子貢(3) - 招かれざる客
顔回との対話から三日が過ぎた。春の長雨は止む気配を見せず、孔子の学堂を囲む土塀は吸い込んだ湿気で黒ずんで見えた。
子貢は庭の片隅で眉間に皺を寄せていた。雨漏りの音が気になって講義に集中できないからではない。彼はこの学堂のあまりの貧しさに改めて辟易していたのだ。
衛の都、帝丘にいた頃の彼の屋敷は磨き抜かれた床と、華やかな香の香りが漂う空間であった。雨音さえも風流な音色となるような堅牢で美しい建物だった。だがここはどうか。雨はただの冷たい水であり、湿気は書簡を痛める敵でしかない。
(環境は人を造る。このような荒んだ場所にいて、どうして高潔な精神が養えようか)
子貢がそんな不満を噛み殺していた時、門の外で馬のいななきが聞こえた。それも駄馬のか細い声ではない。良質の飼葉を食んでいる軍馬のような、太く力強い嘶きだ。
続いて車輪が泥を跳ね上げる音がし、門扉が乱暴に叩かれた。
「頼もう! 衛の子貢は居るか!」
聞き覚えのある野太い声だった。子貢の背筋に冷たいものが走った。子路が不機嫌そうに出て行こうとするのを、子貢は慌てて制した。
「私が参ります。…知人です」
門を開けると、そこにいたのは豪奢な馬車と数人の従者を従えた男だった。身にまとうのは目の覚めるような朱色の絹。首にはいくつもの玉飾りを下げ、指には黄金の輪が光っている。
かつての子貢の商売敵であり、時には協力者でもあった豪商、陶という者であった。
「おお、やはりここに居たか! 子貢よ、探したぞ」
陶は子貢の姿を認めるや親しげに肩を叩いた。その手からは安息香の匂いと、脂ぎった生活の熱気が漂ってきた。
「陶か…。なぜここに」
「商用で魯に来たのだ。お前が奇妙な世捨て人の弟子になったと聞いてな。まさかとは思ったが、こんなあばら家に居るとは」
陶は侮蔑を隠そうともせずに学堂を見回した。
「どうだ、子貢。冗談はこれくらいにして衛へ戻らんか。今、南方の絹が高騰している。お前の鑑識眼があれば巨万の富が積めるぞ」
子貢は顔から火が出るような思いだった。
かつては自分もこの陶と同じ世界にいた。いや才覚においては陶よりも上だった。だが今、自分は泥に汚れた麻の服を着て雨漏りする小屋に住んでいる。陶の目には自分が「敗残者」として映っている。それが耐えがたかった。
「私は今、道を学んでいるのだ。商売とは違う、天下を治める大道を…」
子貢は精一杯、胸を張って言った。言葉を選び威厳を保とうとした。
だが陶は鼻で笑った。
「道? 腹の膨れぬ道に何の意味がある。……まあよい。せっかく遠方より来たのだ。その高名な孔丘とかいう先生にも挨拶させてもらおうか」
子貢は拒みたかった。この俗物を師に合わせたくなかった。それは師のためというより、師の貧しい姿をこれ以上見られて自分の選択を嘲笑されたくなかったからだ。しかし騒ぎを聞きつけたのか、奥から孔子が静かに現れた。
「子貢よ。遠方からの客人を門前に立たせておくものではないよ」
孔子の衣は古びていたが、その立ち居振る舞いには陶の装飾品を圧倒する静けさがあった。
陶は孔子を前にしても商人の厚かましさを崩さなかった。
「あんたが孔丘先生か。俺は衛の陶だ。子貢の友人でな」
陶は土足で上がり込みそうな勢いであったが、孔子の周囲にある見えない結界のような空気に気圧され、敷居の手前で足を止めた。
「ようこそ。狭いところだが雨宿りしていくとよい」
孔子は穏やかに言い、顔回に目配せをした。顔回は心得て奥へ引っ込んだ。
子貢は気が気ではなかった。
(何を出すつもりだ。茶葉などない。酒もない。出すものなど何もないではないか)
陶は敷かれていた筵の粗末さに顔をしかめながら座り、孔子に向かって言った。
「先生とやら。あんたも罪な人だ。子貢のような稀代の商才を持つ男を、こんな掃き溜めに閉じ込めておくなんて。これは世間にとっても損失だと思わんかね」
子貢は凍りついた。
「陶、言葉を慎め!」
「本当のことだろう? 見ろ、この惨めな暮らしを。子貢、お前は騙されているんだよ。道徳だの仁だのと言っても、結局は貧乏人の言い訳に過ぎん」
陶の言葉は粗野で無礼で浅はかだった。だが子貢の腹の底にある澱を無神経にかき回す言葉でもあった。子貢自身が夜ごとに自問していた疑念そのものだったからだ。
孔子は陶の暴言にも微笑を崩さなかった。
「富と貴きとは、これ人の欲する所なり。その道をもってせざれば、これを得とも処らざるなり」
「はあ? 何だって?」
「正しい方法で得た富でなければ、そこに安住することはできないと言っているのだよ」
「はん、負け惜しみを。俺の富は俺の才覚で稼いだ正当なものだ」
その時、顔回が戻ってきた。手には欠けた土器が二つ。中に入っているのはただの白湯であった。顔回はそれを恭しく陶の前に置いた。
「粗末なものですが喉を潤してください」
陶は器の中を覗き込み、呆れ果てたように言った。
「おいおい、茶の一杯も出ないのか。衛の子貢の友人が来たというのに、白湯だと?」
子貢は穴があったら入りたかった。恥ずかしさで顔が熱い。顔回が憎らしかった。なぜ気を利かせて近所の家から酒を借りてこないのか。これでは自分が陶に見下されるのも当然ではないか。
「申し訳ない、陶。あいにく切らしていて……」
子貢が言い訳をしようとした時、顔回が静かに言った。
「この水は裏の井戸から汲んだものです。雨の後で少し濁っていますが、時間を置いて沈殿させ上澄みだけを掬いました。天からの恵みです」
顔回の態度は王侯に美酒を献上するかのように堂々としていた。彼にとってこの白湯は恥ずべきものでも何でもなかったのだ。
陶は鼻を鳴らし、一口だけ啜るとすぐに器を置いた。
「味がしねえな。……まあいい。子貢、気が変わったら衛に来い。いつでも歓迎するぞ」
陶は立ち上がり、懐から金貨を数枚取り出すと無造作に筵の上に放り投げた。
「せめてもの手向けだ。これで美味いものでも食え」
チャリ、と音がした。その音は子貢の矜持を粉々に砕く音だった。
陶は高笑いを残して去っていった。馬車の音が遠ざかるまで子貢は身動き一つできなかった。
足元には金貨が転がっている。それはかつて彼が愛し、追い求めた輝きだった。だが今はそれが汚物のように見えた。
「無礼な奴だ!」
沈黙を破ったのは子路だった。子路は金貨を拾い上げ、外へ投げ捨てようとした。
「待ちなさい、子路」
孔子が止めた。
「彼には彼の礼があったのだ。受け取っておきなさい」
「先生! あんな侮辱を受けて黙っているのですか!」
子貢は叫んだ。子路ではなく、自分が叫んでいた。
「あいつは私たちを乞食扱いしたのです! 先生の教えを、貧乏人の負け惜しみだと嘲笑ったのです! 悔しくはないのですか!」
子貢の目には涙が滲んでいた。それは師への忠誠心からではない。自分の選んだ道がかつての同類に踏みにじられたことへの、自分自身への悔しさだった。
孔子は子貢を見つめた。その目は春の雨上がりのように静かだった。
「子貢よ。お前が怒っているのは、彼が無礼だったからか。それとも彼がお前の心の迷いを見透かしたからか」
子貢は息を呑んだ。
「お前は恥じたね。このあばら家を、顔回の出した白湯を、そして私の古びた衣を。かつての友人に今の自分の境遇を見られることを恥じた」
図星だった。
「人知らずして慍らず。…子貢よ、お前はまだ人に知られることを求めている。陶という男の秤で自分を量っている」
孔子は金貨を拾い上げ、子貢の手に握らせた。
「この金貨に罪はない。だがこれを見て心が波立つなら、お前はまだこの金貨の持ち主と同じ場所にいるということだ」
子貢は掌にある冷たい金属の感触に震えた。
陶と同じ場所。
そうだ。自分は陶を軽蔑しながら、心の底では陶の持つ豊かさを羨んでいた。だから彼に見下されたことが許せなかったのだ。もし自分が本当に道を信じ、この清貧を誇りに思っていたなら、陶の哀れみなど笑って受け流せただろう。顔回のように。
ふと見ると、顔回は陶が残していった白湯を大事そうに啜っていた。以前の子貢ならその姿を憐憫の情を以て見ていたはずだ。ましてや自分が飲むなど論外でもってのほかだった。
「……美味しいですか、顔回」
子貢が尋ねると顔回は不思議そうな顔をした。
「はい。喉が渇いていましたから。水は渇きを癒やすためにあるのでしょう?」
単純な事実。水は茶会で見栄を張るための道具ではない。命を潤すためのものだ。
顔回はその本質だけを見ていた。だから陶の言葉など彼の耳には届いていなかったのだ。
子貢は握りしめていた金貨を見た。それはただの金属の塊だった。市場に行けば物と交換できる便利な道具。それ以上でも以下でもない。
「先生」
子貢の声は震えていた。
「私は…私はまだこの金貨が輝いて見えます。陶の馬車が羨ましく思えます。悔しいですがそれが私の偽らざる本心です」
子貢は正直に認めた。虚勢を張ることをやめた。
孔子は嬉しそうに目を細めた。
「それで良い。自分の現在地を知ること。それが学びの第一歩だ。泥の中に足を取られていると知って初めて、そこから足を抜くことができる」
孔子は立ち上がり、庭に出た。雨は上がり、雲の切れ間から夕日が差し込んでいた。濡れた庭木が光を受けて輝いている。
「雨が降れば泥ができる。だがその泥がなければ草木は育たない。子貢よ、お前のその迷いや俗世への執着もまた、お前という大樹を育てる泥なのだよ」
子貢は夕日に照らされた孔子の背中を見つめた。そして隣に立つ顔回を見た。顔回は泥だらけの庭を愛おしそうに眺めている。
子貢は手の中の金貨を懐にしまった。これを捨てるのは簡単だ。だがそれではただの逃避になる。彼はこの金貨を持ったまま、それでも「これを得とも処らざる」境地を目指さねばならない。
商人の心を持ったまま君子になる。
それは顔回のように純粋に生きるよりも、遥かに険しく困難な道に思えた。
「友あり遠方より来る」
子貢は呟いた。陶は子貢に恥をかかせるために来たのではない。子貢の中に残っている「陶と同じ部分」を映し出すために、わざわざ遠方より来てくれたのだ。
そう思えた時、子貢の胸のつかえが少しだけ取れたような気がした。
「顔回」
「はい」
「その白湯、私にもくれないか。……喉が渇いて仕方がないんだ」
顔回は微笑み、自分の器を差し出した。
子貢が口にしたその水は確かに泥臭く、微かに土の味がした。だがそれは衛の屋敷で飲んだどんな高級な茶よりも、身体の芯に染み渡るような確かな命の味がした。




