子貢(1) - 春泥
衛の都、帝丘を抜ける街道は春の雪解け水でぬかるんでいた。
子貢は馬車の幌を少しだけ上げ、外の景色を眺めた。轍に足を取られながら歩く人々の姿がある。彼は無意識のうちに自分の着ている絹の深衣の裾を気にした。泥は嫌いだった。それは単に汚れるからというだけではない。秩序が乱れ、美しさが損なわれることへの生理的な忌避感であった。
彼は若くして富を得た。物の価値を見抜く目と、人の心を動かす言葉を持っていたからだ。市場において安く仕入れて高く売ることは造作もない。だが倉に金銀が満ちるにつれ、彼は言いようのない渇きを覚えるようになった。金で買える物はすべて手に入れた。次に彼が欲したのは、金銭よりも永続し、より多くの人を動かす力だった。
それが名声であり、人を治める術であった。
魯の孔丘という人物の名は風の便りに聞いていた。仁を説き、礼を正す。その教えは古臭いようでいて、乱世において異彩を放っているという。
(素晴らしい商品は、良き商人が扱ってこそ輝くものだ)
子貢の心にはそんな自負があった。彼は決して孔子を利用しようなどという悪意を持っていたわけではない。彼にとって孔子という人物は、まだ誰も価値に気づいていない原石のように思えたのだ。自分の才覚と財力をもってすれば、この不遇の賢人を世に出し、それによって自分自身も天下に名を成すことができる。それは彼なりの善意と打算が混じり合った、完璧な取引に見えた。
魯の国に入り、孔子の住まいを訪ねた時、子貢は背筋が伸びるような思いがした。
門は雨風に晒され古びてはいたが、驚くほど清潔に掃き清められていた。庭には一本の雑草もなく、踏み固められた土には箒の目が清々しく残っている。そこには華美な装飾こそないものの、主人の内面を映し出すような凛とした秩序があった。
「どなたかな」
出てきたのは色の浅黒い、熊のような大男であった。子路である。その身なりは粗末で、腰には実用一点張りの剣を帯びている。子貢はあらかじめ用意していた洗練された所作で礼をした。
「衛の子貢と申します。夫子の徳を慕い、教えを請いに参りました」
丁寧で隙のない挨拶であった。子路は太い眉をひそめ、子貢を値踏みするようにじろじろと見た。その無遠慮な視線に、子貢は内心で眉をひそめたが、顔には穏やかな微笑を貼り付けたまま微動だにしなかった。
「先生への客か。まあ、入れ」
案内された堂内もまた、薄暗く質素であった。しかし不思議と埃っぽさはなく、使い込まれた古木のような静謐な空気が漂っていた。物が少ないのではない。必要なものが必要な場所にあり、それ以外の一切が削ぎ落とされているのだ。
その奥に、一人の老人が座っていた。孔子であった。
子貢が想像していたような、鋭い眼光を放つ威圧的な人物ではなかった。どこにでもいる好々爺のように見えた。だがその瞳は深く、静かな湖面のように全てを映し出しながら、何も語らないような不思議な深みを湛えていた。
「学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや」
入門して最初の日、孔子は穏やかな声でそう語った。
「学んだことを、時をおいて復習し、身につける。それは悦ばしいことではないか」
子貢は行儀よく座りながら、心の中で首を傾げていた。
(それは当然のことだ)
彼は商売において市場の動向を学び、それを実践で試してきた。成功すれば利益が出る。利益が出れば悦ばしい。その因果関係は明白である。先生はなぜ、今さらそのような分かりきったことを、さも深遠な真理のように語るのだろうか。
それからの日々、子貢は困惑の中にいた。孔子の教えは高尚だが、現実の利益には直結しないように思えた。敏腕の商人であった子貢にとって、成果の出ない事に身を置くことは苦痛以外の何物でもない。
「なぜ私はここにいるのだろう」
夜ごと彼は自問した。損切りをして衛に帰るべきではないか。だが彼は去らなかった。
それは孔子という人物の底が見えなかったからだ。商人としてあらゆる人間の値踏みをしてきた子貢だが、孔子の価値だけはどうしても測ることができなかった。この老人には、自分の計算尺では測れない何かがある。それを見極め、自分のものにするまでは帰れないという意地が、彼をこの場所に留まらせていた。




