いずれ誰もが知る事となる
仙座明に残されたものはそれほど多くはなかった。
幽谷の山脈を相手に相撲を取り続けて練り上げ、飛来する隕石を受け止め鍛えぬき、光の直進を妨げるほどに至った巨躯と剛力。
生死の境目で命を奪う手ごたえと共に完成させた二つの恐るべき殺法。
異世界で得た友人が、永遠の別れの餞別にと手渡してくれた無双の名刀。
だが、それら全ては幸せになるために必要なものではなかった。
彼の幸せの象徴だった、敬愛する兄と密やかに恋い慕っていた初恋の義姉は、もう……永遠に再会する事はかなわない。
通路の先、会場から歓声が聞こえる。
異能者と魔術師の双方の力を有するランキング上位者に、時代遅れの屠龍士がどれだけ食い下がれるのか、既に賭けが始まっているのだろう。
時代遅れか。明は自分の現状を言い表すのにこれほど相応しい言葉もあるまいと苦笑する。
「あのぉ、もしもし?」
現代の闘技場めいた会場への道を歩く明に話しかける声が一つ。明は呼びかけられ、ようやく相手に気づいた。
刺々しい印象の言葉を発した少女は一言で言えば異様な風体をしていた。
女性としては長身といえる背丈に、豊かな肉付きの肢体。頭から流れる艶やかな黒髪はまっすぐで美しい。
けれど全身を覆い包むのは体型を露にするようなボディスーツで、おまけに顔には物々しいガスマスクが装着されている。彼女は明へと肩を怒らせて猫が威嚇するような声を上げた。
「桐歌ちゃんから、私なんかに会いたい変な人がいるって聞いたんですけど」
「……ああ」
明は頷いた。
「素顔を見せてもらっていいだろうか」
「はぁ? ……馬鹿じゃないんですか?! なんで初対面の相手に顔を晒さなきゃいけないんです。どうせあなたも私の異能目当てで寒いお世辞を言う下心の塊なんでしょ?!」
ガスマスクの少女から発せられる罵声に対して、しかし明は気分を害することはなかった。
彼女の振る舞いはまるで、最初から裏切りを恐れて大切なものを何もつくるまいとするようだ。
無理もない。次元間迎撃戦争のきっかけとなった侵略鬼に対抗するかのように目覚めた異能者の力は千差万別で、中にはその強力さから迫害を受けたり、騙され、利用されるケースもある。
彼女は手ひどい裏切りや罵倒を受け続け、もう人を信じることに疲れ果てていたのだろう。
明は腹を立てた。
彼女相手ではない。彼女を迫害した相手でもない。
人々の心を置き去りにして無理やり力を与えるあまりに強引な進化の冷酷さ……運命の姿をした傲慢な何かに対して腹を立てたのだ……!!
「花川 紫杏さん。桐歌から君の異能が強力な毒、ウイルスの精製能力と聞いている。
それでも構わない。お願いだ」
「……私がその気になったら、呼吸にさえ猛毒が混じります。あなた正気ですか?」
「至って正気さ」
明の声に含まれる真剣さを受け取ったのか、紫杏と呼ばれた少女は最初こそ困惑していたものの……ゆっくりとガスマスクを外した。
ああ。明は瞳から涙を溢した。
兄の恋人、自分の義理の姉、遠い時の果てに置き去りにしてしまった初恋の人と瓜二つの風貌がそこにはあった。
明は、ぼたぼたとこぼれる涙を押し止めることができない。
「なっ……泣くほど私の顔が酷いって言うの?!」
「……違う、変わらず美しくて……な」
「うぇっ……?!」
明は首を振った。懐かしさと悲しさで胸が一杯になって、相手が顔を真っ赤にしているなどとは思いもよらない。
ああ、似ているが……やはり違う。
その美しさは、思い出を切り取って貼り付けたようにそっくりだ。
だが……自分が幸せになれるはずがないと諦めきったかのような陰鬱な気配が、彼女本来の美しさを大きく減じている。きっと微笑めば花のようなのに、震える様は痛々しい。
俯いて明を下からねめあげるその目には隠しきれない怯えがあふれ、彼女を不幸の影が覆い尽くしていた。
目を見れば分かる。苦しんできたのだ。
明は彼女の手を取った。
「すまなかったなぁ……」
「え? 馬鹿っ……なんで私みたいな生きた毒の塊に平気で触れるんですかっ!?」
「お前が大変な時に守ってやれなくて、すまなかった……」
紫杏は困惑を隠し切れない。誰も彼も自分を嫌悪し罵倒するのが常だったのに。どうして素顔を見て謝るのか、どうしてそんなにも悲しそうな顔をするのか。
今まで彼女に触れた誰かは、汚らわしくおぞましいものに触れたと言わんばかりだった。それがどれほど無残に心を傷つけるのか、気にされたことなどなかったのに。
自分の手に優しく触れてくれたのは、幼馴染の桐歌ちゃんと、大好きだったおじいちゃんとおばあちゃんだけだったのに、どうして平気で触れてくれるの? なぜ自分なんかに思いやりの言葉をかけてくれるの?
明は唇を噛む。彼女を初恋の人の名前で呼びそうになり、己を死ぬほどに恥じた。
ただ頭でわかってはいても、心が置き去りにされている。
今が自分の生きた時代より60年後の未来だったとしても、主観時間ではまだたった三年しか経過していないのだから。
明は、間に合わなかった。
大切な家族の死に目にさえ間に合わなかった不孝者だ。
今となってはこの娘こそが、明が生きるための唯一の縁だった。
家族に何もしてやれなかったなら……せめて、残されたこの子だけは幸せにしてやらねばならない。
「俺は君に尽くす」
「ふへぇ?!」
目の前の紫杏が変な声をあげたが明は気付かない。
「君が寂しいならば傍にいる。涙を溢すなら悲しみの根を断ち切ろう。君の力の事は知っているし、その辛さや苦しさは俺がどうにかできるわけじゃないが……もし何かの危機が迫ったなら……紫杏」
「は、はひっ」
「君が俺より先に死ぬ事はない。だから……頼む。傍にいさせてくれ」
「ッ……!! 馬鹿、いきなり初対面の……初めて会った相手になんてこというんですか……!!」
意味が分からず聞き返す彼女は、何か羞恥心が限界を突破したのか再び顔にガスマスクを被りそのままじりじりと後ずさる。
「返事を聞かせてくれ」
「う、うう、うわあぁぁぁぁ~~~ん!!」
明は傍で守りたい(ただし辞書的な意味で)という言葉への答えを求めたが、しかし紫杏はそれに答えることなく走り去ってしまった。
あれぇ? と首を捻ったが、時間は迫っている。ここの生徒会に借り受けた刀ひとつを手に、明はそのまま会場に出た。
『さぁ始まりましたランカーバトル! 今回の対戦相手は『屠龍士殺し』の仇名も名高い、索敵不能、補足不能、無光凶刃、魔術騎士ハイド=ルグラン!』
明は闘技場の向こう側にいる相手に目をやった。
金髪碧眼の整った若者。青年と少年の端境期の美貌は中性的で、剃刀を当てたことがなさそうに見えた。顔立ちは戦いより舞台で映えそうに整っている。周囲にいる観客の女性比率が多いように見えるのは間違いなさそうだ。
『ソレに対し姿を現すのは、巨漢にして筋骨隆々という見たままの前情報しかない――もはや絶滅危惧種と危ぶまれている純血種の屠龍士、マッスルデビル仙座明!!』
視線が明に突き刺さる。
その大半は、天敵と言うべき相手に挑もうとする無謀な相手を嘲る軽侮の視線。だが、僅かながら力量を探ろうとする警戒と観察も含まれている。
『普通に考えれば勝ち目はありません!! 何せハイド=ルグラン選手は無光凶刃なる異能で完全に姿を消す能力の持ち主! 単純な近接格闘を得手とする屠龍士にとっては天敵といえる相手!』
そこで解説者は言葉を溜める。
『し、か、し!! 彼をこのランカー戦へと推薦したのは皆様ご存知のあの子!
侵略鬼単独撃墜数、史上最多! 累積撃墜数1000を越える英雄に与えられる<天敵殺>称号の受賞者!!
その中でも地上最強を意味する生徒会序列一位、<第一天敵殺>!
あの! ……あの最強の『地平線両断』!!
姫園桐歌選手のお墨付きです! 決して油断していい相手ではありません!』
明は前に進み出る。
目の前の美少年は、口元に笑みを浮かべた。
「一体どういう手練手管を使ったんです? あのキリカ会長に特別扱いをさせるなんて」
「……なに。真剣で真剣に立ち会ってみただけさ」
明は微笑みと共に答えた。
対戦相手であるハイドは、疑問に首を傾げた。
「この会場にいる8割はあなたが無様に敗北する姿に賭けて儲けようとする連中で。
残り2割はあなたが何者か、探ろうとしています。キリカ会長はどこからあなたを発掘したんです?
10年ほど前ならともかく、異能もなく、魔術も使わない時代遅れの屠龍士など絶滅危惧種のはずだ」
「旧式が弱いと誰が決めた。俺は先日まで実戦で……ああ」
明は喉から競りあがってきた言葉を飲み込んだ。どうせ誰も信じてはくれまい。異世界へと召還され、三年間を戦い続けたなど――自分自身でさえ夢だったのではないかと思うのだから。
「名前を、聞いても?」
「仙座 明」
明は刀を親指で押し上げながら、優しげですらある笑みを浮かべた。
「この世界では、まだ無名の男だ」




