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その穴の向こう側

「やっぱ金だよ、金。世の中、銭子がなくっちゃ、なんにも出来やしねぇ」


 後部銃座に座った染谷源吉そめやげんきちは、口の減らない男だった。聞いてもいないのに、勝手に身の上話を捲くし立てる。


 狭苦しい操縦席の中、ただしは心の底からうんざりしていた。


「軍の給金だけじゃ、田舎の弟共を食わせてやれないからな。遠征隊に入れば、支度金だけで八十圓。働き次第で、褒賞金まで出るんだ。まさに、一攫千金よ」


 がっぽり稼いで、新しい牛や馬を買うのだと、染谷は息巻いた。


「しっかし寒いなあ、秋津あきつ。ここで小便したら、逸物が凍っちまうかな?」


 知らん。

 染谷を無視した貞は、磁気コンパスを覗き込んだ。地上を見下ろし、頭の中の地図と照合する。


 下翼の縁から覗くのは、見渡す限りの白。地平線まで続く氷の平原。


 無限に続く白と蒼の世界に、貞は目眩を覚えた。


 機外の温度は、摂氏マイナス40度。風を通さぬガラスの天蓋に、エンジン排気を利用した温風。分厚い毛皮の防寒服を纏い、全身に海豹の脂を塗り込んでさえ、染み入る冷気を防げない。


 人類最後の秘境。絶寒の地獄。命なき静寂に覆われた氷の世界メガラニカ──


 多大な畏怖と畏敬を持って語られる南極の大地を、貞はちっぽけな複葉機に乗って飛んでいた。


「やっぱいいよなぁ、連合の機体は。こう、いかにも頑丈って感じで」


 染谷の羨ましげな声。

 マフラーを巻き直した貞は、ちらと周囲に視線を走らせた。


 怖気を奮うほど澄んだ空に、無数の機影が舞っている。


 総数は、おおよそ50機ほど。

 機種はおろか、国籍さえバラバラ。機体の表面は、雑多な色に塗り潰され、本来の美しさは見る影もない。


 無残な姿を晒す飛行機械の群れに、貞は臍を噛んだ。


 薄汚い山師共め──心の中で悪態をついた。


「向こうには、小便用の管も付いてるんだろ? 御国も、やれ冒険者だ、探検家だって、俺達を持て囃すなら、もっといい機体を寄越して欲しいね。軍の払い下げみたいなオンボロじゃ、どうにも……っと、見えてきたな」


 舌打ちを堪え、貞は地上を睨んだ。


 そこにあるのは、巨大な穴だ。


 直径は、約一キロ。

 緩やかな擂り鉢状を為す縁から、急速に落ち込む暗闇。分厚い氷と岩盤を貫いた深遠は、奈落への入り口を思わせる。


ゲート”。あるいは、単に“ザ・ホール”。氷の大地に穿たれた、異境との境界点。


 どこか禍々しいその姿に、貞は我知らず喉を鳴らした。


「やっぱ、おっかねえなぁ。金玉が縮み上がってやがる」


 緊張のためか、染谷の声は上ずっていた。


 隊長機から発光信号が送られる。

 事前の打ち合わせに従い、各国の機体が編隊を組み替えていく。


 貞は、周囲の機体と距離を測りつつ、慎重に操縦桿を操った。


「やべぇな。本格的に小便がしたく──」


 次の瞬間、染谷は叫んだ。


「敵機、直上!」


 貞は、反射的にラダーペダルを踏み込んだ。横滑りした機体の横を、曳光弾が掠めていく。


 灰色の影が陽光を反射する。


 貞は、遠征隊の只中を突っ切った機体に見入った。


 低翼単葉の流麗なシルエット。大面積の主翼が風を掴み、細身の胴体が描くラインは、艶かしい妖女が如く。


「どこの機体だ! 自衛用の火器以外は、条約違反だろッ!」


 弾けた閃光に、染谷は息を呑んだ。

 さっきまで隣を飛んでいた機体が、翼を圧し折られ、雪原へと落ちていく。


 錐揉みしながら墜落する機体に、貞は頭を振った。


 見惚れてる場合じゃない。今は集中しないと。


 頭上を群舞する機体は約十機。華麗に旋回を繰り返す姿は、異国の踊り手を連想させる。


 後席の天蓋を開いた染谷が、機銃を空に掲げた。


 貞は、周囲との距離を詰めた。遠征隊は一塊となり、濃密な弾丸の雨が振りまかれる。


 銃声。

 銃声。

 銃声。


 無数の火線が伸びる空を、灰色の機影が曲芸じみた動きで泳ぎ回る。


 天蓋越しにその機動を見た貞は、己の中の血が沸騰するのを感じた。


 機体もエンジンも桁が違う! あんな凄い機体、いったいどこの誰が。


 太陽を背に、異国の踊り手がステップを踏む。銀翼が身を翻す度、遠征隊は櫛の歯が欠けるように落とされていく。


「クソッ! このままじゃ、ジリ貧だぞ!?」


 染谷が、撃ち尽くした弾倉を取替えながら叫ぶ。

 貞は、咄嗟に操縦桿を倒した。機体を地上スレスレまで降下させる。


 これで下からは撃たれない。そのまま穴に飛び込めば、生き残る目はある。

 間近に迫った穴を見やり、貞は眼を見開いた。


 最初に見えたのは、炎だ。


 双発機の編隊。濃緑に彩られた機体から、次々と爆弾が切り離され、波打つような炎が闇の中から噴き上がる。


 ゴッ──と何かが、穴の底から現れた。


 黒い柱だ、と貞は思った。


 遥か頭上まで立ち上った、黒い柱。それは、反転しようとした濃緑の機体に組み付き、絡め獲る。


(違うッ──!)


 貞は背筋を粟立たせた。あれは食われたんだ!


 濃緑の機体が、飴細工のようにひしゃげる。内から膨れ上がるように弾け、溢れた炎を、四つに裂けた口が飲み干していく。


「……ッ、逃げ、ろ……秋津ッ」


 静寂に支配された戦場で、染谷は喉を絞り上げるように声を発した。


「奴ら、休眠期の番人を起こしやがった……ここにいたら殺される。秋津、早く逃げるんだ!」


 長く伸び上がった柱が、波打った。光を反射しない真っ黒な身体がうねり、のっぺりとした頭をくねらせる。


 眼のない怪物に睨まれた瞬間、貞はスロットルを開いた。


「何してんだ、秋津!? そっちは穴の方向だぞ!」


 怪物が近付いてくる。


 貞は、操縦桿を右へ倒した。機敏に反応した機体は、降り注ぐ火線をかわして、上昇へ。


 急降下してきた敵機を、怪物が噛み砕く。


 穴の底からは、さらに三体の怪物。

 奴らには敵も味方もない。弓なりに反らした身体が振り抜かれ、無数の機体が一瞬でバラバラにされる。


 貞は、前方を睨んだ。

 真っ黒な顎門が迫ってくる。歯もなく牙もなく、ただヌメるような闇だけが存在している。


 間近に迫った死に、なぜか笑みがこぼれた。


 操縦桿を引き、顎門をかわす。紙一重で怪物の頭が通り過ぎ、機体が突風に煽られる。


 立て直す間もなく、次の頭。急降下してやり過ごす。間髪いれず上昇。下降。


 後ろで、染谷が何か叫んでいる。


 無茶苦茶に放たれる機銃。焼けた鉄の匂い。

 火薬の質が悪いのか、さっきから硝煙が煙い。目尻から涙がこぼれる。


 風防が砕けた。風が逆巻き、少しだけ視界が晴れる。


 利きの悪いエルロン。エレベーターもおかしい。ラダーで無理矢理、機体を振り回す。


 さらに上昇、下降。


 機体が落ちる。翼端が雲を引いて、錐揉み。怪物の頭が割れて、イカ墨色の口、が、迫──





 ──最初に感じたのは、温度だった。


 知らない鳥の声。水の音。草の匂い。

 粘りつくような微睡みが、瞼の上に圧し掛かる。


 強く身体を揺さぶられ、貞は目を覚ました。


「この野郎! 生きてやがったな、秋津!」


 染谷の顔が、鼻先に迫る。

 胃のむかつきを覚えて、貞は眉間に皺を寄せた。


「化け物に突っ込んでいくとか、正気じゃねぇよ。お前のせいで、小便が漏れちまったじゃねぇか!」


 声が頭に響く。

 顔をしかめた貞は、腰の辺りを探った。疲労のせいか、上手く力が入らない。


「待ってろ。今、外してやる」

 染谷が座席のベルトに手を伸ばした。


「ま、お陰でここまで来れたけどな。俺たち以外は、ほとんど壊滅だ。仲間も、どれだけ生き残ったか」


 壊れたらしい留め具を諦め、染谷はナイフでベルトを切り裂いた。


 自由になる身体。

 染谷の手は、貞のマフラーと飛行帽に掛けられる。


「とりあえず、味方と合流だ。あの所属不明機のこともあるし、俺達だけじゃ心許な……」


 飛行帽に押し込めていた黒髪が、滝のように流れ出す。


「あ?」と、染谷は間抜けな声を上げた。太い眉が持ち上がり、呆気にとられた顔で瞬きした。


「……誰だ、お前? 何で、女がここにい」


 貞は、染谷の胸元に手を当てた。


 燐光が瞬く。

“壊失”の象形図案ヘラルドリーが、魂の輪郭を打ち崩す。


 貞は、染谷の身体を押し退けた。

 効力の切れた具象石フィギュラティフ・ストーンを投げ捨て、外へ。


 世界の狭間を潜り抜けた機体は、崖の縁にかろうじて引っかかっていた。

 翼は折れ、あちこちに穴が開き、機体の後ろ半分がなくなっている。


 染谷の死体を投げ捨てた貞は、無残な残骸と化した機体に手を触れた。


「……あんたは、オンボロなんかじゃなかったよ。立派に勤めを果たした。私が保証する」


 しばし黙祷を捧げて、貞は振り返った。


 ──そこにあるのは、異界だった。


 太陽が、頭上に二つ。眼下に一つ。

 分厚い雲が、いくつもの階層を為し、時折、稲妻が迸る。巨大な鳥が空を遊弋し、煌く尾を引いて星が流れる。


 貞は、眼下の太陽を取り巻くように点在する陸地を眺めた。

 厄介なことに、針のない羅針盤スターウォッチの配列は、渡の季節を示している。


 羅針盤を懐に戻し、貞は機体から引っ張り出した背嚢を背負った。白皙に引かれた双眸が、瑠璃色の空を映して見開かれる。


 ──乗り物が必要だ。境界のあわいを越え、アルブスの翼に届く乗り物が。


 薄紅色の唇を引き結び、綾川貞あやかわただしは歩き出した。

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