『動物の権利』
科学の発展というものは恐ろしいもので、ときに人類文明の存続をおびやかした。
深刻な環境破壊や兵器の凶悪化、そして機械文明の誕生。その他様々な科学進歩の副産物は、我々をそのつど震え上がらせてきた。まさに諸刃の剣であった。
しかし過去十年においてもっともショッキングだったのは、やはり“百獣文明”の誕生であろう。
自分達のペットに人間と同じ意思や感情、言語中枢を埋め込み、「これで本当の遊び相手ができた」と、得意気になっていた頃が懐かしい。
そのうちに、捨てられたペットや自立したペット達が群れを成しはじめる。動物園の客寄せに倦んだ獣たちも相俟って、勢力となるのに時間はかからなかった。その上自分達の仲間に精神を埋め込む術を会得してからは、輪をかけて発展していった。
それから僅か半世紀で、今日の巨大文明は成ったのである。
そして今では、そもそも「ペット」などと気軽に言えない。口を滑らせたら、やれ差別語だ何だと批判を浴びるのが落ちである。
このような「動物の動物による動物のための権利」が主張されはじめたのは、今から30年ほど前からだろうか。
はじめ、犬の権利「犬権」が犬族の大統領によって叫ばれたときはジョーク扱いだったが、その後猫族首相の「猫の憲法」やら、はたまたシシ王による「獅子神権」などが次々発表され、笑いごとでは済まなくなった。
動物たちは権利を主張する中で、次第に独立意識が強くなり、文明を築かんとして、我々人間と対立するようになったのだ。
機械独立戦争で苦杯を嘗めた人類にとって、争いは避けたかった。
そもそも人類は、知性によって文明を築いてきた。所詮貧弱な体を武器で補い、動物達を従わせてきたに過ぎない。いま“彼ら”は同程度の知性をもって同程度の武器を“足中”におさめている。そして身体能力ではかなうはずもない。負けるのは目に見えていた。
結局お互いの文明を認めあい、尊重しつつ共存していくことで同意し、和睦となった。
そして今日、和睦の証しとして、人類文明圏の各地に、“偉獣”たちの銅像がたてられはじめた。
我が国の渋谷駅前――かつての隷属の象徴として犬族から忌み嫌われていたため、和睦に際して取り壊された忠犬ハチ公像の跡地。
ここには、虫の権利「虫権」をはじめて訴えたことで有名な虫族の蜂の公爵、【虫権蜂公】の銅像がたてられることとなった。
もはや笑うものは誰もいなかった。