第3話 涼 と カノン の場合 (完)
(如月さんの最後の姿って、3か月前のあの後姿なんだよな)
ぼーっと宙を見つめながら、オレは一人、閑散とした店内でグラスを拭いていた。
如月さんが来ない。
その事実が、オレをどん底に落としている。
そして、気が付いた。
彼女がお店に来てくれないと、オレは彼女に会うことすらできない現実を。
オレは、如月さんのことを何も知らなかった。
彼女と言葉を交わし、仲良くなってそれなりの時間は経っていたはずなのに、だ。
お客様、だという負い目はあっただろう。
しかし、オレは如月さんがどこに住んでいて、どんな仕事をしているかも知らない。
連絡先さえ、知らないのだ。
近所だとは聞いてるけど、偶然会えることはないだろう。
(このまま来てくれなかったらどうしよう……。次の週末は来てくれないかな)
オレはただ、如月さんが来てくれるのを待つしかない。
「……」
(もっと早く、行動しておくんだったな……)
と、反省した。
こんな事態に陥ることは、想像ができたはずだ。
そもそも、如月さんはなぜお店に来てくれなくなったんだろう。
仕事が忙しくて来られない?
とか?
(あ、もしかして……?)
不意に嫌な答えに行きついて、胸がドクンと波打った。
(彼氏、が、できたとか……?)
いやいや。
そもそも、彼氏がいるとかいないとか。
それすら知らないじゃないかっ!
「ああっ! くそっ!」
自分の情けなさに、思わず息が漏れた。
これじゃあ、声をかけられずにいたあの時のオレと同じじゃないか。
「……」
(オレ、如月さんの事、こんなに好きだったんだな……)
3か月、この想いを実感するには十分すぎる時間だな。
(如月さんに、会いたいなぁ)
彼女の笑顔に、彼女の嬉しそうな声に、オレは惹かれていた。
今度、如月さんが来てくれたら、彼女のことを聞こう。
そして、オレの気持ちを伝えよう。
そう、意気込んだのもつかの間。
オレは目の前の光景に衝撃を受けた。
お店の来客を知らせる音が鳴った。
一色さんに案内されて店内に来たのは、如月さんだった。
如月さんと、スーツ姿の男性だ。
「カノンさん、奥の席でいいですか?」
如月さんと親し気なその男性は、如月さんと年齢が近そうな見るからに好青年。
(本当に彼氏がいたのか? いや、待て待て待て。平日のこの時間、ただの仕事仲間かもしれない……?)
フリーズしているオレに、
「彼はただの同僚らしいですよ、カノンさんいわく」
と、戻ってきた一色さんは教えてくれる。
ただ少し、意味深に聞こえた。
「はいお水です。二人に持って行ってくださいね、店長。注文取ってきてください」
一色さんが準備してくれたお水を持って、オレは放心状態のまま、一色さんに言われるまま動いた。
「いらっしゃい、如月さん。お久しぶりです」
(うわっ、ちょっと嫌味っぽくなかったか?!)
やはり、心穏やかに接客はできそうになく。
水をテーブルに置きながら、オレは必死に平静を装う。
(オレ、大丈夫か? 大丈夫だよな? 笑えてるか?!)
「最近、ずっと来てくれてなかったので。心配してました」
と、オレはなんとか声をかけていた。
が、しかし、如月さんはオレの方を見てもくれない。うつむいたままだ。
(オ、オレ、嫌われたのか……?)
「あ……。ちょっと忙しくって」
(忙しい?! 忙しいって、彼氏とデートにか?!)
思わず聞き返してしまいそうなオレに、
「あー……、注文いいですか?」
と、如月さんの前に座る青年がオレを見上げた。
「はい」
無意識に返事をしたオレと目が合って、
「っ!」
彼は意味ありげにオレに笑って見せたのだ。
思わずムッとしてしまった。
嫉妬心と焦りが抑えられなかった。
嫌な気分になりながらも、笑顔で答えていたとは思うが、接客としてはダメだった気がしている。
が。
落ち込む暇もなく、オレは二人の注文の対応をした。
仲良く注文された
ふたつのカフェラテ
と
ふたつのたまごサンド
(如月さんの定番メニュー……)
3か月振りの再会が、なんだか物悲しかった。
あの、青年と食べるのか。
そう思うと、胸がえぐられる思いだ。
(如月さんの前は、オレの場所なのに……)
そう思いながら運び終えると、その場を去るオレの耳に彼の声が届いた。
「カノンさんのおススメのたまごサンド、うまそうですね」
「……」
(オレは如月さんのこと、下の名前で呼べる関係ではないんだよな)
無邪気にたまごサンドを頬張る彼を目の前にして、如月さんが笑顔を向けたのが、背中越しでも伝わってきていた。
(立ち直れそうにないな……)
想像以上にショックだったのか、二人の接客を終えたあたりからの記憶がない。
カウンター席に座ってぼーっとしてしまっている。
そんなオレの元に、一色さんの声が聞こえる。
「カノンさん、この人とどうゆう関係ですか?」
と、会計に来た如月さんに確認しているようだった。
しかし、その問いに答えたのは如月さんではなく、彼だった。
彼は柔らかな表情をしていた。
そんな彼を見て、嫌な感情が沸き上がる。
オレは、その言葉を聞きたくなかった。
「カノンさんは、俺の憧れの人で、大切な人です」
聞きたくない言葉に、オレは目を逸らす。
が、耳はしっかり彼の言葉を聞いていた。
「ライバルがたくさんいるのはわかっているんですけど、今、カノンさんの近くに居るのは俺ですから」
と、勝ち誇ったような彼の顔が、オレに向けられているようで居心地が悪い。
彼はその後、スマートに如月さんをエスコートし、店を如月さんと共に、去っていく。
「……」
これで、いいのか?
このままで、いいのか?
二人の姿が、気配が消えるまで、オレは自問していた。
このまま、中途半端に来てくれるかもわからない如月さんを待つだけの日々がこれからも続くのだろうか……?
「……」
ざわッと、胸が騒いだ。
(いや、もう来てくれないかもしれないじゃないか!)
これで終わるのは、ダメだ。
彼が、如月さんのことを想っているのは間違いないだろう。
でも、まだ彼氏では無いようだ。
ならまだ、オレにもチャンスがあるのではないのか……?
想いを打ち明けて、このまま玉砕するのも悪くない。
それならそれで、このモヤモヤした気持ちからも解放されるかもしれない。
そう思った時だった。
「店長! このままカノンさんを黙って見送るつもりですか?!」
と、一色さんの声がオレの背中を押してくれた。
このまま、諦めるつもりですか?
と、言われた気がした。
オレはエプロンを脱ぐと、
「ごめん、一色さん。少しの間お店よろしく」
と、動き出していた。
「任せてっ!」
嬉しそうな一色さんの声を背に、オレは如月さんの後を追っていた。
「如月さんっ!」
店から少し離れた場所で、二人を見つけることができた。
二人はオレに気が付いて、振り返った。
焦って走り回ったせいか、息が上がっている。
そんなオレを見て、彼はニッと笑って見せた。
(え……?)
その笑いはオレへの敵意ではなく、どちらかと言えば、安堵するような柔らかな笑みだった。
「如月さん」
と、彼は如月さんを見た。
如月さんは我に返ったように彼を振り返り見る。
「俺、その辺で時間つぶしてますから。話が終わったら呼んでください」
彼はそう言うと、如月さんの返事も待たず、オレに会釈してどこかに行ってしまう。
(あー……、オレ、彼にはっぱかけられてたのか)
彼が如月さんをカノンさんと呼ぶたび、嫌な気分だったが、それがワザとだと知った今、少々複雑な気分だ。
意気地なしなオレに、みんな背中を押してくれる。
彼の姿をしばらく見送って、如月さんは気まずようにオレを見た。
「えっと……。どう、されたんですか?」
と、話しかけてくれる声が、少し震えている。
やっぱりまだ、目を合わせてはくれないようだ。
「どうしても今、如月さんに伝えたいことがあって。道の真ん中じゃちょっと迷惑になるから、そっちに移動してもいいかな?」
と、オレは申し訳ない気持ちで近くの小さな公園を指さした。
お昼過ぎ、暖かな陽気の中で、少人数の子供たちが少ない遊具でキャッキャッと楽しそうに遊んでいるのが見える公園の片隅のベンチに、オレと如月さんは腰を下ろした。
目を合わせてくれないから、横に座ってたほうが話しやすいかな。
でも、オレが如月さんから目を逸らすのは違うよな。
オレは隣に俯いて座る如月さんを見ながら話し出す。
「如月さんが店に来てくれなくなって、いろいろ考えてた。それと同時に思い知ったよ。オレは如月さんに会いたいと思っても、如月さんが店に来てくれないと会えない。そんな存在なんだって」
「……」
「君に会いたくても、会いに行けない。
声が聴きたくても、連絡も取れない。
そんな状態になってようやくわかったんだ。店に来てくれる君に、甘えてた自分に。意気地がない自分が、とても惨めだった」
「……東雲さん」
やっと、如月さんが顔を上げてくれた。
こうして視線を合わせるのはいつぶりだろう。
(如月さん、やっぱりかわいいな……)
如月さんは何とも言えない顔をしていたが、オレを見てくれたことが嬉しくてつい、微笑んでしまう。
「君と、もっと話がしたいし、もっともっと会いたい。お店だけじゃなくて、いろんな時間を君と共有したいんだ。一緒に過ごす時間が欲しい」
「……」
「君の近くに居たいんだ、如月さん」
「……」
凍り付いたように、如月さんは驚いた表情のまま動かない。
何を思っているのかわからないけど、もう、そんなことはどうでもよかった。
「如月さんが好きです。誰よりも君の近くで、君をもっと知りたい」
そう言い終えた後、しばらくの沈黙が流れた。
オレの胸はドキドキしてるし、目の前の如月さんは相変わらず動かない。
そんな如月さんの瞳から、涙がこぼれた。
「……」
どんな意味の涙かわからないけど、不快に思われてしまったのかもしれないと、胸が苦しくなる。
「如月さん、ごめん……」
と、謝ろうとした言葉に重なるように、
「私もっ」
そう、如月さんが必死に答えてくれた。
オレはよく聞き取れなくて、如月さんの言葉を待つことにする。
如月さんは一生懸命話してくれようとしている様だった。
「私も、東雲さんが好きです。でも、3か月前、東雲さんがきれいな女性のお客さんと居るのを見かけて。常連さんらしい人たちが二人は今にも付き合うだろうって言っていたし、閉店時間に彼女がお店の前で待っているのも見かけたから……」
「……」
オレは今、何を聞いているのだろう?
少し、彼女の言葉が理解できずにぼうっとしてしまう。
きれいなお客さん?
オレが誰と付き合うって?
閉店時間に……
「あ……っ!」
そこで初めて、脳内で如月さんが誰のことを言っているのかが分かった。
「あー、元宮さんのことかなぁ」
オレが声を上げるのを見て、如月さんが心配そうにオレを見上げる。
「彼女、オレのことが好きだって言ってくれてるんだけど、オレにとってはお客様だし、なんだか無下にもできなくて。ちょっと……いや、かなり困ってるんだ。断っているつもりなんだけど、強く言えなくて」
じっと見つめてくる如月さんにドキドキしながらオレは言う。
「でも、如月さんがオレの彼女になってくれたら、元宮さんにも強く言えると思う」
「……」
「如月さん、オレの彼女になって。オレと、付き合ってください」
「……ハイ」
頷く如月さんの顔が見えなくなったけど、ますます泣いているようだった。
(ああ……どうしよう。抱きしめたい。抱きしめていいかな)
我慢できなくて、オレは如月さんを抱きしめる。
オレの腕の中で、如月さんの体が小さくはねた。
「し、しののめさん?!」
驚いている如月さんだったけど、引き離さない。
(お、思わず抱きしめてしまったけどいいのかな? 如月さん、突き放す感じもないし……暖かいし、なんか気持ちいいからいっか)
オレはそのまま如月さんを抱きしめていた。
(思ったより華奢なんだな)
そんなことを思っていると。
「……」
如月さんがオズオズとオレの背中に手を回してくれた。
(あ、もっと近くなった……)
如月さんのぬくもりを感じられることが嬉しくって、幸せすぎて、オレたちはしばらくお互いに身を寄せ合っていた。
* * * * *
その日の夕方。
(ストロベリームーンの閉店時間は19時だったハズ)
と、私は店内を外の窓から覗いてみた。
時刻は18時55分。
テラス席はもう片付けられていたし、店内はお客さんの姿もなく、閉店ギリギリのお店って感じだった。
(外回りなんて手伝わされたから、帰るの遅くなっちゃったんだよね)
急いでよかった。
そう思いながら、私はお店の扉を開ける。
「あっ! カノンさん?」
閉店作業をしていたらしいもえちゃんが私に気が付いてくれる。
「東雲さん、居るかな?」
ドキドキしながら東雲さんの名前を口にすると、もえちゃんはにっこり笑顔になった。
「店長から聞いてるんで、大丈夫ですよ」
「え?」
「そうじゃなきゃ、開店中にお店飛び出していけないでしょ?」
フフッともえちゃんが笑って見せる。
その笑顔が、大人びてきれいに見えた。
(……もえちゃんって、東雲さんの事好きにならなかったのかな?)
不意にそんなことを考えてしまうと。
「あ! 早く会いたいですよね。呼んできますね!」
と、慌てて店の奥へと消えていく。
その直後、焦ったように東雲さんがすぐに顔を出した。
「如月さん?! どうしました?! 何かありましたか?!」
急いで駆け寄ってくる東雲さんに驚いてしまう。
「え? あ、その……。ごめんなさい。連絡先、交換してなかったなって思って」
「……」
私の言葉に、東雲さんは瞬いた。
そして、どこか安心したようなそれでいて残念そうな顔を浮かべたが。
「それに、その……っ、少しでも会えないかなと、思って」
(ああ、言っちゃったっ)
どきどきして恥ずかしくなって顔を逸らした私は、ふわっと暖かなぬくもりに包まれた。
私はまた、東雲さんの腕に抱きしめられていたのだ。
さらに高鳴る鼓動で何も言えなくなっていると、東雲さんは。
「急いで閉店準備してくるから、待ってて!」
と、一度強く私を抱きしめなおしてから、店の奥へと駆け出していた。
「……」
店内に一人残された私は、呆然と立ち尽くしていた。
顔が、高揚していくのが分かる。
(あ、ああ……、東雲さんってスキンシップが好きなのかな……)
ドキドキして一人わたわたしていたので気が付かなかったが、店の奥に居たはずのもえちゃんはお店の外に置いてあったメニューボードをかたずけて、外の電気を消していた。
私と目がったもえちゃんは、
「店長、まだカノンさんの連絡先、聞いてなかったんですか?」
と、呆れたように呟く。
「あ、うん。でも、私も聞きそびれてて」
「……まー、店長はほとんどお店に居ますからね。住んでることろは違うけど」
もえちゃんはエプロンを外すと、カウンターの隅に置いてあったらしい荷物を持ち上げる。
「ついでに、店長のおうちも教えてもらったほうがいいと思いますよ? きっといつまでたっても連れて行ってもらえないでしょうから」
「え?」
「いろいろ考えすぎなんですよ、店長。カノンさんへのアプローチだって、お客様だからって節度ある対応をってお固くって。ある意味、今日一緒に来てくれた彼に感謝ですね。って、あ……そっか」
と、もえちゃんは何か不意に落ちたように笑うと。
「カノンさん、また今日の彼とお店に来てね」
そう言ったのだ。
「あ、うん。八神くんもここのたまごサンド気に入ったみたいだから、一人でも来るかも」
私は不思議そうに答えたが、もえちゃんは店の奥から出てきた東雲さんを確認すると、
「閉店準備終わりましたから失礼しますね~」
と、声をかける。
「あ、うん、ありがとう。お疲れ様」
東雲さんは店の奥、キッチンの電気を消すと、もえちゃんに向かって手を上げる。
そんな東雲さんを見て、もえちゃんは店を出た。店を出て、扉を閉める直前に振り返る。
「店長、今日はカノンさんお持ち帰りしてくださね」
と、ニヤッと笑って扉を閉めたのだ。
「え……」
驚き言葉を失う東雲さんの前には、もう私しかいない。
「あ、えっと。そういう意味じゃなくて……。連絡先だけじゃなくてこの際、住んでるところも教えてもらえって、もえちゃんが」
私が慌てて説明すると、東雲さんは納得したように、困った笑顔になった。
「ああ、一色さんのジョークですね」
「はい、そうだと思います」
ほっとしたような、残念な気持ちになった自分が恥ずかしくなって、私は俯いた。
しかし、その後の会話が続かないので不思議に思って顔を上げると、東雲さんは一人、うーん、うーんと唸っていた。
「しののめさん?」
「あっ!」
声をかけた私に驚いたように、東雲さんは声を上げる。
そして、少し顔を赤らめ戸惑うようにこちらの様子を見て言った。
「あのー……ですね。本当に、今から来ますか? オレの家」
「えっ?!」
東雲さんの提案に、大きな声を出してしまった。
「あっ! 大丈夫ですっ! 変なことしませんからっ! 絶対にっ!」
慌てて両手を振って見せる東雲さんに、思わず笑ってしまった。
「はい。行きたいです。でも」
「でも……?」
「ゆっくりでいいので、手、出してくださいね」
と言った私の言葉に、東雲さんの顔がボンッと一気に赤くなった気がした。
「は、はいっ。ど、努力します……っ」
こうして、私と東雲さんのお付き合いが始まった。
まだまだお互いに知らないことばかりだけれど、これからゆっくり、二人の時間を過ごせて行けたらいいな。
そして、いつか二人でこのカフェを……。
そう、考えてしまう私なのでした。