第三話「汚れた石と、伝説の名」
歩み出た。
観覧席の視線が、潮の引くように場を変えた。笑いを堪えた空気に変わっていく。そこにはいくつか種類があることが見て取れるが、根っこは同じだ。私はここで哀れにも惨敗する予定になっている。
その通りになることが決まっている。
だから笑う。汚らわしい笑みを浮かべ、汚らしい心を隠すこともなく。
ふと前を見ると、殿下が眉を寄せている。
さっさと袋の中の石を投げつけたいが、思いとどまる。
儀礼に則らなければこちらが非難されてしまう。
「何をしている……」
フィーネ嬢に向けた声色とは全く別の、事務的な冷たい声だ。いや、異臭を放つ袋をチラチラ見ていることから、何を持ってきたのか訝しんでいるのかもしれない。
「失礼しました」
私は袋から布包みを取り出した。
侍女がまた小さく『ひっ』と言った。前列の誰かが鼻孔を動かす。
「何か臭くないか?」
周囲からそんな囁きが生まれる。
私はそのまま躊躇せず布を解く。
石が出てる。
泥と苔の痕が残ったまま。光沢は当然なことに皆無だ。当り前よね?
朽ち果てた屋敷の厠の石なんて。
かつて儀礼を定めた方に感謝します。
私は素手でこれを触る必要がないことに。
そして、殿下は素手でこれを受け取り、祝詞を述べる間、持っていないといけないことに。
広間がしばらく静止した。
殿下の顔が変わっていく。驚き、嫌悪、怒りの順番で、それぞれ丁寧に。
「……なっ……」
「殿下。こちらの秘石を献上いたしますわ。こちらは由緒正しきお屋敷に眠っていたものにございます。定めのとおり、どうぞお手に取ってくださいませ」
声は平静に保った。
「手に取れ? これを? ふざけるな!」
「盟約の証とするならば、受取人が直接触れることと決まっておりますので」
「貴様は何を私に持ってきたのだ!?」
「静粛に。殿下」
「くっ」
殿下は促され、その手を伸ばすが石に触れる寸前で止まった。プルプルしていた。
チラチラと儀礼官を見ている。いや、その視線の先は国王陛下。そして神獣様か。
私も緊張していたのかもしれない。ようやく周囲の人の様子をうかがう余裕が戻ってきたわ。
国王陛下は特に臭いを気にした様子はない。
神獣様はまっすぐに私が掲げた石を見ている。
さすがに国を背負う者は気概が違いますわね。
目の前で表情を白黒させている小物とは。
そんな王子は石に触れたくない、でも儀式の手順は踏まなければならない。広間全員が見ている前で、第一王子が規定を破るわけにいかない。
触れるしかない。そんな葛藤が手に取るようにわかります。
今も私を殺さんばかりに睨んでいます。
「どうぞお手に取ってくださいませ」
殿下は観念したのか震える指先を改めて差し出してきた。
そして触れた。
「……我は……この献上を……盟約の……証と……認む……」
声が引き攣っていた。顔色が白くなっている。
なんとか祝詞をすべてひねり出した次の瞬間、広間が揺れるような怒号が放たれた。
「貴様ァァァッ! 体裁というものを、心得ておらんのかッ!!」
いきり立った殿下の声量が空気を揺らす。そして王子は私が贈った石を私に向かって叩きつけてくる。
彼に投石の技術がなくてよかったと神に感謝します。
しかし、横から追い打ちが来ました。
「イース様! あまりにもひどいです! 由緒ある儀式をなんだとお思いなのですか!!」
フィーネ嬢だった。彼女もまた立ち上がり、涙目で私を睨んでいる。
そのドレスに汚物がヒットしたせいでしょうか?
とか、すっとぼける必要はないわね。
予想より本気だった。もう少し冷静に取り繕って『無礼ですわね』くらいの怒り方をするかと思っていた。二人とも本気で怒っている。場が炎上に向かっている。
あぁおかしい。
小さな愉悦が、胸の奥で咲いた。
計画は成功した。
これで留飲は下がった。あとはこの場をやり過ごして、実家に帰ろう。
そのつもりだった。
しかし、石が突然光りを放った。
一瞬だけ……でも確かに。汚れの裂け目から、白い筋が走る。その場にいる者たちが皆息をのむのがわかる。怒りは途絶えた。
そしてもう一度、光。
今度は広間の天井まで届くほどの閃光が、石の内側から弾けた。
「あれはなんだ?」
誰かの口から、その言葉が落ちた。
場が凍りついた。
殿下もフィーネ嬢も言葉をなくした。
私も何が起きたか分からないまま立っている。
えっと、どういうこと?
古ぼけたうん〇まみれの汚物じゃなかったの?
その瞬間、大広間の奥から、白銀の影が動いた。
玉座の台座の奥でこの国の盟約の神獣セルヴァノスが立ち上がっていた。四つ足だったものが人に近い形を取りながら、まっすぐ私へ向かってくる。
「えっ?」
ふと気づくと、神獣様は光を放つ石を爪の間に挟んで掲げていた。
その石がさらに輝きを増す。
どう見ても本物の輝きだった。さっきの閃光とは桁が違う。広間全体を白く染めるような、目を細めなければ見ていられないほどの光が、神獣の手の中の石から溢れ出していた。
笑いが消えた。怒号も消えた。広間の音が、全部消えた。
どういうことなの?
宝玉の光が落ち着いていく。その中で、広間の空気が一段、重くなった。
国王ヴォルデマール・ローエ・アルヴェリア陛下が、立ち上がっていた。顔から血の気が引いている。その目が、神獣の手の中の宝玉だけを追っていた。
「それは……」
喉から押し出すような声だった。
『わからぬのか?』
「それは……いったいどこで……」
感情が読めなかった。怒りでも驚きでもなく、もっと古い何かが、その眼差しの奥にあった。長い時間を経た後悔か、あるいは渇望か。宝玉に向けられたその目が、一瞬だけ私を横切った。
帰りたかった。
それが正直な気持ちだった。でも足が動かなかった。宝玉の光が、まだ私の服に反射していた。
もう異臭は感じなかった。




