正義のローヒ【前編】
暗い話です。
後編も明日上げます。
あーテロリスト入ってこないかなあ
誰しもこんな妄想をしたことがあるのではないだろうか。
同じ時間に起き、同じ服を着、同じ顔に囲まれる変化のない退屈な日々。
そこに何かしらの変化を求めるのは人間として何ら不自然ではない。そしてここにも、そんな普遍的で何とも無責任かつ物騒なことを考えている高校生が1人。教室の1番窓際、板書もせずに窓の外の雪景色を見ながら彼の妄想は続く。
覆面で顔を隠した男が5人ドカドカと入ってくる。教壇の齋藤の頭をアサルトライフルで吹っ飛ばし、黒板は血に染まる。教室はパニックに陥り、悲鳴と怒号が飛び交う。テロリストは教室を黙らせるために天井にもう1発。そして扉に1番近いユキちゃんが人質にとられる。騒ぐなガキ共。こいつ殺すぞ。みんなが教室の隅っこまで逃げる中、僕だけがテロリストに近づく。おい坊主、下がれ殺すぞ。僕は歩を止めずに一気に間合いを詰める。まずユキちゃんに銃を突きつけている男の顎を殴り、胸ポケットのナイフを奪う。2人目、3人目の太ももにナイフを突き刺し、踏み台にして空中から4人目を狙う。4人目が撃った弾丸を体を捻りながら躱し、先に5人目のこめかみに膝を叩き込みながら着地。そのまま4人目の眼前まで突っ込んで鳩尾に肘打ち。時間にして約10秒。屈強なテロリストの脅威をしりぞけ、教室は歓声に包まれる。アブネー!ユキちゃんも怪我はない?僕はへたり込むユキちゃんの手を引き、目の前に立たせる。長く黒い綺麗な髪、大きな目、いつもはクールな表情が少し赤らんでいるような気がした。ありがと。そう言ってユキちゃんの顔が近づいてくる。僕からも距離を詰める。これで僕がユキちゃんのファーストキスの相手にーーー
「じゃここを、入江」
「あ、はい」
くそ、いいとこなのに。
現実では、死んだはずの齋藤が1番窓際で呆けた顔をしている入江を指名していた。起立する時、1番廊下側の足立ユキと目が合う。2年間同じクラスだが、1度も会話は交わしてはいない。入江の一方的な片想いだ。常に無表情で、誰かと会話をするということは滅多にないが、そのクールさが入江には魅力的に映った。
再び席についた入江は、くだらない妄想の続きをする。
あの綺麗な唇に口付け出来たらどれだけいい事か。あの白い手を握れたらどれほど幸福か。日曜日に2人きりで映画デート。可愛い私服を身にまとった彼女と、映画の感想を近くのカフェで語り合う。そして日が落ちて来た頃に彼女からこう提案される。「今日、ウチ親いないんだよね」
きっかけはなんだっていい。惚れ薬、催眠術、2人で異世界転生。僕に惚れてくれさえすれば、なんだっていい。そんなこと絶対に起こりえないとわかっているからこそ、入江は自分の欲望に忠実に、妄想の世界を広げていく。
あーテロリスト入ってこないかなあ
放課後。仄暗い教室には夕陽が差し込み、その茜色が残った10人程度の生徒を照らす。授業の復習をするもの、談笑するものもまちまちだが、入江は何もせずにただ座っているだけだった。いや、正確にはユキが帰宅するのを待ちぼうけている。と言った方が正確だ。
いつも放課後は寝ているフリをして、授業の復習や読書をするユキの様子を眺めている。それがいつもの放課後の風景。
今日も今日とて例外はなく、ユキと入江は教室が閉まるギリギリまで残っていた。放課後の入江の過ごし方はユキを眺めること。それは校外でも例外ではない。本屋であれば立ち読みのフリをして、視界の端にユキを捉えておくし、帰宅時には同じ時間の電車に乗るようにしている。今日のユキはかなり遅い時間まで近くの図書館で時間を潰した。長い時間を使った割には、ユキは何かを心待ちにしているようだった。何度も外を見たり、手に取った本を1度閉じて、また読み始めるなど、いつものクールな感じとは打って変わって、ソワソワしていた。そして周りが完全に暗くなり、図書館にも閉館のメロディが流れ始める。ユキはそのまま最寄り駅に行き、次に来た電車に乗った。もちろん、入江もあとに続く。時刻は20時半。ラッシュアワーを乗り切り、車両内の空気も疲れているように感じた。乗客も少なかったため、入江はユキとは違う車両に乗り、携帯越しに彼女を眺めることにした。ユキが降りるのはここから7番目の駅だ。そこから目視出来る所に彼女の実家がポツンとある。真っ白い外壁のとても美しい一軒家だ。
しかし今日は何もかもがいつもと違うようだ。電車に乗って10分。2つ目の駅でユキが降りた。入江は気になって初めて彼女と同じ駅で降りた。気付かれないように、でも見失わないように、一定の距離をあけてホームから改札まで付いていく。その駅には何も無かった。改札を出て、周りを見渡しても、目に付くのは田んぼとボロボロの空き家だけ。そんな駅で何をするつもりだろうと入江が彼女に視線を戻すと
「帰って、ストーカー」
真正面から冷ややかな声を浴びせられた。侮蔑と怒りの表情を浮かべたユキだった。入江の存在にいつからか気づいていたようだ。2人が向かい合うことや、会話することもこれが初めてだった。あまりに酷いファーストコンタクトに何も言えず固まっている入江に、彼女が大股で近づいて、
パァン!
そのままひっぱたいた。
「帰って!付いてこないで!」
アルトの声調で声を荒らげて尚美しいその顔には、焦りが浮かんでいるようだった。
一方の入江は、ストーカーと呼ばれたこと、ひっぱたかれたこと、ユキに怒鳴られたこと、拒絶されたこと。全てが初めてで、あまりにショックが大きかった。言い返すことも出来ずにそのまま道路にへたりこんでしまった。悲しんでいいやら、怒っていいやら、感情がグシャグシャになり、パニックに陥っていた。視界がグワングワンと歪み、道路の邪魔だと駅員にたしなめられ、やっとの思いで近くのベンチに座り込んだ。
好きな人に付きまとっていたこと、それを無自覚でしていたこと、ユキを不快にさせてしまったこと。自責の念が彼を押し潰した。耳を手のひらで塞ぎ、目をギュッと瞑る。入江の癖だ。パニックに陥ったとき、焦った時、感情がマイナスに向かうと、夢見がちな彼は現実から目を背けるため、よくそうするのだった。
どのくらいそうしていただろうか。現実に意識を戻すと、そこにユキはいなかった。周りには今入江がいる駅以外に他に光源がなく、暗闇の中、北風とともに雪が降ってきた。しばらくして、踏切のベルが田舎の静寂を切り裂いた。
今日のことは忘れよう。帰ったらうんと妄想しよう。またいつもの様に正義のヒーローになるんだ。誰にでも好かれ、みんなを愛し、自然を愛し、恐るべき敵を打ち倒すカッコイイヒーローになるんだ。妄想の中ならみんなが僕の味方だ。
彼はベンチから立ち上がり、もう一度改札に入り、ホームに戻る。スピードを落としつつある電車の光が入江の目を焼いた。思わず薄目になる視界の端に、空き家から線路上に飛び出した影が映った。
ユキだった。元々彼女がこの何もない駅に降りたのはこれが目的だった。彼女の父親は官僚で家は裕福だが、母親は2年前に他界しており、現在は父親とユキの2人暮しである。駅から目視できる美しい一軒家で彼女は父親から虐待を受けていた。彼は酔っ払って帰ってくることが多く、妻を失った悲しみからか、最初はユキに泣きつくだけだったが、次第に行為はエスカレートしていき、酔った勢いで寝込みを襲い、殴る、犯すなどの暴行を加えていた。遠くへ逃げてもいずれ見つかる。助けを求めても父親は政府の人間だ。相手に迷惑がかかるだけ。試行錯誤の末全てに失敗し、ユキは人生に絶望した。そしてこの日、自殺を計画していた。
しかし、そんなことは露ほども知らない入江は、影がユキであることを確認するや否や緊急停止ボタンを押し、ホームから飛び出し、ユキを空き家とは反対側の田んぼに突き落とした。願ってもみない機会だ。彼は内心ほくそ笑んだ。たとえ怪我をしても、入江がユキを助けたことに変わりはない。それに骨折すれば数週間は学校を休める!なんとも幼稚で、しかし打算的な思考を持ちながら、入江はうつ伏せの形で線路に落ちた。電車の車輪と線路が悲鳴をあげる。そして入江の脇腹5センチ前で急停車した。電車のベルが鳴り始めてからおよそ20秒。あまりに濃い時間だった。
「アブネー!ユキちゃんも怪我はない?」
これだ!これが言いたかった!
入江は頭の中で歓喜の雄叫びを上げた。ようやっと彼の妄想が現実になろうとしていた。ユキと2人で甘い青春を送るのだ。
彼女を起こそうと差し伸べた入江の手はーー
パァン!
彼女にはたかれた。
「ふざけんな!キメェんだよストーカー!死ね!」
ユキは自力で立ち上がり、端正な顔を怒りに歪ませ、不細工な暴言を吐き捨てた。いつも教室で飛び交う、冗談まじりの安い脅し文句とは訳が違う。好きな人からの本気の怒りに満ちた「死ね」。加えて凍てつくような眼光が重く強く、入江の心臓を貫いた。
ユキの表情以上に、入江の動揺は目覚ましかった。顔からはサッと血の気が引いていき、呼吸が乱れ、視界がたわみ、冷や汗が背中から吹き出した。彼の脳内は疑問で埋め尽くされていた。
どうして?なんで?僕はヒーローになったはずなのに。なんでユキちゃんは拒絶するの?
先程より大きいパニック。彼は例のごとく耳を塞ぎ、目をギュッと瞑る。しかし、耳を塞いでも尚、彼の脳内に響き続ける「死ね」という美しく汚い声は彼を現実世界に縛り付けた。
痛いくらいに耳を抑えても、その言葉は彼の脳を、心を、蝕み続けた。