響と御桜館
春風が桜の花びらを運んでくる。
陽光に照らされる白い洋館に映える濃桃色。晴れ渡る青空の下、新たな生活を迎えようとしている少女達を祝福するかのよう。
「なあ、妃」
「何ですの、響さん?」
「本当にここで合ってるのか?」
「確かのここのはずですけど……」
キャイキャイと燥ぐ少女達に混ざって、怪訝そうな表情を浮かべている少女が二人。
宮辺響。寝癖を直していないかのようなぼさついた黒髪を適当に一つに纏めた不愛想そうな少女は、手元の住所と目の前の洋館を何度も交互に見比べている。
そんな親友の困惑に、滋野妃はさもありなんとばかりに苦笑する。鮮やかな金髪に宝石のような青い瞳、透けるような白い肌はまるで神話の女神のような美しさ。そんな世界有数の大財閥たる滋野財閥の御令嬢も、目の前の洋館の立派さは想像していなかった事であった。
彼女達が案内を頼りにやってきたこの屋敷。御桜館というらしいこの建物は、今年入学した堅洲高校が用意した学生寮の一つである。
築百数年経っているのにも関わらず、太陽の光を反射する白い壁の輝きは新築物件を思わせる程に年月の経過を感じさせない。
広大な庭の無機質な単調さを、やや緋の色の濃い桜の大樹が和らげていた。
どう見ても名家の御屋敷とでもいえるような、立派な洋館だ。
思ってもいなかった好物件に、ここを勧められたのであろう他の新入生達は喜びに浸っている。
何故、そんな好物件を響が怪訝そうに見ているのかというと。
「何度確認してもここだな……一番寮費が安い場所を選んだはずなんだが……」
「ですわねえ」
余りにも破格な寮費の安さが響の不信感を煽っていたのだった。
響には親の残した莫大な借金がある。各方面で膨れ上がったそれの支払いを妃の祖父が肩代わりしてくれたのだが、そのまま好意に甘えている訳にはいかなかった。支払先が一本化され、暴利が無くなっただけでも有難い。響は一生をかけて恩人である滋野老人に金を返すつもりだ。
貸しを作るつもりなど毛頭なかった滋野老人だったが、響の決意が固いと見るや一つ条件を出してきた。ちゃんと大学まで卒業する事。そして、その為に滋野老人が出す学費を拒否しない事。それを受け入れなくば、響からの返済金は受け取らないと言ったのである。
思ってもいなかった提案に戸惑った響だったが、成程。中卒の身ではろくに金も稼げない。せめて大学まで出てしっかりとした仕事を得られるようにしなければ、借金返済も夢のまた夢である。独り立ちした後で学費も返済すればいいだけの事。亡父の残した借金と比べれば雀の涙もいい所だ。
とは言え。恩人の出してくれる学費で贅沢する等という気には微塵にもならない。高校もできるだけ学費の安い堅洲高校を選んだし、三年間生活する寮もまたしかりだった。
雨風凌げる壁と屋根があればいい。そんな考えで選んだはずの最安値の寮が、目の前にある御桜館だったのだ。
困惑するのは妃も同じだった。一代で財閥を創り上げた現代の巨人、滋野清玄。世界有数の冒険家でもある彼に憧れている妃の夢は、祖父と同じく立派な冒険家になる事だ。
不自然なまでに入試が簡単で、かつ学費も安い堅洲高校。才色兼備な妃が名門高校ではなく敢えてここを選んだのは、堅洲の地で冒険家としての修業を積む為であった。
何しろ堅洲町はインターネット上で呪われた町として有名なのだ。如月市自体、怪奇事件の発生率が高い傾向にあるのだが、その中でも堅洲町は突出していた。未知なるものを求める好奇心が、妃をこの地に呼びよせたと言っても過言ではなかった。
また、冒険家は時として屋根も壁もない場所で長時間過ごさねばならない。それに慣れる為、まずは格安物件での暮らしで今までの優雅な生活からの脱却を図ろうとしたのだが、その思惑は外れてしまったようだ。滋野の実家とは比べ物にならない程小さいとはいえ、この立派な館では冒険家の修業にはなりそうにもない。
屋敷の中はよく整理されていた。各々が荷物の整理をしようと部屋に各部屋へと姿を消していく。
「外見だけで中身は値段相応にボロボロ……ってなわけでもないな」
「綺麗に掃除されていますわね。塵一つ落ちていませんわ」
染み一つない小奇麗な壁。どこまでも続く白い壁に妃が感嘆の声を上げていると、会話に割り込んでくる者があった。
「えへへ~すごいでしょ~!」
満面の笑みで語り掛けてきたのは、小柄な少女だった。何とも気が早い事に、入学式前だというのにもう制服を身につけている。と言う事は、響達と同じ新入生なのだろう。しかし、その体格は余りにも小さい。制服を着ていなければ、小学校低学年で十分に通用するような見た目である。
「すごいでしょ、すごいでしょ! ぴっかぴかでしょ!」
「……おいチビ助」
「ちびすけじゃないよ、環だよ! 加藤環!」
「そうかよ。で、タマ。なんでお前が得意げなんだ?」
「だって、私もここのおそうじ手伝ってるんだもん! てーきてきにおそうじしにきてるんだ~!」
「ほーん……じゃあお前、ここが何でこんなに安いのか知ってないか?」
「しってるよ!」
「マジか?」
「うん。だってここ……」
「きゃああああああ!」
環の言葉を遮るかのように、少女の悲鳴が木霊した。
駆け付けた響達が目にしたのは、へたり込んでいる少女の姿。
「おい、どうした?」
くすんだ金髪の少女があわあわと指差した先には、部屋にしつらえられた鏡。
悲鳴を聞いて集まってきた女学生達が騒めきだす。
鏡には血文字で『御桜館へようこそ!』と書かれていた。
「手の込んだ悪戯……って訳ではなさそうだな」
「な、何もしてないのに急に血が……本当なんです、信じて下さい!」
緑色の瞳に涙が浮かんだ少女を宥めながら、鏡に視線をやる響。
「まあ! どんな仕掛けなのでしょう?」
興味津々と言った様子で鏡に近付き、妃は好奇心に任せて鏡をぺたぺた触れて確かめる。
何の特徴もない普通の鏡だ。トリックなどを施した痕跡もない。
「何、なんなのこれ? 私、どうしたらいいの?」
混乱している少女に、環はにっこり笑って答えた。
「よかったね! Qちゃんかんげいしてくれてるよ!」
「よ、よくないよ~!」
「てかQちゃんってなんだよ」
「QちゃんはQちゃんだよ! 御桜館にずっと住みついているんだ~」
答えになっていない。もう少し詳しく聞き出そうと響が環に詰め寄ろうとしたその時。
「うぎゃああああああ!」
緑眼の少女よりも鬼気迫る悲鳴が、隣の部屋から聞こえてきたのだった。
「今度は何だ?」
駆け付けた響達に一人の女生徒が腰を抜かしながら助けを求めてくる。
今度は指差してもらうまでもなかった。
ベッドの下に何かがいる。爛々と光る目を輝かせたそれは、響達の姿を認めるとぬるりとベットの下から抜け出し、一同の前に立ちはだかった。
ぼんやりとした輪郭の人型の何か。地の底から響くような声で「ニクイ……ニクイ……」と繰り返している。
まるで少女達を威嚇するような人型。じりじりと迫ってくるそれに、少女達は固まっていた。
ただ一人、響を除いては。
響は肩から下げていた鞄の中から小瓶を取り出すと、その中身を人型にぶちまける。次の瞬間、人型の姿に異変が起こった。ぼやけていた輪郭がしっかりとした形を取り戻していく。今、少女達の目の前にいるのは同世代程の少年のようだった。
呆気にとられている少年。響はその肩を荒々しくつかむと、その股間を豪快に蹴り上げた。
「NOOOOOO!」
絶叫と共に蹲る少年を睥睨する響はドスの効いた声で問いただす。
「おう変質者。何の目的であんな場所に潜んでた? 答え次第じゃただじゃおかねえぞ?」
「に……憎い……女生徒が憎い!」
「はあ?」
「俺が一体何をしたって言うんだ! 毎日ぱしられ、虐められ……あいつらはついに俺を自殺に追い込んだんだ! だから怖がらせてやるのさ! 一生付きまとって、女共の人生を滅茶滅茶にしてやるんだ!」
「……成程な。復讐が目的って訳か。で、だ」
響が項垂れる少年を襟首を掴んで立ち上がらせる。
「その制服は何だ?」
「え、えと……」
「お前の制服、堅洲高校のじゃないよな?」
響の記憶によれば、彼の着ている制服は如月市内の別の高校のものだった。
「その制服、生前に着てた奴だよな? だったらお前を虐めていた連中てのは堅洲高校の女生徒じゃないんだろ? 違うか?」
少年は瞳を逸らす。霊だというのに脂汗がだらだら垂れてくるのは、あの粉末の効果なのだろうか。
「復讐対象ほっぽり出して、お前はこんな所で何がしたかったんだ?」
「……だって、アイツら怖いし……」
響の口角が吊り上がる。笑みを湛えた唇に対し、瞳は決して笑っていない。
「つまり鬱憤を晴らしたくても怖くて晴らせないから、妥協して代わりの女生徒を脅かしていたと。そうかそうか。お前はそんな奴なんだな」
響は拳を振り上げた。
「すごいすご~い! ゆーれーやっつけちゃうなんて、ヒビキちゃん魔法使いみた~い!」
「みたいじゃなくて魔術師なの。まったく、くだらねえ事で手間かけさせやがって……あの粉いくらすると思ってやがるんだ」
「まあまあ、無事に解決したのだから良かったじゃありませんか」
ブツブツと恨み言を口にする響。あの後、実体化した自殺霊の少年をボコボコに伸して玄関から放り出したのである。
「うわーん! もう来ねえよ!」と捨て台詞を吐いて走り去っていった少年霊の背後に塩を投げつけ見送った後。少女達は不安そうな顔で客間に集まっていた。
あの後で各々が部屋を調べてみた結果。この館がどこかおかしいと気付くには、十分な量の物的証拠が残されていた。
幽霊を力尽くで黙らせた功績を買われた響が試しに無人の部屋を探索してみると。奇妙な人形がびっしりと並べられた部屋。窓一つなくお札で埋め尽くされた部屋。字を思わせる形の血痕が拭き取られた跡がある白い部屋等が見つかった。
加えて、前の住人が残したと思わしき手記の数々。襲い来る無数の怪異や自殺や失踪、発狂といった過去の住人の悲惨な末路の記録……よもや、先程の心霊現象はこの館では珍しくもない出来事なのだろうか?
「こうなってくると、庭に咲いてる桜にも何か曰くがありそうだな」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている……ですか?」
怪異と出会えて些か興奮した様子の妃の言葉に、少女達の顔が青ざめる。
怯える彼女達の不安を掻き消そうとしたのだろうか、それともただの天然か。環があっけらかんとした調子で断言した。
「そんなことないよ! たしかにちょっとお花の色が赤っぽいけど、死体なんてうまってないって! しょせんはうわさなんだよ!」
「噂はあるんじゃねえか……そう言えば、まだ答えを聞いていなかったな。なんかもう大体察しがつくんだが。タマ、この寮が格安なのは何でだ?」
「それはね! この御桜館が堅洲町最大の事故物件だからだよ!」
満面の笑みを湛えて、環はそう答えたのだった。
『御桜館……まこと広うなり申した……』
しみじみと語ってくる壁の血文字。あの後も頻発する怪奇現象に襲われ、一人、また一人とこの寮から逃げ出す少女達。
結果、残ったのはたったの四人。怪異慣れした響と環、恐怖心よりも好奇心に駆られている妃。そして。
「響ちゃ~ん……またお願いできる?」
くすんだ金髪と碧眼を持つ垢抜けない印象の少女、来栖遼だけだった。
部屋の整理がまだ済んでいないというのに、もう五度目の怪異に襲われていた彼女。申し訳なさそうに響に解決を求めてきたのである。
「へいへい。しっかし、お前も変な奴だな。そんなにビビってんなら他の奴らみたく別の寮に引っ越した方がいいんじゃないか?」
遼は俯いて答える。
「あの……お金、あんまり持ってなくって……ここ以外の寮に移っちゃうと趣味に使えるお金が……」
「あ~その、なんだ。貧乏ってつらいよな……」
どうにも経済的な面で他の寮には移れないらしかった。
「何度も何度も御免ねえ……」
「お前が謝るもんでもないだろ? で、今度はどんな異変だ?」
「うん……何か、脛の辺りをゾワゾワするモノが通り過ぎていく感じが何度も何度も……姿は見えなかったんだけど、気のせいには思えなくって……」
同じく金に困っている者同士。遼に多少の同情を抱きつつ彼女の部屋に移動すると。
「まてまて~!」
環が奇妙な毛玉を追いかけていた。犬とも猫とも付かない毛むくじゃらな小動物である。
一頻りじゃれ合った後、満足したのだろうか。その毛玉は環の腕の中に納まり、心地よさそうに一声鳴いた。
「……こいつが原因か?」
「……そうかも」
「おいタマ。Qとかと同じでそいつもお前の知り合いか?」
「しらな~い。ついさっきしりあったばかりだよ~」
毛玉をもふってご満悦の環。響が手を下すまでもなく怪異が解決した訳だが、だからと言って次が無いとも言い切れない。
このままでは怪異に振り回されるだけで、部屋の整理もままならないだろう。果たしてどうしたものかと響が考えていると、環と目が合った。
「……そういや、タマ。お前、定期的ここの掃除に来てるんだよな? 普段はどうやって怪異を凌いでいるんだ?」
「鯖江道にいる魔法使いのみんながてつだってくれてるよ! でも、いくらおっぱらっても、次から次にいろんなお化けがやってくるの」
「それを捌きながら掃除してたのか? 何とも大変だな」
「おそうじのときにはお札をつかうんだよ! あれをはるとお化けとかはよってくれなくなるから」
「札? そいつはこの館に残ってないのか?」
その問いに応えるかのように、壁に血文字が現れる。
『たしかケロッパとカメッパが余ったのをまとめて預かってたはずだよ? タマちゃんお願いしてみたら?』
「うん! そうするね、Qちゃん! みんな、こっちこっち!」
「わわっ!」
遼の手を取って、環は階段を駆け上っていく。
壁に残された血文字を見て、これ誰が消すんだと頭を悩ませる響であった。
「ケロちゃ~ん! カメちゃ~ん! いる~?」
二階の一室にて、環は天井に向かって声を上げた。
ガタリと音がして、天井板が開かれる。
屋根裏の暗闇から響達を覗く四つの瞳が見えた。暗がりに紛れてその輪郭は確認できないが、人ならざる形をした存在が二体、少女達を見下ろしているのがわかる。
片や牛とも蛙ともつかない角の生えた生物。片や亀のような形状の黒い長毛に包まれた生物。ケロッパにカメッパ。どちらがどちらを指すのかは響にも容易に判別できた。
「ねえねえ! おそうじにつかってたこくりこ神社のお札、のこってない?」
そんな声に応えるかのように闇の中に引っ込む怪物達。しばしガサゴソと音がした後、屋根裏から続く黒い長毛に包まれて古びた箱が床に置かれた。
「ありがと~!」
ぱたぱたと天井に手を振る環に答えるように奇怪な鳴き声が聞こえた後、天井板が元の位置へと納まる。
早速箱を開けると、そこには束になった魔除けのお札。
「どうやって使うんだ、これ? 呪文とかいるのか?」
「お化けがでたらちょくせつはるだけでいいんだよ! これをもっているだけでもふつうのお化けはちかづけなくなっちゃうんだ!」
「……屋根裏の奴らは普通のバケモンじゃないって事か」
「じゃあお札はみんなできんとーにわけるよ!」
響の懸念を気にする様子もなく、環は遼に札を手渡した。次に妃、その次は。
「はい、ヒビキちゃん!」
「ん。そおい!」
早速一枚、響は環の後ろの壁に札を貼り付けた。
背を向けていた環達に気付かなかったが、響はジワジワと壁に無数の線が入っていくのに気が付いていた。初めはQの仕業かと思ったのだが様子が違う。
それは瞳だった。一つ一つ瞼が開かれ、ギョロリギョロリと周囲を見渡しニタニタと笑っている。気色悪い事この上ない。
害が有るのか無いのかは分からなかったが、札を試すのにはちょうどいい相手であった。
はたして、効果は抜群だった。壁に札が貼られた瞬間、瞳達は瞼を閉じて消えて行く。それと同時にけたたましい音が響いた。何事かと環達が後ろを振り返ると、そこには無数の碁石が床に散らばっていた。
「霊験あらたかってか。こりゃ便利だな」
「えっと、よく分からないけど……響ちゃんがそう言うなら効果は確かなんだよね? ここからは何とか自分でお化けに対処してみるよ」
「おう。頑張れよ、ハル」
「とは言ってみたものの。問題は全然解決していないんだよな……」
妃と共に食料の買い出しに出かけたその帰り道、暗くなりつつある空を仰ぎながら響は溜息をつく。
確かに札には効果があった。しかし、札一枚で対処できる怪異は一体までのようである。あの後も立て続けに起こる怪異。自分の使える魔力にも限界がある為、響も札を用いて対処してきた訳なのだが。
「まだまだストックがあるとはいえ、あの調子で怪異が発生し続けるんじゃな……」
札の数は有限である。この調子で怪異が湧き続けるのでは、札は三日も持たずに尽きるだろう。
また、景観的にも良くない。あちこちに魔よけの札がベタベタと貼り付けられた部屋で三年間も生活する気には流石になれなかった。
問題はまだまだある。
「Qさんの話では、これでも怪異は随分と大人しいとの事でしたものね。それにカメッパさんやケロッパさんみたいにお札が効かない怪異もいるみたいですし」
血文字で交流を図ろうとするあの積極的な騒霊によると、最近掃除が行われたからこそ、今はこの程度の怪異で済んでいるとの事である。
どうにも御桜館は土地そのものに問題があるらしく、無数の怪異を引き付ける何かがあるようだ。それでも、この洋館に空きがあるならば大きな事件はまず起きないらしい。
問題は屋敷のスペースに空きが無くなった場合である。
怪異にとっては理想的な土地にある御桜館。それを独占しようと、怪異達が血で血を洗う抗争を引き起こすのもしばしばらしい。
当然、ただの人間が巻き込まれてしまえばただでは済まないだろう。それは屋敷に残されていた手記に飽きがくるほど記されていた。
何か手はないかと尋ねた響であったが、Qもこれにはお手上げらしい。
唯一効果があったのは、強大な力を持つ怪異を敢えて棲みつかせるというものであった。
屋根裏の怪異が祓われないままでいるのは、札が効かないという理由もあるが、彼らが存在するだけで殆どの怪異は恐れてその場に近寄らなくなる為でもある。
実際、天井裏には他の怪異は滅多に近付かないようで、掃除が楽な事を環が認めていた。
響は頭を抱えた。
強大な怪異を棲ませ、屋敷の怪異達を支配させる。効果が有るのは確からしいが、そんな怪異がホイホイと現れる訳でもない。
ましてや、その怪異が屋根裏の連中の様に住人に害を及ぼさない保証はどこにもないのだ。
強大な力を持ち、かつこちらに力を貸してくれる……はたして少女達が卒業するまでにそんな都合のいい怪異に出会えるのだろうかは甚だ疑問であった。
なお、これらQとの交信は響が所有していた未使用のノートにて行われた。
更新の度に壁を血で汚されたら堪らないからだ。
Qの方も気兼ねなく交信できると考えたらしくノリノリでノートに血を走らせたが、普段は壁に大きな血文字を記していた影響か、細かい文字を書くのに難儀していた。
紙面に書き連ねた血文字の殆どは罫線を大きくはみ出していおり、今後の事を考えて此度の買い物で無地のノートを多めに買い込んだ響であった。
「ん? 何だ?」
「何かあったんでしょうか?」
薄暗い夕闇を照らす街灯。その一角に小学生らしき集団が集っている。
何があったのかと響は覗き込み……顔を顰めた。段ボールに納まった子猫。その亡骸は無残にも顔面が潰されている。命を失ってまだ時間が経っていないのか、真っ赤な血が未だに流れ続けている。
小学生達が言うには、二年ほど前から「頭潰し」なる怪人が出現しているらしい。捨て犬や捨て猫を中心に、頭を潰して回る変質者がいるとの事だった。
小さな命を無残に潰すその怪人に小学生達は怒り心頭のようだった。
彼らの祖父母を含めた老人達も「いつか必ず報いを受けさせる」とその所業に憤っているらしい。
響は魂なき小さな肉塊を見つめ続ける。その視線は潰された頭から痩せ細った腹、そして股間へ。
「おいお前ら! 問題が解決しそうだぞ!」
玄関に入ってすぐの響の一言に、出迎えた環と遼はポカンとした表情を浮かべていた。
「ちょっくら準備してくる」と、響は荷物を台所に置いて自分の部屋へと消えていく。
しばらくして客間に姿を現した響の手には様々な品々、そして一冊の本だった。
「響さん? どのように問題を解決するのですか?」
五道商店街からの帰り道、変わった事と言えば子猫の亡骸を見つけた事くらいだ。
響はその亡骸を拾い上げ、つい先程御桜館の桜の下に埋葬したのであるが、それが問題の解決にでも関わっているのだろうか。
何か聞きたそうな妃の様子に気付いたのだろう。響はニヤリと笑みを浮かべる。
「燈子の奴を呼ぶんだよ」
「燈子さんを?」
「おう。あいつは俺達よりも強大な力を持っているのに契約に縛られて召喚者に逆らう事が出来ないからな。怪異共を追っ払うには適任だ」
「確かにそうですわね……でも、それならば初めから試すべきだったのでは?」
「アイツを呼び出すには必要不可欠な品物があってな」
「何ですの?」
「牡猫の血だ。生贄なんて性に合わんから呼ぶ気が無かったんだが、偶然にも手に入れる事が出来たんでな」
「成程、それで……」
道理であの亡骸の股間を注視していたはずだ。埋葬したあの仔猫は確かに牡猫であった。
「あの……燈子さんって誰?」
おずおずと疑問を口に出した遼に妃が微笑みながら答える。
「遼さんの御父上に仕えていた使い魔さんです。とても凄い力をお持ちなのですよ」
「使い魔……今までそれとなく流していたけど、響ちゃんって本当に魔法使いなんだ……」
「ペーペーもいいところだけどな」
先程まで怪異に対処してきた響を見てきた為、響が不思議な知識を持ち合わせている事は遼も認めていたのだが。それは不思議な品物を使っての対処であった為、呪文や使い魔と言った魔法使い的な要素とは今一結びついていなかった遼であった。
「ヒビキちゃん! 私達にもなにかてつだうことある?」
使い魔の召喚と聞いてふんすふんすと興奮気味の環。その腕の中に納まっている件の毛むくじゃらも手伝おうという気が満々らしいく尻尾をパタパタ振っていた。
「それじゃあ客間の家具を端に除けといてくれ。後は床に敷かれた絨毯を畳んでおく。妃、俺はチョークで魔法陣を書くから、それに合わせて蝋燭を置いてくれ」
「わ、わかった」
「りょうか~い!」
「お任せですわ!」
響の指示に従い、少女達がテキパキと儀式の準備を整えていく。
そんな中、壁に浮かび上がる『ねえねえ、私はどうしたらいい?』の血文字。
「あ~……Q、お前はそれっぽいラップ音でも出して雰囲気を盛り上げとけ」
準備は整った。綺麗に描かれた床の魔法陣。それを取り囲む形で配置され、火が灯された蝋燭。子猫の血が滲んだハンカチに、響がセールで買ったと思しき未開封の下着等々……。
既に時計は夜を回っている。部屋の灯りを消すと、蝋燭のボンヤリとした光源が魔法陣をおどろおどろしく彩っていた。
「後は呪文を唱えるだけだ」
そう言って、響は持ち込んでいた本を捲り出す。とある魔導書から呪文に関する記述だけを抜き出した「夜音秘抄」なる魔導書の写本。亡き父親が残した物だった。
蝋燭の光を頼りに呪文を確認している中、環が好奇心に目を輝かせながら口にする。
「ねえねえヒビキちゃん? 早く魔法陣に入ろうよ!」
伊達に魔術師達と交流している訳ではないらしい。環は魔法陣が召喚術者の身を護る為の物だと正しく理解しているようだった。
「この魔法陣は防御用じゃねえんだよ。召喚した奴が暴れ出さないよう閉じ込めておく為の檻だ」
「……? じゃあ、防御用の魔法陣はどーするの?」
「いらん。そんじょそこらの魔法陣じゃ燈子の奴には意味をなさんからな」
こほん、と一息つくと、響は魔導書に記された呪文を唱え始める。
外から溜め込んだ魔力が肉体の外に放出される寒々とした感覚に耐えながら、響が呪文を唱えきる。
突如とした稲光が御桜館を包み込む。静まり返る客間に漂う異臭。魔法陣の中に揺らめく奇妙な光が現れ、徐々に形をとっていく。
体躯に見合わぬ巨大な頭部、三つに割れた燃えるような単眼を持つ、鱗に包まれた白いナニカが顕現した。
「おお~!」
パチパチと手を叩いて召喚の成功を喜ぶ環に怪訝そうな視線を向けつつも、その怪物は口を開く。
『よもや親子三代に渡り呼び出されるとは……久しいな宮辺の娘。滋野嬢も一緒か』
「お久しぶりです、燈子さん」
目の前の異形にいつもと変わらぬ笑みを投げかける令嬢。
『して。いかなる用で我を呼び出したのだ?』
「それはだな……」
響の話を聞く異形。一通り状況が飲み込めると、大きな頭がぐらりと頷く。
『ふむ……要はここに棲み付こうとする怪異達をどうにかすればいいのだな?』
「出来るか?」
『出来なくはない。ただ、魔術関連ならともかくそれ以外の怪異については専門外故な。多少手間取る事はあるやもしれん。それでも良いか?』
「頼む。クソ親父からようやく解放されたってのに、また迷惑かける事になって悪いな」
『構わん。この程度、お前の父や祖父の無茶振りに比べればなんて事はない。まあ、取り敢えず今やるべき事は……』
「何だ?」
『人の姿に化ける事であろうな』
「あ…」
異形の三眼の視線の先。オカルトに耐性の無い遼が目を回して倒れていた。燈子の姿は遼には刺激が強すぎたらしい。
魔法陣の戒めを解かれると、異形の姿が人のものへと変化していく。アルビノの美女。響の父親が人前で燈子を同行させていた際の姿だ。
気絶した遼を抱き上げて、環の案内で彼女の部屋へと去っていく燈子の後を、毛むくじゃらの生き物が楽し気に追いかけていく。
「これにて一件落着……になればいいが」
『そう簡単にはいかないんだろうねえ……』
「ですわね。望む所ですわ!」
Qの血文字に相槌を打ちつつ、妃の顔には満面の笑みが浮かぶ。世界の不思議をこの目で確かめたいが故に冒険家を目指す彼女は、怪異がひしめくこの館をいたく気に入ったようだ。
時計を見るともう十時を過ぎている。今日は流石に色々ありすぎた。諸々の悩みは明日の自分に任せて、そろそろベットに潜り込みたい響であった。