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天文学者が知らない青い海

 ここは16世紀の大航海時代まっただ中のロンドン市街。テムズ川に沿って商人や平民達が暮らす商業地区。中央通りは活気にあふれ、引っ切りなしに荷物を載せた馬車が行き交い、店先から呼び込みの声が騒がしく聞こえる。


 そんな通りを一人の女の子がふてくされた表情で歩いていた。

「どうして私が辞めさせられなきゃいけないのよ」

 そんな独り言を漏らしながら、手にした焼いた肉を挟んだパンをほおばる。パンの間から溶けたチーズと甘酸っぱいトマトソースがあふれ出している。

「あ、これすごく当たりかも」

 女の子は少しだけ顔がほころんだ。

「でもこれだけじゃあ憂さ晴らしにはならないわ。まだお昼だけどお酒も買おうかしら」

 そうつぶやくこの子の名前はセシリア。王の勅命で設立された王立研究院所属の学者である。それも今朝までの話だが。

 セシリアはその優秀さと、同じく学者である父母の推薦もあり、若くして王立研究院に籍を置き研究する日々を送っていたが、先輩学者と対立し、辞めざるを得ない状況に追い込まれたのだった。

「やっぱり貴族と平民、男と女の壁はまだまだ厚いのかなぁ」

 空を見上げながらため息をつく。しかし、悩んでも仕方がないと気持ちを切り替えようと、通りで美味しそうな食べ物を売っている屋台を見つけては買い食いしながら歩いているのだった。

「よし、やっぱり飲もう」

 そう決心して当たりを見渡す。昼過ぎのこの時間帯から開いている飲み屋というのも見つからず、あちらを見てはこちらを見てきょろきょろしながら歩いて行く。まだ半分は残っている肉挟みパンにもかぶりつきながら。

 その時、セシリアは前を歩く人にぶつかってしまった。

「あっ、ごめんなさい」

 そう軽く謝ったのだが、前を見て大変なことに気づいた。ぶつかった人の背中にベッタリと肉の破片やチーズやトマトソースが付いてしまっていた。

「ああん?」

 振り返ったその人は、人相からしてどう見ても優しいお兄さんには見えなかった。ゴロツキか盗賊か、もっと最悪な荒くれ者かもしれない見てくれだった。背筋を冷たいものが走った。

「ごめんなさい。ごめんなさい。私の落ち度です。服を汚してしまいましたよね。洗い直し代は支払いますので」

 とにかく低姿勢で謝った。謝り倒した。ゴロツキの左右にいた仲間だろうと思われる二人の男も振り返った。

「アニキ、背中にべっとりなんか付いてますぜ」

 左の男がそういった瞬間、アニキと呼ばれた男の表情が険しくなった。

「……チッ。お嬢ちゃんよぉ。この服はなぁ、あつらえ品だ。今日、陸に上がって受け取った真っさらなんだよなぁ」

 陸に上がるという言い回しからセシリアはこの人達が海賊だと推察し、さらに肝を冷やした。海賊の船員達の野蛮さは街のゴロツキなんかよりも輪をかけてヒドいものだった。一つの街に留まっていないから衛兵に捕まることなんて気にもしていない。殺人さえも日常的なものだと思っているほどだった。

「ほっんとうにごめんなさい!代金は支払いますので。なんなら新しく購入する金額でも構いませんので」

 必死に言葉を重ねた。声が震えているのが自分でも分かった。

「いやぁ、俺たちはよぉ、海の上でいることの方が多いんだよ。店で採寸して注文して海に出てまた帰ってきて受け取るとか、何ヶ月いや何年かかると思ってるんだよ」

 男の主張は少し誇張しているところもあるが、そこまで間違っているものでもなかった。それゆえにセシリアも代案が思いつかない。

「でもそこは、お金以外で解決する方法もないですし」

 セシリアのすがるような目つきに、男はニタァとイヤらしい表情を浮かべる。

「そうかぁ?他の方法もあると思うけどなぁ」

 男の視線がセシリアの上から下へ舐めるように動く。

「え、えっと……それはなんでしょうか?」

 怯えながらセシリアは尋ねる。

(神様、どうか最悪な提案でありませんように)

 セシリアは神に祈った。

「お嬢ちゃん、結構べっぴんさんだなぁ。俺たちと遊ぼうよ」

 そういってセシリアの腕を強い力で掴んだ。

 セシリアは周りを見渡したが、いつの間には多かった人通りが少なくなり、行き交う人も目を合わさないようにそそくさと離れていくのだった。

「今日はなんて最悪な一日なんだろう……」

 男に聞こえないほどに小さくか弱い声を漏らすのだった。





 セシリアがいた通りに面するほど遠くない場所にある衣料品店。その店内で服を見ながら悩んでいるそぶりを見せる一人の女の子がいた。

「どうしよっかなー。やっぱり買おうかなぁ」

 普通の女の子であれば誰でも言いそうな独り言をつぶやいているが、その視線の先にあるのは普通の女の子なら決して買わないような服だった。それは襟が大きく広がっており、肩には一部の国の海軍が採用し始めた制服の装飾が施されている。それは海賊の船長が好んで着るようなコートだった。しかも青色でド派手である。

「おばちゃーん、これ試着してもいい?」

 女の子は店主に声をかけた。

「エミリーちゃん、本当に買う気なの?」

 店主にエミリーと呼ばれた子は大きくうなづく。海賊服と同じ青い瞳をしており、髪の色も薄い青色をしていた。

「もちろん!」

 エミリーは嬉しそうに大きくうなづいた。

「いいけど、それ男物だよ」

 そういいながら、店主のおばちゃんは海賊服をエミリーに着せてあげた。しかし、やはりサイズが合わず、エミリーの肩からズリ落ちてしまう。片側の肩にかけるともう片方がズリ落ち、逆にしても同様だった。

「やっぱり合わないねぇ」

 おばちゃんはため息をついたが、エミリーはお構いなしに鏡に写る自分の姿にうっとりしていた。

「やっぱりカッコいいな!」

 結局、肩からはどうしてもズリ落ちてしまうので、もう両肩からズリ落ちた状態で着ることにした。

「よし、これを買うよ」

 エミリーは即決していた。

「本当にいいのかい?サイズも合わないし、それにこれ海賊が着るものだよ?」

 おばちゃんは少し心配そうに聞き返す。この店主とエミリーは昔からの馴染みであり、おばちゃんとしては可愛い実の子供のようでもあり、無駄な買い物をさせたくないという親心のようなものもあった。

「おばちゃんもアタシが海賊を目指しているって知ってるでしょ?これは絶対に必要なモンなんだよ」

 エミリーは胸をはって答える。その胸は平均的な大人の女性よりも大きくとても女性的であったが、低い身長と大きい目をした童顔とあどけない表情からやはりまだまだ子供っぽく見えるのであった。

「でもサイズが……」

 おばちゃんが再度忠告しようとしたが、

「んんんっ!身長のことは言わないで!」

 エミリーが怒った表情で文句を言う。その姿も愛くるしい子供のようであった。

「わかった、わかったよ」

 最後にはおばちゃんは諦め、エミリーは代金を支払ってウキウキした気分で店から出た。そこで、視界に入った空を見上げて雨雲が近づいてきていることに気づいた。

「雨が近いな。早く帰らなきゃ」

 エミリーは買ったばかりの海賊服が濡れることを危惧し、いつもとは違う裏道に入って駆けていった。



 エミリーが裏路地を走り抜けていたとき、道の先に何か落ちているものがあることに気づいた。足を止め、見てみるとそれは本で、エミリーは拾い上げて表紙を見た。

「天体の運行……関する諸説と……その整合性?なんだろ、これ。天文学の本か?」

 エミリーはまじまじと表紙をながめ、本を開いて中を見ようとしたが、雨が降りそうだったことを思い出した。

 ひとまず拾って、後日衛兵の詰め所にでも持っていくかと考え、肩からかけていたカバンにしまい、再び走り出そうとしたとき、少し遠くから複数の人の声が聞こえた。

「お願いします。こんなことは止めて下さい」

「へへっ、服の一着分ぐらいは俺たちに付き合えよ」

 そんなやり取りをする男女の声だった。エミリーはすぐに何が起きているか理解した。この商業地区の裏路地なら頻繁ではないにしても起きて不思議ではないことだった。

 エミリーは考えるよりも早く全速力で声のする方に走り出した。

 エミリーが走り抜け、何度か曲がったその先に女性と男が三人いるのが視界に入った。女性の肩を掴んでいた一番背の高い男がエミリーに気づき、顔を向ける。

「ん?なんだこのガキは」

 最後まで言い終わる前に、エミリーは足を止めずに走り、一番手前にいた仲間だと思われる男に向かって飛び上がり、アゴを蹴り上げる。男の体が浮き上がりそのまま仰向けに倒れ込む。

 一瞬出来事で反応が出来ず立ったままのもう一人の男の頭に向かって、エミリーは回し蹴りを食らわせる。その勢いのままその男も地面に伏した。

「て、てめぇ!」

 残るのは女性を掴んでいる男だけだった。その男はすばやく反応し、腰に取り付けていたナイフを手に持ち構える。

 エミリーはそれより早く身をかがめ、走りながら地面の砂を握り取り、男の目に向かって投げつける。

「くっ!」

 男が低く短い声を発してひるんだところで、エミリーは男の股間を思いっきり蹴り上げたのだった。

「……っ!」

 声にならない悲鳴を上げ、男が膝をつく。

 エミリーは女性の手を握り、

「逃げるぞ!」

 そう言って女性を引っ張って駆け出していった。そして雨がぽつぽつと降り始めた。




 セシリアが見ず知らずの女の子に助けられ、手を引っ張られて走ってきた先は商業地区の端にある屋敷だった。その屋敷はこのあたりでは比較的大きく、とはいえこの場所に貴族が住居を構えているということも考えにくかった。

 エミリーは鉄製の門を押し開け、その先の扉を開けて屋敷に中に入った。エミリーはセシリアの方を振り返り、安心させる優しい表情を浮かべ、

「入って」

 そう短く言ってセシリアを招き入れた。

(お金持ちの商人の娘さんなのかな?)

 そんな印象を抱いたセシリアであった。


 二人は玄関先で髪の毛や服にかかった雨を払い落とす。

「本格的に降り出す前でよかったよ」

 エミリーはそういって青いコートを脱ぎ、丁寧にたたんで大事そうにかかえた。

 セシリアは周りを見回した。玄関ホールは広く、先に階段があり、屋敷の外見と同じように立派なものであることが見て取れた。

「あのっ、ご家族の方はいらっしゃいますか?ご挨拶をしておきたくて」

「ん?ああ、ここにはアタシ一人で住んでいるんだよ。気にしないで」

 そういってエミリーは奥の部屋へと進んだ。驚きながらもセシリアもついていった。


 奥の部屋は広い客間で、テーブルとふかふかで高級そうなソファがあり、奥に暖炉があった。もう春になったところなので使う必要はなさそうではあった。

 セシリアが周りを見ていたところ、エミリーが振り返り優しい声色で話しかけてきた。

「災難だったね。怪我はない?大丈夫?」

 セシリアは早くなっていた鼓動が少し落ち着き始めた。

「あ、ありがとう。本当にありがとう……助けてくれて」

 エミリーは微笑みながらセシリアの言葉を待った。

「えっと、あ、自己紹介がまだだったね。私はセシリア。セシリア=アッシュクロフト」

「アタシはエミリー=ターナーよ」

 セシリアはうなづき、話を続けようとした。

「私は王立学術院所属の学者で……あ、いや、それは今朝までで……もう今は学者でも何でもなくて」

 そこでセシリアは今朝、学術院から追い出さされたばかりだったことを思い出した。本当に今日はなんてついていないんだろう。悔しさが沸き上がり、心をすべてその感情に支配されていく。セシリアの目から涙が流れ始め、それは止まることなくあふれ出し、嗚咽を漏らし始めた。エミリーはそっとセシリアの近づき肩を抱き寄せた。しばらくセシリアの涙は止まらなかった。


 しばらくしてセシリアが落ち着いてきた頃合いを見計らい、エミリーはセシリアにソファに座るようにうながした。

 エミリーは飲み物を用意してくると告げて部屋を出て行き、しばらくして紅茶を入れたカップを二つ両手で持ってきて、片方をセシリアに差し出した。セシリアはそれを一口飲み、温かくそして優しい味にほっと一息を付けた思いだった。

「ごめんなさい、いきなり泣き出したりして」

 自分より年下だと思われる女の子の前で泣きついたことに急に恥ずかしくなり、顔が赤ルナっているだろうことを自覚してさらに恥ずかしくなるセシリアだった。

「うううん、そんなことないよ。大変なことがあったんでしょ?……さっきのこともそうだしさ」

 エミリーの顔は少しだけ険しくなった。

「でも、あなた……エミリーが助けてくれたからいいよ」

 それに元はといえば自分があの男の服を汚したことが発端だったと思いだし、少し複雑な思いを抱いた。とはいえ、あんなことされそうになったことは許す気はないとも思った。

「あ、そうだ、自己紹介の続きだったね」

 もう気持ちは落ち着いてきていたので、冷静に語ることが出来た。

「元王立学術院の学者だよ。今は……これからの予定は何もないけどね」

 無理のない笑顔でセシリアが答えた。

「へぇ!学者さんなんだ!すごいね!」

「元だけどね」

 エミリーは羨望の目でセシリアを見つめる。セシリアは恥ずかしくなって少し目を背けた。

「あ、そうだ」

 エミリーはふと思い出したように立ち上がり、近くに置いていたカバンから本を取り出した。

「セシリアと出会った場所の近くにさ、この本が落ちていたんだけど、もしかするとセシリアのモノだったりする?」

 そういってエミリーはセシリアに本を差し出して見せた。

「あっ、うん!これ私のだよ。途中で落としたのかな。全然気づかなかったよ」

「そうなんだ、よかったよ……ところでこの本って『天体の運行に関する諸説とその整合性』?これって天文学の本なのかな?」

 セシリアはエミリーから天文学という言葉が出てきたことに驚いた。

(見た感じではまだ子供のようだし……でも、胸の発育は私よりいいのよね……いや、そんなことよりも、貴族でもなさそうだし)

 そんな疑問が浮かび上がってきたが、頭の片隅に追いやって話を続けた。

「うん、そうだよ。天文学ってよく知っているね」

「アタシ、興味あるんだ」

 そういってエミリーは表紙を興味深そうに眺めた。

「著者はエドマンド=アッシュクロフト。ん?アッシュクロフトって」

「ああ、それは私の父が書いた本なの」

「ええっ?!すごい!」

 今度はエミリーが驚く番だった。エミリーの瞳は爛々と輝き、まるで少女が憧れの舞台女優を見るような眼差しだった。

 セシリアは嬉しい気持ちがこみ上げてきた。そう、父も私も立派なことを研究している。でも多くの人は理解してくれない。それに私は女だからといってさらに蔑んでくる。

「エミリーはどうして天文学に興味があるの?」

「ああ、それはアタシは海賊になるのが夢だからだよ!」

 セシリアの頭の中で疑問符がいくつも浮かび上がった。

(この子は何を言っているの?)



「海賊?」

 セシリアの表情が険しくなった。エミリーは先ほどのセシリアの不幸な出来事を思い出し、慌てて謝る。

「あ、ごめん。イヤなこと思い出させてしまったか?」

 セシリアは首を横に振る。

「いえ、もう気にしていない……ということはないけど、続けて。エミリーのことが知りたいわ」

 エミリーは安堵して話を続けた。

「海賊といってもさっきの奴らみたいな下っ端のゴロツキなんじゃなくて、アタシは大海賊になりたいんだ。そう、ジャック=ワイルドみたいな!」

 エミリーは、憧れの英雄物語を語る子供のように、らんらんと目を輝かせて話した。

「ああ、ジャック=ワイルドね」

 ロンドンに住んでいる人なら、いやイングランドのみならず大陸でも名前が知られている海賊だ。大海賊といってもいい大物だ。

「でも10年ぐらい前に捕まって処刑されたよね?」

「ああ、まあそうだけどな」

「仲間に裏切られて酒に酔ったところを縄で縛られて衛兵に突き出されたっていう話じゃない」

 エミリーもセシリアと同じようにちょっと苦い顔をした。

「そこはちょっとカッコ悪いって思わなくもないけど、それよりもさ、マヤのジャングルに分け入って埋もれた古代遺跡を発見してお宝を見つけて凱旋した話、あれめちゃくちゃカッコよくない?」

 それはまだワイルドが無名だった頃に成し遂げて一躍有名になったエピソードだ。子ども向けの絵本にまでなっている。

 エミリーは話を続けた。

「さらにさ、そのお宝を売って手にしたお金で貧民街に孤児院を建てたって話だろ?もう最高にカッコいいだろ?」

 孤児院を建てた件は作られた話でもなく事実で、実際にその孤児院は今でも運営されている。

「まあ、カッコいいかは置いといて、悪いことも良いこともしているなとは思うよ」

「だよな!」

 エミリーはセシリアから同意を得られて嬉しそうに答える。

「それでさ、その話を知ってからずっと海賊に憧れているんだ」

 幼い頃からの夢をずっと抱き続けているなんて、まだまだ子供なのかなとセシリアは微笑ましく思った。

「でも、海賊稼業をやるには船を動かさないといけないだろ?航海技術を身につける必要があるんだよ」

 そこでやっとセシリアはエミリーの考えに予測がついた。

「ああ、それで天文学……航海天文学の話につながるのね」

「航海……天文学?」

 エミリーは初めて聞く名前に首をかしげた。

「天文学っていってもかなり幅広い学問なの。惑星の軌道だけを専門に研究する分野だったり、星座の文化的な側面だけ取り扱うものもあるわね」

「へぇ……ふむふむ」

 エミリーは感心したようにうなづく。

「その中でも航海天文学はかなり実用的な分野ね。星の動きを見て正確な方角や日時を割り出して船を安全に航行させることが目的だから」

「そう!アタシはそれが知りたいんだよ」

 セシリアは生徒に学問を教える教師になった気分になり得意げに話を続ける。

「でもね、航海天文学は難しいよ。数学に幾何学、それに観測道具に関する知識も必要だから」

「数学はちょっと……いや、だいぶ?苦手なんだけど、観測道具なら触ったことがあるよ」

 セシリアは驚いたが、ここがもし商家だとしたら見たことがあっても不思議ではないなとも思えた。

「アタシさ、昔もう亡くなったけど父親に連れられて何度か商船に乗って航海したことがあるんだよ」

 セシリアは一度もロンドン市街から出たことがなく、自分が未経験なことを体験しているエミリーに対し少し嫉妬心に似た感情を覚えた。

「船には航海士が乗っていてさ。いろいろ道具の扱い方を教えてもらったんだ。羅針盤も読めるよ」

 セシリアはエミリーのことをただの子供だと侮っていたが、認識を改めることになった。

「すごいわね。私なんて船は子供の頃、テムズ川に浮かぶ小舟に乗って下ったことぐらいしかないわよ」

「へへへ、そうかな」

 エミリーは満足げな表情を浮かべ、話を続けた。

「本当に海はいいぞ。あとは空しか見えない。それしかなくて、自分はなんてちっぽけなんだろうって圧倒されるぞ」

 セシリアはエミリーの言葉に想像を膨らませた。しかしその情景は絵でしか見たことがなく、想像でしかなかったが。想像から妄想へと引きずり込まれそうになったが、ふと我に返りエミリーの方を見た。

「それで話を戻したいのだけれど、観測道具の実地経験はあるから、あとは理論を学びたいってこと?」

「そう!」

「なるほどね……」

 セシリアはエミリーが自分に何を求めているのかの察しがついてきた。

「でもさ、天文学の本ってさ、難しいんだよ。もうチンプンカンプンだよ。あ、ちょっと待ってて」

 そういってエミリーは立ち上がり部屋を出て行ったと思ったらすぐに戻ってきた。

「この本なんだけどさ」

 エミリーはセシリアに本を差し出す。セシリアはパラパラとページをめくって中身を流し読みしていく。

「……うーん、これはかなり難しい部類の本だと思うよ。専門書もいいところだよ。始めに読む入門書なんていう難易度でもなくて」

「えっ?!」

 エミリーは驚いた。

「これそんなに難しいの?セシリアでも読めない?」

「いや、私には分かるというか、これは昔読んだことがあるけど」

 セシリアは考えた。エミリーが理解するにはおそらくこれは難解すぎるだろう。それに航海天文学からも離れている。実用的でもっと入門的な本なら家の本棚にあったようなと思い返す。

「私の家にエミリーにとってちょうどいい本があるから、明日にでも持ってきてあげるよ」

「えっ、いいの?!」

「うん、助けてもらったお礼もしたかったし」

「それは気にしなくてもいいんだけど、ありがたく貸してもらうよ」

「エミリーにプレゼントするよ。私はもうその本から十分に学んだから」

 エミリーはとても楽しそうにそして可愛らしく笑う。その顔を見たセシリアはとても充足感を得られた。

「あ、あと、もう一つだけお願いしたいことがあるんだけどいいかな?」

「ん?なに?」

「一人で本を読むのって苦手でさ。途中で分からないことが出てきたら投げ出しそうになるんだよね」

 セシリアにとってはそういった経験がなく、そういう人もいるのかと感慨を覚えた。

「それでさ、私の先生になって欲しいんだ。その本が読み終わるまででいいからさ」

 上目遣いでお願いしてくるエミリーに、セシリアはなんとも言えない保護欲をかき立てられた。そして、先生というキーワードに自尊心がくすぐられた。

 今朝方、学者である誇りをこなごなに砕かれたセシリアにとって、その願いはむしろ心を満たしてくれる事柄であった。

「うん、いいよ。最後まで面倒見てあげる」

「やったー!ありがとう!」

 エミリーはソファから席を立ち、向かいのセシリアの隣りに座って彼女に抱きつくのだった。

(この子、本当に可愛いなぁ。そして私の初めての生徒かぁ……ふふふふふ)

 セシリアは今日はなんて良い日なんだろうと、この館を訪れる前までのことは忘れて幸福にひたっていた。


 窓の外を見ると暗くなってきたことに気づいたセシリアは、そろそろ帰ることを告げた。

 エミリーにとっては名残惜しかったが、明日も来てくれることを楽しみにし、セシリアを送っていくことにした。

「あのゴロツキたち、まだその辺りにいるかもしんないからね」

 ナイト役を買って出てくれた小さくても心強いエミリーに、セシリアは心地よい安心感を覚えた。

 二人は明日からのことなど話をしながら、まだ人も多い大通りを並んで歩いていた。

「ねぇ、どうせなら、明日からうちで泊まらない?」

 エミリーはそうセシリアに提案した。セシリアは少し考える。

(どうせ学術院の仕事もないんだし、まあいいかな)

「うん、お願いしようかな。毎日帰るのも大変だしね」

「やったー!」

 エミリーは嬉しそうにセシリアの腕に抱き付く。

(なんだか妹が出来たみたいな感じ)

 セシリアも嬉しそうに少しだけエミリーに体を寄せて歩き、帰宅した。

 セシリアが借りている狭い一室に戻ってきたとき、静かで誰もいない部屋に少し寂しさを覚えた。


 翌朝、すっきりと目覚めたセシリアは、桶に汲んだ水を使い体や顔を拭き、髪の汚れも落とした。

 休日にいつも着ている長めのスカートと、飾り気のないブラウスに袖を通す。どちらも落ち着いた茶系の色合いで、派手さはない。

 濃い茶色の髪を左右に下ろした姿は一見地味だが、整った顔立ちと相まって、見る人に理知的で落ち着いた印象を与えていた。

(もう研究院勤めの肩が凝る服は着なくていいのかぁ)

 セシリアは少しだけ壁にかけた服に目をやったが、すぐに出かける準備に取りかかった。大きめのカバンに着替えや、エミリーにあげる本、他にも参考になりそうな本などもギリギリまで詰めるだけ詰めて部屋を出た。

 日頃これほど重いモノは持たないせいで、少し左右にふらつきながらも早足で大通りを進んだ。

 エミリーの屋敷に到着し、鉄門を開け、玄関先のドアに近づいてノックしようとしたら向こうからドアが開かれた。

「セシリア!ようこそ!」

 太陽のように明るい笑顔がドアの間から飛び出してきた。セシリアはここまで歩いてきた疲れが一瞬で取れた思いだった。

「おはよう、エミリー。今日からよろしくね」

 セシリアも笑顔で返した。


「まあまずは座って」

 エミリーにうながされ、昨日と同じ居間のソファに腰を下ろした。

「疲れてない?」

「うん、全然、大丈夫だよ」

「ところで、もう朝ご飯は食べた?」

 エミリーに矢継ぎ早に質問される。そういえば朝はまだだった。研究院勤めの時はギリギリまで寝て朝食なんて食べる余裕はなかったが、今日はお腹がすいているとセシリアは気づいた。

「まだだよ」

「じゃあちょっと待ってて」

 そういって弾んだ声で答えて部屋を出て行った。

 しばらくして、パンにトマトを挟んだ軽食と紅茶のカップを乗せたトレイを持って戻ってきた。エミリーはソファの前のテーブルにそれらを乗せ、セシリアの隣りに並んで座り一緒に食べることにした。

「うん、おいしいね」

「でしょー?」

 エミリーは自慢げに答えた。

「いつも行ってるパン屋があるんだけど今度一緒に行こうよ。これ以外のパンも美味しいよ」

 セシリアはちょっと贅沢な朝食で、至福な朝の始まりを味わった。


 食事を終え、紅茶を飲んで一息ついたところで、エミリーは立ち上がって、

「じゃあ、私の部屋に来てくれるかな、先生?」

 お茶目にお願いする姿に、セシリアはまた心を揺さぶられた。

(この子の可愛さは天然なのかな)

 そんなことを思ったが、昨日自分を助けてくれたときの勇敢なエミリーの姿も思い出し、どちらがこの子の本当の姿なんだろうとも考えてしまった。


 エミリーの部屋は居間ほどではないにしてもかなり広めで、勉強用と思われる大きな机と椅子に、本棚に、もう一つの棚には子ども向けのドールなどが飾られており、奥に大きめのベッドがある。大きなベッドいいなぁとセシリアが眺めていると、

「あー、アタシって寝相が悪くてよくベッドから落ちるからって父親が買ってくれたんだよ」

 エミリーは照れ笑いしながら説明する。そうなるとドールも親が買い与えたものなのかなとセシリアは推測する。

(それにしても女の子っぽい部屋だなぁ)

 セシリアは自身が子供の頃の部屋を思い出していた。学者筋の家系ということもあり、とにかく壁一面には本棚があり、嫌いではなかったが今思うと殺風景だなと思った。

「すてきなお部屋ね」

「へへへ、ありがと」

 セシリアはエミリーにうながされ、机の前に用意されていた椅子の片方に座った。

「じゃあ、早速始めようかしら。まずは、はいこれ。エミリー、あなたにプレゼントする本よ」

 エミリーは嬉しそうに受け取り、そして大事そうに本の表紙を眺めた。

「『航海天文学入門』?」

「そう、エミリーはもう観測道具を使ったことがあるのだから、それを補う基礎だけを集中して教えるわ」

 エミリーは真面目な顔つきになり、

「はい、お願いします、先生」

 と、礼儀正しく言い、セシリアも深く頷いた。


 エミリーの理解の早さには少し驚いたセシリアだった。もっと簡単なところからつまづくと思っていた。

(まあ、あの難解な専門書を少しでも読み進めようとしたぐらいだから、結構出来る子なのかもね。それにこんな大商人の家の子女なら、基礎的な学問は受けているのでしょうね)

 数時間ほど集中して講義と質疑に対する応答が続き、昼を回ったところで、エミリーのお腹から可愛い音が鳴った。

「あっ」

 エミリーが少し恥ずかしそうにニヤける。

「ああ、もうこんな時間なのね」

 部屋に置かれていたこれも高級そうな時計に目をやった。

「ちょっと外に食べに行こうか」

 そういってエミリーは立ち上がり、セシリアの手を掴んで部屋を出た。


 屋敷から少し歩いて大通りに出た。セシリアはふと横を歩くエミリーに目が行った。

 青い海賊コートはやっぱり大きめだったが、でも不思議にエミリーに馴染んでいた。

(……案外、似合っているなぁ)

 セシリアが眺める当のエミリーは、きょろきょろと周りを見回していた。

「ちょっとお昼の時間が過ぎてしまったから、お店は閉まっているかなぁ」

「ごめんなさいね、私が集中しすぎたあまり時間を忘れていたわ」

「うううん、アタシも楽しくて気づかなかったし」

 エミリーが微笑み返す。

「でも開いている店はなさそうね」

 セシリアもエミリーも周りを見るがそのようだった。

「まあ少し歩こっか。屋台なら出ているところはあるよ」

(そういえば、昨日もこの通りのどこかの屋台で食べ物を買ったんだった)

 もう何日も何週間の前の出来事のように感じるセシリアだった。

「あっ、あそこのパンに挟んだのが美味しいんだよ。あれにする?」

 エミリーは指を指す。二人で近づいていくと、セシリアは見覚えのある屋台だと気づいた。

「あ、これ昨日食べたモノだ」

 セシリアが歩きながら食べて、最後はゴロツキの背中にぶつかって全部は食べていなかった肉とチーズとトマトソースをパンで挟んだものだった。

「そういえば、今朝一緒に食べたのもトマトを挟んだパンだったね」

 エミリーが少ししょんぼりする。

(でも、他の屋台を探していたらどんどん時間も過ぎていくし)

「エミリー、これにしよう」

「いいの?」

「うん、これがいい」

 エミリーは破顔して、

「おじちゃん、これ2つちょうだい!」

「あいよ」

 エミリーが銅貨で支払うと、屋台のおじさんがすぐに紙に挟んで渡してくれた。

 セシリアがポケットから財布を取り出そうとすると、

「あ、いいのいいの。これも授業料だから気にしないで!」

 そういってエミリーが受け取ったパンの1つを手渡してきて咄嗟に受け取ったため、財布を出すタイミングを失ってしまった。

 二人で一緒にパンを頬張りながら通りを歩く。

(なんだか昨日食べたのよりもおいしく感じるな)

 セシリアはその理由なんだと思う隣に並ぶ子を見る。

「ん?おいしいよね?」

「うん、おいしいよ、すごく」

 二人は笑い合って、またパンを頬張りながら、大通りを並んで歩いた。


 エミリーとセシリアは屋敷に戻り、エミリーの部屋で勉強を再開した。午前中にセシリアが予想した通り、想定よりも早く進んでいた。エミリー本人が苦手だと言っていた数学もそんなに悪くないどころか、少しヒントを出すだけですぐに理解が出来ていた。

(直感が優れているのかな。それは学者としては強い武器なんだよね)

 セシリアは自分には弱い特性をエミリーに見いだしていた。セシリア自身は理詰めで理論を構築していくタイプだ。しかし、世の中で名をはせる著名な学者は、最後は直感で何歩も先に飛んでしまういわゆる天才タイプだったりする。

(この子に何ヶ月も何年も教え込んでいったら、ひょっとして……)

 そんな空想も抱き始めたセシリアだった。

 そして、外は暗くなり、お腹もすいてきた頃合いだったので、ここで初日の授業は終了となった。

「はい、おつかれさま。思ったより出来るじゃない」

 セシリアは初めての生徒を持ち上げすぎず、かといって厳しくもないぐらいで褒めた。

「ほんと?!」

 何時間も勉強して少し疲労感が顔に出ていたが、ぱっと明るい表情を見せた。

「ええ、実は2~3日ぐらいの分量かなと思っていたのが、今日1日で終わっちゃった」

 エミリーには感覚的に自分にはよく分からなかったが、セシリアに褒められたことはただただ嬉しかった。

「これならこの入門書の分は1週間で終わるんじゃないかな」

「そんなに早く?!」

 エミリーは海賊になる夢に一歩でも近づけたことが嬉しかった。ここしばらくは難解な天文学の本と格闘したのと、海賊のコートを買ったことだけで進展がなかったからだった。

「それじゃあ明日も頑張ろうっと」

 エミリーはセシリアを先生として絶大なる信頼を寄せていた。セシリアも出来の良い生徒を持って嬉しく、もう弟子にしてしまいたいと思うぐらいだった。

「さてと、そろそろ晩ご飯を食べよっか?」

「うん、そうね。大通りまで出るの?」

「いや」

 そういってエミリーは立ち上がった。

「私が作るよ」

 セシリアは驚いた。

(まだあどけない顔をしたこの子が料理を?)

 などと、失礼な感想を抱いていた。また、昨日のゴロツキ相手の戦いも思い出し、ますますイメージが一致しないのだった。

 しかし、そのような勝手な想像は的外れで、エミリーの作る料理は満点で、レストランの味とも引けを取らないとセシリアは感嘆した。

「ほんと、このシチューすごくおいしいわ」

「えへへ、ありがと。セシリアの口に合って良かったよ」

 セシリアにとっては家庭の料理は、研究院に入ってからはたまに実家に帰ったときに食べられるぐらいのものになっていた。それが自分よりずいぶん年下と思われる子から振る舞われるとは思っていなかった。

「明日もこんなにおいしい料理が食べられるのかな?」

 少し欲が出てしまった気もしたが、そう尋ねると、

「もちろん!セシリアが食べたいって望んでくれるのなら」

 そう笑顔で返してきた。

「お願いします。食べたいです」

 セシリアはもう涙が流れそうになるぐらい幸せを感じていた。


 その夜、セシリアはエミリーが用意してくれた部屋で眠った。商家だからいろんな人が訪ねてくるのだろう。上等な宿の一室のように整った部屋だった。ベッドもふかふかで、自宅よりも快適ですぐに眠りに落ちた。

 翌日も朝からエミリーに航海天文学の基礎を教え、昼は大通りの屋台を巡ったり、また夕方まで勉強を続け、夜にはエミリーの手料理が振る舞われ、居間のソファでくつろぎながらいろんな話をしたり、そんな日があっという間に過ぎていった。

 セシリアが立てた予測通り、ちょうど1週間後にはエミリーに上げた本の最後のページに到達した。

「おめでとう。これで一通りの基礎は身についたはずよ」

 セシリアは自信を持って自分の生徒をねぎらった。

「ほわぁー、終わったぁー」

 エミリーも気が抜けて、椅子の背にもたれかかるように身を預けた。

「あとは実地でこれまで学んできたことを思い出しながらやっていけると思うわ」

 ただ、そういったセシリアだったが、彼女自身は実地経験がないため、確実にそうだとは言い切れない一抹の不安はあった。

(たぶんいけるはず。それにエミリーだったら持ち前の行動力でどんな難題だって乗り越えていけると信じられるかな)

 そのようにセシリアは感じていた。

「はぁー」

 まだエミリーは気が抜けていた。やり遂げたという満足感でいっぱいだった。

「今日はもう疲れたでしょ?本当は私が料理できればいいのだけど、それは無理だから……今晩は外に食べに行きましょうか?」

「うん、そうしそう」

 そのあと少し休んで、二人は通りのレストランに入った。

 エミリーが「今日は最後の夜だから何でも頼んでいいよ」と言ったその表情が少し暗かったのは、たぶん疲れているからだろうとセシリアは思うことにした。

 そして、豪華な夕食も終わり、二人は屋敷に戻った。


 セシリアは名残惜しいが、明日ここを出るのだからと帰宅の準備を始めた。

(あ、そうだ、私の文具はエミリーの部屋の机に置いたままだった)

 そう思い出し、セシリアはエミリーの部屋に行き、ドアをノックした。

「エミリー?まだ起きてる?」

 少し小声で尋ねると、

「起きているよ」

 という返事があったので、静かにドアを開け中に入った。

 部屋に入ってみると、エミリーはベッドの上に寝転がり天井を見上げていた。

 セシリアも見上げると、天井には世界地図が貼られていた。以前から少しは気になっていた。世界地図はそれなりに高価なものだ。まず庶民には買えるものではない。セシリアの実家には何枚かあったが、それを天井に無造作に貼り付けられているというのは、さすがに大商人のお家だなぁと改めて思った。

「エミリーは何を見ているの?」

 子供に接するように優しく尋ねる。

「ん?……こっちに来てみて?」

 そう言われ、セシリアはベッドに近づいて見上げる。かなり精巧に作られた世界地図だった。各大陸の周りに絵も描かれていて、芸術品でもあった。

「ずっと見上げていたらしんどいでしょ?アタシの横で寝転がりなよ」

 エミリーにうながされたが、セシリアは女の子と同じベッドで寝転がるのはどうなんだろうと一瞬とまどったが、エミリーが何か話したそうにしている表情に見えて、うなずいてゆっくりとベッドに寝転がった。

 エミリーはまた天井を見上げ、話し始めた。

「これはアタシが子供の頃に、父親から誕生日プレゼントとしてもらったものなんだ」

 昔を懐かしむようにぽつぽつと喋り始める。

「アタシが海賊に憧れていることを知って買ってくれたんだと思う。あとで思ったんだけど、これちょっと高いものだよね?」

「……うん、ちょっとどころかそれなりに?」

「やっぱりそうだよね」

 セシリアは横目でエミリーの方を眺めると、ちょっと苦笑いをしていた。

「アタシの父親はちょっと親バカだったと思うよ」

 少し沈黙が続いたあと、エミリーは話を再開した。

「このプレゼントをもらってから、毎日毎晩ずっとこの地図を見ていたんだ。でも全然飽きなかったよ。むしろどんどん想像が膨らんで、あそこの場所はどんな風景なんだろう?そっちはどんな国なのかなとか、ずっと考えてた」

 エミリーは腕を伸ばし、天井の地図の場所を指し示した。

「たぶん、あの辺りが昔父親に連れて行ってもらったところだと思う」

「え?どこ?」

 エミリーはセシリアに密着するように身を寄せて、自分の指を指す先を示した。セシリアは少し鼓動とは別の落ち着かなさを覚えた。

「あそこがアタシ達のいるイングランドでしょ?その右下あたりがフランス。その沿岸部は二回ぐらい行ったかな」

 楽しそうにエミリーは話し続ける。

「でも、行った場所のすべてがどこだったかまでは覚えていないんだ。すごく綺麗な景色だったのは覚えている。でも地図の上でどこだったかは分からない。だからもう一度、見てみたいんだ」

 セシリアはエミリーが海賊になりたい理由が、単に憧れだけではなく、もっと別の理由もあるのだと分かり始めた。

「それに、アタシがそれまで知らなかったあんな綺麗な場所があるのなら、さらにもっと素敵な場所もあるのだと思うんだよね。だから行けるところは全部行ってみたい」

 エミリーの願望はとてもまぶしく、そして美しくセシリアは感じた。

「エミリーなら行けるよ」

 エミリーは腕を下ろし、セシリアの方を向いた。

「そうかな?」

「先生の言うことが間違っていたことがありますか?」

 少し茶目っ気を出して言ってみる。

「先生はいつも正しいよ」

 エミリーが笑って答える。二人とも笑っていた。

「今日が最後だよね?」

 エミリーは少し寂しそうに尋ねる。

「別にもう会えないってわけじゃないでしょ。同じロンドン市街に住んでいるんだし、いつでも会おうと思えば会えるよ」

 そう言いながらもセシリアも寂しさを感じていた。

「そうだけど……ねえ、今日だけここで一緒に寝てくれない?」

 間近でまっすぐに見つめてくるエミリーにセシリアはまた心臓がドキドキしてくる。

(こんなお願い、断れるわけないじゃない)

「うん、いいよ」

 即答だった。二人は手を握ってそのまま眠りについた。


 少ししてセシリアの目が醒めた。まだ朝にはだいぶ早い。目覚めた理由は、隣で眠るエミリーからの漏れる寝言だった。

(なんだか子供っぽくて可愛いな)

 セシリアがそう思いながらエミリーの顔をじっと眺め続ける。ふと、エミリーからまた寝言が聞こえた。

「パパ……」

 そのはっきりと聞き取れた言葉にセシリアは突き動かされ、エミリーの頭を優しく抱きしめ、額にキスをした。

(妹ができるってこんな気持ちなのかな)

 そんな思いを抱きながらセシリアもまた眠りに落ちた。


 セシリアが目を覚ますと、視界にはエミリーだけが見えた。

(ここは天国なのかなぁ)

 そんな寝ぼけた状態から少しずつ覚醒していく。

「あ、あの、セシリア……さん?」

 顔を真っ赤にしたエミリーが戸惑った様子でセシリアに声をかける。

「あ、あのー、起きてる?」

 セシリアはまだ夢の中から完全には覚めていなかった。

(天使のような可愛い声が聞こえるなぁ、ふふふふふ)

 そういいながら無意識にエミリーを抱きしめる力が強まる。

 エミリーはもう限界だと思って抵抗する。

「セシリア!セシリア!起きて!アタシを離して!」

 その声でようやくセシリアが目を覚まし始めた。

(ん?エミリー?……ああ、そうだった、エミリーを抱きしめたまま眠ってしまったんだった。それにしても柔らかくて温かくて気持ちいい……)

 セシリアはまだ夢見心地だった。

「起きて!セシリア!」

 今度はエミリーが強い力でセシリアを押し出して、ようやくエミリーは解放された。

「ん……ああ、おはようエミリー」

 まだエミリーは恥ずかしさでセシリアの顔がまともに見れない。

 セシリアの方はエミリーのことをもはや完全に実の妹だと思い込んでいるぐらいで、特に恥ずかしさも何も感じていなかった。


 セシリアは一度自分のために用意してもらっていた部屋に戻り、身支度を調え、大きなカバンも持ち居間に向かった。

 二人はテーブルを挟んで軽い朝食を取った。いつもより言葉数が少なかったが。

 食事も終え、紅茶も飲み、次第に話も途切れ、二人の間に無言の時間が流れる。

 セシリアはここがいいタイミングだろうと判断し、立ち上がった。

「じゃあね、エミリー。私もう行くわね。また会いましょう」

 そういってソファの横に置いていた重い鞄を持ち上げ、向かいに座るエミリーの横を通り過ぎた。エミリーはうつむいたままで目を合わせてくれなかったし、何も言ってくれなかった。

 エミリーは居間のドアを開けて出ていこうとしたその時、

「ま、待って!セシリア!」

 エミリーは立ち上がってセシリアに駆け寄った。

 振り返ったセシリアの目に映ったエミリーには今にも捨てられそうな子犬のような不安な表情が見て取れた。

(そんな顔をして欲しくないのに……)

 セシリアは冷静さを装いつつ、エミリーの言葉を待った。

「あのさ、セシリア。これからもずっとここで暮らさない?」

 その提案はセシリアにとって十分すぎるほど魅力的だった。しかし、セシリアにとっては自分を納得させられるだけの理由付けがなかった。

「エミリー、でも私にはあなたに教えられることはもうそんなに残っていないよ」

 優しく諭すように伝える。

「そんなことないよ!まだまだ分からないことがいっぱいあるよ」

 子供のように反論する。

「私の天文学はもっと幅が広くて、あなたが知りたい航海天文学はそこまで詳しくないんだよ」

 エミリーは必死に考える。

「じゃあさ、セシリアがそれを学んでよ。そしてそれをアタシに教えてよ」

 セシリアはこれからの自分の人生を考えた。もう王立研究院に戻ることは出来ない。学者としての道は閉ざされようとしている。あとは実家に戻り、何年かして縁談の話が持ちかけられて結婚して、子供を産んで、年を取っていく。それは自分が望む未来なんだろうかと、暗くて深い海に沈み始めた気分だった。

(いったい私は何がしたいんだろう)

「エミリー、私がこれから航海天文学を学んでも、また学者に戻れるとは思えないんだ」

 セシリアは学者への未練を捨てきれていなかった。しかし、一から航海天文学の分野に飛び込んだところで、最初の論文を出すまでに何年かかるのだろうかと。それまでに挫けずにやっていける気力も潰えそうになっていた。

 エミリーは何かを思いついたように、セシリアの目を真っ直ぐ見て告げた。

「アタシの航海士になってよ!」

 セシリアにとって思いもよらなかった提案に、頭の中が高速に考え始める。

(私が、航海士?)

 航海をするだけなら航海天文学という学問を究める必要はない。実践を補うのに十分な理論と知識を手に入れるのならそこまで時間はかからない。成れるか成れないかでいえば成れる。

「いや、でも、私は実務経験がないんだよ」

「それはアタシが教えるよ。二人で足りないところを補えば航海は出来るよ!」

 セシリアの心は揺れ動いた。新しい自分の人生の道筋に光が差し込んだように思えた。自信はない。でも、エミリーと一緒なら出来そうに思えた。

「でも私は海も見たことがない素人同然だよ?」

「だったら行こうよ!一緒に青い海を見に行こうよ!」

 セシリアは直視したエミリーの青い瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥った。そして、その青い瞳の向こうに、本物の海が広がっているように見え、セシリアの視界いっぱいに青い海と青い空が覆った。

 セシリアは驚愕した。これは白昼夢のようなものなんだろうかと。敬虔なキリスト教徒であればそれを幻視と言ったかもしれない。

 絵でしか見たことがない青い海が、まざまざと現実であるかのように眼前に広がる。潮風が吹き、心地よく頬をくすぐる。セシリアは自分の足元を見た。そこは船の甲板の上だった。再び視線を上げたとき、目の前にはエミリーがいた。青い海賊コートと青い海賊の帽子を被っていて、両手を広げてこちらを見て笑っている。どうだ、海ってすごいだろ、と言っているように思えた。

「アタシはセシリアと一緒に海に行きたいんだ!」

 叫ぶような声が届いた。一面の青色は消えていき、気づけば目の前にいるのは青い髪と青い瞳のエミリーだった。そこは見慣れた室内だった。

 エミリーの目には涙が溜まっており、いつあふれ出すか分からないぐらいだった。

 セシリアは自分でも気づかないうちに涙が流れていた。

(あれは私の未来なの?)

 セシリアは消えてしまったまぼろしを必死に思い出そうとした。しかし、夢のように次第に意識から消えていく。でも、強烈な青い色と海風の感触、そしてエミリーの笑顔だけがわずかに記憶に留まった。目の前にいる泣きそうなエミリーの表情とは正反対だった。

「エミリー、私……私も見たい」

「……ほんと?」

 セシリアはゆっくりうなづいた。

「うん、見たいよ。青い海。それに青い空も」

 エミリーからも涙がこぼれ始めた。

「見よう。見に行こう」

「うん、一緒に行こう」

 エミリーは必死に抑えていた涙を、もう止めることができず、声を上げて泣き始めた。セシリアはたまらずエミリーに駆け寄り、強く抱きしめた。エミリーも強く抱き返し、セシリアの胸で泣き続けた。


 そのあと、セシリアは自分の荷物を置きに、もう自分の部屋のように愛着を感じ始めている場所に戻り、カバンを下ろすとすぐに居間に引き返した。

 二人はソファに並んで座り、これからどうしようかとか、まずは船を手に入れないといけないね、などと希望に満ちた未来を想像しながら楽しくお喋りをした。

 エミリーはひとときもセシリアから離れたくないかのように、ぴったりと体を密着させていた。セシリアは昨日の夜のベッドの上で体を寄せ合って寝たことも思いだし、心がドキドキしていた。

 セシリアは恋をしたことがなかった。男が苦手というわけではなかったが、学問の世界で、男はライバルでしかないと見なしており、また学問に没頭しており、そんな気持ちが浮かぶこともなかった。

(これって恋なのかな……)

 セシリアは自分の中に生まれた感情にとまどっていた。

(いやいや、この子は妹みたいなものなんだ。実の妹なんだ。そう妹……妹?)

 そこでふと疑問が浮かんだ。セシリアはエミリーの顔を改めて見ながら、

「ところで、エミリーって何歳なの?」

「ん?言ってなかったっけ?」

 セシリアはうなづいた。

「21歳だけど?あ、もうすぐ22になるかな」

「は……はあぁぁ!?」

 セシリアは珍しく大きな声を上げてしまった。

(21?!私の1歳下でしかないのっ?!)

 セシリアはあり得ないと思った。10代後半か、もしかしたら10代半ばかなと思っていたのだ。身長はセシリアより頭一つ分ほどは低いし。セシリアはまじまじとエミリーの顔を見る。エミリーが顔を少し赤らめて恥ずかしそうに目をそらした。

(大きな瞳に、長いまつげ。小さくて可愛い鼻に、笑うととても可愛い口。え?本当に21歳?)

「本当なの?本当に21歳なの?数を数え間違っていない?」

「失礼だよ!いくら数学が苦手でも自分の年を間違えるなんてないよ!」

 その怒った顔も可愛かった。セシリアは思わず、両手でエミリーのほっぺたを挟む。

(それになに?このほっぺた。もちもちですべすべでふわふわ。まるで赤ちゃんの肌みたい)

 セシリアは研究院勤めの時は仕事が深夜にまでおよぶこともあり、肌が荒れることに悩んでいた。

「エミリーは肌荒れってしたことがないんだろうね」

「……肌荒れってなに?」

 さらにセシリアは落ち込み、うなだれた。その視界いっぱいに、エミリーの身長には不釣り合いなほど大きな胸が入り込んでくる。胸の谷間もある。

「あっ、あの、セシリア?あんまり私の胸ばかり見られると恥ずかしいっていうか……」

 セシリアは顔を上げて再びエミリーの顔を見る。

(でもやっぱり可愛いわね)

 むぅとほっぺたを膨らませたエミリーがお返しにと、今度はセシリアのほっぺを両手で挟む。

「んんっ」

「セシリアだって綺麗なんだから。美人だし。鼻筋が通っていて、口も小さいし。それに……」

 そういってエミリーは片手をセシリアのほっぺから離し、髪を撫でた。

「この濃い茶色で真っ直ぐな髪の毛。すごくきれい」

 うっとりとするようにエミリーは何度も上から下に髪を撫でる。

 セシリアは他人から褒められるなんて経験はほとんどなく、しかもそれが年下の女の子であることに恥ずかしさがこみ上げても来た。でもそれがエミリーであることが嬉しくてたまらなかった。

「それでエミリーは何歳なの?」

「1つ違いだよ。22」

「……えっ」

「……今の間はなにかな?」

 セシリアの顔はちょっとひきつった。

「あっ、いや、想像していたのとはぴったりだなーって。うん、22歳だよね。22歳。ぴったり」

 セシリアの心にいくつもの複雑な感情が混ざり合いつつあったが、深呼吸して自分を落ち着かせた。

「まあ、いいわ。肌荒れにいい化粧品は庶民には手に入れるのは難しいだろうなぁ」

 しかしセシリアはまだ心にわだかまりがあり、口からつい出てしまった。

「化粧品?」

「うん、貴族様ならポンと買えるんだろうけどね」

 エミリーは何かを思い出すように上を見上げ、あごに手を添えた。

「うーん……あっ、昔、父が取引していた商品の中に化粧品ってはあったかも」

「へぇ、でもそれは貴族御用達の商品だったんでしょ?」

「そうだけど、フランスの街で買い付けていたところは普通のお店みたいなところだったよ」

「それって庶民でも買えるの?」

「どうかなぁ。でも大量に買い付けるのなら安く買えるよね。自分が使う分以外は売ればいいんだし」

(そうか、海賊を目指すっていっても別に商売してはいけないわけじゃないんだ)

「行こう、フランスへ」

 セシリアの決心は固かった。

「セシリアが海賊になるの乗り気になってくれて嬉しいよ!」

 エミリーは力いっぱいセシリアに抱き付いた。

 セシリアの頭の中は未来のことでいっぱいだった。青い海も見たいし、見に行きたいところもあるし、欲しいモノも出てきた。

(私ってこんなに貪欲な女だったかしら)

 エミリーの頭を撫でながら、これからのことに思いをはせるのだった。

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