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別に王太子妃になりたかったわけではない。
だが、マーガレットは普通の貴族夫人にすらなれなくなってしまったのだ。
他人を見るが嫌になる。
屋敷に帰ってからしばらくマーガレットはうつ状態だった。
どこにも嫁ぐことが出来なければ、ずっと両親の世話になって生きるのか。両親が亡くなってからはどうなる。代替わりした兄がマーガレットの世話をするのか。兄の伴侶や子供たちは世話のかかるマーガレットを見てどう思うのか。
将来のことを考えるとまともに食事が摂れず、夜も眠れない。
頻繁に医師が来て、マーガレットに薬を処方し、マーガレットはそれを飲んで眠りに就く。
小花柄のカーテンは一日中閉めっぱなしだった。
部屋から一歩も出ずにそんな日々を送っていると、父がマーガレットに声を掛けた。
「マーガレット、領地へ行こうか」
マーガレットは卒業式を待たずに領地へ行くこととなり、卒業証書は領地へ送ってもらうことになった。
娘想いの父だと思う。
マーガレットを憐みの目や好奇な目で見る者が出ないよう使用人や領民たちを躾けてくれていたのだろう。
領地に着いてレイニーと世話係の手を借りながら馬車から降りて車椅子に乗り換えると、皆温かくマーガレットを迎え入れてくれる。
皆「お嬢様、お待ちしておりました」とマーガレットに対し普通に接してくれるし、やはりほんの少しだけ「つらかったですよね」と優しくしてくれる。
「ずっとここにいればいい」
父はマーガレットにそう言ってくれた。
王都の話題はマーガレットの耳に届かないよう配慮もあった。
セドリックの新しい婚約者の話など聞かされたら、マーガレットはきっと再び食事が摂れなくなる。
領地で穏やかに過ごすことでマーガレットの心は少しずつ回復する。
しかしそんな時マーガレットに一通の手紙が届く。
セドリックからの手紙だった。
読むべきか悩んだが、マーガレットは手を震わせながら封を切る。
手紙の内容はマーガレットの身体を心配する内容がほとんどだったが、最後の一文を見て表情が抜け落ちる。
『私とマーガレットの婚姻は、何とかするから安心して』
セドリックとマーガレットの婚約はすでに破棄されていて、これ以上何とかするようなものはない。
マーガレットは王太子妃になれと言われても無理だし、この足では普通の婚姻を望むこともできない。
一生誰かに介助をされながらでなければ生きられないのだ。
それを再認識させられマーガレットは腹の奥から気持ちの悪いものが込み上げてきて慌ててレイニーと世話係を呼んで、また泣いた。
マーガレットは一人になりたいときでも一人になることができない。
夜中の花摘みすら一人では無理だ。
できるだけ人を呼びたくなくてマーガレットの食はどんどんと細くなる。
レイニーも世話係もこれが仕事なのだから遠慮せずに自分たちを呼ぶよう言うが、今までと違う用事で使用人を呼びつけるのはどうしても抵抗がある。
しかも普通の身体の令嬢であれば見せる必要のない部分まで彼女たちに見せなければならないのだ。
世話をされることが当たり前ではない、前世の日本人らしい考え方が残っているのかもしれない。
深夜、一度だけ自分一人で花摘みを済まそうとした。這ってでも何とかしようとレイニーたちを呼ばなかったことがある。
しかし、下半身に力の入らない身体では、うまく我慢をすることすらできず事態は最悪な結果を迎えた。
ベルも手の届くところにないので夜中に泣きながら大声で人を呼び、後始末は使用人にしてもらった。人を呼ばなかったマーガレットを誰も責めることはなかったが、皆のやさしさにすら耐えられなくてマーガレットはまた泣いた。
――もう嫌だ……普通の身体になりたい……
マーガレットは毎日毎日泣き暮らした。
◇
「お嬢様……たまには町まで出てみませんか?」
鬱々とした気分だったが、レイニーなりの気遣いとわかると無下にもできず、マーガレットは外出の支度を整えてもらった。
レイニーが連れて行ってくれたのは領地内の市場。
路面にたくさんの色とりどりなテントが建っており、食料品や植物、雑貨だけでなく、服やアンティークまで扱う店がところ狭しと並んでいる。
「お嬢様、最近領地で流行しているクピールというフルーツを使ったジュースですよ! 私が毒見をしますから、飲んでみませんか?」
飲み物は花摘みが近くなる。
私はレイニーの問いかけに横に首を振った。
「そうですか」
「でも……あれはちょっと気になるわ」
マーガレットが指差す先には髪飾りを扱うお店がある。
町の露店で売っているようなものなので、公爵令嬢が身に着けるような本物の宝石のついたものは売っていない。
だが、安価な素材で美しく見える工夫のあるものは好きだ。
「行きましょう!」
レイニーが車椅子を押してくれた。
「お嬢様、手に取って見ても大丈夫ですよ」
「ありがとう」
店主の女性がそう声を掛けてくれたので、マーガレットは商品の髪飾りに手を伸ばす。
すると向こうの方から「こらーっ! ドロボー!!」という叫び声が聞こえた。
「レイニー、護衛に追うよう指示をして」
「え……ですが……」
「命令よ」
「はい」
領地内で起きたことは領主の娘であるマーガレットにも責任があると考えている。マーガレットはすぐに自身につけられている護衛騎士を現場に向かわせ対処をするよう指示した。
「ふう……」
泥棒を追った護衛が見えなくなってから、マーガレットは一息ついた。
「あっ……」
手を滑らせて商品をガシャンと落としてしまう。しかも一つではなくたくさん。
「申し訳ないわ。落ちた商品は買い上げるから」
「いいですよ、疵ついてなければそのままで。破損や疵がある商品だけすみませんが」
「わかったわ。レイニーごめんなさいね。私、一旦退くわね」
こういう時、車椅子に乗っているマーガレットは地面に落ちたものを拾うことすらできない。すでに落ちた商品を拾っているレイニーに声を掛けて自分で車椅子を漕いで後ろに下がる。
ふと何が気になりそちらへと視線を巡らせた。
「ごめん……レイニー……店主と商品の確認をお願いできるかしら」
「はい」
その場をレイニーに任せてマーガレットは気になったところへ向かう。
目についたのは新聞スタンドと呼ばれる一般紙から経済紙や雑誌までを取り扱う店に置いてあったタブロイド紙。
『王太子殿下、婚約間近!』
大きく書かれた見出しに思わず手を伸ばしてしまった。
『お相手は元婚約者の妹のセラフィーナ公爵令嬢』
――殿下が……セラフィーナと結婚……?
「っ……」
セドリックと自分の妹の婚約記事を見てしまった。
二歳年下の妹のセラフィーナは健康で頭も良い。淑女としても問題なく、王太子妃としての務めも上手く果たすことができるだろう。
だが、彼は『私とマーガレットの婚姻は、何とかする』とわざわざ手紙に書いてよこした。一体どういうつもりなのだろうか。
そしてセドリックの隣に自分とよく似た容姿の妹が立つことを想像すると、マーガレットはまた胃から何かがせり上がってくる感じがした。
嘔吐癖がついていて、不意に心を揺さぶられるとこうなるのだ。慌ててタブロイド紙を元の場所に戻して車椅子を漕いでその場から離れる。
お花摘みに……急がないと……
「あれ? おじょーさまっ? お手伝いしようか?」
手提げを持った一人の少女が声を掛けてくれた。
十歳にも満たなそうな少女だったが、なりふり構っていられる状況ではなく、マーガレットは口元を押さえてコクコクと頷く。
「おはな……つみ……侍女を……」
レイニーを呼んでもらえばなんとかなる。とにかく侍女を呼んでほしいと少女に頼む。
「じじょ? おはな?」
平民の少女には侍女やお花摘みという言葉は聞き慣れないようで全く伝わらなかった。
「ご不浄に行きたいの……」
「ごふじょう……? あっトイレのことね」
少女はこっちにあるよ、と車椅子を押してくれた。
「侍女を呼んでくれれば……!」
レイニーがいれば解決する。だが、少女は任せて、とズンズン車椅子を押して進んでいく。
「お母さんがね、車いすのおじょーさまを見かけたらやさしくしなさいって言ってたの」
マーガレットの足のことは領民たちにも広く伝わっていることがよくわかる。少女はマーガレットの手助けになってあげたかったのだろう。
「階段……」
マーガレットの目の前には下に降りるための階段が広がっている。だが、車椅子で階段は下れない。
「あっ、こっちに坂道あるよ」
すぐに少女は機転を利かせて回り道をする。
だが、マーガレットの乗った車椅子は下り坂を少女の力だけで支えるのは不可能だった。
「おっ、重いぃ……あっ、ああーっ……!」
「っ!?」
急に車輪が勢いよく回り始め、マーガレットは息を呑む。
どうやら少女は下り坂での重みに耐えきれず車椅子の握り手から手を離してしまったようだ。
このままでは正面にある露店に激突する。
マーガレットはグッと歯を食いしばり、目をきつく瞑って上半身を捩らせた。
バランスが崩れ、車椅子の車輪は石畳みの段差で弾み、勢いよく傾く。マーガレットは車椅子から投げ出され地面に身体を打ちつけた。
身体が痛い。そして顔が熱い。
顔を地面に擦り付けてしまったのだろう。痛みで吐き気どころではなくなったが、とにかく顔がひりひりした。
車椅子の転倒事故にザワザワと人だかりができる。
「お嬢様っ? お嬢様っ……!? お嬢様ーっ!!」
マーガレットを探しにきたレイニーが人混みを掻き分け駆け寄ってきた。
「わ、わたし……」
手提げを持った少女は真っ青になって震えていた。
「へいきよ……」
マーガレットは上体を腕の力でほんの少し起こして、笑って見せた。
「お、お嬢様のお顔が……、そんな……そんな……」
◇
マーガレットはすぐに屋敷に運ばれ手当てを受ける。
足を怪我したときに比べたら、マシな方だ。ただ、怪我をした箇所が悪かった。
顔を怪我したマーガレットを見て、マーガレットの父は憤慨した。父は付き添っていた護衛のジョンと侍女のレイニーを解雇にすると言って聞かない。
「車椅子を押した少女とその家族は刑罰に処する」
「や、やめてくださいっ!」
少女に手助けを求めた自分が悪かった。
護衛騎士もレイニーもマーガレットの指示に従っただけ。
顔の怪我は自分のせいであって、周りの人は何も悪くない。マーガレットは父にそう訴えるが、父は聞く耳を持たなかった。
「お前は公爵家の娘。どんな事情があったにしろ、貴族の娘を危険に晒し、危害を加えた場合、どうなるか、ということを領民たちに知らしめなければならない」
父の言い分は理解できる。そうでないと、貴族が軽視されてしまうから。
今では比較的マシになったが、昔は貴族の馬車の前に飛び出しきた平民の子どもは轢かれて当然という扱いだった。
貴族の誇りを守るため、娘を傷つけられたら関係者を処罰する。それが貴族の道理だ。
だが、日本人としての記憶があるマーガレットにとって、それは受け入れ難い無慈悲なもの。自分に落ち度のあることで、マーガレットに親切にしてくれた者たちが理不尽な扱いを受けるのは耐えられない。
「お父様っ! 私のせいなんです! なんとかなりませんか!!」
マーガレットはぽろぽろと涙を流して父に乞うが、父の答えは非情だった。
「ならん。少女のせいでお前の顔に傷がついた様子は多く領民が見ており、少女やその家族が無罪放免で釈放すれば、領民たちから公爵家が軽んじて見られるのだ」
それに、大切にしている娘を傷つけられて黙っている親はいないと父は続けた。
「ですが……! 彼女は私を助けようとしただけでっ」
「ではマーガレット……お前が少女の代わりに責任を取るか?」
「……責任……」
「義絶だ。お前が公爵家から出ていくというのであれば、公爵家が少女を処罰する理由も、護衛や侍女を解雇する理由もなくなる。ただし、私はお前と縁を切る」
「っ……」
義絶すればマーガレットは公爵家の娘ではなくなる。
それであれば父公爵がこの度の事態に関わった者たちを処分すること必要はなくなるのだ。
足が不自由なマーガレットは人の手助けがなければ生きていけない。
公爵家の名誉を守るための処分であることは理解できる。だが、自分の愚かさで親切な者たちの人生がめちゃくちゃになるのは耐えられない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
神様どうか親切な人たちを助けてほしいと祈るが、どこからも救いの手など現れず、彼らの処分の手続きは進んでいく。
そしてセドリックとセラフィーナが二人仲睦まじく隣り合う姿が頭に過ぎる。
本当にこの世界は悪役令嬢にやさしくない。
――もういいや。
一度そんなふうに思ったら、自分の人生など周りの人たちの人生に比べて未来も何もないようなものだからと投げやりな気持ちになる。
マーガレットは光を失ったような虚ろな目で父の執務室へと押しかけた。
「お父様……義絶……してください。護衛のジョン、侍女のレイニー、平民の少女とその家族の処分はなしにしてくださいませ」
もういいや。どうでもいい。人の手を借りながらしか生きられない自分の人生など、本当にどうでもいいことだ。




