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関羽と水軍  作者: そらが
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上.赤壁の戦いと水軍

 水軍の活躍というのは呉を除けばなかなか見つけることが出来ない。長江の渡河作戦は何度となく出てくるが、黄河の場合は船を繋ぎ合わせて浮き橋にする程度だった。

 軍用の船は紀元前の昔からあり、埋葬品に見ることが出来る。しかし戦闘の描写が克明に描かれているのはやはり呉志だ。

 まず赤壁から水上戦の様子を見ていこう。


 208年12月、合肥へと孫権が侵攻する。合肥の戦いはこれ以降何度も繰り返されるのだが、今回が最初である。この半年前まで孫権は江夏の黄祖と戦っていた。

 大きく情勢が動いたのは、この年の8月、劉表の死後に荊州を継いだ劉ソウが曹操の軍門に下ったことに始まる。荊州から撤退する劉備は夏口で魯粛と出会った。


 魯粛と周瑜は共に徹底抗戦を主張していた。劉備に接触してから周瑜に合意を取ったのは魯粛だから、反対派として活動的だったのは魯粛の方だ。その後は諸葛亮と周瑜や程普が互いの陣営を行き来して連絡を取り合った。

 抗戦に反対していた中心人物は、今や52歳の老害になっていた張昭だった。というのも孫権側に曹操の書簡が送られたのだが、そこには降伏しなければ80万の水兵を持って攻め入ると書かれていたのだ。実際にはその十分の一も無かったのだが、みな恐れてしまったという。

 ところで赤壁の戦いのとき、張紹は別働隊を率いて九江を攻めたが勝利は得られなかった。この老人はあと20年ほど生きることになる。

 魯粛と周瑜の方は、劉備の軍勢に置かれた。周瑜は総指揮を、魯粛は参謀役の賛軍校尉を任される。また呉書孫権伝には程普と周瑜が左右の督となって軍を率いたとあり、彼らはそれぞれ水軍1万を率いたのだという。

 合計3万の兵士が劉備の援軍に当てられた。1万余りが何処に消えたのか。呉という国は武将それぞれが兵士を所有する封建制だからというのは理に適わない。3万の兵士は周瑜が孫権から貸してもらった戦力で、周瑜自身の私兵の数は4000人を下回る。メモに拠れば魯粛、周瑜、程普にそれぞれ1万の兵士が与えられたらしいが、何処に記述されているのかは忘れた。

 また呉の軍には甘寧、呂蒙、リョウ統、周泰ら殆どの武将が参加した。しかし地方もまた安定していなかったようで、ちょうど山越討伐を命じられていた陸遜や蒋欽の姿は見えない。

 ちなみに劉備の軍は2000ほどだったらしい。


 赤壁の戦場では劉備と曹操が戦った。曹操の率いた軍勢の中の武将は判らない。彼の配下の武将は、赤壁に至る経路に点々と置かれた拠点で陸軍を抱えている。

 彼の水軍は劉表の軍をそのまま拝借したものだったが、その船の数は数千も言われた。

 劉表の軍船には二種類あって、それは闘艦(戦艦)と蒙衝(駆逐艦)。他に指揮船や快速船があるが戦力としては見ないでおく。

 船の種類は、宋代の武経総要に拠れば十一種が数えられる。造船場遺跡や漢代の模型くらいしか見つかっていないので、各船舶は基本的にはこの図を元にして文献内容の要素を加えつつ出土模型風のデザインで描かれる。

 いずれも竜骨は無い。漢代以降の船には帆が三つから多くて七つあったというが、向かい風を受け止める三角帆はまだないので櫂が主動力だ。ところで軍艦には帆は確認されておらず、丁奉伝によれば早く目的地に着くために利用されたという。

 漕船の速力は3ktと推定されている。風より潮流の方が影響を与えるし、川では流れに強く影響される。

 蒙衝は弩兵を置く小型の船で旗差しは無い。速度があり、鉄製の突起が前方に備えられていた。竜骨の無い船のラムアタックに敵船を沈めるだけの力はあったのか疑わしいのでこれの目的は保留にする。また唐代に初めて表れた初期の火薬の類も三国時代には勿論無い。闘艦には武装した兵士が待機していて、彼らが身を隠すための防備があった。こちらは蒙衝から水に落ちた者を救助した。

 水軍の将は演技のように劉表の部下だったのだろうか。劉表の元部下で曹操に属した水軍の指揮官としては文聘が適任だが、彼の伝にその記述は無い。

 賈文和と程仲徳は孫権討伐に反対したというが、忠告は無視された。数は多いが練度は高くない。玄武池で訓練を始めたのは年初からだ。


 曹操は長江上流の江陵から川を下ってくる。劉備は柴桑から夏口を通ってずっと流れを遡る。時期は真冬。長江沿いの気候は日本に近いが、雪は滅多に降らない。

 江南はまだ開発が進んでいない土地だったが、荊州はその中では早くに拓かれた地だ。乱世の始まりから20年近く経っていたから、華北からの避難民の中には当地の有力者と結びついて名士となる者も少なからず居た。

 しかし戦場を駆る水軍には、名士ではなく伝統的な地元民の技術が必要である。操船技術というものは訓練で身に着けるより、生活で身に着けて貰う方が手っ取り早い。例えば近世イギリスの海軍は船乗りを拉致することで水兵の人員を補充してたりする。彼らは船酔いの恐れが無いから使いやすかったという。

長江はさほど流れの激しい川はないが、船の揺れで酔うのにはあまり関係ない。

 最初の合戦は劉備の勝利に終わる。そのぶつかり合いの描写は無い。合戦が終わるというのは、日が暮れたと同義でいいだろう。


 戦法は赤壁では解説されていないから、半年前に行われた江夏の戦いで見ることにする。

 それは孫権と黄祖の戦いである。黄祖の水軍指揮官は陳就。対する孫権が出した水軍は呂蒙が指揮した。彼はこの時代の水上戦のエキスパートだ。黄祖は劉表の武将だから、荊州の水夫と呉の水夫の優劣もここで見ることが出来る。

 まず先鋒のリョウ統が船で右江に向かい、黄祖の武将張碩を切っている。彼は水夫を全て捕らえたとあるから、味方船から敵船へと乗り込んだと読める。

 水軍の主力合戦はその後で繰り広げられた。

 水上の指揮は旗によって行われる。旗艦の旗を見て進退を判断するのだ。これは中世イギリスでも見られる方法であるが、北堂書鈔の軍令にあるこの描写は隋以降の技術らしい。それまでは旗は有っても指揮との関わりは無かったという。鐘を鳴らし、鼓を叩く。それが出土資料の水陸攻戦図に見ることの出来る指揮の方法だ。鼓の音で進軍を指示し、鐘の音で後退する。鼓の叩き方は何通りもあって、それぞれに具体的な命令が組まれていたようだ。


 黄祖の都督陳就は捕らえられて首を切られた。こちらも敵船に乗り込んで捕らえたのだろう。

 合戦の第三幕は、大型船に乗った董襲とリョウ統の突撃だ。

 黄祖の居る夏口の水路は二隻の蒙衝船を横向きにすることで封じられていた。この時代にも錨があるから水上で留まることは出来る。錨は船の前方に取り付けられていたという。川の流れのせいで横向きにしてもすぐ縦向きになってしまうのではないかと思うが、二隻が繋がっていれば大丈夫だ。夏口の有る漢水から長江への出口は幅200mほどだから全長100mのとてつもない船になるようにみえるが、どうやら三国時代の夏口はここではなく漢水南岸にあったらしい。もう見る影も無いが、それなら二隻の船は漢水の流れに従うだけで自然と横並びになる。

 そして二隻の蒙衝船に乗る1000人の弓兵によって矢が雨のように降り注ぐ中、孫権軍の決死隊というわけだ。

 蒙衝船に各500人が乗るのかどうかは不確かである。しかし川を船二隻だけで塞ぐだけの大きさはある。肝心の川の様子は判らないが。或いは目的や基本構造に基づき名称が著者によって推定され、その大きさは意識されていない可能性もある。

 決死隊の人数は200名。こちらも二隻だから各100人。董襲伝には大型とあるがそれほど大きくないようだ。兵士たちは鎧を二重に着て、矢に対抗した。兵士を積めるだけ積むのは走舸と呼ばれる船で、闘艦や蒙衝と違って防御施設は無い。漕ぎ手が多いので、そのために最も速度が有る。決死の戦法に相応しい船だ。

 董襲たちが二隻の蒙衝船に接近すると、水に潜って錨のロープを断ち切り、港の封鎖は解かれた。一方が一方の船を攻撃し、他方が他方の船を攻撃したのではなく、董襲がロープを二本とも切った。上陸部隊によって黄祖の首が切られて戦いは終わった。

 艦隊全体の戦術的な動きについては語ることが出来ない。本で得られるのはどれも想像の産物だ。水軍の兵法には伍子胥の書物があったらしいが既に散逸している。


 さて、赤壁に戻る。

 両雄は緒戦を終えて長江の南北岸に陣を置いた。赤壁は南側、烏林は北側にある。曹操の陣営は烏林に置かれた。対陣の間、曹操軍に血吸虫病が蔓延する。疫病の発生は進軍中の曹操軍の様子にも見られたようだ。

 そんな中で周瑜伝によれば黄蓋が火攻めを提案する。魏書注釈によれば劉備の策だ。さらに呉書の孫権伝では、曹操自らが撤退するために船に火を放ったという。このため黄蓋と韓当のドラマチックな演出は省く。情報が錯綜しているのは曹操軍が相当に混乱している状況を示しているように見える。真相は藪の中だ。

 曹操の軍勢が疫病と失火によって撤退するのを周瑜と劉備は見逃さなかった。彼らは早速追撃を始める。撤退中の華容道で劉備は再び火を放ったが、今度は打撃を与えることが出来なかった。そして周瑜の軍勢は南郡で後詰めとなった曹仁との戦いに突入する。

 曹仁は赤壁にいたのかというとそうでもないようだ。彼は荊州平定後に江陵の守備を任されている。江陵県は南郡に所在する。ここから曹操の軍は長江に入り、そして撤退のときも通った。

 赤壁はここまでだ。


 合肥の戦いの方だが、一ヶ月間の包囲をするも落とすことは出来なかった。荊州から撤退を終えた曹操は、張喜(或いは張[喜+心]とも書かれる)を合肥に送る。水上戦は起こらず、孫権はさっさと撤退した。張喜の名はここにしか出てこないので人物像は不明。

 戦いの後、曹操は早速水軍の訓練を始めたという。それから第二次、第三次と合肥の戦いは繰り返されたが、演技には一度しか描かれない。

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