1-2 起床ラッパの鳴る頃に
冷たい水滴が天井から滴り落ち、それが頬に当たる。それが翔平の意識を覚醒させた。零士は目の前で横たわっている。身ぐるみ剥がされ、迷彩のズボンとオリーブドラブのTシャツという姿だ。かくいう自分も上はワイシャツ、下はスラックスだけという姿だ。乱暴に引っ張ってこられたのか、体のあちこちが痛む。
「兄貴……無事か……?」
零士は呼びかけにピクリとも反応しない。翔平は少しだけ焦りを覚えた。死んでいるのではないか、そんな不安からだ。ダラリと垂れた腕が更に不安を煽る。
「おい……起きろって……」
足で蹴ろうとするが、届かない。両手を鎖で繋がれているのだ。もう少しで届きそうだが、ギリギリで届かない。
「起きろよ……起きてくれって……」
マジで死んでるのか? あの強い兄貴が……帰ってくるなり俺に腕立てさせて、ヘバると横でニヤニヤしながら残りの回数貰ったと100回近くやってのけるタフな兄貴が……?
翔平の心がそんな不安で一杯になりかけたその時、脳裏に1つの旋律が蘇る。零士がスマホのタイマーに使ってるサウンドだ。そう、自衛隊の起床ラッパだ。
残念ながらスマホは没収されたようだ。それならこれでどうだと、翔平は口笛でうろ覚えの起床ラッパを吹く。すると、たったの一度でバネに弾かれたように零士が飛び起きた。まるで、某警部が某大泥棒の名前を聞いただけで蘇生したような感じだ。
零士は跳ね起きて着替えを始めようとしたところでやっと鎖に繋がれているのに気付いた。目が醒めるというより、条件付けされてるんじゃないだろうか? 多分、鎖で繋がれてなければ無意識のうちに着替えて点呼に飛び出していたはずだ。翔平は頭を振ってそんな思考を吹き飛ばすことにした。
「おい、今の起床ラッパ嘘かよ……って、ここはどこ? 私は誰?」
「何テンプレみたいなこと言ってるんだよ?」
何がともあれ、翔平は零士が目覚めたことに一安心した。生きていればとりあえず何とかなる。命あっての物種だ。そう思った。
「やれやれ、ご丁寧に鎖で繋ぐか……」
後ろ手に繋がれた零士はカチャカチャと何かを弄りだした。針金を使ってピッキングでもするのだろうか? 少しだけ期待が高まる。だが、しばらくガチャガチャと鎖を鳴らした後、足を投げ出して大の字に寝転んでしまった。
「……だーめだこりゃ。縄なら抜けられたけど鎖は無理!」
前言撤回。零士はアホの子だった。そんなの簡単に出来るわけない。そんなことは翔平にもわかりきっていた。
そんな時、コツコツと石畳の階段を誰かが降りてくる音が聞こえた。どう足掻いても抵抗出来ない。零士は既に抵抗しないと意思表示をするように項垂れているし、翔平もどうしようもない、降参だとばかりに項垂れることにした。
「おい、この言葉は分かるか?」
日本語だ。翔平が顔を上げてみると、短い黒髪の青年がそこに立っていた。目は鋭いが整った顔立ちをしていて、ファッション雑誌に出ていそうな感じだ。グレーのロングコートがダークな雰囲気を醸し出す。誰だこのイケメン? 翔平はそう思いつつ、口を開いた。
「ああ分かるよ。あんた何者?」
「てめえ……っ!」
零士は何やら敵対心むき出しだ。相手は仕方ないとばかりに溜息をついている。一体どんな因縁があったのだろう? 翔平は首を傾げた。
「ああ、そっちの友達が兄弟か分からんが、ぶん殴ったのは確かだ。悪く思うなよ。そっちは侵入者なんだから」
ぶん殴った、その言葉でやっと理解した。いきなり後ろから殴ってきたのはこいつなのだと。よくもやってくれたな、いっぺんぶん殴ってやる。そんなことを考えつくくらいに翔平は怒りを感じていた。やられて泣き寝入りするようなヤワな思考回路はしていないのだ。殴られたらキックもおまけして返してやれ、そんな感じである。実際、中学校時代にはいじめっ子を泣くまでぶん殴ったこともある。
「うるせえ、来たくて来た訳じゃねえんだよ。とっとと元の世界に帰しやがれ」
零士が悪態を吐くと、パスカルは意味分からないといったような表情で首を傾げた。ならば、こっちに引っ張り込んだのはパスカルではないだろう。あと、パスカルの雇い主も白だろう。黒ならパスカルも俺たちが何者か多少なりともわかるはずなのだから。
「……悪い、頭思い切り殴ったせいで頭おかしくなったか?」
「至極正気だ馬鹿野郎!」
パスカルの哀れむような目に零士が怒っているようだ。パスカルの挑発(?)がかなりいい線いっているから仕方ない。少なくとも、頭はやられていないだろう。ずっとヘルメットを被ってたんだから。元から頭がおかしかった場合はその限りでない。
「まあいいや。とりあえずやることさっさと済ますか」
パスカルは檻を開けるとツカツカと中に入り、零士と翔平の腕に手を触れる。パスカルの手に握られていた小豆大の輝く石が溶けるようにして腕の中に入っていく。その石が入った部分がぷっくりと腫れもののように膨れた。
その次にパスカルは2人の頭に手を乗せた。翔平はこの歳で見知らぬ野郎からナデナデされる屈辱を味わうのかと思ったがそうではない。パスカルの手から何かが流れ込んでくるような錯覚に襲われた。なんだこれは、なんの言語だ? 何かの言葉が頭に流れ込んでくる。そして理解した。あの美少女が話してたのと同じ言語だと。
「これで、意思疎通は出来るな?」
パスカルがまたあの言語で話す。だが、今度はすんなりと耳に入り、その意味を理解できる。いったい何がどうなっているんだろうか。2人には理解できるわけがなかった。
「ああ、分かる……何なんだこれ?」
「魔晶石を体に入れてからちょっとした暗号を使った。お前らスピエルを話せないみたいだから、これを使ってちょいちょいっと」
パスカルの手のひらには魔法陣のようなものが描かれている。これが暗号なのだろうか。言葉がわかってもまだわからないことは山ほどあるのだ。とりあえず、翔平には暗号イコール魔法ということは理解出来た。ただ、魔晶石についてはまだ何かわからない。暗号を使う前にそれを体に入れたという事は、魔法を使うにあたって何らかの関わりがあるのだろう。
「まあ、それは置いておいて、お前らどこの手のものだ?」
「陸上自衛隊中央即応連隊1中隊」
「私立長野沢高校3年12組」
「……聞いた俺がバカだったな」
パスカルは飽きれたというような表情を浮かべる。飽きれてるのはこっちだ。今日は厄日だな。翔平は溜息をついた。
「まあ、何だ……身元が分からない以上、お前さんたちを信用する訳にはいかない。武器も持ってたし」
やれやれ、どうしたのものかとパスカルが悩んでいると、もう1人の男が階段を下りてきた。茶色の髪は少しパーマがかかったような癖っ毛で、パスカルより少し高い背丈、そして、黒い軍服のような服を着ている。ちゃんとクリーニングされているようで、汚れひとつない。
その姿を見るや否や、パスカルはその人物の前に跪く。パスカルの雇い主なのだろうか? ならばあの美少女は何者だろうか。翔平の中で謎が増えていく。零士は警戒を解くことなく周囲に視線をやって何かを探しているように見える。
「パスカル、彼らを解放しろ」
「ゼップ、本気か?」
「本気だ。敵ならあそこでアリソンとルフィナを殺ってるはずだ。絶好のチャンスだったらしいからな。それに、もしかしたらクロノスに連れてこられたのかもしれない」
「クロノスの招き人、か……」
わかった、とばかりにパスカルが縦に頷き、零士と翔平の手首にはめている枷を外していく。零士も翔平も枷を外されても暴れたりはしない。パスカルが睨みを利かせているのだ。変な動きをすればただでは済まないと雰囲気からでも感じ取れる。実際、パスカルの袖口でキラリと何かが光って見えた。暗器でも仕込んでいるのだろう。
「手荒な事をして済まないな。襲撃を受けたばかりでピリピリしていたんだ。君のお陰で助かった。感謝するよ」
「まあそれはいいとして、俺の装備どこ?」
零士はまず自分の装備の心配をし始めた。翔平には物品愛護の精神もここまでくると行き過ぎな気がしてならない。
「ちゃんと保管してあるから安心してくれ。っと、まずは名乗らないとな。僕はヨーゼフ。ヨーゼフ・アロイスだ。ゼップとでも呼んでくれ」
ゼップは手を差し伸べる。零士と翔平は一度顔を見合わせた。信用してもいいのだろうか、そんな疑念があったのだ。いきなり現れた異邦人というか異世界人な自分たちをこうもあっさり受け入れるだろうか?
「……翔平、不安なのはわかるが、今は頼ろう。俺たちは今の所、帰還どころか今日を生きるのすら危ぶまれてるんだ。使えるものは使おう」
翔平はゆっくり縦に頷く。現状、生き延びるには知識が圧倒的に不足しているのは事実だろう。この屋敷の中でしか行動していないが、それでも不自由が多すぎる。外に出たら持たないだろう。
「わかった。兄貴に任せる」
翔平は自分で決めるのが怖くて仕方なかった。失敗を恐れるその気持ちが決断を鈍らせ、結果的に零士に任せてしまうという結論に至らせたのだ。
「俺はカンザキ レイジ。隣のは弟のショウヘイ」
零士はゼップの伸ばした手を握り返した。ゼップの陶磁器のように繊細な手と相反して、日焼けして角ばった零士の手が合わさる。
「レイジとショウヘイか。ようこそ我が家へ。歓迎するよ」
ゼップは屈託のない笑顔を見せた。その笑顔はレイジとショウヘイの警戒心を緩ませる。仲良くできればいいな、そう思った瞬間だった。
そして、レイジとショウヘイへ服と荷物は返却された。その後、ゼップに案内され、円卓のある部屋へと招かれた。高い天井には水晶のシャンデリアが吊り下げられ、床には赤い絨毯が敷かれている。2人には目新しい光景で、思わずキョロキョロ見回してしまった。
「天井高いな……」
「ああ、しかもテーブルが駐屯地の食堂よりデケえ……」
「それと比べちゃダメじゃない? それに、駐屯地のは長机なんでしょ?」
「なんだか話についていけないなぁ……」
兄弟の会話に入り込めないゼップが苦笑いを浮かべる。しまった、とレイジとショウヘイは言葉に詰まった。とはいえ、共通と言えるような話題を持っていないのだ。
「悪い、こっちのことよく知らなくてな……」
レイジが申し訳なさそうに言うと、ゼップは気にするなとばかりに微笑んで見せた。暖かみのある優しい笑顔だ。
「いいさ。それより2人はどこから来たんだい?」
またレイジとショウヘイは言葉に詰まった。どう答えればいいのだろうか。ショウヘイはレイジに目配せすると、レイジは仕方ないとばかりにため息をついた。
「日本だ。極東の島国」
「ニホン……? 聞いたことないな……極東というとアスカ辺りか……パスカル、どう見る?」
「2人の言葉がちょうどアスカで使われてる極東語。ニホンって地名は知らない。少なくとも、このローラシア大陸でそんなのを聞いた事ないからな」
ローラシア大陸、その言葉にショウヘイは違和感を覚えた。ローラシア大陸といえば、三畳紀頃にパンゲア大陸が分裂してできた超大陸である。それが異世界にもあるのだろうか? 疑問を抱いたショウヘイはパスカルに訊いてみる事にした。
「なあパスカル、もしかしてゴンドワナって聞いた事ないか?」
「ああ、南の大陸だろ? そっちの出身なのか?」
「いや、違う。ちょっと気になっただけ」
やはり何か引っかかる。ローラシアもゴンドワナも遥か昔の超大陸である。その名前が異世界にもあるのが不思議に思えた。もしかしたら、自分たちがいた地球とは別の文明を築いているパラレルワールドなのだろうか? とりあえず、それを知ったところで今は役に立たないと判断したショウヘイは、その疑問をそっと心の引き出しにしまう事にした。
「まあいいか。2人の席はここだ」
パスカルが椅子を引く。護衛兼使用人なのだろうかとレイジとショウヘイは疑問を抱きつつ着席する。レイジはかなり緊張しているようで、背もたれに背をつけていない。座った状態での気をつけを実践しているのだ。
そこへ、例の美少女2人と護衛らしき青年2人がやって来た。どうも護衛の1人を除いて神崎兄弟を覚えていたらしく、驚愕の表情を浮かべている。
「ほら、2人はゲストだ。挨拶しておきなさい」
ゼップが促す。武装はしていないが、警戒されていると感じ取ったのだろう。ぎこちないが、金髪の美少女の方から自己紹介を始めた。
「ヨーゼフの妹のアリソンよ。あなたたちが何者かは知らないけど、ゲストならゆっくりくつろいで行ってね」
勿論、レイジとショウヘイは目を奪われていた。そんな様子に銀髪の方がコホンと咳払いすると、自己紹介を始めた。
「次女のルフィナです……」
こっちはどうも控えめなようだ。とりあえず、いつまでも見惚れていないで自分たちも挨拶しようと、レイジとショウヘイは立ち上がった。レイジは挨拶前に腰を10度に曲げる10度の敬礼をした。脱帽しているため、挙手の敬礼はしない。
「カンザキ レイジです。一応、軍人……です」
自衛官と言っても通じはしないと判断したレイジは軍人と表現した。すると、あちこちからおお、と感嘆の声が上がる。
「道理で厳つい体してる訳だ。おいハミド、お前よくこんなの倒せたな?」
パスカルはやや色黒で、癖っ毛な護衛に声をかける。アラブ系に見える彼は豪快に笑いながら答えた。
「ああ、奇跡だったのかもな」
あはは、とショウヘイはそれを聞いて苦笑いを浮かべた。確かに兄はがっしりとした体つきをしている。脳みそまで筋肉詰まってるのではないだろうか。20kgはあろうかという背のうに加え、ロケットランチャーまで持ってケロリとしていたのだから。
ある程度レイジの自己紹介が終わったところで、今度はショウヘイが口を開いた。
「弟のカンザキ ショウヘイです。俺は学生。兄貴ほど力はありませんよーっと」
実際に銃に対する戦闘能力は無いに等しい。この時ほど力が欲しいと思ったことは無い。剣道をやっていた経験はあるが、そこまで肉薄する前に撃たれるのが関の山だろう。
ショウヘイがそんな事を思っていたら、今度先ほどの色黒で陽気な護衛が話し始めた。
「俺はハミド・イブラヒムだ! ゼップ、アリソン、ルフィナの護衛兼使用人! んでもって、そこの色白野郎は……」
「アーロン・ライトナーだ。よろしく頼む」
アーロンは白い肌でサラリとした黒髪で片目と耳を隠している。そして鋭い目つきが特徴的だ。黒のコートとその下に着ている黒い服がとても合っている。特徴的なのは鋭く尖った耳だ。
「最後に、パスカル・エマニュエルだ」
狼のような静かな獰猛さを垣間見せる青年、パスカルが最後に挨拶をした。奇妙な顔合わせはこうして終わった。
それから、歓迎の宴が始まった。西洋風の料理が並び、どれも味は一級だ。パスカルとハミド、アーロンが作ったらしい。護衛も家事も万能。きっと女性にモテるだろう。ショウヘイは心の底から敬服した。
「そういえば、レイジとショウヘイは行く場所はあるのかい?」
ゼップの唐突な一言に2人は凍りついた。完全にその事を忘れていたのだ。無一文の上に寝床なし。絶体絶命としか言いようがない。
「考えてないな。この金が使えるなら話は別だけどさ」
レイジは財布の中身を取り出す。万札と小銭がいくつか入っていた。ゼップは小銭を手に取り、まじまじと見てからパスカルに渡した。
「どう思う?」
「純粋な銅だな。高値で売れると思う。ここまで純度が高いのは珍しい。このアルミも然り」
どうやら、小銭を貨幣としてではなく鉱物としての価値を認めたようだ。
「電解精錬とかないのか? テルミット法は?」
「テルミット? 何じゃそりゃ」
パスカルは首をかしげる。それにショウヘイは困惑の表情を浮かべた。電解精錬もテルミット法もないとなると、この世界の冶金技術のレベルはどれくらいなのだろうと考え始めた。
テルミット法は金属酸化物をアルミニウム粉末と混ぜて着火すると、3000℃もの高熱と激しい光を放ちつつ、金属酸化物を還元し、金属単体にしたり、溶接に使われる技術だ。ローストターキーを美味しく作るのにも使えるらしい。
「金属の精錬方法。詳しいことは後で教えるよ」
「ふむ……それはさておき、身の振り方が決まるまでうちにいたらどうだ? 対価は……そうだな、君たちの知識でどうだい?」
ゼップが提案する。確かに、この世界にないであろう技術や知識があれば一攫千金は狙える。それ以外にない2人はその話に乗る事にした。少なくとも、暫くはこの世界で生き延びる糧を得られるだろう。
「わかった。お世話になります」
「同じく。これからよろしくお願いします」
レイジとショウヘイが改めて挨拶すると、ゼップをはじめ、その場にいた面々がクスリと笑いを零した。
「堅くならなくていい。ようこそ、我が家へ。改めまして、アリエス聖王国第一王子、ヨーゼフ・アロイスだ。同時にここ、カレリア領主でもある」
その一言に、レイジとショウヘイは凍りつき、ショウヘイに至っては持っていたフォークを取り落としてしまった。