虚海西遊記
――夜空からいくつもの星が消えた。
雲ひとつない空。ただ死が待つ。
星々と人々を遮るように“闇”が走った。
空が堕ちたとき、八二億の人々が死んだ。九一億種の虫魚禽獣が滅んだ。四三億年の星の歴史が終わった。
――宇宙からひとつの星が消えた。
砕け散った星の膨大な大気と海は、宇宙空間へ揮発する。
生命の循環を支え続けていた潤沢なそれらは、宇宙の甚大で膨大で遠大で広大な闇へ表面張力のように均一に広がり、霧散し続ける。
裂け、焦げ、溶け、凍り、絶望色をした無数の無残な無慈悲。
中には子供を抱きしめたまま蒸発したミイラ、手を繋いで凍り付いた男女、無念そうな死体たち。
最後の最後まで、誰かと繋がり続けた人々が居た星が――終わったのだ。
深淵めいた無明でふたつの石が煌々と光っていた。その光はマグマと同じ色であり大地の命の赤。
正体は魔猿の眼球。闇の中でも獲物を見失わない獣の瞳、大猿の瞳。
その猿は、艶のある衣を纏い、星の破片を足場に“闇”を見据えていた。
漆黒の闇はヒトや獣の姿、大きさも惑星ほどから蚤ほどと千差万別。
何せその数は六六六の六六六乗に等しい。天文学的数の宇宙の破壊者・悪魔たちの群れだ。
「神外魔猿。ここまで来ましたか」
「あぁー……ここは猿の義兄弟であるシダの故郷じゃからなぁぁー……。なあルシファー?」
「遅すぎましたがね。光の速度を超えてきたようですが、我々の闇の速度には及ばない。星は既に滅ぼしました」
六六六の六六六乗の悪魔たちは一匹の猿を取り囲み、口々に嘲り呪うように嗤う。
だが猿に気後れは見られず、散々聞き流し、とうとう口を開いたときも余裕が喉から迸っていた。その瞳と同じ燃える熱さの響きが。
「キサマら……俺が義兄弟の実家を守ってやるほど義理堅く見えるか?」
「? では、あなたは何をしに来たんですか? こんなダイコク銀河の辺境まで?」
「決まっている」
猿が腕を振るえば真空にも風が吹く。いつの間にかその手には、大粒の数珠が現れていた。
猿が数えることも躊躇うこともなくいくつかの数珠玉を引き千切ると、残りの数珠は抜けたあとに磁石のように引き合い接合する。
「――キサマらが気に入らんから滅ぼしに来た。それだけだ」
取った数珠玉は猿の手を離れて浮かび、中空で十字を描く。
合わせるように猿は奇妙な念仏を唱え出すのを聞き、六六六の六六六乗の悪魔たちの笑いが、急激に静まっていった。
「南無暴斬大静鎮小魄在溺魚落鳥愚人魂在無明無暗我道常進……怪!壊!戒!界!」
「こいつは……っ?」
「ありえない! これは阿修羅戦線で失われたはずだ!」
だが、一音ごとに力が増加していき時間を曲げるほどのエネルギーが、虚言でなく真言であることを証明する。
悪魔たちの妨害が炸裂するが、火花を払うまでなしと岩猿の皮膚を炙るだけ。
躍らせ続けた舌は、吊りあがった口角からその仙術は解き放る。
「極虚∀滅霊覇ッ!」
唱えた瞬間、猿を中心に広がった衝撃は残留していた星の残骸を文字通り消し去った。
だが、その威力は物理的なものに留まらない。次元に満ちる重力子を高速振動、猿の意思力を相手の“存在”に叩きつける。
不死の悪魔たちですら因果の旋律から削除する覇道めいた波動。不死の悪魔だとしても存在している以上、不滅であることは有り得ない。
果てしない威力によって六六六の六六六乗の悪魔たちを四四四の四四四乗まで激減させた――が、それだけだった。
――宇宙ごと消滅させるつもりで撃ったが……連中、耐えやがった――
舌打ち合図に十字を組んでいた数珠は整列し、猿の首へと収まった。
思ったより減らなかったとばかりに次の攻撃を選ぶ猿を止めたのは、悪魔たちではなかった。
それは金に輝く翼か、あるいは金糸で編まれた繭か、最も率直な描写では金色のバイクに乗った少女。
バイクに似合うメタリックな甲冑を着ていても、猿を相手にしても怯まない姿勢から巫女的な強さとそれに付随する美しさを感じさせる少女、竜族の王女。
「お猿さん! 良かった! 間に合った!」
「いつかの竜族の小娘。また小言か?」
「逃げるわよお猿さん!! この場に居るのは悪魔だけじゃない!“あれ”がこっちに向かってるの!」
「“あれ”ってのは…… “あれ” か?」
――いつの間にかではない。今の間に、それは出現していた。
速さや大きいという概念すら超越し、銀河を埋め尽くす圧倒的質量。それこそは、
純然なる混沌。 生命の対となるもの。 具現した終焉。 白痴の因果地平。 絶対神。
至高の天使であったルシファーや、星々を統率する主神たちが次々に落ちた深淵の底。
その名は――“〇〇〇”。
四四四の四四四乗の悪魔たちの内、ある者は六枚翼を畳み、ある者は首を全て取り外し、ある者はミサイル状の剣を鞘に収める。
姿形は違えど全ての悪魔たちは“〇〇〇”に対して絶対的な服従を示した。
その間、猿と少女の間にテレパシーが走る。テレパシーはもちろん心の速度で行われる。
心の速度は重力の伝達速度に等しく、当然であるが、文字通り瞬時に行われる。
【小娘。これからお前を地球って星に呑空の術で飛ばす。
俺たちが認識した段階で過去から未来まで全ての時空に存在している〇〇〇からは逃げ切れない。
不動でありながら全ての時空に同時に実在する虚数、それが〇〇〇だ。全ての因果律は意味を為さないし、倒す術は無い、だが意地は通す。ここに来る前、〇〇〇の記憶に触れた。
その中に一度だけ攻撃を受けた記憶があった。大ダメージでぶっ壊れるんじゃないか、ってくらいのな】
【それが今で、攻撃をするのがお猿さんてこと?】
【違うな。攻撃していたヤツは神珍鐵ではなく光の剣を持っていた。
そもそも〇〇〇は過去と未来に同時に存在してるからこれから起こることじゃなく、既に起きたことの可能性もある……腹が立つぜ。
ここで俺が〇〇〇を滅ぼせるなら過去のヤツも存在していなかったことになる。因果律を逆転できない俺には、ヤツを滅ぼせない。
だが……少なくとも地球かその付近で生まれた“何か”が〇〇〇に攻撃できるのは確かだ。未来か過去かは知らねえが地球で〇〇〇を攻撃する手段を見つけろ。 竜族の意地を見せてみろ】
【それは……】
【ゼー……ハァ……】
テレパシーに混ざった呼吸のような音に、一瞬であるはずのテレパシーは外の時間に巻き戻された。
ありえない。他者同士のテレパシーのチャンネルに介入できる能力などというものが存在するはずが無い。
しかしながら、それは起きた。〇〇〇だ。〇〇〇が魂を引くようにして揺らめいた。
【ホ・ロ・ブ・?】
〇〇〇から放たれたおざなりな意志力が猿の全存在を蝕む。
猿はかつて自らの意志力で重力を操り、岩の肉体を創造し産まれた。
産まれる前から自我によって自らを生み出した岩猿は、至極当然だが自然淘汰によって生み出されたアミノ酸由来の生物たちを凌駕する精神構造を持つ。
――だが。
その究極の精神を持つ猿ですら、〇〇〇から発せられた呟くような意志力に存在自体が軋み、滅びかけていた。
「お猿さん!?」
「小娘、キサマもやるだけやって見せろ! 戦士ならな!」
「待って! 私、まだ話が! あのときのお礼も……!」
「行け!」
別れも無く、猿は一〇八の数珠を少女に押し付けながら呑空の術を唱えた。
空間と空間の間を自らの意志力で食い潰し、他の時空へと繋ぐ。正に空を呑む術。
既に一度は減らしたはずの悪魔たちの方は、再び六六六の六六六乗となっている。
地獄から這い出す亡者。〇〇〇が有る限り、悪魔たちは常に六六六の六六六乗なのだ。
「退屈しないな……!」
「降参でもしてみますか、神外魔猿?」
「てめえら……俺を、誰だと思ってやがる……?」
「お猿さんでしょ?」
悪魔の言葉に、猿は笑った。
部下も故郷も、守るべきものは既に無い。
長兄以外の五人の義兄弟も尽く滅ぼされた。
一〇八の術の数珠も竜族の姫に預け地球に飛ばし、もう毛を分身にすることや雲に乗ることもできない。
その竜たちも姫が自分のところに現れたことから察するに、既に全滅しているのだろう。
この虚なる海で、自分が地獄に抗う最後のひとりかもしれない。
〇〇〇の精神攻撃で滅びかけている岩の関節からを砂鉄が舞う。
それでも猿は笑い、愛用の神珍鐵・如意金箍棒を構え、真空を振るわせて叫ぶ!
「知らずば寄って聞くがいい! 俺はベンザイ宇宙が惑星トウショウ、傲来国花果山からやってきた世界に斉しき神外魔猿! 斉天大聖、虚海最強の男、孫悟空だ!」
大きすぎる敵にでも、孫悟空は今日も飛び掛っていく。
そして、宇宙の運命を占う地獄と滅亡に抗う英雄たちの戦いの物語が、竜神の姫によって紡がれようとしていた。
全時間・全世界・全存在・全生命の命運を握る戦場は、地球へ移る。




