1-1 神崎兄弟の困惑
神崎翔平は呆然と立ち尽くしていた。目の前はステンドグラスのはめられた大きな窓。どこまでも続く長い廊下と幾つものドア。もうなん部屋あるのか数えるのはやめた。そして天井のシャンデリアが豪華すぎる。日本じゃないな。ヨーロッパか?翔平は首をかしげていた。
神崎翔平は進学校に通う高校3年生。オタクではあるがしっかり学校には通っているし、成績も良い為、誰にも文句を言われない。ラノベによくある異世界トリップは好きだが、本当にあるわけないと思っていた。そのあるわけないが目の前で起きてしまい、呆然とするしかなかった。
ヨーロッパに来たはずは……直前の記憶を思い返そうとしたが、なぜか思い出すことができない。なぜだろう、喉元まで出かかっているのに、つっかえて出てこない。俺、いつの間にアルツハイマーになったの? それとも夢? 翔平はますます困惑した。なぜかここに来る直前のことだけ思い出せないのだ。
とりあえず頬を指でつねる。もちろん痛い。その痛みがこれが夢でないことを認識させてくれた。夢でないと知覚した瞬間、翔平は溜息をつくしか無くなってしまった。万事休すだ。
「……なーんだここは?」
「うひゃあ!?」
誰もいないはずの背後から声が聞こえ、思わず変な声を出してすっ転んでしまった。やべえ、俺かっちょわりー……呑気にも思い浮かぶのはそんな事だ。そして次の瞬間にはこの目の前の迷彩服野郎に見覚えがあるのは目の間違いだと信じてしまいたくなった。
「で、なんで翔平がここにいるのかねぇ……」
迷彩服に防弾チョッキらしき迷彩柄のベスト、これまた迷彩柄のヘルメットに、爪先が妙にテカテカしている黒いブーツ、馬鹿でかいバックパック、そして銃を持ち、極め付けに背中にロケットランチャーを背負った男、どう見ても自衛官である。そして、その自衛官は翔平の兄である神崎零士だ。
「兄貴こそ、なんでここにいるのさ?」
「わからん知らん。直前に何やってたか思い出せない。見るからに、ラノベにありがちな異世界トリップ臭いけど」
どうやら兄弟そろってこの摩訶不思議な現象に巻き込まれたようだ。どこぞの心霊雑誌に投稿したら採用されるんじゃないか? そんなくだらないことを考えて翔平は現実逃避を図った。
「ラノベの読みすぎじゃない? または寝ぼけてるか」
「バカ言うな。起床ラッパが鳴れば自動的に目が醒めるからそれはない。たとえ、昏睡状態でもな」
豆知識。よく訓練された自衛官はラッパの音で昏睡状態であろうと必ず飛び起きる。そんなわけあるか。どんだけだよ起床ラッパ。前に帰ってきたときは悪魔のラッパとか言ってたくせに。翔平はそんな事は思い出せたのに、どうしても直前のことが思い出せないのが引っかかっていた。何か大切なことがあったはずなのに。
「とりあえず状況を整理しよう。直前まで何してた?」
「思い出せない」
零士の問いかけにもこう返すしかない。覚えてないのか思い出せないだけなのか全くわからないのだ。夢を見ている時も、寝る前の事なんて考えやしない。それと同じなのだろう。
「お前もか……よかった。俺が脳みその病気になったわけじゃ……っ!」
次の瞬間、翔平は零士にいきなり体当たりされ、近くのドアをぶち破ってその部屋に倒れこむことになった。鈍い痛みを脳が知覚する。零士のタックルとドアに激突した2つの痛みだ。実兄(背のうと銃、ロケットランチャーの重量を添えて)とドアにプレスされて鈍い痛みで済んだのは幸運だった。
「何しやが……」
翔平の抗議の声は何かが弾けるような音に掻き消された。何が起きたのかわからない。零士の顔が一瞬で冷徹なものに変わったのだけは理解できた。もしかして銃撃? そう認識した瞬間、翔平の身体中から血の気が引いていく。出血しているわけではないが、体から血が無くなっていくようだ。
「クソ、一瞬見えたけど自衛隊じゃない! どこの軍だ!? それともゲリラ!?」
そう言いつつも零士は冷静だ。冷静にその場に背のうとロケットランチャーを置き、銃を構える。銃撃なんて本当にやられるのは初めてのはずなのに、どうしてここまで落ち着き払ってられるのだろうか。翔平はそんな疑問を抱いた。
すると、どこの言語かわからない言葉をかけられ、その次の瞬間にはガチャ、という重い金属音と共に額に冷たい何かが押し当てられた。ここにも敵がいたのか? 翔平は思わず漏らしてしまいそうだがぐっと我慢する。カタカタ震える顎と足がうるさい。顔を動かしたら撃たれてしまいそうで怖い。
「声からして女か? もし何者かって言ってるとしたら、それはこっちのセリフだと言いたいね。ここがどこだかわけわかめだってのにこの仕打ちかい……」
零士がそう言っている間にも段々敵の弾幕が濃くなってきた。このままだとやられる、そんな思いが翔平の脳裏をよぎった。
「やれやれ、撃っていいのかなこの状況」
とうとう零士は痺れを切らした。このままではどのみちやられる。やられる前にやってやる。そんな思いが零士の中で浮かび上がったのだ。撃つのはアスロックではなく銃弾ではあるが。
「おいおい兄貴、自衛官って簡単に銃撃っちゃいけないんじゃないのか?」
「正当防衛正当防衛」
ああ、銃に弾込めてやがる。その目はお前はタマ持ってるのか? とでも聞きたげな目だ。物騒なタマは持ち合わせちゃおりませんよ。翔平はビビりつつも心の中でそんな事を考えていた。この危機的状況から少しでも逃避しようとしたのだ。
弾幕が壁に当たり、壁やら廊下を削るような音が聞こえる。翔平はその度に情けなく縮こまり、震えていた。
死にたくない、そんな言葉が頭の中を駆け巡る。激しい銃声はそのうち早鐘を打つ鼓動に掻き消されていった。恐怖が全てを支配する。嫌だ嫌だ嫌だ、こんな所にいたくない。逃げ出してしまいたい。
「やれやれ、そんじゃあそこのお嬢さん方は愚弟と引っ込んでてくださいな。ちゃっちゃと片付けてみせますよ」
銃を突きつけられているのに余裕な零士は弾を込めると、匍匐前進でドアの近くにまで身を寄せ、少しだけ廊下に顔を出す。翔平は撃たれるよ、そんな声すら出せずにいた。その代わりと言ってはなんだが、そっと銃を突きつけてきた人の顔を見てみる。
2人いる。どっちも整った顔立ちの美少女だ。翔平に銃を向けているのは金髪の髪をサイドテールにしていて、茶色い生地に青い刺繍の入ったケープコート、同じく茶色のスカートを履き、黒のハイソックスを履いている。手に持っている銃は銃らしくない。V字を90度傾けたような形だ。多分、職業柄銃に詳しい零士ですらこんな銃知らないだろう。
もう1人、零士に銃を向けていたのは銀髪のセミロングヘアーの少女。こっちは全体が青いチュニックワンピースに白い刺繍が入っている。ちなみに、銃は外見は全く同じものだ。一体何者なのだろうか?翔平には観察した結果、それくらいしかわからなかった。
※
零士は僅かにドアから顔を出して敵を確認する。3人の敵が横隊に並び、こちらを狙っていた。マスケット銃のような銃を持ち、こちらへ向けて連射してきている。
「前方25、敵3。どいつもこいつも遮蔽物に隠れないとか戦列歩兵かよ。撃たれたいのか?」
翔平はどうもこうもパニックになりかけているようだ。仕方ない。とはいえ、ビビりすぎではなかろうか? 俺はとりあえず弟と自分を守って、元の世界に戻らなければ。そして、任務を果たさなければならない。どんな任務があったかは思い出せないけど、果たさなければならない気がしてならない。
補給なんて出来るわけないから、あまり弾は使いたくないが仕方ない。全員一撃で仕留めてみせよう。そこの美少女2人に背中を撃たれなければ。零士は心の中でそんな軽口を叩いて1人笑っていた。何故か余裕でいられる。実戦経験なんてあっただろうか? それとも訓練の成果なのだろうか。どっちでもよかった。
零士がチラリと後ろを見ると、金髪が銀髪の方に目配せしていた。まさか2人で相手する気なのだろうか? 異世界に自分たちの世界の常識を当てはめるのは良くないが、自分の感覚だと勝ち目が薄いように見える。零士の頬を冷や汗が流れた。
そんなことを思っていたら、いきなり2人が廊下に飛び出そうとした。零士の本能が警笛を鳴らす。2人が廊下に飛び出した瞬間、襟首をつかんで引きずり戻せたのは奇跡に近いだろう。
銀髪の方が静かにかつ威圧を込めた声で話しかけてくるが、生憎、零士には言葉が理解できない。ラテン語のようにも聞こえるが何か違う。だが、零士はすぐに思考回路を切り替えて敵を先に始末することにした。
零士は上半身だけ廊下に出し、伏せ撃ちの姿勢をとった。これが一番正面からの被弾面積を小さくできる。カッコ悪く見えるかもしれないが、戦場においては格好良さと生存性は反比例する傾向にあるのだ。
零士の予想通り、敵の弾は当たらない。むしろ、今までの無駄弾は全部牽制の為に撃っていたのだろう。ならば、自分が狙われて撃たれるまでに平均時間は約4秒。その間にカタをつける。零士はそう決めた。撃つ。生き残る為に。そして、後ろにいる大切な家族を守る為に。守る為に誰かを傷つける、最大の矛盾をやってのけよう。咎を負うことになっても構わない。
銃身の上に固定してある照準器、ダットサイトを覗き込む。レーザーの赤い点がレンズに映っている。これを敵に合わせて引き金を引くだけ。それで倒せる。
呼吸を止め、狙いを定めて1発撃つ。訓練で的を狙うのと同じだ。弾丸は銃身の中に刻まれた螺旋状の溝、腔線によってスパイラル回転を与えられ、回転しながら飛翔し、敵の手元に命中した。相手の武器が明後日の方向に吹き飛んで行く。次だ。横に照準を滑らせるように移動させ、また撃つ。
弾が当たったかどうか確認する前にもう1つ横に照準を滑らせ、また撃つ。その銃声を最後に、廊下は静かになった。どうやら、ちゃんと3発で3人仕留められたらしい。まだ動いているが、もう戦えはしないだろう。うめき声が聞こえてくる。
横に転がって室内に入り、銃に安全装置をかけた。89式小銃、それがこの銃の名前だ。零士の命を守る最後の砦。多分、この銃で人を撃ったのは初めての事例ではなかろうか。
そして、零士には翔平が怯えてるのは分かるとして、さっきまでやり合う気満々だった美少女2人はなんで固まっているのだろうかという疑問が思い浮かんだ。あまりの様子の違いに零士は困惑を隠せなかった。
銀髪の方が半分放心しながら零士に問いかけてる。何を言っているのだろうか?何か驚かれるようなことをしたかと思ったが、ここは異世界。俺の89ちゃんが暴れるのを見れば驚くのは当然だろうと結論付けた。
零士は脳みそと一緒に手も動かし、弾倉を抜く。こうしておけば例え取り上げられたとしても、相手に使うことはできない。予防は大切。予防接種は大嫌いであるが。
銀髪が何か呟く。その次の瞬間、強烈な一撃が零士のヘルメットを襲った。ガツンという衝撃は頭を直撃すれば零士の意識を刈り取れたであろうが、ヘルメットは見事にその衝撃を軽減した。
だが、翔平はそうはいかない。グレーのロングコートを着た男にV字の銃っぽいもの後頭部を殴られ、失神していた。立ち上がろうとした姿勢から、力が抜けて膝からガクリと崩れ落ちる様が零士にも見えた。
「しょうへ……」
ここで後ろの誰かを始末することを優先すれば助かったかもしれない。拳銃を抜いて翔平を殴った奴を斃そうとしたのは間違いだっただろう。でも、弟を見捨てることはできなかった。結局、背後から新手によるうなじせの一撃を貰ってしまい、零士も意識を刈り取られてしまった。
薄れゆく意識の中、零士は必死に手を翔平に伸ばしていた。拳銃は手から落ち、床を滑って届かないところへ行ってしまう。お前は生きてくれ、それだけが今の望みだ。そう思いつつ、深い暗闇へと意識は沈んでいった。
※
翔平を気絶させたロングコートの青年は気絶した翔平を見つめていた。見慣れない服装、もう1人は変なまだら模様の服に銃と思わしき武器を持っている。極東の言葉を使うこの2人は何者だろうかとぼんやり考えていた。
「いつもながら見事な手際ね、パスカル」
「ハミドがしくじっただけだ。正直、アリソン1人で仕留められるんじゃねえの?」
パスカルは金髪の女性、アリソンに軽口で返す。すると、零士を仕留めた方の青年は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「うるせえな、この兜がここまで硬いとは思わなかったんだよ。んで、こいつらどうする?」
「地下牢に入れておきなさい。聞きたいことが山ほどあるわ。言葉が通じれば、ね」
アリソンの言葉を聞いたパスカルとハミドは2人を持ち上げ、地下牢へと運んで行った。