Under Domain 1-1
1
「なんだかなあ……」
社員が退社するのを待って、社屋に忍び込んだ智樹は、がしがしっと頭を掻いきながら呟いた。
研究室からデータを盗んでくるという依頼だというから、それなりに厳重なセキュリティを想像していたのだ。それも、話を聞く限りでは、他社から盗んだデータを保管しているというぐらいだから。だが、そんな緊張感など、ふっ飛ばしてしまうほど、お粗末なものだった。
今日日の企業は、全員が退社したと同時、若しくは、契約した時間に警備会社のセキュリティシステムに切り替える事が多い。そして、人の出入りがあった場合、即座に通報されるようになっている。
だが、この研究室には、そういうものが一切見られなかったのだ。
セキュリティを黙らせる手間が必要なかった分、確かに、楽ではあった。あったのだが、はっきりいって気が抜けた。それは、セキュリティだけの問題でもなかった。パソコンにしても、IDやパスワードの入力さえ、要求されなかった。
「――普通、研究機関って、もっとセキュリティ厳しいもんじゃねーのか?」
ターゲットのパソコンを立ち上げた智樹は、その中身を確認しながら、溜息混じりに言った。
簡単すぎれば、簡単すぎるほど、どこかに落とし穴があるのではないかと、疑いたくなる。それこそ、こうして盗みにくる事が分かっていて、わざとダミーデータでも掴ませようとしているのかと、勘ぐりたくなる展開だ。
「まさか、もう、例の奴にやられた後とか、いわねーよな」
ボソリッと呟いた智樹はぐるりとあたりを見回した。
セキュリティシステムが作動していないと言うことは、逆にいえば、中に誰かが潜んでいたとしても、わからないと言うことだ。けれど、とりあえず、ここまでにそんな人の気配はなかったし、このパソコンにしても、弄られている形跡は見当たらなかった。
「まあ、とりあえず、仕事すっか」
小さく息をついた智樹は、逸れかけた気を目の前のターゲットに戻した。
時間を気にしながら、目的のデータを探す作業を続けた智樹は、ようやくそれを見つけると、データをメモリスティックに抜き取った。そして、それが終わった後、もう一つのメモリスティックを差し込んで、ファイルを一つコピーすると、シャットダウンした。
メモリスティックをポケットにねじ込んだ智樹は、ちらりとデスクに視線を向けると、引き出しに手を掛けた。さすがに、ここは鍵が掛かっていた。
足下に仕込んであった針金を取り出した智樹は、簡単にそれを外すと、引出しを開けた。そして、整然と並べられたファイルを見やると、実験データの紙ベースの書類がいくつかあった。
少し考えた智樹は、その書類と全く関係のない書類とをいくつか取り出して、引出しを閉めた。そして、もう一段下の引出しを確認する。
太目のファイルを取り出した智樹は、それを開いた。そこには、かなりの量のCD-ROMが挟み込まれていた。先程のパソコンが、ミラーリングされていた形跡はなかったから、他のHDDやネットワークドライブに自動バックアップがあると言うことはまず考えられないだろう。だが、まったく、バックアップデータが取ってない事はないだろうから、ここに入れ込まれている可能性は高い。
うんと、大きく頷いた智樹は、几帳面に書き込まれたROMのタイトルを順番に見て行った。ようやく目的のものを探し当てた智樹は、小さく息をつくと、そのROMを引っ張り出した。そして、これも、別のROMも一緒に抜き取る。
戦利品を鞄の中に詰め込んだ智樹は、満足そうに言った。
「よっしゃ、終了」
ポータブルのHDDでも使われていた日には、この作業は意味をなさないだろうが、そこまでは自分の仕事ではないはずだ。
机の鍵もしっかり掛けなおした智樹は、すくりと立ち上がると、大きく伸びをした。
そして、ちらりっとドアの方に視線を向けると、すうっと目を細めた。
なにか人の気配を感じたような気がしたのだ。
もしかしたら、件のアンダーだろうか。そんな事を思いながら、慎重にドアまで足を運んだ智樹は、ゆっくりとあけた。そこには誰もいなかった。けれど、絶対に、いまここに誰かがいたのだ。
「――逃げ足の速いヤツだな」
ふんっと鼻を鳴らしながら言った智樹は、後手で静かにドアを閉めた。
「ま、いいか。とりあえず、今回は俺の勝ちだしな」
にんまりと笑みを浮かべた智樹は、ちらりと時計に目をやった。もうそろそろ、一時になろうとしていた。ここに来たのが、十二時すぎだったから、一時間近く居座っていた事になる。少し時間を掛けすぎたかもしれない。早く戻らなければ、昂が心配するだろう。
そんな事を思った智樹は、足早に通用門に向かった。
外の様子を窺いながら、屋外に出た智樹は、几帳面に鍵をかけると全ての仕事が終わったというように、ふうっと息をついた。
そして、背中に背負った荷物を確認すると、ぐるりとあたりを見回した。
ふと、木陰のあたりで視線が止まった。
人の気配は感じられなかったが、なんとなく気になったのだ。
少し考えた智樹は、イチかバチか口を開いた。
「お前か? ここんトコ、俺の獲物を掻っ攫ってくれた、アンダーは」
けれど、返って来たのは静寂だった。
気のせいだったのだろうか。そう思いながらも、納得できなくて、智樹はじっとそちらを睨めつけた。
と、かさりっと足音がして、黒ずくめの影が姿を現した。
「――誰だ?」
張りのある、若い男の声だった。
そんな声に、智樹はごくりっと生唾を飲み込んだ。
気のせいだとは思い切れなくて、声を掛けはしたが、全く人の気配は感じられなかったのだ。多分、この男がだんまりを決め込んだのなら、自分は、この男の存在に気がつかなかったはずだ。
声だけ聞けば、智樹と同じぐらいにも思える。だが、自分で言うのもなんだが、この年齢でこんな仕事に手を染める人間など、そういるはずもない。
すうっと、大きく深呼吸した智樹は、その男を見据えながら口を開いた。
「同業者だよ。で、ターゲットはこれだろ?」
言った智樹は、ポケットの中からメモリスティックを取り出すと、男に見せた。ここからでは、暗くて顔までははっきり見えないから、男がどんな表情をしているのかは分からなかった。
ただ、沈黙を返した男は小さく息をつくと、否定も肯定もないまま、くるりと踵を返した。
「あっ、おい! 無視すんなよ!」
慌てて、その男を追った智樹は、男の腕をむずっと掴んだ。そんな智樹に、男はめんどくさそうな表情をしながら振り返った。その顔は、声同様、若かった。それこそ、自分と同じぐらいに見える。
驚きを隠せないまま、不躾なまでの視線を向けていた智樹に、男は深い溜息をつきながら口を開いた。
「何か用か?」
その声に、はっと我に返った智樹は、思い出したように口を開いた。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだよ」
「――それは、今するべきことなのか?」
「へ?」
「時と場所を考えろ」
言った男は、智樹の手を振り払うと、すたすたと裏通りに面した塀の方に足を進めた。そんな男に、智樹は口を尖らせながら言った。
「おいっ! お前なんだろ? 立て続けに、2回も俺の仕事を邪魔しやがったのは!」
今回は、自分の方が若干早かったようだが、それこそ、今日動かなければ、またしてやられていたはずだ。そう。こちらが、二重契約の可能性に気がついて、早く動いたから――。
今、この男がここにいると言うことは、この男のところにも、この依頼が入っていたと言う事だ。それなのに、この仕事を盗ったはずの智樹の事など、全く関心がないと言うように歩いていく。
「おいっ! 無視すんなよっ!」
今度のヤマは、自分が勝ち取った筈なのに、何故か自分が負けたような気分だった。何故、自分がこんな気分にならなければいけないのか。思わず叫んだ智樹を、男はうんざりとしたように見やると言った。
「捕まりたいなら、勝手にしろ。もう直ぐ、警察が来るぞ」
「なんだって?」
予想もしていなかった言葉に、智樹はぎょっとしたように、表通りに視線を向けた。この男が、裏へ向かうと言うことは、もしかしたら、もう表には警察がいるかもしれないということだろうか。
「どうして、そんな――」
「タレコミってヤツだろ」
わかりきっていることを聞くな、と言うように言った男は、止めてしまった足を、再度進めた。
これは、どうとったらいいのだろうか。
警察がくる事を、教えてくれたのだろうか。いや、それだって、本当かどうかは分からない。分からないが――。
「お前さあ、名前は?」
「何故、名乗る必要が――」
言いかけた男の言葉を遮って、智樹は口を開いた。
「俺は神坂だ。神坂智樹」
そんな智樹を見やり、男はすうっと目を細めた。そして、心底呆れたように言った。
「――お前、バカか?」
「バカかって、失礼なヤツだな。なんで、初対面のヤツにそんな事、言われなきゃなんねーんだよ」
むっとしながら言った智樹に、男はこめかみを押さえた。
「なんだよ」
「お前、アンダーだって言ったな」
「だから、そう言っただろ」
「アンダーが、軽々しく名乗るな」
そんな男の言葉に、智樹は「ああ」と呟いた。確かに、そう言われれば、そうだ。しかも、通り名だとか、そういうものならともかく、本名を名乗るのは不用意と言えば、不用意だ。
「そうか、そういや、そうだな」
「……」
付き合いきれないとでも言うように、深い溜息を一つ落とした男は、2,3歩の助走をつけた後、ひょいっと塀に飛び乗った。実に身軽な身のこなしに、つい見入ってしまった智樹は、その姿が、壁の向こうに消えた後、はっと我に返った。
「あ、おい! ちょっと待てよっ!」
言った智樹は、慌てて自分も塀の上に飛び乗った。だが、裏通りには、既に男の姿はなくなっていた。
「ったく、なんなんだよ、あいつはっ」
ブチッと呟いた智樹は、その視線をちらりっと正面玄関のほうに向けた。
赤い回転灯が、サイレンと共に近づいてくるのが見えて、智樹は慌てて塀から飛び降りた。