さんが言っていたよ?」
「肩こりに効くのは助かるわ。作業してるとよく肩が凝るのよね」
それは本当に作業のせいだろうか。全員の目線がミランダに向く。
「な、何かあった?」
「……なんでもありません」
シャロンはミランダから目を背ける。差を見せつけられた気分になったのだ。ナイスバディなミランダに勝てる気がしない。そう悟ってしまったのだ。
そんな時、突然男湯から桶が飛び込んできた。落下して鈍い音を立てた木製の桶は、何やら赤い血のシミが付着していた。
「パスカルさん? 何かありました?」
「何もない」
「何もないのに桶が飛ぶんですか?」
「レイジが間抜けをやらかした」
「そ、そういうことにしておきますね」
シャロンは苦笑いしながら、パスカルへの追及を中断した。何かあったのだろう。
「ねえねえ、シャロンちゃん、あのパスカルって人とどこで出会ったの?」
アリスがシャロンへ話を振る。パスカルとの関係が気になるようだ。女学生はどこの世界でも恋バナが好物なのだろうか。シャロンは風呂が熱いのか照れたのか、顔を赤くしていた。
「な、な、な、なんでいきなり!?」
「だって、シャロンちゃんあの人とすごく仲良いもん。付き合ってるでしょ?」
「そんなことないから!」
シャロンは茹で蛸のように顔を赤くして必死に否定するのが、逆に何かあるとアリスに勘ぐらせてしまう。ニーナやアリソンたちも話しにくいつき始め、事情を知るミランダは苦笑いを浮かべるばかりだ。
「じゃあ好きか嫌いの二択ならどっち?」
ニーナは狡いと思えるような質問をする。シャロンは言葉に詰まり、俯いてしまっているのだ。
「それは……好きだけど……」
「ほらー! やっぱり!」
「でもそんな関係じゃないし、私に見向きしてくれるかなんて……」
シャロンは自分の髪を指先にくるくると絡めるようにして、不安そうとも思える声で答える。そんなシャロンの肩をアリソンが掴む。
「何言ってるの、パスカルの奴、シャロンちゃんにデレデレなのよ? あいつがシャロンちゃんと話してる時、楽しそうだもん! 癖っ毛がピコピコ動いてるから間違い無いわよ!」
「確かにピコピコ動いていますけど!」
「それに、あいつシャロンちゃんと手を繋ぐ時、リストブレード外してるじゃない。アレ、鞘とグローブをワイヤーで連結してるから取るの面倒って言ってたのよ? それなのにシャロンちゃんと手を繋ぐためだけに外してるんだから、嫌いなわけないし気にしてないわけもないの!」
「……パスカルが手を繋ぐところなんて、見たことないし」
ルフィナまで話に入ってくる。シャロンは少し湯船に顔を沈め、ブクブクと泡を出しながら思い返す。
パスカルの両手の暗器"リストブレード"を、普段からパスカルが外しているところなんて見たことはない。唯一外すのは、自分と手を繋ぐ時だ。グローブどころか鞘も外してポケットに突っ込むのだ。
「パスカル……さん……」
壁を隔てた向こうにいるパスカル。一体何を考えているのだろうか。シャロンはすぐにでも会って話したいと思い始めていた。
※
その頃男湯では、レイジ、ショウヘイ、ケイスケが湯船に肩まで浸かり、至福の表情を浮かべていた。足を伸ばせて、ゆっくりと浸かれるのが何にも代え難い程に心安らぐのだ。
「やべー……ダメ人間になりそう……」
「もうなってるじゃねえか。ただの湯がそんなに気持ちいいのか?」
「パスカルは温泉のすごさをまだ知らないだけだ」
パスカルはレイジの言葉を理解できないと言うように憮然としつつも、ちゃんと肩まで浸かっている。ハミドにおいては風呂の縁に両手を伸ばしてもたれかかり、天を仰ぐようにして浸かっている。まるで親父だ。
「あったけえ……」
「そういや班長、この壁隔てて向こうって楽園ですよね。こんな野郎に囲まれた地獄じゃなくて」
「待て皆坂、死にたいのか?」
ギロリ、とパスカルとハミドの鋭い目線がケイスケに集中する。無言で殺すぞお前とでも言っているかのようだ。
「彼氏がお怒りですね……」
「死にたくなければ覗きなんて真似はしない事だ。ところでパスカルもハミドも彼女を覗いて来なくて……」
そんなことを言おうとしたレイジの額を桶が襲う。パスカルが全力で投げつけたのだ。カコン、といい音と共に桶はレイジの頭に当たると、仕切りを飛び越えて女湯へと飛び込んでいった。
「パスカルさん? 何かありました?」
「何もない」
「何もないのに桶が飛ぶんですか?」
「レイジが間抜けをやらかした」
「そ、そういうことにしておきますね」
パスカルは淡々と答える。こいつはシャロンに対して何も思うところが無いのだろうか。鈍感にも程があろう。ショウヘイはそれを突っついてみることにした。
「パスカル、シャロンと付き合ってないの?」
「ああ。よく言われるが付き合ってはいない」
「恋人同士みたいに見えるのに?」
「……なんとでも言え」
パスカルは言葉を濁した。少なくとも無関心ではないようだ。だが、その漆黒の瞳の向こうに何か、秘密を宿しているはように見える。それはまだ解き明かすべきではない謎に思えて、ショウヘイは何も言わなかった。
「ところでよ、レイジとかショウヘイにケイスケは彼女いねーの? 元の世界にいるんじゃねえか?」
ハミドは興味本位でレイジたちへ話を振る。唯一、レイジだけは目を泳がせているがハミドは気付かない。見抜いたのはパスカルだけだ。
「俺は去年別れたからね。勉強がそんなに大事? って別れ切り出されたよ。大学受験前なの忘れたのかって……」
「あはは、翔平くんも大変だったね……俺は自衛隊入ったら、あまりデート出来なくなって別れる羽目になったよ……ところで班長、まさかとは思いますが未だかつて……」
「うるせえ皆坂! それ以上言うな! 絶対言うなよ!?」
「兄貴、まさかどうて……」
「あーあーあー! きーこーえーなーいー!」
パスカルとハミドはレイジへと哀れみの目を向ける。弟に十字を切られ、部下に苦笑いされ、仲間には終わったな、とでも言いたげに見られる。
23年彼女なし。そんなレイジは涙目であった。弟と部下にすら人生経験で追い抜かれ、モテないと言う悲しみがレイジに襲いかかる。
「まあ、兄貴にもいい人が見つかるよ……」
「死ねっ!」
レイジはショウヘイへ石鹸を投げつけると、その場を逃げ出して行った。後には、頭に石鹸を食らって気絶し、湯船に浮かぶショウヘイが取り残されていた。
※
温泉から神社へと戻ったパスカルたちは、各々好きなように過ごしている。部屋でくつろぐパスカルは、風呂上がりの上に徒歩で帰っていたが為に暑かったようで、ポンチョも上着も着ず、ズボンと黒い綿のシャツという姿で寝転んでいた。
「パスカルさん、お休み中でしたか?」
パスカルのいる部屋へシャロンがやってきて、パスカルの近くに腰掛ける。パスカルは何も言わずに体を起こし、シャロンの隣に座るだけだ。
パスカルの手はリストブレードが取り付けられているため、腕にベルトで固定された鞘がよく見える。グローブも暑いだろうが、取るわけにもいかないようだ。
「ここでくらい、その武器取らないんですか?」
「何があるかわからねえ」
「もう、心配性なんですから」
シャロンはそう言うと、パスカルの肩を掴んで無理矢理体を寝かせ、自分の膝に頭を置かせる。おい、とパスカルが抗議の声を上げる暇もなく、シャロンの膝枕に納まっている。
「動いちゃダメですからね?」
「……何をする気だ?」
「美冬さんから、ちょっと教わったんです」
シャロンはそう言うと、耳かき棒をポケットから取り出す。やる気になったシャロンに何を行っても無駄であるとよく知るパスカルは、大人しくされるがままになる事にした。
「……気を付けろよ?」
「ええ、もちろんです」
シャロンは楽しそうにパスカルの耳を掻く。絶妙な力加減で、パスカルも思わず表情が崩れてしまいそうになるほどだ。
「……パスカルさん」
「……なんだ」
目を閉じ、あくまで無表情を貫こうとするパスカル。シャロンは耳かき棒を傍らに置くと、パスカルの髪の毛を耳の後ろに除けて、頬にそっと唇を落とした。