星の見えない闇夜の下から
雲一つなく晴れ渡った青空の下、手入れの行き届いた庭園の一角に置かれた白く丸いテーブルに向かい合い、四人の女性が座っていた。年頃といっても成人するかしないかぐらいの年齢に見え、まだほんの少しあどけなさが残っていた。
テーブルの上にはハーブティーが注がれたティーカップ、焼き菓子が乗せられた上品なお皿があり、午後を少し回ったお嬢様方の優雅なお茶会であった。
そんな中、一人の女性がティーカップを置き、他の参加者の一人の方を見て、新たな話題を投げかけた。
「それにしても、フローラ様の身につけていらっしゃるドレスはとても素敵ですわね。もしかして、パリから取り寄せた品だったりするのかしら」
フローラと呼ばれた女性は、カップを置き、話しかけられた相手の方を見て、優しく微笑んだ。髪の色は、淡いカーネーションを思わせる柔らかな赤みを帯びており、可憐な花を連想させた。幼さを感じさせる顔立ちも相まって、まだまだ女性というよりも少女と思わせる雰囲気を漂わせていた。
そして、褒められたドレスは、ロンドンの流行よりも半歩または一歩先を行くような華やかさと、ボタンが星の形をしているなど個性的な印象を見る者に与えた。
フローラは気品のある笑顔をその人に向けた。
「ありがとうございます。ただ、これは私自身が仕立てたものなのですよ」
褒められたことに素直に喜び、笑顔を返す。
「まぁ、ご自身でと言いますと、デザインからなされたのでしょうか?」
「ええ、それに裁断から裁縫まですべてですね」
他の参加者からも感嘆の声が上がる。
貴族の女性で自らが裁縫をおこなうということは稀ではあった。
「私、幼少の頃から裁縫が趣味でして、お母様から教えて頂いたのです」
フローラはあまり自慢げにならないように自制しながら、それでも自分が自分である証しを示した。
「とても素晴らしいですわ!」
皆々から賞賛の声が上がる。ここに座る女性達はそこまで高い爵位の家柄ではない。フローラの家は準男爵、他もせいぜいが男爵家である。これが伯爵家の女性達であれば、なぜそのような下々がする行為を趣味にされるのかと、いぶかしんだかもしれない。
女性達はそのあとも、さまざまな最近あった出来事などを話題にしながら午後のひとときを楽しんでいた。
フローラにとっては、たまに顔を合わせる友達ではあったが、親友と呼べるほど深い付き合いでもなかった。フローラは心に浮かび上がった、たった一人の親友の顔を思い浮かべた。そして、その親友へのある懸念を思い出し、その場を話題に上げた。
「ところで皆様方」
少し神妙なそのフローラの声に、他の参加者が彼女の方を向く。フローラは話し続けてもいい雰囲気だと判断し、話を続けた。
「エインズワース男爵家のシャル……シャーロット様のことをどなたかご存じでいらっしゃいませんでしょうか?ここ最近、見かけることがなくなりまして」
フローラ以外の三人は顔を見合わせたり、少し首をかしげたりしていた。ただ、その中の一人がフローラの方を向いて、ためらいがちに話し始める。
「これは聞いた話なので確実かどうかは分からないのですけども」
「ええ、お話を続けて頂けますか」
その女性はうなづいて続けた。
「シャーロット=エインズワース様、私も何度かお話しさせて頂いたことはありますわ。そのエインズワース男爵家なのですが、あちこちからお金を借りていたそうで、それでもう手が回らなくなり、爵位を売り渡したといったことを聞きましたわ」
他の女性から「まぁ……」といった小さな驚きの声が上がる。しかし、この貴族社会の下位層ではそこまで珍しい話でもなかった。フローラのキングスレイ準男爵家の爵位も、彼女の祖父が金で買ったものであった。
「そうでしたか……お話しして頂いてありがとうございます」
フローラの表情にやや暗さが表れていたが、微笑んで感謝を伝えた。
「いえ、そんなことは……お気になさらないでね」
その女性はフローラとそのシャーロットとの間に親交があったことを感じ、フローラのことをおもんぱかって優しく返事をした。
(シャル……今はどこで何をしているのでしょうか)
フローラの心の中に不安と焦燥感が広がっていった。
フローラは帰りの馬車の中で、窓の外を見ながら気分は深く沈み込んでいた。シャルに会いたい。なんとかしてシャルを探せないか。そのような思考が繰り返されていた。
馬車の中にはもう一人、フローラの父ヘンリー=キングスレイが彼女の斜め向かいに座っていた。ヘンリーもフローラとは反対側の窓の外を見ながら考えにふけっているようだった。親子はお互いに会話することもなく、気にも止めていないようだった。
フローラは窓の外の流れる景色を眺めている。
(ああ、シャル……会いたいわ)
その願いにも似た感情がフローラの心の中を染めていたとき、馬車の進む先の方に、大きな荷台を取り付けた馬車と、その前に並ばされて立っているみすぼらしい服を身につけた十数人ほどの集団がフローラの視界に入った。
(ああ……これは噂に聞く植民地から連れてこられた人達かしら)
この大航海時代、各地から奴隷が集められ、商人が売買する商品そのものだった。多くは植民地からだったが、貧民層からも流入することがあった。
フローラの馬車がその横を通り過ぎようとしたとき、その奴隷達の中に、まだ子供にも見えるほどの少し小さな女の子が目にとまった。髪の色はブロンドで、肩程までに伸びており、顔立ちは可愛らしく、瞳は深い紫色がかっており、それはフローラが記憶に残るシャルそのものだった。
(シャル!?い、いえ、こんなところにいるなんて。シャルのことを考えすぎて、私は幻を見ているのでしょうか)
粗末な服装ではあったが、フローラの中で次第に確信が深まっていき、即座に行動に移した。
「御者!馬車を止めなさい!すぐに!」
大きく張り上げられた声に、向かいに座るヘンリーが驚いた顔でフローラを見る。
御者もすぐに気づき、慌てて手綱を引き馬車を止めた。
フローラは馬車が完全に止まらないうちに自らの手でドアを開き、大通りに出た。そして、まっすぐシャルと思われる女の子に向かって駆け出していった。
フローラはその少女に駆け寄り、まばたきもせずにその顔を必死で見た。
「シャル!あなたシャルよね?!」
虚ろだったシャルの目がフローラの顔に引き寄せられる。次第にその表情は驚きに変わり、そして瞳に涙を浮かべた。
「フローラ……フローラぁ……」
ただ名前だけを呼び、瞳からは涙が流れ始めた。
「シャル!」
フローラもそれ以上何も言わず、ただシャルを強く抱きしめた。
フローラの父ヘンリーも馬車を降り、娘の元にゆっくりと駆けつけた。娘の突拍子もない言動は今に始まったことではなく、何度も繰り返されてきたので慣れてはいたが、それでも辟易した表情で近づいていった。
「フローラ、これは何事だ?」
ヘンリーは問いただした。
フローラはその声に気づき、抱きしめていたシャルから一度、体を離し、振り返って口を開いた。
「お父様、お願いがあります!このシャルを助けて下さい!」
娘が明確な願望を口にするのは珍しく、ヘンリーは驚いた。そして、周りを見渡した。大きな荷台を付けた馬車と、馬の側にいる商人のような格好をした男、みすぼらしくて汚く嫌な臭いを漂わせた奴隷達、そしてその中にいる少女。
(シャル?……シャーロット、そうか、見覚えがある。この子はエインズワース男爵家の娘か)
ヘンリーは即座に状況を把握した。そして、エインズワース家の噂話も思い出していた。
(娘までも売り飛ばしたのか。……とうとう家が持たなかったか)
ヘンリーは、フローラに抱きしめられている少女に、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
フローラは嘆願を続ける。
「お父様、私の次の誕生日には何もプレゼントは要りません。ですから、シャルを私に下さいませ!」
その必死の叫び声にも近い願いにヘンリーは、
(ああ、これは折れそうにもないな)
と、半ばあきらめていた。そして、周りには大通りを往来する、従者を伴って歩く者や、立派な馬車を停めている者の姿も見えた。この通りは、貴族達の屋敷が建ち並ぶ辺りへと続く道でもあった。
(こんなところで、私が恥をかくわけにはいかないな)
そう思い、ヘンリーは奴隷商人だと思われる男に顔だけ向けた。
「おい、そこの商人。この娘を買うことは出来るか?」
そう問いただした。商人は頭を少し下げて、うやうやしい態度を取った。
「へ、へい。まだ買い取ったばかりで、売り先は見つけておりませんので、この場ででも」
そう答えた。
「それで、いくらだ?」
商人はヘンリーにゆっくり近づき、小声で金額を告げた。
ヘンリーの眉が少し跳ねる。
(こいつ、こちらが貴族だと思って足元を見ていないか?)
そう思ったが、こんな大通りで小商人相手に値段交渉するのはプライドが許さなかった。
「分かった、買おう」
その即決に、男の表情はみるみるうちに商人らしい笑顔に変わっていった。
「ありがとうございやす!」
ヘンリーは自分の服の襟を正し、周りに聞こえるぐらいの大きな声で告げる。
「キングスレイ家の当主だ。あとで代金を屋敷へ取りに来い」
「へ、へいっ」
商人は深く頭を下げた。大きな金額が即決で入ってきたことがそんなに嬉しかったのか興奮気味で、腰にかけていた鍵を取り外そうとして地面に落として拾ったり、せわしない様子だったが、シャルに近づいて、足に取り付けられていた鉄製の足かせを外した。
「ほら、いけっ」
そういって軽くシャルの背中を叩いた。
前のめりに倒れそうになったシャルをフローラは引き寄せた。
「シャル!シャル!私のシャル!」
涙を流しながら力強く抱きしめた。
「フローラ!フローラぁ!」
シャルも同じように涙を流し抱き返した。
しばらく抱き合ったあと、フローラが父ヘンリーの方を向き、
「お父様!ありがとうございます!」
めったに娘から感謝の言葉を言われたことがなく、途惑いを見せたが、
「娘の誕生日プレゼントにしては安いものだ」
そう気取った様子で答えた。
フローラ達が屋敷に戻ってきたとき、父ヘンリーがシャルの粗末な衣類や、その服や体から漂わせる臭いについて小言を言い始めた。
「その姿で玄関から通すのは……」
そう言いかけた声を遮って、フローラは、
「それでしたら、私がシャルを綺麗にして差し上げますわ。シャル、行きましょう」
そう言ってシャルの手を引き、玄関を通らず館の裏へ回っていった。
もうヘンリーは何も言う気が起きなかった。
フローラはシャルを連れて屋敷の裏口から入った。近くにいた使用人に、すぐにお湯を用意するように指示した。
フローラ達は風呂場に行き、しばらく待っていると、使用人達が沸かしたお湯を入れた銅桶を持ってきて浴槽に注いでいく。何度かの往来で浴槽には十分なお湯が張られた。
メイド服を着た使用人がやってきて、いつものようにフローラの髪の毛を洗うものと思い準備をしようとしたが、フローラが断った。
「今日はこの子の髪を私が洗ってあげるのです」
堂々と断言したことにメイドは特に反論することもなく、静かに頭を下げ立ち去った。
「さあ、シャル。一緒にお風呂に入りましょう」
シャルは最初戸惑ったが、じれたフローラはシャルの服を半ば強引に脱がし、自らも服を脱いで風呂場にシャルを連れて入った。
フローラはお湯をシャルと自分とにかけて軽く流したあと、香草入りの石鹸を使い、シャルの髪の毛を優しく洗い、汚れを流していった。
そのあと、体も洗い、二人で並んで湯船に浸かった。
フローラはシャルの方を向き、
「これからはずっと一緒だよ。安心してね」
と、微笑みながら伝えた。
シャルは終始恥ずかしさで顔を赤くしながら口数は少なかったが、
「うん、ありがとう、フローラ。一生、感謝します。ずっと、ずっと……」
シャルも微笑み返した。
シャルはメイド見習いとして雇われることになった。掃除や洗濯など一通りの仕事をさせてみたところ、料理に最も才能を発揮したので、フローラ付きのメイド兼厨房手伝いに収まることになった。料理長は、
「この子は手先が器用で、何よりも鼻が効き、細かな味の違いも分かってる」
と、褒めていた。
フローラは時間が合うときにはシャルとお話をしたり、また毎日ではなかったが、夜に自室に呼んで一緒のベッドで眠ることもあった。
周りの使用人からは仲のいい姉妹のように微笑ましく見守られていたし、フローラの父はもう気にも止めておらず、母も日々楽しそうに過ごす娘の姿に目を細めていた。
それからフローラとシャルの幸福な日々は続き、フローラは20歳の誕生日を迎え、いくつかの季節が過ぎていった。
ある日の夜、いつもは用事や付き合いで出かけていることが多かった父ヘンリーが、珍しく屋敷に戻っており、両親と娘の三人がそろう晩餐となった。
日頃はフローラと母エレノアの二人で食事することが多く、裁縫という共通の趣味もあって、楽しく談笑しながらの食事が続いていた。だが、三人がそろう夜は、ほとんど会話らしい会話は交わされなかった。
ただ、わずかに皿に当たるフォークとナイフの音だけが、静まり返った広間に響いた。
この親子達の後方には、メイドや使用人達が立って控えていた。息が詰まりそうな沈黙の中で、シャルもまた、他の使用人達と同じように表情をこわばらせていた。
おのおのが静かに食事を進めていく中で、父ヘンリーが言葉を発した。
「フローラの縁談がまとまったぞ」
フローラとエレノアの手が止まり、ほぼ同時に顔を上げてヘンリーの顔を見た。
ヘンリーはフォークに刺したものを口に運び、静かに飲み下したあと、二人の視線に気づき顔を上げた。
「相手は、リチャード=ハリントン伯爵様だ」
それだけ付け加えた。
エレノアは少し思い出すそぶりを見せてから、口を開いた。
「ハリントン伯爵はもう既にご婦人がいらっしゃったと思うのですが」
「ああ、しかし、もうずっと子供に恵まれなかった」
エレノアは思わず眉をわずかに釣り上げた。
「……フローラを第二夫人として差し出すおつもりですか?」
ヘンリーも不愉快そうな表情を浮かべた。
「差し出すなどと……相手は伯爵様だぞ。これほど名誉なことはない」
わずかな間、二人の視線はぶつかり合っていたが、エレノアの方が先に視線を落とした。
「申し訳ありません。出過ぎたことを言いました」
ヘンリーは不快そうに少しだけ鼻を鳴らし、それ以上は取り合わず、食事を再開した。
その間も当事者であるフローラは何も口を挟むことはなかった。
ヘンリーが食事を終え、
「残務があるので先に部屋に戻る」
そう言い残し、ヘンリーは自分の私室へと向かった。
そして、フローラは食事を半分以上残したまま、
「すみません、お母様。先に戻らせて頂きます」
と、謝罪を述べて出ていった。慌てて、シャルが後ろから付いていった。
エレノアは、かける声を選べないまま娘の背中を見送った。
それからしばらく経ち、フローラとハリントン伯爵が初めて対面する日程が決まった。
フローラに着せる新たなドレスを仕立てるなど、キングスレイ家の中は慌ただしく動いていった。そして、その日の朝を迎えた。
メイド達に新しいドレスを着せらて、化粧を施され、ネックレスを首からかけられる。メイド達からは、
「フローラ様、とてもお美しいですわ」
と、賞賛の声がかけられた。ただ一人、シャルを除いては。
フローラは鏡に写る自分の姿を見た。自らが作り上げたものではない衣装を着せられ、いつもとは異なる化粧が顔に貼り付き、その姿は自分ではない人形のように思えた。
準備が整い、一人のメイドに先導されたフローラは、玄関の広間に到着した。
そこには既に父ヘンリーと、見送る執事や使用人達、そして母エレノアもいた。
フローラを見たヘンリーは、
「ふむ、これなら伯爵様も気に入っていただけるだろう」
と、感想を述べた。
「よし、行こうか」
そういってヘンリーは玄関の扉に向かった。執事や使用人達が頭を下げる。
エレノアは心配そうにフローラを見つめていたが、母の方から声をかけられずにいた。
フローラはエレノアの方に体を向け、表情は冷たく凍り付いたままで、
「それでは、お母様。行って参ります」
そういつもの挨拶をして、父の後に続いた。
馬車の中では、父ヘンリーの斜め向かいにフローラは座っていた。その隣には、付き人として帯同することが許されたシャルがいた。
ヘンリーは上機嫌で笑顔を絶やさなかった。主のこのような表情を見るのは、シャルには初めてのことだった。
フローラはうつむきがちで、顔からは何の感情も読み取れなかった。その冷たさに、シャルは不安を覚えた。シャルは、フローラの手の上にそっと乗せていた小さな手を、少しだけ強めて握った。それでもフローラは何も反応を示さなかった。
馬車がハリントン伯爵邸に到着した。御者が静かに馬車のドアを開け、ヘンリーが降り立つ。続けて、フローラとお付きのシャルも外に出た。
邸宅の門構えはキングスレイ家のそれよりもはるかに大きかった。門が開かれ、使用人に先導され、石畳の道を進む。
その先に石造りの噴水が見えた。
「これは立派だな」
ヘンリーが感嘆の声を上げた。後ろに続くフローラの目にも映ったが、何の感慨もなさそうにその横を通り過ぎた。
近づくほどに威厳を感じさせる大きな屋敷が見えてきた。扉の前に辿り着くと、開かれ、ヘンリー達は中に招かれた。
ヘンリー達は応接間へと通された。そこには刺繍が施された豪華なソファに、伯爵とその夫人が座っていた。
「よく来た。キングスレイ準男爵」
にこやかだが、その男からは品格と風格を感じさせた。
ヘンリーは深く頭を下げ、持って回った挨拶を述べた。
伯爵はそれを最後まで聞くと、穏やかに口を開いた。
「さあ、まずは座ってくれ」
そう促され、ヘンリーは伯爵達に向かい合うようにソファに腰掛け、フローラもその隣りにならった。シャルは後方にしりぞき、立ったまま待機した。
伯爵はフローラを頭の上から下へ軽く視線を流し、ヘンリーの方を見た。
「聞いていたとおり、健康そうな娘ではないか」
ヘンリーは軽く頭を下げ、
「はい、我が娘は幼少の頃から大きな病気もすることなく育ちました」
伯爵は満足そうにうなづいた。
「ところで、君、モートン卿の件を知っているか?」
ヘンリーは少し驚いたが、
「えっ……は、はい、噂程度では少しだけ聞いております」
「最近、郊外の所領を一つ手放したらしいぞ」
「……なんと、そうでございましたか」
それから伯爵とヘンリーとの間で、縁談とは関係のない話が続いていった。
その間、伯爵夫人もフローラも下を向いたまま、一言も口を挟むことはなかった。
しばらく伯爵とヘンリーとの間で、件の話が続いたが、
「ああ、ところで君は狩猟には興味があるか?」
と、ヘンリーに問うた。
「はい、始めてから日は浅いですが、たまに出かけることもあります」
「そうか」
伯爵は嬉しそうに話を続けた。
「先日、新しいマスケット銃を取り寄せたのだ。それが握りの銃床部分に見事な彫刻がほどこされていてな。芸術品としても一見の価値はあるぞ。見てみるか?」
「はい!それほどの品を一目でも拝見させて頂けるとは光栄です」
「はっはっは、よし」
伯爵が立ち上がるより早く、控えていた使用人が静かに扉へと向かい、先回りしてドアを開いた。伯爵は立ち上がり、
「少し私室で準男爵と話をしてくる。ゆっくりしておいてくれ」
そのように夫人に向かって言った。
夫人とヘンリー親子もすぐに立ち上がった。夫人とフローラは深く頭を下げ、ドアに向かった伯爵にヘンリーは付き従って出ていった。
すこし時間をおいてから、夫人は顔を上げフローラの方を見る。
「私もあなたと少しお話がしたいので、別室に行きましょうか」
フローラは静かに、
「はい」
と、だけ答え、夫人と共に応接間から出て行った。
夫人が向かった先は、夫人の私室と思われる部屋だった。
先導するメイドがドアを開け、夫人が中に入り、フローラとそしてシャルが続いた。
広い室内の奥に丸いテーブルと椅子が置かれていた。
夫人が座り、
「さあ、遠慮せず、お掛けになって」
そういってフローラを招いた。
メイドが出ていった後、それほど間を開けずに、別のメイドが給仕用の台に紅茶を載せて、部屋に入ってきた。
テーブルの上にティーカップや焼き菓子を載せた皿などが置かれ、静かに一礼して出ていった。
「どうぞ、お召し上がりになって」
そう告げて、夫人は静かにカップを手に取り、口に運んだ。
静かな時間が流れる。夫人はフローラの方を見て、少しだけ微笑みながら話し始めた。
「フローラ……と、呼んでいいかしら」
そう問われてフローラは少し顔を上げ、うなづいた。
「あなたがこのハリントン伯爵家に来てくれること、私は嬉しく思っておりますのよ」
フローラは静かに聞いていた。
「夫と……私の間には、子に恵まれることはありませんでした」
夫人の表情は変わらず、昔話をするかのようだった。
「それは、私の責任として受け止めております」
フローラは夫人の顔を見た。そこには諦めにも似た表情が見て取れた。
「それでも、このハリントン伯爵家の繁栄を絶やさぬためには、あなたが必要なのですよ、フローラ」
夫人はカップを手に取り、紅茶を一口含んでから、話を再開した。
「その役目だけは、しっかり果たして頂けるのなら、私からはあなたに望むことは何もありません」
夫人はフローラの目をじっと見た。
「しかし、この伯爵家には伯爵家としての品位と格があります。それだけは守って頂かねばなりません」
その言葉を聞き、フローラは夫人から視線を外し、うつむいてティーカップに注がれた紅茶を見つめた。
「あなたが正式にこの屋敷に招かれる日を、心待ちにしておりますわ」
夫人はまたカップを手に取って口に運び、カップをテーブルに置いた。そのわずかな音だけがこの部屋に響いた。
「私は少し別の用事がありますので、先に応接間に戻っていて下さい」
そう告げられ、フローラとシャルは深く頭を下げて部屋を出た。
メイドに先導され、応接間に続く廊下を静かに歩いた。
応接間の扉の前に着き、メイドがノックしようと腕を上げたとき、部屋の中から伯爵と父ヘンリーの笑い声が聞こえてきた。タイミングを逃したメイドは一度腕を下ろした。
伯爵達の会話が聞き漏れてくる。
「君の娘はとても丈夫そうだね。あれなら健康そうな子供を産んでくれそうだ」
「はい、それだけが取り柄でして」
「三人……いや、五人ほど産まれれば安泰なのだが」
「伯爵家の繁栄につながることを祈っております」
「そういえば、君の家も男子には恵まれなかったのだったね」
「ええ、娘とは別にそちらも問題だと頭を悩ませているところでして」
「私のところに男子が多く産まれれば、一人ぐらい養子に出してやってもいいぞ」
「ほっ、本当でございますか!?それは、この上ない喜びでございます」
ヘンリーの声は感動して震えていた。
それを盗み聞くことになってしまったフローラの表情はさらに冷たいものになった。
「それから、君の家のことは少し調べさせてもらったよ」
伯爵の声が続く。
「先ほどもこの部屋にいたあの使用人、元エインズワース男爵の娘だろう?」
扉の外にいるフローラの体がぴくりと動く。
「ご存じでしたか」
「ああ、借金で爵位を売ったというのは知っている」
「ええ、その借金も清算し切れているかは、私も完全には把握できておらず」
「どうするのだ?」
「他の家に出そうと考えています」
「それが妥当だな。使用人であっても伯爵家の格にあう者が務めるべきだ」
扉の外で立ち尽くすフローラの両手は、強く拳が握りしめられていた。肩はわすかに震え、歯を食いしばったまま、その表情だけが凍り付いていた。
帰りの馬車の中、窓の外に視線を向けたままのヘンリーは、歯をのぞかせるほどの笑みを浮かべていた。
フローラがヘンリーの顔を睨み付けていることにさえ気づかないほどだった。
フローラは静かに深く息を吸い込み、狂いそうになる衝動を体の奥へと押し戻した。そして息を吐き、それでもあふれ出そうになる感情を抑えつけていた。シャルは、ただその横で見守ることしか出来なかった。
フローラは心の中でヘンリーに向かって叫ぶ。
(私はこの男のドールなんかじゃない)
馬車は夕暮れの大通りの中、屋敷に向かって進んでいった。
ヘンリー達が屋敷に戻ってくると、出発したときと同じように執事と使用人、そして母エレノアが迎えてくれた。
ヘンリーはエレノアに対し、
「うまくいった」
と、一言だけ伝え、次に執事に、
「急ぐ用事が出来た。お前と、そこにいる者を二人ほど連れてこい」
そういって執事達を引き連れて、再び屋敷を出て行った。
玄関の広間には静寂が訪れた。エレノアがフローラに話しかけようとしたが、
「部屋に戻ります。夕食は要りません」
と、だけ言葉を残して、フローラは広間を後にした。
その後、シャルは調理場で料理人達の手伝いをしたり、自分に与えられた仕事をこなしているうちに、屋敷は次第に静まり返っていった。もう、屋敷の者たちはそれぞれ休みに入る頃合いだった。
シャルがようやく一息ついていたところ、メイド長がやってきて、
「フローラ様がお呼びです」
そう短く伝えて出ていった。
シャルは急ぎ、フローラの部屋へと向かった。
シャルはフローラの部屋に着き、扉をノックした。
「フローラ、私です」
間を置かず、
「入って」
と、返事が返ってきたので、シャルは中へと入った。
そこには寝間着姿ではなく、フローラが自ら作り上げたドレスを身にまとい、そこに立っていた。そのドレスはフローラが一番のお気に入りだと言っていたものだった。
フローラの表情は最後に見た冷たいものではなく、いつもシャルに向けるものであったし、それ以上に自信に満ちた表情だった。
(フローラ……元気になったのかな?)
複雑な想いはあったが、なによりもフローラの側にいたい。出来るなら支えてあげたいとの想いがこみ上げてきた。
「フローラ、その……」
シャルが言い終わらないうちに、
「シャル、私、この家を出て行くわ」
(……ああ、いつものフローラ……より、それ以上のフローラね)
シャルは驚きと嬉しさと観念を混ぜた表情を返した。
フローラはシャルに近づき、そっとその手を取り、確かめるように握った。
「シャルをここに置いていくなんて絶対にしない。何があっても連れて行くから」
その言葉だけで、シャルの瞳には涙がにじみ始めた。
フローラは言葉を続ける。
「もちろん、ついて来てくれるわよね?」
答えは分かりきっていた。
シャルの頭の中にはこれまで見続けてきた、さまざまなフローラの表情が浮かんでいた。
(私を助けてくれたときの勇敢なフローラ、私が落ち込んでいるときに慰めてくれた優しいフローラ、一緒にとりとめのないお喋りをしているときの楽しそうなフローラ、あなたのすべてが愛しいのです。フローラ……)
シャルの心に、迷いなどなかった。
「当たり前です。私はずっとフローラの側に居続けます。何があっても離れません。離れたくもありません。フローラと共にこれからも、ずっと……私は一生あなたについて行きます」
シャルの瞳からは涙が流れ落ちていた。それはフローラも同じだった。
フローラはシャルを強く抱きしめた。
「シャル、私があなたを絶対に守る」
シャルもフローラを強く抱き返した。
フローラとシャルの二人はお互い少しだけ体を離し、微笑み合った。そして、顔を近づけ合い、目を閉じ、そっと初めての口づけを交わした。
「シャル、私はもう準備が出来ていますが、あなたは何か必要?」
その問いに、
「いえ、私はフローラがいれば、それでいいです」
フローラは微笑み返した。
忘れ物がないかと、シャルは部屋の中を見回した。そこで、壁にかけられている木の棒のようなものが目に入った。
「ところで、フローラ。それは何ですか?昨日の夜には置いていなかったと思うのですが」
シャルが指さす。
「ああ、これですか?」
フローラはそれを片手で取り上げる。太さはそれほどでもなく、長すぎることもなく、彼女でも難なく持ち上げられた。
「倉庫の奥で探していて見つけました」
「もしかして、夕食も食べずに、そんなことをしていたのですか?」
「ええ、準備には時間が必要でしょ?」
そして、フローラはその棒を得意げに振ってみせる。
「フローラ、それでそれをどうするつもりなのですか?」
「門番の頭を殴って、少しだけ眠って頂こうと思いまして」
シャルは頭を抱えた。
「さあ、あとは、お母様に最後のご挨拶を申し上げに行きましょう」
フローラは右手には木の棒、左手にはシャルの手を取って部屋を出た。
エレノアは自室でまだ寝間着に着替えずに、テーブルの前の椅子に座り、物思いにふけっていた。
(私は母としてフローラにまだしてあげられることは、あるのでしょうか?)
自分への質問に対する答えは、いくら待っても返っては来ない。
深いため息が自然とこぼれる。
その時、扉をノックする音が聞こえた。エレノアはそちらに向いて、
「どなた?」
と、尋ねた。
「お母様、私です」
少し間を置いてから、
「入って」
と、答えた。
開いた扉から、木の棒を手にした娘が入ってきた。その姿に驚いて声が出そうになったが、なんとか押しとどめられた。
フローラとシャルをテーブルの向かいに座らせて、話を聞くことにした。
「それで、こんな夜遅くにどうしたのかしら?」
エレノアは娘が突拍子もないことを思いつき、すぐに行動に移すことは、これまでの経験から十分に分かっていた。
「はい、お母様。私はシャルと一緒に、この家から出て行こうと思います」
(ああ、やっぱり想像を越えてきたわね。いったい誰に似たのかしら)
エレノアは少し押し黙り、考えを巡らせた。フローラの幸せ、フローラの大切な友達のシャル、キングスレイ家の将来、その中にエレノア自身のことなどは入っていなかった。ただ、夫の顔が少し浮かんだが、すぐに消え失せ、フローラの笑顔だけが浮かび上がった。
(考える余地もなかったわね)
エレノアの覚悟も決まった。
「分かりました。フローラ、あなたの決意を尊重します」
フローラは微笑んだ。
「ありがとうございます、お母様」
「……それで、どのようにしてこの屋敷から出ようと考えているのですか?」
エレノアはフローラの脇に置かれた木の棒に目をやった。
「はい、この木の棒で、門番の頭を殴って、少しだけ眠って頂こうと思います」
エレノアは頭を抱えた。
「少し用意してきますので、ここで待っていなさい」
そうエレノアは二人に伝えて、ドア一枚でつながる隣の部屋に向かった。
大きめのカバンを取り出し、そこに必要な物を手早く詰めて、またフローラ達の元に戻った。
「さあ、行きましょう」
エレノアは二人にうながした。
フローラが木の棒を持ち上げたとき、
「それは置いていきなさい」
「えっ?……は、はい、分かりました」
そういって名残惜しそうに、木の棒を手放した。
エレノアは二人を連れて、静かに屋敷内の廊下を歩いていた。
(もし使用人に出会ってしまったら、何か食べるものを用意しなさいとでも言おうかしら)
そんな言い訳を、いくつも思い浮かべながら歩いていた。
幸い、誰にも見つかることなく、裏口の扉の前にやってきた。
エレノアは少し扉を開けて覗き、まっすぐ先にある裏門の方を見た。
(裏門は門番が一人だけね)
そう確認し、フローラ達の方を向いた。
「ここで待っていなさい」
そう告げて、エレノアは一人、裏門に向かっていった。
「こんばんは、夜分までご苦労様」
エレノアは裏門の前に立っていた門番に話しかけた。
門番は少し気が緩んでいたのか、エレノアにすぐ側に近づかれるまで気づかなかった。
「……えっ、あ、これはこれはご婦人様、こんなところにどうなされましたか?」
エレノアは門番に対し微笑みを返す。
「あなたは、この屋敷に最近来られた方でしょうか?」
「へ、へい……あ、いえ、はい。三ヶ月ほど前に雇って頂いた者です」
「そうでしたか……」
門番は状況が掴めないのか、困惑した表情を浮かべていた。
「私はこのあと、外で男性の方と逢う約束をしておりますの」
エレノアは笑顔を絶やさない。
「は、はぁ、なるほど、そのような御用でしたか」
門番はうなづいた。この屋敷に長く勤める他の使用人であれば、夫人が決してそのような行いをしない淑女であることに、疑う者などいなかったが、日の浅い門番には分かりようがなかった。
「ああ、そうですわ。あなた、立ち続けてばかりで疲れたでしょう?これで少し休憩なさってはいかがかしら?」
そう言って、エレノアはカバンからワインの瓶を一本取り出して、門番に押しつけるように手渡した。
門番はそのワイン瓶を見て、嬉しそうに表情を崩す。
「いいんですかい?」
「ええ、あなたは立派にお仕事をされていますわ」
「へへっ」
軽く笑い声を出し、門番は周りをキョロキョロと見回した。そして、男は腰にかけてあった鍵を外し、石畳の地面へと落とした。カシャリと音が響いた。
「さ、さてとー、交代の時間まで、まだもう少しあるが、ちょっと休憩してこようかなー」
と、見世物小屋の駆け出し役者のような台詞をつぶやき、敷地内の外れに建てられた小さな小屋に向かって遠ざかっていった。
エレノアはその姿が見えなくなったことを確認し、屋敷の裏口の方に視線を向けた。
ドアの隙間からこちらをうかがっているフローラの姿が見えたので、こちらに来るようにと手招いた。
エレノアは地面に落とされた鍵を拾い、裏門が開くことを確認した。
門を開け、外に目をやる。
(大丈夫そうね)
そのうちに、フローラとシャルが走ってこちらにやってきた。
息を整えたフローラと向かい合う。
(大きくなったわね、フローラ……)
もう自分と同じぐらいの背丈になった娘を見る。しかし、ここで感慨にふけっているときではないと頭を振り、手に持っていたカバンを娘に差し出す。
「これを持って行きなさい。中にクッキーの包みが入っているので、あとで二人で食べなさい」
フローラは、うなづいた。
「あと、指輪やネックレスなども入れていますから、それをお金に換えれば、当面の暮らしには困らないでしょう」
フローラは少し目を見開いた。
「それは、お母様が大事にしていた……」
言い終わる前に、エレノアは言葉を重ねた。
「あの人からもらったものですから、別に大事でもないわ。私にとって最も大事なのは、あなた、フローラだけよ」
そういって、エレノアはフローラを強く抱きしめた。
「……お母様」
フローラの声が震えていた。エレノアは自分に少しでも決心を揺らがせる思いが生まれることを恐れ、すぐにフローラから体を離した。
「家のことは気にしないで。あの人のことだから、養子を迎えることぐらい考えるでしょう」
エレノアは続ける。
「キングスレイ家の爵位も、元は亡くなったあなたのおじいさまがお金で買ったものでしかありませんし、強い風が吹けば吹き飛んでしまうぐらいのものですよ」
エレノアは自分で言いながら可笑しくなったのか少し笑ったあと、わざと咳をするそぶりを見せてから、話を再開した。
「フローラ、あなたの人生はあなただけのものよ。あなたの好きなように生きなさい。決して後悔しないようにね」
エレノアは優しく微笑んだ。フローラは瞳に涙を浮かべていたが、流すまいと、こらえているように見えた。
「わかりました、お母様」
二人の視線がつながりあう。しかし、その時間は長くはなかった。
「さあ、行きなさい」
フローラは、うなづいた。
「それでは、お母様、行ってまいり……」
そう言いかけたが、言葉を飲み込んでから言い直した。
「お母様、また逢いましょう」
エレノアは微笑み返した。
「ええ、また逢いましょう、フローラ」
エレノアは最後にシャルの方を見た。
「シャル、フローラのことをよろしくね」
「はい、もちろんです」
シャルは当然のように言い切った。
そして、フローラはシャルの方を見て、
「さあ、行こう!」
そう言って、シャルの手を取って、もう振り返ることはなく、開け放たれた扉に向かって駆け出していった。
その背中をずっと、エレノアは見守り続けた。
(頑張るのですよ。頑張って生きなさい、フローラ……)
ロンドンの街の真っ暗な闇夜に、二人の少女の姿が溶け入るように消えていった。




