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論語春秋  作者: 周荘
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君子は本を務む

 魯の国の秋は足早に過ぎ去ろうとしていた。乾いた風が黄土の大地を吹き抜け、収穫を終えたばかりの畑には麦の切り株だけが寂しげに残されている。空は高く澄み渡っているが、その青さには冬の訪れを予感させる冷徹な響きがあった。

 有若ゆうじゃくは家路を急いでいた。二十代半ばの彼は、年の割には落ち着いた風貌をしていた。背は高く、肩幅は広く、額は聡明さを湛えて広く突き出ている。道ゆく人々が彼の姿を認めると、一瞬だけはっとして道を譲り、あるいは深々と頭を下げる光景がしばしば見られた。

 彼らは有若に敬意を払っているのではない。有若のその容貌が、魯の国で最も尊敬を集める賢人、孔子に瓜二つであるからだ。だが、人々が頭を上げ、その人物が孔子その人ではなく、単なる弟子の有若であると気づくと、その眼差しには微かな、しかし残酷な落胆の色が混じるのを有若は知っていた。


(形は似ていても、中身は違う)


 有若はその無言の評価を背中に浴びながら、誰よりもそのことを痛感していた。だからこそ彼は、衣の裾一つ乱さぬよう気を配り、歩き方などの作法に至るまで、師の型を完璧になぞろうと努めていた。型を整えることで、内面の空虚さを埋め合わせようとするかのように。

 郊外にある有若の実家は、都の喧騒から離れた農村にあった。生垣は手入れされているが、屋根のかやは所々が古びて黒ずんでいる。学問を志す以前、有若自身も泥にまみれて耕した場所だ。しかし今の彼は、仕立ての良い深衣を身にまとい、腰には君子の証である佩玉はいぎょくを下げている。その姿は、土臭いこの村の風景から奇妙に浮き上がって見えた。

 門をくぐろうとした時、庭先から荒々しい声が聞こえてきた。


「勘弁してくれよ。これ以上持ってかれたら、冬を越せねえ」


 弟の有申ゆうしんの声だ。普段は寡黙な弟が、声を張り上げている。有若は眉をひそめ、足音を忍ばせて庭に入った。

 そこには、三人の男が立っていた。一人は季孫氏に仕える下級役人であり、残りの二人はその手下とおぼしき男たちだ。役人は鼠色の服を着て、手には徴税を記録する木簡を持っている。対する有申は、泥だらけの単衣のまま、手には土塊のついた鍬を握りしめていた。その後ろでは、老いた両親が不安げに身を寄せ合っている。


「不作なのは知っている」


 役人は面倒臭そうに鼻を鳴らした。


「だが、これは季孫様のご命令だ。北方の斉に対する備えが必要なのだよ。軍費を賄うため、各戸一律に追加の粟を納めよとのことだ」


「備えだなんだと言って、去年も巻き上げたじゃねえか。今年の干ばつを見てみろよ。種籾たねもみさえ残るかどうか怪しいんだ。これ以上持ってくなら、みんな干上がって死んじまう」


 有申が一歩踏み出すと、手下の男たちが腰の剣に手をかけた。


「よさぬか、有申」


 有若は静かに、しかしよく通る声で割って入った。場の空気が凍りつく。役人が振り返り、有若の姿を見て一瞬ギョッとしたように目を見開いた。孔子が現れたかと錯覚したのだ。有若はその反応に密かな満足を覚えつつ、あらかじめ用意していた威厳ある歩調で彼らの間に進み出た。


「兄貴……」


 有申が悔しげに唇を噛む。有若は弟を片手で制し、役人に顔を向けた。


「ご苦労様です。有若と申します」


「お、おう。孔門の有若殿か」


 役人は気圧されたように一歩下がった。有若の名は、孔子の高弟の一人として多少は知られている。


「季孫様のご威光により国が保たれていることは、民草とて承知しております。しかし、礼にもある通り、民の生業を圧迫してまで国費を募るは、本末転倒の政治と申せましょう」


 有若の口調は流暢であった。学堂で学んだ知識が、泉のように湧き出てくる。


「今年の収穫量は、例年の六割にも満たない。それは役所の方でも把握されているはず。法に照らしても、凶作の年にさらなる賦課を強いる規定はないと記憶しておりますが」


「だが、これは臨時の措置で……」


「臨時であれ恒久であれ、理に合わぬ命は民を疲弊させ、ひいては国を危うくします。この場の強奪が季孫様の名を汚すことになりませぬか」


 有若は淡々と、しかし相手を逃がさぬ鋭さで論じた。暴力ではなく、言葉という武器で。役人は言葉に詰まり、忌々しげに舌打ちをした。


「……わかった、わかったよ。今日は引き上げよう。だがな、有若殿。お上にはお上の事情がある。いつまでも理屈が通ると思わんことだ」


 捨て台詞を残し、役人たちは去っていった。静寂が戻った庭で、有若は大きく息を吐いた。両親が駆け寄ってくる。


「ああ、助かったよ。やっぱりお前は偉いねえ。あんな役人を言い負かすなんて」


 母が有若の袖を掴んで涙ぐむ。有若は優しく微笑んで頷いた。自分が学んできたことが、現実の問題を解決した。その事実は彼の自尊心を心地よく満たした。

 しかし、有申だけは違っていた。彼は持っていた鍬を地面に投げ捨てると、有若を睨みつけた。


「何を怒っているのだ」


 有若が尋ねると、有申は吐き捨てるように言った。


「兄貴は、あいつらを追い返したんじゃねえ。ただ先送りにしただけだ。それに、あの言い草は何だ。『民草』だの『国費』だの。兄貴の言う『民』ってのは、俺たちのことか? 俺には、なんだか別の遠い話に聞こえる。俺たちは、今日食う米にも困ってる生身の人間なんだぞ」


「感情で動くなと言っているのだ。お前のように鍬を振り上げれば、それこそ反逆の罪で捕らえられる。秩序を守り、理を説くことこそが、最も安全で正しい道なのだ」


「秩序? 理屈? そんなもんで腹が膨れるかよ。兄貴の手を見てみろ。墨と紙の匂いしかしねえ。土の匂いを忘れた人間に、俺たちの何が分かるんだよ」


 有申はそう言うと、背を向けて納屋へと歩き去っていった。有若はその背中を見つめながら、拳を握りしめた。なぜ分かってくれないのか。自分は家族を守るために、必死で学問を修めているというのに。弟の狭い視野と、理解のなさがもどかしかった。

 空を見上げると、いつの間にか厚い雲が垂れ込め、冷たい雨粒がポツリポツリと落ち始めていた。

 その夜、有若は眠れぬまま、雨音を聞いていた。隣の部屋からは、両親の寝息と、弟の寝返りを打つ音が聞こえる。家の中は静かだが、弟の言葉がいつまでも耳の奥で反響していた。


(土の匂いを忘れた人間)


 有若は自分の手を見つめた。薄明かりに浮かぶその手は白く、滑らかだ。かつては弟と同じようにひび割れ、節くれ立っていたはずの手。彼は学問の世界に没頭すればするほど、かつて自分がいた場所から遠ざかっていくような感覚に襲われていた。それは上昇しているのか、それとも根無し草のように漂っているのか。

 有若は、孔子の顔を思い浮かべた。先生なら、どうしただろうか。あの役人を前にして、どのような言葉を紡いだだろうか。答えは出なかった。ただ、雨音だけが絶え間なく降り注ぎ、有若の心の底にある不安の種を濡らしていった。






 翌朝、雨は上がっていたが、地面はぬかるんでいた。有若は早朝に家を出て、都にある孔子の学堂へと向かった。昨夜の弟とのやり取りが、胸につかえた小骨のように彼を苛んでいた。

 学堂に着くと、すでに数人の弟子たちが集まり、庭を掃き清めていた。その中に、子路の姿があった。子路は有若より二十近く年上だが、その気質は少年のように若々しい。粗末な冠を被り、腕まくりをして竹箒を動かしている。


「おう、有若。精が出るな」


 子路が白い歯を見せて笑いかけた。その笑顔には一点の曇りもない。有若は丁寧に挨拶を返したが、内心ではこの兄弟子に対して複雑な感情を抱いていた。

 子路は粗野で、学問の理解も浅い。礼儀作法もどこかぎこちない。それでも孔子は、この直情的な男を誰よりも愛しているように見えた。自分のように容姿が似ているわけでも、聡明なわけでもないのに。

 講義が始まる前のひととき、有若は孔子の部屋を訪ねた。孔子は窓辺に座り、琴の手入れをしていた。その指先は優雅で、それでいて力強い。


「先生」


 有若が声をかけると、孔子はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、すべてを見透かすような深さを湛えている。


「どうした、有若。顔色が優れぬようだが」


「……はい。実は、昨日のことで迷いが生じております」


 有若は、実家で起きた出来事と、弟との確執をありのままに話した。役人の理不尽さと、それに対する自分の対処。そして弟の反発。孔子は黙って聞いていた。時折、琴の弦を指で弾き、微かな音色を響かせるだけであった。話し終えた有若は、師の言葉を待った。


「先生。私は間違っていたのでしょうか。理不尽な上に対し、道理を説くこと。それが君子の務めではないのでしょうか。力で対抗しようとした弟を諌めたのは、誤りだったのでしょうか」


 有若の問いには、承認を求める響きがあった。自分は正しかったと言ってほしかった。孔子は琴を置き、有若の方を向いた。


「有若よ。お前は、民を守ろうとしたのだね」


「はい」


「そして、法と秩序を重んじた」


「はい」


「結構なことだ。だが……」


 孔子は言葉を切り、窓の外に視線をやった。そこには、昨夜の雨に洗われた木々が、朝日を浴びて輝いている。


「君君たらずとも、臣臣たり。父父たらずとも、子子たり」


「……はい?」


 有若は戸惑った。それは、君主が君主としての徳を失っていても、臣下は臣下としての忠節を尽くすべきだという意味だ。


「先生、それはあまりに……」


 有若は言い募ろうとした。それは弱者の論理ではないか。上が間違っているなら、それを正すのが下の役割ではないのか。孔子は有若の内心を見透かしたように、穏やかに続けた。


「お前は、枝葉の正しさを求めている。だが、木を支えているのは何かな」


「それは、根でございます」


「そうだ。根だ。お前の正義は、どこに根を張っているのか。法か、論理か、それとも……」


 孔子はそれ以上言わなかった。その時、廊下をドカドカと歩く音がして、子路が顔を出した。


「先生、そろそろ講義の時間ですぜ」


 子路は有若の深刻な表情を見て、首を傾げた。


「なんだ、また難しい顔をして。有若、お前の家の方じゃ、ひどい取り立てがあったんだってな。弟のやつ、大丈夫か」


 有若は驚いた。なぜ子路がそれを知っているのか。


「朝、市場で噂を聞いたんだよ。俺ならそんな役人、叩き切ってやるがな」


 子路は豪快に笑いながら、剣の柄を叩いた。


「子路よ、短慮はいかん」


 孔子がたしなめたが、その口元は微かに緩んでいた。


「へいへい。分かってますよ。でも先生、腹が減ってる時に理屈を聞かされても、人間ってのは腹が立つもんですぜ。まずは握り飯の一つでも食わせてやって、それから説教するのが順序ってもんでしょう」


 子路は有若の肩をバンと叩いた。


「有若、困ったことがあったら言えよ。俺の剣は、錆びちゃいねえからな」


 そう言って子路は出ていった。後に残された有若は、言いようのない孤独感に襲われた。

 子路の言葉は粗野で、学問的ではない。しかし、そこには不思議な温かみがあった。孔子が子路を見る目にも、その温かさに呼応するような光があった。自分は、正しいことを言っているはずだ。法を援用し、国家のあり方を論じた。それは子路の「叩き切る」などという野蛮な発想より、遥かに高尚なはずだ。なのに、なぜ自分の言葉は空回りし、子路の言葉は人の心に届くのか。


(私は、何かを見落としているのか)




 数日が過ぎた。有若の不安は的中した。あの役人が再び、今度は数人の手勢を引き連れて有若の家に来たのである。

 有若が学堂から戻ると、家の中は足の踏み場もないほど荒らされていた。蓄えてあった僅かな粟の袋はすべて持ち去られ、種籾までもが奪われていた。母は泣き崩れ、父は柱に寄りかかって呆然としている。そして、弟の有申がいなかった。


「有申はどうしたのです!」


 有若が叫ぶと、父が力なく指差した。


「役人たちに盾突いたんだ。種籾だけは置いていってくれと、鍬を持って……。そうしたら、公務執行妨害だと言って、引きずっていかれた……」


 有若の頭の中で、何かが音を立てて崩れた。あの時、自分が理屈で追い返したせいで、彼らは意趣返しに来たのだ。そして、自分が学堂で高尚な議論をしている間に、弟は泥にまみれて家を守ろうとし、捕らえられた。


「おのれ……」


 有若の胸の奥から、熱い塊がこみ上げてきた。それは、これまで彼が懸命に抑え込んできた激情だった。礼も、法も、秩序も、今の彼には何の意味もなさなかった。目の前にあるのは、理不尽な暴力によって破壊された家族の生活だけだ。


「私が……私が取り返してくる」


 有若は母にそう告げると、着の身着のまま家を飛び出した。向かう先は都の役所ではない。まずは学堂に戻り、同志を集めるつもりだった。


「これは義戦だ」


 彼は走りながら、自分に言い聞かせた。これは私怨ではない。不当な権力に対する正当な抵抗であり、孔子の教えを実践する場なのだと。そう思わなければ、自分の怒りに押しつぶされそうだった。

 学堂に着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。息を切らして門をくぐると、孔子はまだ堂内にいた。燈火の下で書物を読んでいる。有若は土足のまま上がらんばかりの勢いで、孔子の前にひれ伏した。


「先生! 弟が無実の罪で捕らえられました!」


 有若は涙ながらに事情を訴えた。そして、顔を上げて言った。


「私はこれから、役所に直訴に参ります。これは明白な不正です。正さなければなりません。どうか、お許しください」


 有若の目は血走り、全身が怒りで震えていた。もはや冷静な君子の仮面は剥がれ落ちていた。孔子は静かに書物を置き、有若を見つめた。その視線は、燃え盛る火に水をかけるように冷徹でありながら、同時に哀れむような温かさを帯びていた。


「有若。お前は戦うつもりか」


「はい。戦わねば、道は守れません」


「戦って、勝てるのか」


「勝敗の問題ではありません。義があるかどうかの問題です」


 有若は言い切った。孔子はゆっくりと立ち上がり、庭に出た。夜の闇の中で、一本の古木が風に揺れている。


「有若よ。あの木を見なさい」


 孔子が指差した。


「枝は空へ伸びようとし、風に抗っているように見える。だが、あの木が倒れないのはなぜか」


「それは……根がしっかりしているからです」


「そうだ。根が枯れれば、どんなに立派な枝も一晩で倒れる。……お前のその憤りは、どこに根を張っているのかな」


 孔子の問いは、先日と同じだった。しかし、今の有若には、その言葉がより重く、謎めいて響いた。


「先生、今は問答をしている時ではありません。弟が、今も冷たい牢にいるのです」


 有若は焦燥に駆られて言った。孔子は振り返り、有若の肩に手を置いた。その手は、驚くほど温かかった。


「行きたいなら、行くがよい。止めはしない。だが、有若よ。剣を持たぬ者が人を動かすには、何が必要か。それを忘れてはならんよ」


 有若は深く一礼し、闇の中へと駆け出した。孔子の言葉の意味を噛み砕く余裕はなかった。彼の心は、ただ「正義」を証明したいという思いと、弟への罪悪感で乱れに乱れていた。

 都の大路を走りながら、彼は思った。


(私が正しいことを証明してみせる。先生にも、弟にも)


 しかし、その思いの底にあるのは、純粋な弟への愛なのか、それとも傷つけられた自分の自尊心なのか、有若自身にも分からなくなっていた。彼の足元は、雨上がりの泥で滑りやすくなっていた。絹の靴はすでに汚れ、その重みが彼の歩みを鈍らせていた。






 都の役所へと続く大路は、夜の帳の中で黒い川のように横たわっていた。有若は走った。息は切れ、胸は早鐘を打っている。普段なら気にも留めない道端の小石につまずき、何度か前のめりになりかけたが、そのたびに体勢を立て直し、ただひたすらに前を目指した。

 彼の頭の中は、燃えるような義憤で満たされていた。弟は無実だ。家族を守ろうとしただけだ。それを法を曲げて捕らえるなど、言語道断である。私が理を尽くして説けば、必ずや非を認めるはずだ。そう信じていた。いや、そう信じなければ、足が止まってしまいそうだった。

 役所の正門は堅く閉ざされていた。門前には松明が赤々と燃え、二人の衛兵が槍を持って立っている。彼らの影が、門扉の上で不気味に揺らいでいた。


「頼もう!」


 有若は大声で叫んだ。喉が張り裂けんばかりの声だった。衛兵たちが怪訝な顔でこちらを見る。


「何だお前は。夜分に騒々しい」


「私は孔丘の弟子、有若という者だ! 季孫氏の家宰殿に申し開きしたい儀がある。ここを通していただきたい!」


 有若は肩で息をしながら、精一杯の威厳を込めて名乗った。孔子の名は、魯の国で知らぬ者はいない。その高弟となれば、無碍には扱われないはずだという計算があった。しかし、衛兵たちの反応は冷ややかだった。


「孔丘? ああ、あの物好きの老人か。その弟子が何の用だ」


「私の弟、有申が不当に捕縛された。これは国法に照らしても明らかな誤りである。直ちに家宰殿にお目通り願いたい」


「家宰殿は公務でお疲れだ。貧乏学者の世迷い言を聞く暇などないわ」


 衛兵の一人が、槍の石突で地面を叩いて威嚇した。有若は引かなかった。


「通さぬと言うなら、ここで座り込むまでだ! 天に恥じぬ行いをするのが政治の本義であろう。民を罪に陥れて、何が公務か!」


「うるさい奴だ!」


 苛立った衛兵が、有若の胸を乱暴に突き飛ばした。有若の身体は木の葉のように宙を舞い、背中から泥の中に叩きつけられた。


「ぐっ……」


 肺から空気が押し出され、泥水が口に入った。土の味と、錆びた鉄のような血の味が広がった。


「身の程を知れ。お前のような青二才が吠えたところで、世の中は何一つ変わらんのだ」


 衛兵たちの嘲笑が降ってくる。有若は起き上がろうとしたが、手足に力が入らなかった。絹の深衣は泥にまみれ、見るも無残な姿になっていた。自慢の佩玉も、どこかへ飛んでいってしまったかもしれない。

 冷たい雨が、容赦なく有若の頬を打った。泥の冷たさが、衣を通して肌に染み込んでくる。その冷たさは、有若の熱り立った頭を急速に冷やしていった。


(私は、何をしているのだろう)


 泥の中で、有若は呆然と夜空を見上げた。厚い雲に覆われ、星一つ見えない暗黒の空。彼は自分の言葉の無力さを噛み締めていた。

 「理」や「正義」は、書物の中では光り輝いていた。しかし、現実の権力と暴力の前では、それはあまりにも脆く、空虚な音の羅列に過ぎなかった。私は弟を助けるどころか、門番一人説得できない。孔子に似ていると持て囃され、自分でも何かひとかどの人物になった気でいたが、結局のところ、私はただの無力な若造に過ぎなかったのだ。


 ふと、鼻をつく匂いがした。雨に濡れた土の匂い。それは、かつて自分が弟と共に耕していた、あの畑の匂いと同じだった。

 記憶の中の弟の姿が蘇る。日照りの日も、雨の日も、黙々と鍬を振るう弟。その背中は常に汗と泥にまみれていた。有若が学問を志し、家を離れてからも、弟は一度も不平を言わなかった。


「兄貴は頭がいいからな。家のことは俺に任せて、立派な先生になってくれよ」


 そう言って笑った弟の顔。有若の目から、熱いものが溢れ出した。雨水と混じり合い、耳元へ流れ落ちていく。

 弟は知っていたのだ。土の重さを。種を蒔き、育て、収穫することの難しさを。そして、その収穫があって初めて、兄である自分が机に向かい、高尚な議論にふけることができていたのだということを。


「枝葉……」


 孔子の言葉が、雷鳴のように有若の胸に響いた。お前の正義は、どこに根を張っているのか。

 私は弟という「根」に支えられていた。それなのに、私はその根を踏みつけ、空ばかりを見ていた。「野蛮だ」と弟を蔑み、「教養がない」と見下していた。だが本当に愚かだったのは誰だ。泥の冷たさも、飢えの苦しみも知らず、安全な場所から綺麗事を並べていた自分ではないか。


「すまない……有申……」


 有若は泥水を握りしめた。爪が掌に食い込む。悔しさと、申し訳なさと、情けなさで、胸が張り裂けそうだった。その時、頭上から大きな影が落ちた。


「おい、こんなところで泥遊びか。いい歳をして似合わねえぞ」


 聞き覚えのある野太い声。有若が顔を上げると、そこには子路が立っていた。雨水を防ぐ蓑も着けず、ずぶ濡れのままだが、その姿は岩のように揺るぎなく見えた。


「子路殿……」


「ほらよ」


 子路は何も聞かず、懐から何かを取り出して有若に放った。有若がそれを受け取ると、それは竹の皮に包まれた握り飯だった。まだ温かい。


「先生に言われてな。お前が腹を空かせて倒れてるんじゃないかって。……世話の焼ける弟弟子だ」


 子路は悪態をつきながらも、その手を有若に差し出した。ゴツゴツとした、分厚い掌だった。剣だこがあり、無数の古傷がある。有若はその手を掴んだ。子路の強い力に引き上げられ、ようやく泥の中から立ち上がることができた。


「食え。戦は腹が減ってちゃできねえ」


 促されて、有若は泥のついた手で握り飯を頬張った。塩気だけの素朴な味だった。だが、喉を通った瞬間、胃の腑に熱い塊が落ち、凍えていた身体の芯に火が灯るのを感じた。涙と共に握り飯を飲み込む有若を、子路は見なかったふりをして、衛兵の方へ歩み寄った。

 衛兵たちは再び槍を構えた。


「なんだ貴様は。仲間か」


 子路は槍の穂先など目に入らぬように、堂々と門の前に立った。そして、有若が予想もしなかった行動に出た。あの子路が、膝をついたのだ。泥水の中に、深々と頭を下げた。


「頼む。この通りだ」


 子路の太い声が響いた。


「俺の弟分が、中の牢に入れられている。悪い奴じゃねえんだ。ただ、少しばかり親思いで、不器用なだけでな。どうしても会わせてやってくれとは言わねえ。ただ、寒くないように、古着の一枚でも差し入れてやってくれねえか」


 有若は息を呑んだ。

 あの子路が。天下無双の勇を誇り、君主の前でも媚びることのない子路が、一介の衛兵に頭を下げている。怒鳴り散らすでもなく、暴れるでもなく、ただひたすらに頼み込んでいる。それは「上を犯す」姿ではなかった。だが、いかなる剣幕よりも強く、見る者の心を揺さぶる姿だった。

 衛兵たちは呆気に取られていたが、やがて一人が槍を収めた。


「……あんた、孔門の子路殿だな。その武勇は聞いている」


「武勇なんて今は何の役にも立たねえよ」


 子路は自嘲気味に笑い、なおも頭を下げ続けた。その姿を見て、衛兵の表情が和らいだ。


「……分かった。会わせることはできんが、差し入れくらいなら届けてやろう。家宰殿には内密にな」


「恩に着る」


 子路は立ち上がり、懐から自分の着ていた上着を脱いで差し出した。


「有若、行くぞ」


 子路は戻ってくると、呆然としている有若の背中を叩いた。


「子路殿……なぜ、頭を下げたのですか。あなたは、誰よりも誇り高いはずなのに」


 有若が問うと、子路は夜空を見上げて鼻を鳴らした。


「誇り? そんなもんで有申が温まるなら、いくらでも食わせてやるさ。俺たちが守りたいのは、自分の面子か? それとも大事な人間か? ……先生なら、きっとそうおっしゃるぜ」


 有若は言葉を失った。

 子路は学問の理屈など語らない。だが、彼は「仁」の本質を、身体で知っていた。人を慈しむ心。そのためなら、己を低くすることも厭わない強さ。自分には、それが欠けていた。自分は「正しさ」を守ろうとしていたが、子路は「人」を守ろうとしたのだ。

 二人は並んで雨の中を歩き出した。有若の足取りは、来る時よりも重かったが、その心には確かな光が灯っていた。それは借り物の光ではない。泥の中で掴み取った、小さな種火のような光だった。






 有申が釈放されたのは、それから三日後のことだった。孔子が自ら季孫氏の有力者に手紙を書き、さらに子貢がその弁舌をもって交渉にあたったと聞いた。

 孔子の手紙には、法の是非や政治批判は一言も書かれていなかったという。ただ、「老いた父母が、息子との再会を待ちわびて食を絶っている。孝行息子の過ちを、親の情愛に免じて許してやってはくれまいか」と、切々と綴られていたそうだ。家宰も人の子である。理屈で攻められれば反発するが、情に訴えられれば心が動く。孔子はそこを見抜いていたのだ。

 学堂の門前で、有若は弟の帰りを待っていた。朝霧の中、向こうからやつれた姿の青年が歩いてくるのが見えた。


「有申!」


 有若は駆け出した。君子の歩き方など忘れて、ただの兄として走った。


「兄貴……」


 有申は立ち止まり、驚いたように目を見開いた。その顔は垢にまみれ、頬には殴られたような青痣あおあざがあった。着ている服はボロボロだったが、その肩には子路が差し入れた上着がかけられていた。

 有若は弟の前に立つと、何も言わずにその身体を抱きしめた。土と、微かな血の匂いがした。だが有若には、それが何よりも愛おしい弟の匂いだった。


「すまなかった。本当に、すまなかった」


 有若の口から、せきを切ったように言葉が溢れた。


「俺が愚かだった。お前の苦しみも見ず、偉そうなことばかり言って……。痛かったろう、寒かったろう」


「兄貴……?」


 有申は戸惑っていた。今まで見たこともない兄の姿だった。常に冷静で、見下すような目で自分を見ていた兄が、子供のように泣きじゃくっている。有申の強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。


「……ああ。ひどい目にあったよ。でも、兄貴の握り飯と上着のおかげで、なんとか生きてた」


「あれは、子路殿が……いや、そうだな。俺たちみんなの気持ちだ」


 兄弟は、朝の光の中でしばらく抱き合っていた。言葉による和解など必要なかった。体温と体温が触れ合うことで、二人の間にあった氷の壁は、春の雪解け水のように消え去っていた。

 それからの有若の生活は一変した。彼は学堂に通う日を減らし、実家の畑に出るようになった。絹の深衣を脱ぎ捨て、麻の短衣を着て、裸足で土を踏みしめる。最初は慣れない農作業に戸惑った。鍬は重く、すぐに手の皮が剥けた。腰は痛み、泥が爪の間に入り込んで取れない。だが、有若はそれを苦痛とは思わなかった。


「腰が入ってねえぞ、兄貴」


 有申が笑いながら指導する。


「もっと膝を使うんだよ。天下の秀才様も、鍬を持たせりゃあ危なっかしくて見てられねえな」


 弟の言葉には、以前のような棘はなかった。そこにあるのは、同じ苦労を分かち合う者同士の親愛の情だった。

 土を耕し、種を蒔く。小さな種が、暗い土の中で根を張り、やがて芽を出す。その過程を肌で感じるうちに、有若の中で抽象的だった「仁」や「徳」という概念が、具体的な形を持って結びつき始めた。


(ああ、こういうことか)


 ある日の夕暮れ、畑仕事の合間に有若は汗を拭いながら思った。植物は、根がしっかりしていなければ育たない。人間も同じだ。最も身近な存在である親や兄弟。その関係という土壌が豊かでなければ、他人への思いやりなど育つはずがない。

 自分は今まで、根のないところに花を咲かせようとしていた。「国を治める」とか「天下を平らかにする」とか、大きなことばかりを論じていたが、隣にいる弟一人愛せずに、どうして万民を愛せようか。

 家に戻れば、老いた両親が粥を炊いて待っている。


「お帰り。二人とも、よく働いたねえ」


 母の笑顔。父の安堵した表情。囲炉裏を囲み、薄い粥をすするだけの夕時。だが、そこには以前には感じられなかった、温かな調和があった。これが「和」ということか。有若は、粥の湯気の向こうに、孔子の教えの真髄を見た気がした。

 季節は巡り、冬が去り、また春が来た。有若の顔からは、かつてのような神経質な険しさが消え、日焼けした肌には穏やかな強さが宿っていた。人々は再び、彼を見て「孔子様に似ている」と囁いた。だが今度は、失望の色はなかった。容貌だけでなく、その身から放たれる雰囲気そのものが、どこか孔子に通じる深みを帯び始めていたからだ。

 ある日の講義の後、若い弟子たちが議論を戦わせていた。テーマは「悪政に対する抵抗」についてだった。


「暴君に対しては、武力を持ってでも討つのが正義ではないか」


 血気盛んな若者が主張する。


「いや、あくまで諫言によって正すべきだ」


 別の者が反論する。議論は熱を帯び、殺伐とした空気が漂い始めた。有若は、黙ってそれを聞いていたが、ふと一人の若者がこちらを向いた。


「有若先生はどう思われますか。先生なら、理不尽なお上に対してどう立ち向かわれますか」


 その若者の目は、かつての有若と同じように、正義への渇望と功名心でギラギラと輝いていた。有若は静かに微笑んだ。彼は庭の、春の光を浴びて青々と葉を茂らせる若木に目をやった。その木の下では、根が静かに、しかし力強く大地を掴んでいるはずだ。


「君子は何事も基礎を大切にするものだ」


 有若は、ゆっくりと語り出した。その声は低く、落ち着いていたが、弟子たちの心の奥底に染み渡るような響きを持っていた。


「基礎がしっかりして初めて、進むべき道が見えてくる。いきなり枝葉を広げようとしてはならない」


「基礎、ですか」


「そうだ。家にあって父母に孝を尽くし、兄弟と仲良くすること。自分を支えてくれている根っこを大切にすることだ。それができれば、あえて争いを好むような心は生まれないものだ」


 有若は、かつての嵐の夜、泥の中で掴んだ子路の手の温もりを思い出していた。そして、弟と共に流した汗の尊さを。上を犯すことを好む者は、たいてい自分の足元が見えていない。自分の正しさに酔い、他者への愛を忘れている。だが、根を持つ者は強い。風雪に耐え、倒れてもまた起き上がるしなやかさを持つ。


「孝弟なる者は、其れ仁の本たるか」


 有若の言葉が風に乗って流れた。弟子たちは黙り込み、それぞれの心の中でその言葉を反芻していた。かつては机上の空論だと思えたその言葉が、今の有若の口から出ると、大地のような重みと、春の日差しのような温かさを持って彼らを包み込んだ。

 有若は空を見上げた。青い空には白い雲が浮かんでいる。あの時見上げた絶望的な闇はもうない。孔子に似ていると言われることは、もはや重荷ではなかった。彼は有若として、自分の根を張り、自分の花を咲かせればよいのだと知っていたからだ。

 庭の若木が、風にそよいでいた。それはまるで、有若の成長を祝福するように、静かに、しかし力強く揺れていた。

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