赤錆とグランダ
信じられない光景だった。
遭遇からわずか六〇秒で、グランダの頼もしい仲間二人が死んでしまった。
その上最愛の彼女にして、信頼すべき仲間、回復役のアーミラの左肩から先が失くなっていた。
一体何が起こったのか。
事態が始まって少しが経った今でも、グランダには事態を把握しきれない。
わけがわからない。
ついさっきまで、ほんの少し前まで、楽しくお喋りしていたのに……。
血がほとばしり、残った腕で傷口を押さえながら、アーミラが叫んでいた。
「逃げて、グランダっ!」
「だ、ダメだ、お前を置いていけない!」
「見てわからないの!? ジョンもスミスも死んじゃったのよ! 私も長くない。……お願い、あなただけでも生きて逃げるのよ!」
「そうしたらお前は……!」
「私達全員が死んだら、こいつの存在を誰がギルドに知らせるの。私達は冒険者よ、死ぬことだって覚悟してきた!」
アーミラが必死に訴えかける。
男グランダの声は続かない。
体高三メルトルにも達そうかという巨大な熊の魔物が、真っ赤な目で二人を見下ろしていた。
全身から発せられる、質量すら伴っていそうな殺気を前に、グランダの勇気は消し飛んだ。
かつて仲間だった肉の塊を見た。
巨大な爪の一薙ぎで、首が折れ、頭が吹き飛んでいる。
……もう、二度とミンチ肉は食えないな。
頭の何処か冷静な部分が、場にそぐわない感想を思い浮かばせた。
震えて萎える足が、それでも恐怖に蹴立てられるように痙攣し、土を蹴らせる。
感情はアーミラを助けたい。
心底から思っている。
だというのに、体は思考を無視して、勝手に動き出していた。
――グォオオオオ!!
熊が吼えた。
少しでも距離をとって、逃げろ!
走れ! 逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!
本能が激しく訴え続けていた。
足が土や落ち葉を跳ね上げる。
グランダが熊の魔物から背を向けようとしたとき、アーミラは片手を上げて自分を大きく見せ、熊を威嚇する。
そして一歩も引かずに睨みつけた。
「来なさいこの化物! アイツは絶対にヤラセはしないわ!」
新進気鋭の冒険者パーティの中でも、アーミラの才能と能力は格別だった。
今も失った肩からの出血が止まっている。
即座に高位の回復魔法を唱えたのだろう。
激痛に堪え、恐怖を前にしながら、驚異的な魔法の精度と精神力だ。
それでも、この魔物と戦って勝てる見込みは皆無だ。
彼女自身がそれを誰よりも理解している。
だが、それでも――。
勇敢な彼女は、グランダを逃がすために最後の勇気を振り絞っている。
止めろ。
お前も止まって、戦え!
彼女を見殺しにするな!
心の叫びが最高潮に達したとき、ドスッと鈍い音が聞こえた。
「ああっ……!」
か細い悲鳴。
どさりと何かが落ちる音。
とてつもない嫌な予感に襲われて、グランダは振り返った。
……見なきゃ良かったんだ。
一撃で倒された恋人の姿を見て、とめどなく涙がこぼれた。
視界がにじみ、それでも足が止まらない。
冒険者として鍛えた脚力が、グランダと熊との距離を恐るべき速さで開いていた。
「くそっ、きっとギルドが仇を討ってくれる。すまない、アーミラ、すまない……!」
腕で涙を拭ったグランダは見た。
熊の魔物はグランダを見つめて、口を開いた。
「グフッ、グフフッ! ガフッ!!」
嘲笑っていた。
仲間を見捨てて逃げる情けない男を、その怯懦をそしるように、熊が笑い声を上げていた。
なんて情けないんだろうか。
それでも、アーミラの言うことは正しい。
このまま残った所で、グランダはきっと何の抵抗もできずに死ぬだろう。
この危険な存在を、冒険者ギルドに知らせる必要がある。
走って、走って、走って――。
安全な人里までたどり着いたとき、グランダは自分もまた顔に一撃を貰い、多量に出血していることに気づいた。
使い込まれた板金鎧を身につけた男が、馬車に揺られながら紫煙をくゆらせていた。
幾筋もの傷跡の残った凶悪な顔だが、笑うと不思議と愛嬌がある。
腰元には美しい鞘に収められた剣が差してあり、ひと目で業物と見て取れた。
絞りに絞られた太い二の腕、背負われた背嚢には多量の荷物。
ぱっと見は一廉の冒険者に思える。
行商人の男が問いかけた。
「本当にこの先で良いのかい?」
「ああ、構わないよ。あんたが行ける所までで良いから、乗せてくれや」
「こんな山の辺鄙な所に、何の用があるんだい? 私にはなーんにも無いように思えるが。差し支えがなかったら教えてくれよ」
行商人しか通らないような何もない道である。
人通りも少なく、道が整備されてるとは言えない。
そんな道に同道し、途中で降ろしてくれという。
不思議な客に、道馬を御している若い男が、興味を示した。
グランダは煙草をじっくりと吸い、吐きだす。煙がもわりと口から吐きでて、男にかかった。
「うわっ、げほっ、えほっ! 何するんだい」
「……お前さん、『赤錆』って知ってるかい?」
「いや、聞いたことないけど」
「まあ若い奴は知らねえか。ノルジア山脈に居座る人食い熊の魔物だよ。初めて姿が確認されたのは一五年前の夜神の月の三日。当時C級冒険者たちが薬草採取の依頼中に不意に遭遇して壊滅した。生き残ったのは男がわずか一人……」
「それはまた、大変な事件だったんだな」
突然語られた凄惨な事件に、行商人の男が驚いた。
だが、話と男の関係が分からない。
グランダは行商人が関心を示していることを把握しながら、話を続ける。
酒に焼けた低く渋い声が朗々と響き渡る。
舌は滑らかで、まるで歌うかのようだ。
「話はそこで終わらねぇんだ。赤錆は狡猾で、おそろしく強かった。奴は巧みに姿を隠し、寝込みを襲い、その上罠を張る。木々を盾にし、土に潜り気配を殺す。生き延びた男の報告を受けて冒険者ギルドは討伐令を出したが結果は散々。Bクラス、はてはAクラスの冒険者たちでさえ、討伐に向かったきり、二度と帰ってはこなかった……」
「恐ろしい魔物だな。それでどうなったんだ? さすがに倒されたんだろう?」
「ところが赤錆は自分の縄張りである山からは下りてこない。貴重な高位の冒険者を立て続けに失ったことから、ギルドは討伐を断念した。今やその山は立ち入りが禁じられているという……」
グランダが山の頂を見て、再び煙草を吸う。
その瞳は峻険な山の景色を見つめているようで、別のなにかを見通しているようだった。
話がひと段落ついて、行商人もようやく男の目的が察せられた。
「おい、あんた真逆その山に行こうっていうんじゃないだろうな。売名目的なら止しときなよ。命あっての物種だよ?」
「ちょっと奴とは因縁があってな」
「どんな?」
「この顔の傷をつけられた。仲間と彼女を殺された。仇討ちだよ」
「でも無茶だ。A級冒険者のチームでも歯が立たなかったって、あんたが言ったんじゃないか。一人でどうやって倒すつもりだよ」
行商人の男の忠告はもっともだっただろう。
だが、それでもグランダは不敵な笑みを崩さなかった。
「俺も今年で三〇歳になる。経験を積んで技術も磨いたが、体力はこれから落ちていくだろう。奴に一矢報いるには、これが最後の機会だと思ってるんだ。よし、ここいらで降りるよ。ありがとうな」
「おい、待ちなよ、無茶だって! あんたC級だったんだろう!?」
「そいつぁ昔の話だ。今はS級だよ。それにダメだったときのこともちゃんと考えてるさ」
「S級だって!?」
グランダは言って、馬車から飛び降りると、山へと駆けていく。
均されていない不確かな足場を軽々と踏み越えていく姿は、たしかに歴戦の強者の風格だ。
「よーし、待ってろよ赤錆。お前の頭をかち割ってやるからナ!」
グランダは凶暴な笑みを浮かべて、山の向こうを睨み据えた。
生きるか死ぬか。
たとえ命を失うことになっても、きっとやってみせる。
これが赤錆とグランダの、半年に及ぶ死闘の始まりだった。




