Under Domain 1-2
既に寝静まった商店街から、さらに一本奥に入った、ある意味分かりにくい場所に、その店はあった。
古臭い煉瓦造りの、今時のカフェとは一線を画した、喫茶店。レトロと言えば聞こえはいいが、ただ単に、開業当時のままの姿を今に残しているだけの店だった。
とはいっても、看板に灯りがついている間は、常に客足が途絶えない。
立地条件は、お世辞にも良いとはいえないこんな場所にあるにしては、繁盛している方かもしれない。要するに、常連で成り立っているという話もあるが。
そんな店内にも、今は、客の姿はなかった。
もともと、八時には店じまいをするこの店が、日付が変わってしまったこの時間に、営業をしているはずもないのだが。
それでも、ダウンライトだけが灯されているカウンターにはまだ、人影があった。
「彰、遅いよね」
カウンターに突っ伏していた、女――紺野瑞希は机の上で波打っている、長い髪を弄りながら呟いた。そんな孫娘の言葉に、カウンターの奥でグラスを傾けていた、この店のマスターである鍵谷俊明は、その琥珀色の液体をなめながら掛け時計に視線を向けた。
一時十五分を回ったところだった。
彰――諏訪部彰が、ここを出て行ったのは、十二時半過ぎだったはずだ。まだ、四十分程度の話だ。
「まだ、出て行ってから、そう時間はたっとらんだろう?」
「そうかなあ。彰だったら、結構サクサク仕事終わらせるじゃない。今回の仕事、そんなに難しいものじゃなかったんでしょ? だったら、そんなに時間かかんないと思うけど」
言った瑞希に、鍵谷は苦い笑みを浮かべた。
確かに、仕事の難易度は、決して高くはなかった。だが、今回の仕事は、難易度が高くはなくても、手間は掛かる。そんな種類のものだった。
それに、現場までの移動には、バイクで十分強だと言っていた。それを考慮すれば、それほど時間が掛かっているわけではないだろう。それこそ、今戻って来るとすれば、現場での作業時間がほとんどないわけで――。
そう、鍵谷がいう前に、瑞希は口を開いた。
「っていうより、最近、何かおかしいと思うのよね。この仕事も、わざわざ彰を指定してきてるわけでしょ? そのわりには、依頼が簡単すぎるじゃない。本当なら、彰が出て行くような仕事じゃあないと思うんだけど」
「依頼に、簡単も難しいもないだろう」
たしなめるように言った鍵谷に、瑞希は不服そうに口を尖らせた。
「でも」
「仕事を受けたのは、彰だ。不満があるなら、彰に言うんだな」
「おじいちゃん」
責めるような瑞希の口調に、鍵谷は小さく息をついて言った。
「――まあ、奇妙は奇妙だがな」
確かに、ここ数件、ある意味妙な――彰の能力に見合わない仕事が舞い込んで来ている事は確かだった。
彰のアンダーとしての腕は、若手のなかでもトップクラスだ。いや、若手などと言う区切りをつけなくても、トップクラスに間違いなかった。
今まで仕事をしくじった事は一度もなかったし、どんな難しい依頼であっても、正確にこなす彰の噂は、他のアンダーやコネクタの口にも上るようになっていた。
それがゆえに、ここ数年、彰のもとに入ってきていた依頼は、比較的大きなヤマばかりだったのだ。
だからと言って、彰は仕事を選ぶような事はしない。それゆえに、ここ数件の依頼も、断わる事はしなかったが――。
「なんだ。おじいちゃんのそう思ってるんじゃないの」
「だが、別に何の問題もないからなあ。今回の依頼にしても、仕事のわりには報酬は高かったわけだし。それに、仕事自体は簡単でも、手間はかなり掛かりそうな仕事だった事は確かだよ」
「だから、時間が掛かってるっていうの?」
まだ納得がいかないと言うような瑞希に、鍵谷は深い溜息をついた。
「まったく。お前の彰贔屓にも、困ったもんだな」
「別に、贔屓なんてしてないわよ」
「他のアンダーの仕事には、それほど興味を持たないのに?」
「……」
沈黙を返した瑞希に、鍵谷はくすりっと笑い声を漏らした。
瑞希に鍵谷の裏の仕事の存在を知られたのは、十年前だった。だが、その時には特に興味を持った様子もなかったというのに、五年程前だっただろうか。突然、この仕事に興味を持ち始めた。丁度、彰が頭角を現し始めた頃だ。同じ年頃の彰が鍵谷のもとに――それも、店の営業が終わった後、出入りをしていることを不審に思ったのがきっかけだったらしい。
本当は、こんなやくざな稼業になど興味を持って欲しくはなかったが、後の祭りだった。運の悪い事に、瑞希は情報屋としての能力を持ち合わせていたのだ。どうせ、言っても聞かないのならば、目の届く範囲に置いておく方が安全だ。そう判断した鍵谷は、瑞希が半ばこの仕事に足を突っ込んでいるのを黙認することにしたのだ。
「まあ、そのうち帰ってくるだろ」
「そのうち――ねえ」
口を尖らせながら言った瑞希は、カウンタに転がったまま溜息をついた。
丁度その時、からんっとドアに吊るされたベルが鳴って、瑞希はむくりっと身体を起した。
ついっとそちらに視線を向けると、件の彰が店に入ってくるところだった。
「おかえりなさい」
言った瑞希をちらりと見やった彰は、ヘルメットを脱ぐと「ああ」と短く答えた。そして、小さく息をつくと、ヘルメットをカウンタにそれを置いた。
それを待っていたかのように、瑞希はすっと手を差し出しながら言った。
「戦利品」
そんな瑞希に、彰はくしゃりっと前髪を掻き上げると、肩を竦めながら言った。
「悪い。失敗した」
「ええっ? 彰が失敗? 嘘でしょ? 一体どうしたのよ」
大きな目を丸くしながらまくし立てた瑞希に、彰は小さく息をつくと、無言のままカウンターに腰を下ろした。
追い討ちを掛けるような瑞希の言葉に、彰は助けを求めるようについっと鍵谷を見やった。
鍵谷は無言のままグラスを下ろすと、彰の前にアイスコーヒーを置いた。
出されたグラスに口をつけた彰は、こくりっとそれを飲み込んだ。よく冷えたコーヒーが、ぞろぞろと胃まで流れていくのが分かった。
グラスをカウンターに置いた彰は、小さく息をついた。
それを待っていたかのように、鍵谷が口を開いた。
「何があった?」
そんな鍵谷をちらりと見やった彰は、ついっと天井を見上げた。
何から説明したらよいものか。しばらく、考えていた彰は、乾いた唇をぺろりっとなめてから口を開いた。
「他のアンダーと、鉢合わせた」
そんな彰の言葉に、鍵谷はぎょっとしたように目を見開いた。それこそ、彰が失敗したと言ったその言葉よりも驚いているようだった。
「なんだって?」
「俺が現場に行った時には、ターゲットは、既にそいつの手の中にあったよ」
「どういう事だ?」
「さあ」
それは、彰自身が聞きたい事だった。
現場でアンダーと鉢合わせた事など、今までに一度もなかった。しかも、あちらの言を信用するならば、ここ2回の彰の仕事は、あのアンダーとかぶっていたと言う事になる。
「それは、俺の方が聞きたい」
言いながら鍵谷を見やった彰は、もう1度コーヒーに口をつけながら言った。
「おやじさん。今回の仕事、一体どういうツテで受けたんだ?」
「どういうといわれても――なあ」
「いや、今回だけじゃないな。ここんトコ、2回の仕事も、だ」
「何の話だ?」
全く話が見えないというように、鍵谷は首を捻った。
「鉢合わせた男が言うには、俺のココんとこ2回の獲物も、バッティングしてたらしい」
そんな彰の言葉に、鍵谷は難しい表情を浮かべながら、ふむっと言った。そして、すっとグラスに手を伸ばした。
「――どこのアンダーだ? ずいぶん、おしゃべりだな」
「俺と同い年ぐらいだったな。神坂――そうだ。神坂智樹、とか言っていた」
そんな彰の言葉に反応したのは、しばらく口を閉ざしていた瑞希だった。
「神坂? ホントに神坂って言ったの?」
「ああ」
まさか、そんな反応をされると思っていなかった彰は、すうっと目を細めると瑞希を見やった。
「何か知ってるのか? 瑞希」
「何かって言うほどのものじゃないけど……」
言葉を濁した瑞希は、ちらりっと鍵谷を見やった。
「本当に、神坂と言ったのか?」
確認するように言った鍵谷に、彰は首を傾げながらもこくりと頷いた。
「翔の息子――か」
小さく息をつきながら言った鍵谷に、彰はすうっと目を細めた。
神坂智樹と言う名前に聞き覚えはなかったが、翔と言う名前は、知っていた。
まだ、彰がこの仕事にかかわる前の話だから、話でだけしか聞いた事はないが、かなり腕のいいアンダーだったらしい。最後の最後まで、仕事を仕損じることのなかった、ある意味伝説のアンダーだ。
「翔? 翔ってまさか、あの?」
「お前さんでも、しっとったか?」
「噂で聞いただけだ。ただ、彼は100%仕事をしくじらなかったって」
「ああ。その翔だよ」
こくりと頷いた鍵谷に、彰はただ「そうか」とつぶやいた。そして、少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「同じ姓って事は、その関係者か?」
「お前さんと同じぐらいというのなら、翔の子供だろうな。そうか、もう、そんな年になったか――。で、そのアンダーはどうした?」
「さあ。警察が動いていたし、嫌な予感がしたから、俺はすぐに引き上げたから」
「警察が動いていた?」
「ああ。前回と同じだ」
「そうか」
つぶやいた鍵谷は、一層難しい表情を浮かべた。
依頼が重なっていた上に、依頼を遂行する時には、必ず警察への通報がされている。こんなことが、そう、度々あるのははっきり言っておかしい。
「何かあるな」
「そうだろうな。あいつの言っていた事が本当なら、マズイ事になってるんじゃないか?」
「そう――だな」
言った鍵谷は、すうっと目を細めた。
その視線は、今このときを見てはいなかった。
しばらく、そうして考え込んでいた鍵谷は、ふと思いついたようにつぶやいた。
「まさか、二重契約――か?」
すいっと眉を寄せた鍵谷は、ボソリッと呟いた。
いつもどっしりと構えて、少しのことでは動じない鍵谷が、動揺しているように見えた。
「二重契約?」
彰が聞き返したが、鍵谷にはその声は聞こえていないようだった。
「いや、まさか、そんな事は――」
先程、鍵谷は二重契約と言った。
それならば、確かに、依頼がバッティングしていても、おかしいことはない。だが、通常、コネクタに渡りをつける事自体が難しいのだ。特に、今回のような、違法行為となるような依頼の場合、わざわざ、そんなネタを複数のコネクタに話す事自体が、ありえない。
それこそ、これがもっと、難しい案件であったなら。
そして、もっと、危険を伴うような依頼だったのなら、複数のコネクタにわたりを付けるのも頷けるのだが――。
「親父さん」
「ああ、いや。すまん。とりあえず、こんなことでは、仕事はさせられない。しばらくは休業だな」
言った鍵谷は、既にいつもの余裕を取り戻していた。
「そう、か」
二重契約があったにしろ、アンダーには、あまり関係がない。
どちらかというと、コネクタの側の問題だ。ならば、彰がどうこう言う問題でもない。今回のように、アンダーが鉢合わせるというのは、あまり良いことではないが、たとえ鉢合わせても、彰には何とかできる自信があった。
だが、ターゲットを目の前で、もって行かれるのは――。
「しかし、まさか、お前さんが先を越されるとは、な」
余裕を取り戻した鍵谷は、意地の悪い笑みを浮かべながら言った。そんな鍵谷に、彰は無表情のまま沈黙を返した。
今、それを言われたくはない。
別に、何かを失敗したわけではない。
ただ単に、仕事の取り掛かりが、あの神坂という男よりも、少しばかり遅かっただけだ。自分が、現場に先についていれば、間違いなく、ターゲットは自分が手にしていたはずだ。
そんな事を考えてしまう自分が、なんとも、嫌だった。
小さく息をついた彰を見やり、瑞希は珍しいもの見たというように言った。
「やだ。彰、もしかして、機嫌悪い?」
「……」
「へえ。彰でも、そんな顔するんだ」
薄く笑みを浮かべながら言った瑞希に、彰は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。