第1話 東雲 涼 の場合
オレの名前は東雲 涼。
29歳、独身。
1年前、祖父母の店であるこのカフェ・ストロベリームーンを任され、今は店長として働いている。(祖父母は仲良く隠居中)
数席のテラスと小さな店内は、名前の通り、ストロベリームーンをモチーフにした食器や家具、雑貨で彩られ、祖父母の代からある古いものから、オレが新調した物まで、このカフェの雰囲気を壊さないのように気を使っている。
その努力の甲斐あってか、少し奥まった場所にありながらも、小洒落たカフェとしてそれなりに繁盛していると思う。
もちろん、コーヒーにはこだわりを持っているし、何より、オレが店長を始めてから取り入れた、友人の経営するパン屋の『おいしいパンで作るサンドウィッチ』は当店の自慢の人気商品だ。
おまけに、このお店には祖父母の代からの異名がある。
それは店名であるストロベリームーンからも来ているんだが、大きな由来は世話好きの祖母のせいだろう。
祖母はお節介の上に聞き上手で、いつの間にかカフェはお客様のお悩み相談室と化していた。
そして、そのほとんどが恋の悩み事だったようで、うちのカフェ・ストロベリームーンは、
恋を叶えてくれるカフェ
として、密かに人気なんだとか。
しかし、その祖母も1年前からたまに顔を出す程度。
めったに来ないので、お悩み相談室も自然と消え去った。
だから今では、その異名も無くなっている頃だろう。
なんせ、今の店長であるオレは恋愛に多少の抵抗感を持っているし、高校・大学時代、あまり恋愛にいい経験がない。
そんなオレなんかに相談されても何もできる事は無く、オレはお客様との程よい距離感を保った接客をしているつもりだ。
それでも、祖父母の大好きなこの店を守るため、オレは熱心な祖母に鍛え上げられ、カフェの経営から接客、コーヒーの淹れ方から軽食作りまで、ありとあらゆる技を叩きこまれた。
そのおかげで、今日のオレが居て、そこそこ繁盛もしているのだが……。
1年たった今も、やはり不安は尽きないもので。
(じいちゃん達がお店を離れて1年か……)
と、ついため息が漏れた。
祖父母の頃からの常連さんと、最近の常連さん。
(ぼちぼち、新規の常連さんも欲しいところだよな~……)
と、考えるようになった、そんなある日のこと。
「……」
思わず、目を止めてしまう女性が店内に居た。
(うわっ、あの人めっちゃ可愛いんですけどっ)
カフェの店員の一人である一色 もえさんに運んでもらったラテアート(今日の絵柄は三日月とクマさん)を施したカフェラテに、今日のおススメパニーニを目の前にしてキラキラと瞳を輝かせている。
その様子がまた、オレの胸を貫いた。
「あのお客様、先週も来てくださったんですよ。うちの商品気に入ってくれたみたいです。かわいらしい方ですよね」
と、つい彼女に魅入ってしまい、ぽややんとしているオレに気が付いた一色さんが満面の笑顔だった。
「常連さんになってくれないかなぁ~」
と、嬉しそうにつぶやいた一色さんの言葉に、オレは心の中で大いに賛同していた。
彼女の溢れんばかりの笑顔に見惚れていると、またしても胸を大きく貫かれる思いがしてオレは思わず胸を押さえる。
(あの、おいしそうに食べる姿、……たまらん)
パニーニを頬張り、破顔した彼女に苦しいくらいの胸の高鳴りを感じながら、何とか手を動かしているオレ。
(来週も、来てくれるといいな……)
淡い期待を胸に、オレは一日、ふわふわした気分で過ごしたのだった。
それからというもの、彼女が来るかもしれない週末は、常にそわそわしていた。
彼女に会えない日は1日やりきれない思いを抱えることになったし、
来てくれた日は嬉しくて舞い上がっていた。
彼女が店に来てくれる。
それだけで、オレのボルテージはマックスに近い。
しかし、
(急に声掛けたらおどろくよなぁ。あまり接近して店に来てもらえなくなったら嫌だしなぁ)
と、ヘタレなオレが、お客様である彼女に対しての行動の邪魔をしていた。
そんな週末を2か月ほど過ぎたころ。
店が混んでいたため、彼女が初めてカウンター席に着いた。
カウンター席、それは、オレの作業スペースの前。
すなわち。
お客様との距離が、めっちゃ近いっ!
(手、手がぁ……)
近くに居るせいか、彼女がじっとオレの手元を見ているのがわかるのだ。
コーヒーを淹れる様子を、ずっと見られている。
緊張する手が、震えそうだった。
それでもまだ、オレは彼女に声をかけられずにいた。
名前も知らない常連さん。
いつの間にか、名前を呼ばれるようになっていた一色さんがうらやましい。
彼女の名前は、
「自分で聞いてくださいねっ!」
って、一色さんは教えてもくれない。
多分、一色さんは気が付いているんだ。オレが彼女を意識していることを。
カウンター席に案内された日から、その席が彼女の定位置になった。
毎回、コーヒーを淹れるオレの様子を熱心に見つめているので、オレはついに欲に負けた。
それは、彼女がお店に来るようになって、3か月が経っていた頃だった。
「コーヒー、普段は自分でも淹れられたりするのですか?」
あまりにも熱心に見ているので、自分で淹れるコツでも盗もうとしているのかと思っての質問だったのだが。
彼女は自分に話しかけられたとは思わなかったのか、きょとんとしていた。
オレは淹れ終えたコーヒーを一色さんに渡すと、彼女を見る。
注文以外で彼女と言葉を交わす、初めての瞬間だった。
(ああ、とうとう話しかけてしまった……。気持ち悪い人だと思われないといいけど)
「え、あ、私、ですか?」
声をかけられたことに驚き、彼女は頬を赤らめる。
「えっと……、その。自分ではまったく。実はコーヒー、ダメなんです」
申し訳なさそうに告げられる言葉に、今度はオレが驚いた。
「え?! でも毎回……」
「このお店の……っ!」
オレの驚きにかぶせ気味に発した声が大きくなってしまった彼女は、恥ずかしそうに続けた。
「このお店のラテは、飲めるんです。美味しいし、その……アートも可愛いし」
(えー、何? このもじもじしている姿がまた可愛すぎるんだが)
オレは彼女の愛らしい言動に胸打たれながら、
「ラテアートよりあなたの方が可愛いですよ」
と、つい心の声が漏れていて、目の前の彼女が驚いているのにも気が付かないくらいにオレは浮かれていた。
「あー、じゃあ、次からミルク多めにしましょうか?」
何気ない提案だったが、彼女は嬉しそうに破顔した。
(うっ! この笑顔、死んじゃう……)
「ほんとうですか?! いいんですか?! 嬉しいですっ! お願いしますっ」
思った以上に彼女がくいついてくれてびっくりしたが、オレも彼女が喜んでくれたことが嬉しかった。
「あ、えーっと、名前、聞いてもいいですか?」
「あ、はい。如月です。如月 カノン」
「如月さん。あ。オレは東雲です。東雲 涼」
二人で名前を教え合い、名前が知れた喜びの余韻に浸りながらオレは、
「じゃあ、次からは如月さん特別メニューで作りますね」
と、彼女に声をかけてよかったと、幸せをかみしめていた。
それからは、3か月も彼女に声をかけられなかったヘタレなオレが嘘のように、彼女、如月 カノンさんと親しくなった。
そして、彼女が3か月ほど前にこの近くに引っ越してきたこと。
初めての1人暮らしで不安だった日々を、このカフェが支えていたことを知った。
微力ながら、如月さんの力になっていたことが嬉しくて、オレ自身も、カフェを続けていく励みになった。
それからしばらくして、
彼女がうちの店に来てくれるようになって1年が経とうとしていた。
今では、彼女に観察されていてもさほど緊張しなくなっていたし、たわいのない会話を交わす間柄にはなっていた。
(ああ、俺も成長したな~)
そんなことを思いながらオレは、今では如月さんの指定席になったカウンター席にラテアートのカップを差し出した。
「わっ。今日は猫ちゃん」
嬉しそうな声が上がるたび、オレの心は満足してしまう。
オレの手元から如月さんへと送り出されたカフェラテを見て、彼女はほうっとため息をつく。
「飲むのがもったいないぐらい、かわいい」
そんなことを呟きながら、彼女はおいしそうにラテを口にする。
(もう、ラテアートより、如月さんの方が断然かわいいですからっ)
口にできない言葉を心の中で叫んでいるオレ。
「でも、飲まずにはいられないぐらい、東雲さんの入れるラテ、おいしいんです」
と、さらに笑顔を浮かべる如月さんに胸打たれる。
(ああ、今日も癒されるなぁ……)
最近、厄介なことを抱えているオレは、如月さんと過ごすこの時間が唯一の癒しと言っても過言ではなかった。
(今日もたっぷり、如月さんを充電しておこう)
と、オレはまた来る1週間を乗り越えるため、如月さんとの会話を一つ一つ胸に刻むのだった。
最近、特にそう思ってしまうのには理由があった。
近所に新しくオフィスビルができたらしく、そこの社員さんらしき女性たちが店に来てくれるようになった。
なったはいいのだが……。
その中に、苦手なお客様がいるのだ。
その人は、平日の昼間にやってくる。
「あっ、しののめさぁん♡ こんにちわぁ~」
舌っ足らずな甘い声で、今日も近づいてくる一人の女性。
元宮 いとさんだ。
皮肉なことに、如月さんの名前を知るのに3か月もかかったのに、
つい最近常連客になった元宮さんの名前は、いとも簡単に知らされた。
カフェの店員とお客。
それに見合わなわいスキンシップをしようと、今日も身を寄せてくる元宮さんをオレは華麗に避ける。
オレのことが好きだと言い寄ってくる彼女は、毎日平日のランチタイムに来店してくれるが、オレの姿を見かけるとべったりと付き纏ってくるので、オレは仕事どころではなくなってしまう。
それが忙しい時間だと、他のスタッフに迷惑をかけることになるので、罪悪感が半端ない。
一色さんには、
「迷惑なら迷惑だと、きっぱり言うべきですっ!」
と、いつも言われているのだが……。
女性の扱いに慣れていないオレは、どうしても戸惑ってしまうのだ。
(ばあちゃんが居たら、追っ払ってくれるんだろうか……)
情けないことを思ってはしまうが、元宮さんにお客様としての好意はあったとしても、色気ムンムンで近づいてくる彼女を異性として意識することはない。
(むしろ、苦手なタイプなんだよな……)
グイグイくる元宮さんを避けることにはだいぶ腕が上がったと思う。
しかし、そんなオレが気に入らず、元宮さんはますますパワーアップしてくるので、気力を失う日々だ。
(最近は、お昼以外の時間帯も押しかけてくるしなぁ。……ああ、まだ水曜日なのに。如月さんか恋しいよぉ~……)
心で泣くオレにすり寄る元宮さん。
「しののめさんってぇ~、彼女いるんですかぁ~? 今度ぉ~、私とデェトしましょうよぉ~」
「えっと……、そうゆうのはちょっと……」
好意を寄せてくれるお客様を無下にはできず、今日もオレはいつものようにかわすしかできない。
「しののめさんのお休みって~、いつですかぁ~?」
しかし、元宮さんはめげずに強引に攻め入ってくる。
(って、……え? あれって……如月さん?)
不意に、心乱される女性の後姿が視界に入った。その女性は、すでに店を後にしている。
今は平日のお昼。
週末常連の如月さんの姿が見えるはずもないんだが……。
「すみませんっ。仕事中ですので」
思わず強めの口調になってしまったが、オレは元宮さんの様子を気にする余裕もなく、接客対応してくれていただろう一色さんの元へと急いだ。
「一色さん! 今の方って……」
焦って声をかけるオレに気が付いて、一色さんは冷ややかな視線を向ける。
「そうですよ。カノンさんでした」
だからあの女に迷惑だって言えって言ったのに、カノンさんに気が付かなかったんですか?
と、言いたげな瞳がオレを見上げている。
今更遅いですよって、怒られている気分だ。
「やっぱり、如月さんだったんだ。……注文、してくれなかったの?」
せっかく如月さんが来てくたのに、会えなかった寂しさと、すぐに帰ってしまったことがショックで動揺を隠せない。
「いいえ、いつものメニュー、テイクアウトで注文してくださいました」
「え……?」
(テイクアウト?)
今まで、テイクアウトなんて一度も……。
思ってもいない行動によってざわつく胸に、一色さんがとどめを刺す。
「もう、来てくれないかもしれませんね」
「え? どうして?」
慌てるオレに一色さんはわざとらしくため息をつく。
「だって、店長は他の女に気を取られてて気づいてないし、本人はいつもと変わらないって言ってましたけど、様子がおかしかったんですよね」
「様子って……」
「何か、あったのかもしれませんねー」
と、一色さんはオレを一瞥すると、仕事に戻った。
その時感じた不安は、その後、現実のものとなったのだった。