上
「指揮者になろうと思うんだ」
小学校の放課後、場所は自宅。僕こと国枝言彦は幼馴染の久里夢白雪にそう打ち明けた。
久里夢白雪は流れるような長い黒髪、整った顔立ちに雪のように白い肌と真っ赤な唇、まるで日本人形のように美しい女の子である。
白雪は正座をしてジャンプを読んでいた。
こいつはジャンプを読むために僕の家に来るのだ。貸すと言っても返すのがめんどうだからと言い毎週来る。女の子が家に来ているとクラスのみんなに知られたら恥ずかしいし、なんかムカつくので彼女の部屋にある少女漫画を読んでからかってやろうと思いきや、そのあまりのディープな内容にどん引きして何も言えなかった。
赤ちゃんの作り方を知っているちょっと大人な僕が、実はとんでもないガキンチョだと思い知らされた。
白雪はジャンプから顔をそむけずに言った。
「どうせ夢物語なら宇宙飛行士とか総理大臣のほうがいいと思うよ。だって挫折したときにそれまでの経験が就職とかに役に立つけど、指揮者だとそうはいかないでしょ。あと指揮者になるのを挫折したってなんかカッコ悪いよー」
「挫折すること前提かよ! てか、勝手に夢物語にするな」
思わずツッコミをいれてしまった。
白雪はジャンプから顔をあげて僕を見た。
「ふうん、冗談じゃないんだ。じゃあ私も言うけどさ、指揮者ってただ棒を振ってればいいだけじゃないのよ。演奏者をまとめて導き、表現しなくてはいけないの。音楽的才能や知識がとても深くなければならないわ。言彦……何度も言ってるけど、あなた音痴よ」
「うっ」
痛いところを突かれた。だが、白雪は勘違いしている。
「いや、僕がなりたいのは職業としての指揮者ではなくて、今度小学校でやる合唱会での指揮者だ」
「そういうことは早く言ってよね」
今まで二回の練習で僕は指揮者をやっていたから、同じクラスの白雪にも話が通じるかと思いきやそうではなかった。
「ピアノ一台と歌うだけの合唱の指揮だから大切なのはタイミングよく棒を振ることだけだろ」
「厳密にはそうとは言えないけど、合唱部でもない素人小学生の歌だからね。指揮者にたいした能力はいらないし、どちらかというといなくても全く困らない存在、サラダについてくる飾りのパセリ以上にいらない存在よ」
「……うん、まあそれになりたいんだ」
「どうしてなりたいの?」
「歌いたくないから」
「どうして歌いたくないの」
「……僕が音痴だから」
「口パクでいいじゃない」
「それは卑怯な気がする」
「音痴を治す気はないの?」
「おいおい、それは一重まぶたの人に二重になればいいじゃないって言っているようなものだぜ。僕のノドにメスを入れろって言うのかい?」
「いいじゃない、入れれば」
「そこは否定しろよ! 努力でどうにかなるって言えよ」
「努力するのがいやなんでしょ」
「うん」
白雪は軽蔑のまなざしを僕に向けた。
ああ。こういう扱いにはもう慣れてる。
「どうして私に相談したの?」
「僕は二回の練習で指揮者をやったが、僕が指揮者になると決定したわけではない。いずれ決める日が来て、立候補者が二人以上いれば投票で決まるはずだ。
合唱部員、女子、イケメン、のどれかが立候補すれば僕は危うい。素人の僕より合唱部の人のほうが良いし、男子は男子に、女子は女子に票を入れるものだから人数的に女子相手だと負ける。イケメンだと男女の票を集めるから僕が負ける」
「絶望的ね」
「いや、そうときまったわけじゃないだろ。指揮者は目立つ存在だからみんなやりたがらないんだよ。それに活発な女の子は歌いたがるものだ。白雪に頼みたいことはさ、合唱部の人たちが今度の合唱会をどのように考えているのか調査してほしんだ。合唱部の部長の白雪ならできるだろ」
「どういうこと?」
「指揮者に立候補しようとしている人がいるのか、僕の指揮はダメなのか、いいのか。そういうのを部員にきいてほしい」
「もし、指揮者になりたい合唱部員がいたらどうするの?」
「その時は、ショックのあまり僕が合唱会の日に風邪を引いて休むと思う」
「逃げるのは卑怯じゃないの?」
「僕が歌えば合唱のハーモニーを壊してしまう。そう、邪魔者は去るべきなんだ」
「なにカッコつけてるの。馬鹿じゃない」
一週間後。
「それで、どうだった?」
「結論から言うと、合唱部員が指揮者に立候補する可能性はゼロよ。部員は言彦と違って歌うことが大好きで歌唱力を高めるために毎日頑張っているの。顧問の先生も部員の素晴らしい歌声を期待していると力説していたし、素人集団の指揮者なんて損な役は誰も演じないわ」
「うん、それはよかった」
なんかところどころ馬鹿にされてるような。
「次に言彦の指揮だけどおおむね好評よ。タイミングはいいし真摯に取り組んでいるところが評価されているわ。音楽の授業でメトロノーム相手に一人さびしく練習していたところを褒めている子は多かったわ」
「おお! 僕の努力が評価されている」
「そんな行動力があるのにどうして音痴を治す努力をしないのかしら、理解できないわ」
「……」
「これは私の意見だけど、女子が指揮者に立候補するとも考えられないわ。今までの練習はすべて言彦が指揮をしていてそれで決まったような空気になっているから、いきなり立候補するなんて空気を読まない行動をする女子はうちのクラスにはいないわ」
「となると、残る敵はイケメンか」
「……ねえ、そんなセリフ言ってて悲しくないの?」
「正直いってすっごく悲しい」
僕はフローリングの床に手をつき落ち込んだ。
「……勝つんじゃないかしら、イケメンにも。急に指揮者が変わったら戸惑う子もいるし、言彦の努力は評価されているから票を入れる子も多いわ。それに、言彦は性格もいいし、顔もなかなかだと……私は思うわ」
「えっ!」
あの白雪が僕を褒めただと?
白雪って毒りんごを食べても死なないような毒舌キャラじゃなくてツンデレだったのか!
「か、勘違いしないでよ。同情よ、同情よ。誰も言彦なんて褒めないだろうから、た、たまには私が褒めないとね」
「いや、僕普通に褒められることあるから」