Under Domain 0-3
きゅっと唇を噛んで、黙ってしまった智樹に、昂は首を傾げながら言った。
「どうした? いきなり黙り込んで」
「……あの、さ。昂」
聞きたい事は、ただ一つ。
もう、智樹に仕事をさせないつもりなのか、という事だけだ。それなのに、たったそれだけの言葉が、口から出てこない。
「なんだ?」
続きを促すように言った昂に、智樹はちらりっと昂をみやると、意を決したように口を開いた。
「もう、俺には仕事回さないとか、いわねーよな?」
「は? いきなり何を言い出したんだ?」
「だって、失敗を繰り返すアンダーに仕事は回せないって言っただろ」
昂の顔色を窺いながら、心配そうに言った。
そんな智樹をマジマジと見やった昂は、次の瞬間、ぷっと吹き出した。そして、そのまま、腹を抱えて笑い出した。
こちらは、真剣に心配していると言うのに、何故、笑われなければならないのか。
「なんだよっ! 何で笑うんだ?」
「バカだなあ。そんな事、心配したのか?」
笑いつづけながら言った昂に、智樹はむっとしながら抗議の声を上げた。
「だから、なんで、バカとか言われなきゃいけないんだよっ」
「あー。悪い、悪い。智樹があまりにも可愛いコト言うからさ」
言いながら笑い続ける昂に、智樹はあからさまに、不機嫌だという表情を浮かべながらブチッと呟いた。
「気色悪いこと言うなよっ! ってか、説明になってねーしっ」
「そういう反応をするから、可愛いとか言われるんだよ」
「――昂」
ぎっと睨めつけた智樹に、昂はもう言わないというように、両の手を上げると口を開いた。
「大丈夫だよ。多分、今回に関しては、君のミスは、ミスのうちに入らないから」
「どういうことだ?」
「言っただろ? ぶつけられてたって」
「わけわかんねぇよ」
「その頭はお飾りかい? 少しは想像力を働かせないと、この仕事はやっていけないよ」
諭すような、それでいて、からかうような。そんな口調で言った昂に、智樹は口を尖らせながら「分からないもんは、どうやったって、分からないだろ」と言った。
そんな智樹を見やり、小さく息をついた昂は仕方なさそうに口を開いた。
「――だから。依頼をぶつけられてた事を見抜けなかった、僕の責任だと言ってってるんだよ」
よほど言ったくなかったのだろう。昂は、苦虫を噛み潰したような表情で、吐き捨てるように言った。
不味い所をつついたのかもしれない。
ぼんやりとそんな事を思った智樹は、息を殺して昂の次の言葉を待った。そんな智樹をちらりっと見やった昂は、くしゃりっと前髪を掻き上げたると、深い溜息をつきながら続けた。
「確かにさ。おかしいとは思っていたんだよね」
「何がだ?」
「智樹は、まだ、ツブシを掛けられるような、アンダーじゃない」
「なんだよそれはっ」
半人前だと言われたようで、思わずむっとしながら言った智樹に、昂は口もとに薄く笑みを浮かべながら言った。
「不服かい?」
言った昂の表情は、先程までとはうって変わって、なんとも意地の悪いものだった。「ううっ」とくぐもった声を上げた智樹に、昂は再度溜息をつくと、べったりとソファーに背中を預けた。
「もっとも、こんな簡単な依頼を潰したところで、君の評価が左右されるわけじゃないけどね」
「そういうもんなのか?」
「誰でも出来る依頼を潰しても、あまり意味はないだろう? それこそ、そこまでして、仕事を横取りしたいのか、と言われるのがオチだからね。どうせ、潰しをするのなら、大きなヤマじゃなきゃ、意味がないという事だよ」
「ふうん」
潰しを掛けられるくらいのアンダーというのは、どのくらいの力を持っているのだろうか。自分以外のアンダーを智樹は、一人しか知らない。彼の仕事をよく知っているわけではないけれど、きっと彼は、それぐらいの能力を持ったアンダーだったのだろうと思う。
「なに? 落ち込んでるわけ?」
突然黙り込んだ智樹を覗き込むようにしながら、昂が言った。
小さく息をついた智樹は、ついっと天井を見上げながら口を開いた。
「そんなんじゃねーよ。失敗したって言っても、ヤマに手をつけて失敗したわけじゃないしさ。前金は貰ってるわけだし? 別に、関係ないよ」
「でも、気になってはいるんだろ?」
「まあ――な」
気にならないと言えば嘘になる。
依頼の時期は同じだと、昂は言った。要するに、スタートは同じだったはずだ。それなのに、こちらが下調べをしようとしている間に、依頼を遂行されたということは、智樹よりも仕事が速いアンダーなのだ。
「立て続けだしな。誰かが、裏で糸でも引いてるかもしれないな」
「裏って、一体どういうことだ?」
智樹がそう問い返した時、昂のデスクの上で携帯が鳴った。
すくりっと立ち上がった昂は、そちらに足を向けると、携帯を取り上げた。そして、発信者名を確認すると、すうっと目を細めて着信ボタンを押した。
「もしもし」
短く言った昂は、ちらりっと智樹を見やった後、くるりと背を向けた。時折頷く程度で、電話の相手の言葉に耳を傾けていた昂は「分かった」と言うと、通話を切った。
「今度の件。絵は、依頼主のもとに届いているそうだ」
言いながら、ソファーにどかりと腰をかけた昂に、智樹は目を大きく見開いた。
「って事は――」
「これで、潰しの可能性は、完全に消えたな」
そんな昂の言葉に、智樹は小さく首を傾げた。
今回の依頼は、それで解決しているのかもしれない。だが、その前の依頼の顛末を、そういえば智樹は聞いていない。けれど、この話の流れを鑑みるに、その前の依頼も、実は既に片がついているのではないだろうか。
「……なあ。もしかして、前回の分も、片はついてるのか?」
「ああ、智樹には言ってなかったな。ネガは依頼主の手に渡っているそうだ」
「そう――なのか」
仕事が遂行できなかったのだから、それ以上の情報を智樹に知らせる義務は、昂にはない。ないのだけれど、何も言ってもらえなかったという事実は、やはり自分は半人前なのだと、否応なしに自覚させられた。
小さく息をついた智樹は、すっと頭を切り替えると、昂を真っ直ぐに見やると口を開いた。
「じゃあ、多分じゃなくて、確実に、ぶつけてるって事なんだな」
「お、少しは考えるようになったな」
にやりっと笑いながら言った昂に、智樹はがっくりと頭をたれた。
「昂……。俺の事、ホントに、馬鹿だと思ってないか?」
「まさか。僕は、馬鹿の相手をするほど暇じゃないよ」
同意しても良いのか、よく分からない事を言った昂に、智樹は再度溜息をついた。
昂に引き取られてから、もう約十年になるが、未だに、昂の思考パターンは読めなかった。もっとも、理解しようなどとも思っていないし、理解できるとも思っていないが。
「なあ」
「どうした?」
「前回と、今回。同じヤツがやったと思うか?」
そんな智樹の言葉に、昂は「そうだなあ」と言いながら、黙り込んだ。そして、少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「仕事の速さから言っても、手口から言っても、まあ、同じだと見るのが妥当だろうね」
「手口って、あの二つじゃ、違いすぎないか?」
最初のヤマは、家捜しをしたのではないかと思えるほど、現場が荒れていたと聞いた。だが、今回は、掛かっていた絵が消えてなくなっていただけで、侵入者の痕跡は皆無だったらしい。新聞にかかれていた情報だけだから、実際にどうなのかは分からないが、現場がきれいなものだったというのは、本当だろう。
状況だけを見る限りでは、とてもそれらが同一犯のものだとは思えない。
それなのに、昂は手口が同じだという。
「納得できないって顔をしてるね。だけど、依頼の内容から考えれば、分かるはずだ。最初の依頼は、なんだった?」
「強請りのネタになってるネガを、回収してくれって事だろ?」
言った智樹に、昂はこくりと頷いた。
「ターゲットは、かなり悪質な強請りをいくつもやってたらしいからね。ネガを取り返すだけだと、下手をすれば依頼人に危害が及ぶ可能性があったんじゃないか?」
「だから、わざと、派手にやって、警察沙汰にしたっていうのか?」
「まあ、僕がそう勝手に想像しただけの事だけどね。でも、あのターゲット、恐喝の容疑で昨日逮捕されたようだからね」
「……」
そんなニュースは知らなかった。新聞には出ていなかったと思うし、TVでも流れていなかったような気がするのだが。
「ニュースソースは、一体ドコだよ」
「そんな事、言えるわけがないだろ。情報屋の命なんだから」
「ふん、よく言うよ。ぶつけられた事にも気がつかなかったのに」
そんな智樹の言葉に、昂は肩を竦めながら「それは、もう謝っただろ」と言った。そして、深い溜息をつくと天井をついっと見上げた。
「なんにしても、これからは、もう少しネタの出所を吟味しないとね。この二回は、智樹が手を出す前に片付けられちゃってたからな。現場で鉢合わせなんて事には、ならなかったから良かったけど」
「現場でのバッティング――か」
そんな事態を今まで想定したことは無かった。無かったけれど、現場で同じ目的をもつもの同士が鉢合わせたとしたら、一体どうなるのだろうか。あまり、良い事が起こるようには思えなかった。
そんな事を考えていると、昂が些か難しい表情を浮かべながら、すくりと立ち上がると、自分のデスクに足を向けた。そして、椅子に深く腰掛けると「少し暑いな」と言いながら、クーラーの設定温度を一度下げた。ぶうんっと、室外機が唸る音が聞こえて、風が少し冷たくなった。
今更、設定温度を下げなければいけないような室温ではないのだが。そんな事を思いながら、ちらりと昂を見やった。
もともと、昂はそれほど暑がりではない。
なのに、何故、わざわざ設定温度を下げなければならなかったのか。それは、昂が、必要以上に緊張しているからではなかろうか。今の流れで、昂が気をもむようなことといえば――。
「もしかして、次の仕事、来てるのか?」
ボソリッと言った智樹に、昂がギョッとしたように智樹を見やった。まさか、智樹が気がつくとは思っても見なかった、そんな表情だった。そのまま黙り込んでしまった昂を、訝しげに見やった智樹は、その名を呼んだ。
「昂?」
智樹のその声に、はっと我に返った昂は、苦い笑みを浮かべた。なんでもない、と誤魔化すには、最初の対応を失敗したという感じだった。深い溜息をついた昂は、しぶしぶ口を開いた。
「珍しく、鋭いね」
「ふん。俺はいつでも、鋭いだろ。で? どんな依頼なんだ?」
すくりと立ち上がって言った智樹に、昂は机の中から一枚の紙を取り出すと、それを智樹に手渡した。
この事務所の報告書に模して書かれたそれは、一見しただけでは、ただ単に、相談内容が書かれているだけの報告書にしか見えなかった。
それを、しばらくじっと眺めていた智樹は、ぺろりと下唇をなめながら口を開いた。
「研究所から、データを盗み出す?」
「ああ」
「産業スパイかなんかの類か?」
「まあ、端的に言えばな。依頼主曰く、相手が自分の会社から、データを盗んだんだ、と言っていたが、実際のところは不明だ」
「ふうん」
短く言った智樹は、もう一度その用紙に目を向けた。
不明も何も、盗まれたのがデータだと言うのなら、それを取り返すと言うのは、なんとも間抜けな話だ。
なにより、データを盗もうとしている人間が、わざわざその言い訳をするのは、見苦しいと思う。というよりも、本当に、データを盗まれたと言うのなら、相手の手に渡ってしまった時点で、もう手遅れなのではないだろうか。
「なんか最近、盗みばっかりなんだな」
「それが、一番面倒が無いんだろ?」
あっさりと言った昂に、智樹はすうっと目を細めた。そして、少し考えた後「ああ」と短く言った。
「バッティングさせるのに、丁度いいのか」
「そういうこと」
そんな昂の言葉に、智樹はゆっくりと昂のデスクに歩み寄ると、床に置いてあったシュレッダーに、手にしていたその紙を入れた。
ガガガッと音を立てて、紙が無数の細かい刃に飲みこまれた。
「今日あたり、行ってみるのか?」
「ああ。仕掛けてみないと、わかんねーし」
言った智樹は、ちらりと腕時計に視線を向けた。
もう七時を回った。今日中に仕事を片付けるつもりならば、早めに手を打たなくてはいけない。
小さく息をついた智樹は、くるりと踵を返すとドアに足を向けた。
「ああ、智樹」
と、背後から昂のそんな声が飛んで、智樹はゆっくりとそちらに視線を向けた。丁度、その視線の先に、カレンダがみえて、智樹はすうっと目を細めた。
盆と土日以外は、びっしりと仕事のスケジュールが書かれたそのカレンダに、一日だけ、何もかかれていない日があった。
八月五日。
その日だけは、ぽっかりと、取り残されたようになんの予定も入っていない。
何かから目をそむけるように、くるりとドアに向き直った智樹は、ぎゅっとその手を握りこんだ。そして、低く言った。
「分かってるよ。明日だろ?」
「覚えてるならいいよ」
言った昂に、智樹はさらにその手を強く握り締めた。
「――誰が、忘れるかよ」
まるで、搾り出すように言った智樹は、静かに扉を閉めると、そのまま部屋を出て行った。
閉まった扉の向こうに、智樹の背中を見ながら、昂は深いため息をついた。
八月五日は、智樹の両親の命日だった。
そして、それは、昂がかけがえの無い親友を失った日でもあった。
あの日も、とても、暑かった。
今でも、あの日のことは、まるで昨日の出来事のように、思い出すことが出来る。
当然、忘れられるはずが無い。
忘れられるはずも無い。
それでも――。
「君の場合は、忘れた方が良かったのかもしれないね」
ポツリとつぶやいた昂の言葉は、当然、智樹の元には届くことは無かった。