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新入社員は御曹司!? 〜リケジョ奮闘記〜

 イケメンが我が家の前でゲロを吐いている。


 困惑する私に嗅覚が告げる。くさい。

 玄関扉に背を預けるスーツの男。天井を見上げ、まるでこの世の絶望を一身に背負ったかのような表情で目を閉じている。真上から照明に照らされて、まるで舞台役者のようではないか。誰、あれ。


 夏の夜らしい湿度の高い風が、吐瀉物のすえた臭いをかき混ぜる。よろしくない。うちの前だというのが最もよろしくないが、マンションの廊下中にも臭いがプンプン拡散している。


(ヤダもう、なにあれ酔っ払い……?)


 恐る恐る近づいて、顔を覗き込む。目は伏せられている。長い睫毛。肩が静かに上下している。良かった、生きている。


「あのぉ、大丈夫ですか?」


 返事はない。酔いつぶれているようだ。


(こ、困るー! クタクタなんですよ、私は!)


 プレミアムなフライデーと縁遠い私は、本日も実験の都合上、深夜退社だったのです。

 そりゃ、たまにはいつもと違う夜を過ごしたいなーなんて気持ちはありました。けどいらないよ、こういうハプニングは……。


 いつまでも吐瀉物とイケメンを見下ろしていても仕方ない。勇気を出して、青年と向かい合うようにしゃがみこんだ。


「も、もしもーし」


 優しく肩を揺すると、男は薄く目を開けた。虚ろな瞳が私を捉える。


「……、……はぁ」


 この調子じゃ会話が成立するか微妙なところ。男の手は、同じ借り上げマンションのカードキーを握りしめていた。一応、社内の人間ってことね。ほかに何か身元を確認できるものないだろうか。財布とか、名刺とか……。


 無残に吐き散らかした割に、青年の服装はあまり乱れていなかった。

 首元まできっちり閉められた清潔感のあるワイシャツに、淡色ストライプのネクタイ。よく磨かれた革靴。眉を寄せて呻く姿にはどことなく色気が滲む。

 歳は、私よりは若そう。肌に艶がある。サラサラの髪が、汗でこめかみに張り付いている。項垂れているせいで露わになったうなじの美しさたるや。


(酔っ払ってても品があるって、すごいなぁ)


 妙なところで感心してしまうが、それより今は早く立ち去ってほしい。

 美青年を前にこんな枯れっぷりじゃ女が廃るのかしら。そんなだから、新しい恋を引き寄せられないのかしら。

 いやいやだってアラサーだもの。イケメンは観賞用で充分でしょ。特に、マンションの廊下で酔い潰れるような人は、ねぇ。

 ぐるぐる考えている間にも青年は船を漕ぎそうになっている。私は慌てて彼の肩を叩いた。


「部屋、何号室ですか? 送りましょうか?」

「ぇ……?」


 消え入りそうな声で、美青年が呟いた。


「ここ、501号室ですよ。私の部屋なので。立てますか?」

「う、……うぇ」

「上? 6階ってこと?でも、6階は」


 たしか、会社の持ち物だったような。

 浮かんだ疑問を解消するより前に、青年の身体が私のほうへと倒れてくる。


「きゃっ」


 背の高い男に縋るように抱きしめられて、うっかり胸が高鳴った。首筋にかかる熱い吐息に、らしくもなく動揺してしまう。


「だ、大丈夫ですか?」

「……はぁ……、ねむ……」


(このっ、酔っ払いめ!)


 イケメンでもお触りは有罪です! それに、ここ、くさいから!

 やっぱり、くたびれたアラサーと酔っ払いイケメンの間に、ロマンスなんて生まれようがないのだ。


「ほら、がんばって立って! 重っ」

「うう、」


 無理やり抱き起こしたはいいけど、青年は低く呻いて、口を抑えて下を向いた。


「きもぢわるい」

「えっ!? 待って、やだお願い待って、コンビニの袋あるから、いや待ってやめてやめてやめてやめ」

「●×△〜」

「いやあーっ!?」


 深夜に響き渡る私の叫び声と、ダムを放流するイケメン。


 人類が古代に発明した酒は、現代を生きる1組の男女に悲劇を生んだのだった。



 


「ぶわっはっは!」

「嬉しいですよ、多村先輩……大いに笑って下さい……」


 実験室の隅で、私は重たいダンボールをこじあけた。背後では先輩社員の多村義嗣が、同じく試薬の整理をしている。


 昼休みも終わった午後1時。

 イエローフィルムが貼られた窓越しに、8月の太陽の強烈な日差しを感じる。プラント設備の中央にある紅白模様の煙突から、青空へと真っ白な蒸気がたなびいている。


 鼠色の配管が迷路のように入り組むプラントにある、ひときわ新しい研究棟。そこが、私こと芹沢杏奈の仕事場だ。


 真夏でも実験室は24度に保たれていることに感謝。じゃないと不採用のサンプル廃棄なんて、やる前から気持ちが負ける。


 保護手袋よし。簡易面体装着よし。活性炭入りマスクよし。ドラフト稼働よし。アセトン準備よし。あとはそうそう、キムタオルも準備よし。


 親指で、一斗缶のふたをぱこんと押し開ける。廃液用の漏斗は長年蓄積した樹脂でベタベタに固まっていて、手袋にしつこくくっついた。缶穴に漏斗を刺して、一本目のガロン瓶をひっくり返す。

 ねっとりとした廃液が完全に垂れ落ちるまで、手を添えたまま、しばし待機。


「あー、眠気吹っ飛んだわ」

「良かったです」


 すべらない話として語った先週末の悲劇だが、予想以上にウケたようで何より。少しは汚物にまみれた甲斐があったというものよ。


「んでゲロ被って、そのあとどうしたんよ?」

「介抱しましたよ、朝まで……散々でした、トイレでも吐かれるし、気になってお風呂にも入れないし」

「なに、芹沢、そいつ家にあげたの?」


 多村さんの声のトーンが低くなる。

 そんな風にジト目で責められたって、困ります。と言いたいのをグッとこらえて、私は次なる廃棄サンプルを手に取った。


「だって、玄関先で死なれても困るし……そりゃ部屋にあげるのは良くないかなって思ったんですよ。でも大家さんに電話するには遅すぎて申し訳なくて」

「あー、そういう時はせめて信頼できる男友達とか、俺を呼びなさいよ」


 金曜の夜、奥様と過ごしてるだろう職場の先輩を呼び出すほど私、無神経な女ではありません。なんてムキになって反論してもしょうがないので、物分かりの良い後輩のフリをして「はぁい」とおざなりに頷いた。


「で、そいつと一晩過ごして、その後どうしたよ?」

「変な言い方しないでください……朝方、私が寝落ちしちゃって。その間にいなくなってました。クリーニング代って5万も机に置いて」


 まじかよ、と先輩が苦い顔をする。


「あぶねぇなぁ。やっぱ友達に連絡するとか、隣家に助けを求めるとかした方がいいな。さすがにもう次はないと思うけど」

「そう、ですね」

「災難だったな」


 私の頭に、多村さんの手が伸びる。ぽんぽんとリズムよく叩いて去っていく指には、真新しいリングが光っている。


 別に、心配して欲しかったわけではなかったのだ。ちょっとした笑い話になればと思っただけで。

 なのに私の心はじわりと熱を上げる。熱い顔を隠すために落ち着きなくマスクを直したりした。


 先輩は、何事もなかったかのように作業を再開している。

 私は、なかなか減らない廃棄瓶を見つめてため息をついた。


(……私いつまで、先輩のことを好きなんだろう……)


 とっくに捨てるべきだったのに、抱え込んで熟成させてしまった感情が、ドロドロと粘度を増して沈殿している。


 ねっとりした廃棄樹脂が、漏斗の暗い穴の中に音もなく吸い込まれていく。これはまるで私の腹のなかだ。

 昏い気持ちで満たされそうになった時、人はどうやってそれを捨てるんだろう。蓋が閉まらなくなった時は? 溢れてしまったら?


 一杯になった重い一斗缶をえいやと持ち上げ、私は次なるサンプル瓶をこじ開ける。

 少なくともこれらは、私の手によって、捨てることができるものだから。





「本日、新入社員が研修にいらっしゃる」


 15時開始のミーティングで、室長の早見が開口一番そう言った。みな、狐につままれたような表情で、顔を見合わせる。


「もう8月ですよ?」

「……社長の御子息だ」室長は腕を組んで低く唸った。


「6月に、アメリカの大学院の卒業されたらしい」

「へー、修士卒っすか? あ、博士? へぇー、さすが御曹司っすね」

「社長はさっさと経営をさせたくて、卒業後すぐ本社に呼んだらしいぞ」


 社長、息子さんのこと甘やかしすぎなんじゃないの。という会議室の空気がむんむん伝わってくる。


 私の勤めるJCM(日本化学素材)株式会社は、研究開発に力を注ぐ大手電子素材メーカーだ。たしか経営陣の高年齢化が問題になっているとかなんとか、経済誌で読んだような。なるほど御子息、期待されているのね。


 どんな人だろう、御曹司。やっぱりこう、お金持ちっぽい雰囲気なんだろうか。


「御子息がどうしても開発の現場が見たいとおっしゃられて……社長も承諾なさるものだから、てんやわんやだよ。そろそろいらっしゃるはずなんだが」

「はぁ? 今日? いや、いくらなんでも急すぎでは」


 ベテランの沼野さんが、海苔よりも薄い頭をがしがし掻きながら困惑気味に言った、そのときだ。会議室の扉をノックする音が聞こえて、皆が一斉にそちらに注目した。


 ぎょっと目を見開く私に、誰も気づかなかった。皆、目の前の青年があまりに眩しくて、釘付けだったから。


「失礼します。研究開発の皆さんはこちらだと伺いましたもので」


 爽やかな微笑み、凛とした立ち姿の、高価そうなスーツをお召しの美青年。


(うっそ……)


 青年と目が合う。色素の薄い瞳が見開かれたが、お互いを呼ぶ名前すら知らないことに、苦笑するしかなかった。

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