暴食 その8『暴食の力』
「あり得ねえ」
割れた鏡の向こう側は、深淵だった。
「なにが起きてる。なんなんだよそれ」
底の見えない闇だった。
果てなどない孔だった。
色も光も呑む口だった。
「お前はなにをしでかしやがった! 答えろッ!!」
警告する。警鐘を鳴らす。虫が騒ぐ。悪寒が襲う。
心臓の音。動脈の勢い。風。花。あらゆる全てが声を揃えて訴えた。
あれはいけない。あれはダメだと。
煩いほどに、フウンの本能が叫んでいた。
「──鏡を割っただけだ」
「⋯⋯割った? 割っただと!? 馬鹿言うな、割れて"そうなる"はずがねえだろッッ」
あの割れた鏡の向こう側は闇ですらない。
刃向かってはならない。挑んではならない。立ち向かってはならない。
もう強いとか弱いとかの話じゃない。
自分の命が言っている。あれは"次元が違うのだ"と。
「立てるかナージャ」
「えっ、は、はいなんとか」
「なら、ダストンさん連れて下がっててくれ。巻き込まれないように」
「それって⋯⋯」
「姫様⋯⋯なるべく離れておくケロ。あの真っ暗な孔、凄く嫌な予感がするんだわさ」
「わ、わかりました」
素直に離れてくれて良かったと、振り向きもしないままミライは安堵した。
彼自身、自分に何が起きているのかは分かっていない。どうして鏡が割れたのか。この鏡の深淵がなんなのかすら、知るはずもない。
けれど起因するべきトリガーは分かっていた。
理不尽に抗う意志だ。世界への怒りだ。反撃の狼煙だ。
だったら今は、この意志を貫き通すまでだった。
「これ、返しとく」
「!」
「せっかくだけど、もういらない」
「白髪野郎ォ⋯⋯!」
片割れの剣を投げ返す。お前の遊びはもう終わりだという意趣返しだった。あからさまな挑発にフウンは怒りを滲ませるが、足は竦んだままだった。
(冗談じゃねえ! 俺が、俺があんな落ちぶれに脅えているだと⋯⋯? そんなの認められるか!)
あんなちんけな敗残者に、頂点を目指す己が気圧されているなど。逃げ出したいと思ってしまったなど。
認められるはずもなかった。
「俺は⋯⋯俺は最強なんだよぉ、落ちぶれがァァッ!」
絶叫と共にフウンは駆け出した。生意気にも立ち上がった愚か者を、もう一度這いつくばらせてやらなくてはならない。
それこそが強者の責務。弱者の絶対だ。
「鏡よ鏡」
『──────』
「⋯⋯ッッッ!?! なんだッ、す、吸われるっ!?」
しかし目の前の異質は、世界が見逃してきた横暴を許さない。ミライの文言に呼応した鏡の深淵から、強力な吸引が発生していた。
ちぎれた花が。木の葉が。草が。
風が。光が。色が。音が。
あらゆる全てが無造作に、鏡の奥へと吸いこまれていく。
「ひ、ひいっ⋯⋯」
まるで、奈落の孔へと真横に落ちているようで。
異様の一言に尽きるその光景に、取りこぼした双剣すら呑まれた。
呑まれて。果てに、どうなったのかも分からない。
「なんなんだ、なんなんだよぉぉ⋯⋯!!」
四つん這いになって、フウンは大地にしがみついていた。
孔へと呑まれたらどうなる。想像も付かない。けれど呑み込まれる対象は、自分も選ばれているのだ。
恐怖でしかなかった。未知への恐慌に、心が悲鳴を挙げている。なんとかしなくてはならない。でなければ、自分も、アレに喰われてしまうのだ。
「ッッ、鏡よ鏡、映しやがれええええ!!」
恐怖に染まる心が導き出した対抗策は、最強を最強たらしめる根拠だった。
カガミの一族の力の結晶。
あらゆるものを跳ね返す鏡の力。
鏡の同時現出、最大展開。
ミライの鏡よりも何倍も円大な鏡が、計三つ。
────バリィンッ!!
「⋯⋯⋯⋯え?」
だが、そんなものは無意味である。
フウンの展開した三つの鏡は、ミライの吸引の力に刹那の時も耐えられない。
鏡面は硝子細工のように砕け、散った欠片はあっという間に孔へと呑み込まれてしまう。
残された鏡には、ミライの鏡のような孔など見当たらない。鏡面を失ったただのハリボテが転がるだけだった。
「うそ。嘘だ。俺の鏡⋯⋯俺の、力が⋯⋯」
呆気なく消滅した力を、フウンは茫然となった。
最強の力がなんの役にもならない。紙切れ同然に無に帰した。
今まで培ってきた現実が。足場が。ガラスのように砕け散ってしまったのだ。
「なにも守れないような雑魚は、生まれてきたらダメなんだっけ?」
「!」
「後ずさるなよ。逃げる気か? 戦いの場から逃げるような臆病者、まさかカガミの一族には居ないよな?」
「ひいいいい⋯⋯っ」
残されたのは全てを奪われた敗者と、新たな絶対を示した勝者である。フウンにもはや保てる尊厳など無い。
一歩踏み寄られただけで、フウンは雨に打たれる子犬のごとく震えていた。
「ど、同族殺しだぞ。分かってるのか。そんな恐ろしいこと、お前みたいなガキがやっちゃ駄目だろ、なぁ。分かるだろ?!」
「⋯⋯どの口でそんな説得が出来るんだか。鍍金が剥がれた途端に弱虫になれば、俺が同情するとでも?」
「ぐう⋯⋯わ、悪かった。俺が全部間違ってた。さんっ、散々馬鹿にしたのも詫びるっ。だから、こっ、殺さないでくれ⋯⋯」
「泣くなよ。俺はお前みたいな悪趣味じゃないんだ。目障りとしか思えない」
慈悲を請う姿には恥も見聞もない。弱さを迫害してきたツケを払い切れない自覚があるのだろう。
横暴への応報をいざ突き付けられた強者の姿は、見苦しいことこの上ない。
「今更許して貰えるなんて期待するなよ。次からは精々、誰かの弱さを理解れるようになるんだな」
「い、いやだ⋯⋯」
ミライは砕けた鏡の一欠片を拾い上げる。
上等な裁きの剣なんていらない。積み上げたツケへの報いには、ハリボテとなった男自身の残骸で充分だ。
「嫌だ、よせ、助けてくれっ⋯⋯い、嫌だ、嫌だ、嫌だ⋯⋯!」
そうして、能面のように表情を消したミライは、鋭利を振り下ろす。
「嫌だぁぁぁぁ⋯⋯⋯⋯、────」
ザクリと。
深く突き刺した音に堪えきれず、フウンの意識は途絶えてしまった。
◆
「⋯⋯は。なんだよ。お前だって気絶してるじゃないか」
地面に突き立てた鏡の破片に、白目を剥いて泡を吹く哀れな男の顔が映る。
今まで散々害されてきたものの正体が横たわっている。
そんか呆気ない幕引きをただ見下ろすミライの瞳の赤は、恐ろしいほどに冷たかった。
「なにが最強だよ。神すら噛み砕くだよ。負けた事ないだけの生き物はこれだから⋯⋯は、ははは⋯⋯っ────う、ぁ⋯⋯」
ぐらりと、景色が歪んだ。
血を流し過ぎたせいなのか。未知の力を振り回し過ぎたツケなのか。白く褪せていく視界では、どちらかを判別する思考もふやけた。
(⋯⋯はは。なんだよ。俺だって、やれるじゃないか)
自分は鏡をぶち割った。
世界が呑んだ高飛車を下してやれたのだ。
もうなにも出来ない落ちこぼれじゃない。
反逆は今、成ったのだから。
大きなの実感を赤子のように抱き締めて、ミライは意識を深い闇へと沈ませた。
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