3-6 ありふれた日々さえも
長い船旅の末に、飛鳥に漸く辿り着いた。久しぶりに陸地を踏んだアリソンは太陽の光を浴びながら伸びをする。そして、ぶるっと体を震わせた。
「寒い!」
「冬だぞ。カレリアでもそんな薄着しねえよ」
パスカルが呆れたように言う。船は常に暗号で守られているため、適温に保たれていたのだ。そこから出るなら相応の格好をしなければならない。かく言うパスカルはいつも通りに戦闘服とポンチョだが、暗号を使って暖まっているようだ。まるでカイロのように暗号を使っている事実に、またしてもショウヘイはカルチャーショックを受けていた。
「……翔平、またショック?」
「少しだけ、ね。魔法ってこんな使い方されていいのかなーって……」
「固定観念はダメ。視野が狭くなるよ?」
「そう言うものよ。ショウヘイも思い切って見ればいいの。魔法に許されないものなんてないんだから」
「許されないものはない、か……」
ショウヘイはアリソンの言葉に、少しだけ目を閉じて心を落ち着かせる。手をかざし、手の甲に転写してあった暗号を2つ起動させる。そこへ、ペンで線をいくつか書き足して1つの暗号に書き換える。
オレンジの光を帯びた暗号がショウヘイの体を包み込むように光の線を伸ばしていく。身体中に回路を巡らすかのように、無数の暗号の光がショウヘイを包んだ。
「うん、これで俺も全身あったかい」
「本当にやったよ……どこで覚えたの?」
「アリソンが教えてくれた暗号だよ?」
ゼップの屋敷にいた頃、ショウヘイはアリソンから暗号を習っていたのだ。それをここで実践してみせただけに過ぎない。しかし、ショウヘイは2つの暗号を繋いで一つにしてみせたのだ。アリソンはそれを教えていない。
「どこで覚えたの?」
「繋いだらうまく行きそうな気がしたのさ。許されないものはない、でしょ?」
ショウヘイは数学と化学が得意だ。2つのものを組み合わせ、一つの式にしてしまう。それは得意とするところなのだ。それは暗号へも応用が利くことが分かり、ショウヘイはそれを練習していたのだ。
「ええ、許されないものはない。挑むも自由。引くも自由。挑むがいい若者よ!」
「挑むことが許されるうちに、な」
レイジは目を閉じてニヒルな笑みを浮かべている。ルフィナはそんなレイジを不思議そうに見ながらも、いつも通り眠そうな表情に戻ってしまった。
「ハミド、この国は来たことあるの?」
「俺は海を越えはしないぜ。飛鳥は初めて」
「ハミドも私も初めて、一緒に……うん、いい思い出になりそうね」
「本にでもするか?」
「私だけの思い出にするわ」
ミランダはとても嬉しそうに笑みを浮かべている。ハミドはいつものように笑い、ミランダの頭を撫でる。初めて立つ飛鳥でそれぞれが思い思いの反応をする中、レイジとショウヘイ、ケイスケはやはり既視感を感じていて、あたりをキョロキョロ見回していた。
「美春、ここからどうすればいい?」
「馬車を使うしかないかも。ここから祇園までは、ラドガからトゥルクくらいはあるよ? 多分、港の近くに乗り合いの馬車があると思う」
「バスみたいなものかな……兄貴!」
「直接傍受。それで行こうぜ、パスカルもいいか?」
「飛鳥の道は不慣れだしな。それで行くぞ」
「オーライ、美春、案内頼む!」
美春は笑顔で縦に頷くと、ショウヘイの手を握って歩き出す。すっかり懐かれているショウヘイは早く行こう、とグイグイ引っ張ってくる美春を可愛いと思いつつ、少し早足でそれについて行った。
※
美春に連れられてたどり着いた馬車の発着場で、手頃な馬車を借り、祇園へ向かう。今回は御者付き故に全員がゆっくり休める。3頭の馬が引く大型の馬車で、見かけはコンテナだが、中は広々としていて乗り心地はいい。
壁には窓もあり、暖かな日の光と共に景色が映る。黄色や赤に彩られた山は故郷を思い出す。レイジやケイスケ、ショウヘイには見慣れたものではあるが、パスカルたちには珍しいのか、窓に釘付けになっている。あのパスカルさえも、だ。
「……冬の木は枯れて落ちるもんだと思ってたが、こんな風になる木もあるんだな」
「凄いですよパスカルさん! 後で見に行きましょう!」
「落ち着け。時間はあるんだ。お前の調査ついでに見ればいい」
パスカルはうるさいと突っぱねることも、興味ないと無視することもなく、シャロンと一緒になって景色を見ている。本当に興味があるのか、面倒見がいいのはさておき、中々に微笑ましくも思える光景だった。
「ねえ、兄貴。美春に兄貴の話を聞かせてやってよ」
「どったよ急に?」
ショウヘイからの突然の提案にレイジは困惑ではないが、首をかしげる。ああ、そうかとショウヘイは事情を話し始めた。
「さっき、俺や皆坂さんの話聞かせたら、兄貴の話も気になるって言い出してさ。それで、ね?」
「いいけど面白いかどうかはまた別の話だぜ?」
レイジは目を閉じ、思い出す。それは駐屯地のとある1日。何の変哲も無い、ありふれた日だ。
※
朝の点呼が終わって、朝食も食べ終えた零士は居室で椅子に座ってのんびり朝のニュース番組を見ている。お気に入りのマグカップに甘めのカフェラテを注ぎ、眠い目を覚ますのだ。
「うへぇ……戻りましたよーっと……」
皆坂がヘロヘロな様子でエナジードリンクの缶を片手に部屋に戻ってきた。部隊に後輩が入らないうちは皆坂が雑用をこなさなくてはならず、朝のゴミ出しもその役目だ。少ない同期で中隊の各居室のゴミを捨てに行くのは重労働なのだ。
「お疲れ。チョコ食うか?」
「いただきます。飲まなきゃやってられねーぜー!」
「朝から発狂してるなよ……」
5人が共同生活を送るこの居室には後3人いるのだが、この日は警衛隊に上番しており、部屋を空けているのだ。部屋に置いてある共用のテレビ(金出したのは零士だが)も、2人でゆっくり見れるわけだ。
「班長、あの女優結婚するんですか?」
「しーらね。俺2次元にしか興味ねえし」
「マジっすか……俺も人のこと言えませんけど、あの女優結婚とか聞いたら近衛2曹が悲鳴あげますよ?」
「なんだとサッカー!? 今の本当か!?」
いきなり部屋のドアが勢いよく開き、零士と皆坂はドアの方に体を向けて身構える。低すぎず、高すぎないテンションの高い声、172cmの零士、170cmの皆坂より、頭半分から3分の1ほど大きく感じる背丈(178cm)のこの男こそ、副分隊長の近衛徹哉である。35歳でありながら、小隊トップクラスの体力を誇り、戦闘技術も高い。特殊作戦群に行くべきでは? と零士は常日頃思っている人物だ。
「ちょ、驚かさないでくださいよ! 近衛班長よりこっちがビビりましたよ!?」
「おいおいザッキー、いつものことだろ? そんなことより電撃結婚で俺の方がビビったぞ、明日から何を楽しみにすりゃいいんだ?」
「いや、近衛班長既婚者ですよね?」
零士は冷静にツッコむ。近衛は既婚者であり、零士たちとは違って駐屯地の外で生活する営外者なのだ。零士たちの居室と同じ階に営外者の更衣室があるため、時々こうして部屋に遊びに来ることもあるのだが、それにしては今日は出勤が早すぎる。
「近衛班長早いっすねー、夫婦喧嘩でもしたんですか?」
皆坂はそんな冗談を言いながら近衛の分のコーヒーを淹れる。その間に零士が椅子をテレビの前に並べていた。
「いやいやいや、俺は常に夫婦円満よ。嫁さんの代わりにゴミ出しして、そのまま出勤してきただけだよ」
「なるほど、とりあえずコーヒーをどうぞ」
「お、精強っ!」
大体、近衛の精強とは、グッジョブという意味合いの場合が多い。独特な言い回しのバリエーションも多く、小隊のムードメーカー的な存在だ。近衛語録でも作ってみようかと零士は密かに考えていたりもする。
「ところでザッキーとサッカー、課業後飲み行くか? ちょうど週末だしさ」
「といいつつ、アニメショップであれこれ漁ってから居酒屋で戦利品の見せ合いっすよね?」
「そんなら神崎班長がいつも読んでるラノベ、今日発売じゃありませんでしたっけ?」
零士はものすごい勢いで皆坂を見る。近衛も皆坂の方を向いた。2人とも、発売日をどうやら忘れていたようだ。
「まじか、"異世界転生勧められたけど蹴って女神の旦那になる"今日発売だったか!」
「ザッキー、"Gunslinger Knights"も今日コミカライズ版発売じゃねえか、今日は代休だ、代休取ろうぜ」
「近衛班長、もはや手遅れっす。今から代休で休みまーすなんて訓練准尉に言ってみてくださいよ。ふざけるな馬鹿野郎って近衛班長も神崎班長もまとめてどつき回されて、中隊中からエースって笑われるのが関の山ですよ?」
皆坂はそんな2人を苦笑いを浮かべながら嗜める。本当にやりかねない勢いだったので、ストッパーが必要だと思ったのだろう。もちろん2人も本気というわけではないらしく、笑っていた。
「いくらなんでもそれはやらねーよ! まあ、代休取れるなら取りたいけど」
「近衛班長、代休いくつ溜まってるんです?」
「軽く見積もって7か?」
「……お疲れ様です」
皆坂は黙祷した。1週間休める分の代休を貯めておきながらもまだ消化出来ていない近衛が少し哀れに思えたのだ。絶対にキツそうな顔をしない近衛だから、代休を先延ばしにしても大丈夫と勘違いされているのかもしれない。
「まあ、夏休みにありったけの代休注ぎ込んで長々休んでやるさ。とりあえずザッキーもサッカーも飲み行く前に買いに行くの忘れんなよ?」
「了解、付箋でロッカーに貼っときます」
「で、付箋貼ったのを忘れるまでが神崎班長ですよね」
「おい皆坂、フラグ立てんじゃねーよ!」
※
そんな課業前の一コマ。別にウケるような笑い話でもない。感動するような言葉があるわけでもない。ただ、彼らが確かにそこにいた。記憶の隅に眠る些細な出来事で、代わり映えしないありふれた日常。だがそれすらも、今のレイジには懐かしく思える。
近衛2曹はどうしているか。異世界転移した、なんて知ったらかなり羨ましがることだろう。手を伸ばせば届くあの日常が、今は遠い。だからこそ話した。英雄譚でもなく、悲劇でもなく、ただありふれた日々を。
「零士、帰りたいの?」
美春がレイジの顔を覗き込み、問いかける。まるで行かないで、とでも言うような目に、レイジは戸惑った。自衛官として帰らなければならない。それは分かっているが、神崎零士としての意思は、わからないのだ。
「うーん、まだ先でいいかな」
だから、こうして曖昧に返すしかレイジには出来ない。ここも、元の世界も、ありふれた日常に満ちている。ただ退屈で、過ぎ去って行く日々を生きる事しか考えていなかった。それが無くなって初めて、その日常のかけがえのなさを知る。
ショウヘイはどう思っているのだろうか。ケイスケはどう思うだろうか。レイジには分からない。ただ過ぎた日々に想いを馳せる事しか、レイジには許されていないのだから。