小さな背中の思い
ほのかに鼻孔をくすぐる魚の匂いを辿り、小さな路地を歩いて行く。
路地に連なる家々の灯りはまばらで、夜も更けてきたことを感じさせる。
ある家では笑い声が、ある家では犬の鳴き声が聞こえてくる。
人の生活をよそ目に、一人路地を歩き続ける。
目当ての店までの、いつもの道を一人歩き続ける。
寒風も吹き始める秋の夜長に、一人紺の暖簾を目指し、歩いて行く。
数分歩き続けると、赤い提灯に挟まれた紺の暖簾が見えた。
魚の匂いが徐々に濃くなり、まるで誘われるかのように、足を早めた。
店に集まる人の声が耳に届く。
あぁ、またいつものように大将は笑っているのだろう。
やがて紺の暖簾が目の前に、白い文字が映えている。
片手で暖簾をかき分け、いつものように・・・
「大将、やってる?」
「当然だろう!おめぇには赤い提灯が見えねぇのかい!」
明るく、豪快に、まさに豪放磊落といったところか、大将がガハハと笑う。
それにつられて、俺も、他の客も一笑い。
「じゃあ、いつもの頼むよ」
いつもの、と言うと俺の場合はスルメと熱燗になる。
まずはビール・・・なんて時期はとうに過ぎ、くたびれた背広を着た一介の中間管理職になった俺は、傍から見ればただの酔いどれオヤジだろう。
カウンターしかない狭い居酒屋の一席に座り、出された枝豆を一つつまみ、タオルで顔を拭く。
この瞬間が疲れがフと軽くなる、最高の瞬間だったりもする。
間もなく、スルメと熱燗が目の前に出される。
「あいよ!いつもの!」
大将が明るい笑顔で出す”いつもの”は当然のように”いつもの”味がして、背中に背負った様々な荷物を下ろしてくれる。
会社、仕事、家族・・・。
一つ一つを下ろし、一つ一つを酒に溶かし、一口一口飲み込む。
職に就き数十年、結婚し数十年。
全てが一瞬の出来事のように頭を過り、全てに懐かしむ。
あの頃は良かった、なんて管を巻くつもりもないが、あの頃は良かった。
生きてきて一番の幸せはいつだっただろうか。
生きてきて一番辛かったのはいつだろうか。
その全てが懐かしく、その全てが輝かしい。
今の俺はなんなのだろうか。
惰性で生きる毎日。
部下の失敗を背負い、上司に怒られ、上司に手柄を献上し、部下に馬鹿にされる。
俺は何をしたかったのだろうか。
そんな思いに頭を悩ませていると、不意に携帯が鳴る。
「もしもし?」
『またいつもの居酒屋かい?』
妻の声に我に返ると、大将が一つの紙片を差し出す。
「あぁ、そうだ。いつもの居酒屋だよ」
『そうかい、酒に溺れないで帰ってくるんだよ』
「あぁ、わかった」
大将の差し出した紙片には
¥800-
と書かれていた。
「大将、じゃあ帰るよ。妻が待ってる」
と一笑いすると
「おう、また寄ってくんな!」
とガハハと笑う。
あぁ、そうだ。俺には妻が待っている家がある。