彼と彼女のテクノス 第4話 高原のライダー編
彼と彼女のテクノス 高原のライダー編
written by Beter Bakaran, dedicated to Saka-King
早朝、初夏の高原は爽やかだった。木々たちは葉を青々と茂らせている。少し霧がかかっているが、これは日が照り始めれば、すぐに晴れるだろう。どこからか鳥の声が聞こえるが、姿は見えない。
ホテルの部屋の窓を少し開け、ゆっくりと流れ込んでくる冷気に、シャツ1枚では肌寒いだろうと感じた裕二は、ジャケットを羽織って、外に出た。高原では、夏であっても、早朝の気温は20度を下回る。
昨日から、裕二は山梨県に旅行に来ていた。ここには、JR線の日本で最も標高が高い駅がある。隣接した長野県にある野辺山駅が全国で最も標高が高く、そこから一駅西に行くと、山梨県に属する清里駅で、標高が県内一、全国で2番目だ。鉄道旅行マニアとしては、押さえておくべきターゲットだ。
今回の旅行は、典子と、彼女の母の杉岡さんも一緒だ。裕二と典子の交際は、杉岡さんにすっかり知られてしまっていた。典子と旅行にというときには、二人だけで行かせてくれるのが常だったが、今度ばかりは、杉岡さんも絶対一緒に行きたいということで、3人で出かけてきたのだった。
杉岡さんがどうしても行きたかった理由は、ビールだ。清里駅から歩いていけるレストラン「ロッキー」で飲める地ビールが絶品なのである。大手ビールメーカーを定年退職した醸造技術者が、清里でビール造りを指導しており、コストダウンと利益を重視する大手では難しい、手間のかかる製造方法、量の限られた厳選された材料でビールを作っている。その美味しさは、何年も連続で、全国規模の品評会で金賞を受賞するほどだ。
昨日、野辺山駅を押さえてから、3人は清里駅に到着し、「ロッキー」で食事をした。杉岡さんと典子は、ビールの美味しさにすっかりテンションが上り、大いに飲んだ。裕二は全くアルコールが飲めないので、ウインナーなどをつまんで、名物のカレーを食べていたが、これも圧倒的な旨さだった。夏であっても、夜は暖炉に火が入っていて、デザートにマシュマロを焼いて食べることができた。酒を飲もうが、飲むまいが、大満足の夕食だった。
何にせよ、母娘がビールを飲みすぎたのは間違いない。まだまだ起きてくることはなさそうだ。
ホテルから出た裕二は、ぶらぶらと駅の方に向かって歩いた。昨日、夕方に着いた時にも気になっていたが、ロッキーがあるテーマパークの周辺は綺麗で、客で賑わっているが、駅前は荒廃が著しい。老朽化した建物が打ち捨てられていて、中を覗くと放置された備品が散乱している。不動産の売り看板も出ているが、買い手が見つかる可能性は、限りなくゼロに近そうだ。
バブル時代の高原ブームの成れの果てで、当時、ブームに乗って出店された土産物屋などが、軒並み経営に行き詰まって撤退したらしい。資金繰りも行き詰まっていたわけで、建物の解体費用が出るわけもなく、当時作られたメルヘンチックなオブジェが残されたままだ。人の気配もなく、薄汚れたメルヘンは、むしろ不気味に感じられた。妖精から、妖怪に変化、といったところか。
駅前の寂れた通りを一通り見物して、裕二は駅で時刻表を確認した。まだまだ始発まで1時間以上ある。駅の周囲には、誰もいない。木造の駅舎の中で、観光案内などを物色していると、外からエンジンの音がした。図太い音色で、スポーツカーかと一瞬思ったが、タイヤのロードノイズが少ないことから、オートバイだとわかる。オートバイは、駅舎の前で止まり、エンジンが切られた。そして、続いたのは、
「わっ、わっ、きゃあ!」
という悲鳴と、ガチャンという金属音だった。
裕二は、駆け足で駅舎を出て、あたりを見回した。小さな駅なので、先程の悲鳴の主はすぐに見つかった。オートバイが、地面に倒れていて、その下から這い出そうとしているのは・・・女性だ。先程の悲鳴で検討はついていたが・・・それにしても、オートバイが大きすぎる。裕二はオートバイには詳しくないので、なんかハーレーとかいうやつかと思ったが、何にせよ、女性を放っておくわけにもいかない。
「大丈夫ですか?」
駆け寄った裕二は、やっとオートバイの下から脱出した女性に声をかけた。
フルフェイスのヘルメットの女性は、立ち上がり、
「私は大丈夫だけど、バイクが・・・」
「壊れたんですか?」
「ううん、サイドスタンドを完全に出していない状態で傾けてしまって、立ちごけしただけだし、エンジンガードが付いているからダメージはないんだけど・・・」
「じゃあ、何の問題が?」
「一人じゃ、起こせないのよね・・・」
「それはつまり・・・?」
「起こすの手伝って」
「いや、僕、バイクなんか、触ったこともないんで・・・」
「じゃあ、誰が起こすのよ!? 他に誰もいないでしょ! ほら、ガソリンこぼれてきてるじゃん!」
たしかに、地面に倒れたオートバイの下から、じわりとガソリンの染みが広がってきている。
「強引すぎる・・・なんで、僕が怒られてんの? そもそも、自分のバイクを、自分で起こせないっていうのはどうなの? ていうか、バイクって倒れるとガソリンこぼれるんだ・・・」
と、心の中で思いつつ、女性の頼みは断れないのが、裕二という男なのである。
「はあ・・・で、これ、どうやって起こすんですか? 見るからに重そうですけど・・・」
「ちょっと待ってね」
そう言うと、女性は、まず車体の下に手を差し入れ、フェールコックを閉めた。なお、裕二にはフェールコックが何なのかわかっていないので、このあたりの説明は、大型二輪免許を持っている後輩の前木に聞いて後で知った話であるが、オートバイのタンクから、キャブレター(キャブレターという言葉も裕二は知らなかった)にガソリンを供給する配管には、途中に回転式の手動弁があって、ガソリンの流れを止めることができるのだ。ガソリンは、キャブレターから漏れ出してくるが、フェールコックを閉めてしまえば、タンクに閉じ込められることになり、それ以上は漏れてこない。
続いて、女性は、荷物の中からバンダナを取り出し、ハンドル右側のフロントブレーキをそれで縛り付けた。これはライダーなら知っている小技だが、オートバイを引き起こしている最中にタイヤが回転して前後に動くと、オートバイが再び倒れるので、ブレーキをかけておくのである。ハンドルを持ちながらでは力が入らず引き起こせない大型のオートバイでは、必須の技だ。
「よし、じゃあ行くわよ。私はハンドルを持つから、あなたはシートの後ろの方を持って。上に持ち上げるんじゃなくて、横に押す感じで。せーの!」
地面に接地した部分が持ち上がると、鋼鉄の重量が裕二の手にかかったが、そこで踏ん張り、ある程度起き上がると、後は楽だった。
オートバイが起き上がると、女性は、サイドスタンドをしっかり出し直して、車体を立てかけた。ついで、車体のダメージを再確認していたが、エンジンの横に張り出した保護用のパイプ・・・これがつまりエンジンガード・・・と、ハンドルの端っこ、あとはシート横に取り付けられた革製のサイドバッグに擦り傷がついたぐらいで、大きな損傷はないようだった。
「ふう・・・久々にやっちゃったな・・・」
そう言って、彼女は、ヘルメットを脱ぎ、黒いロングヘアーがこぼれた。「ヘルメット脱いでファサッ」は、女性ライダーの専売特許であり、むしろこれをやるためにオートバイに乗っている女性も多いと言われている。
怖いヤンキー系のお姉さんだったらどうしようかと、内心では心配していた裕二だったが、それは杞憂に終わった。ちょっと気の強そうな眉も、彼女の真っ直ぐな雰囲気に似合っていた。他に、化粧は、ファンデーションと、薄い口紅ぐらいだろうか。この女性の場合、色々と塗り重ねる必要性は全くない、と裕二は思った。
ブルージーンズに黒い革のライダースジャケット、同じく黒い革のロングブーツというライダーの定番ファッションに身を包んだ彼女は、すらりと背が高く、体も引き締まっていて、甘えは感じさせなかった。しかし、空気抵抗の削減を考慮して作られるオートバイ用の服は、体にフィットしており、腰のラインの曲線は、女性のそれ以外の何物でもなかった。
年は30歳過ぎかと思われたが、オートバイ用の装備のせいで女子っぽくないためかもしれず、20代でも違和感はない。
「ありがとね。おにいさん。こんな時間の、こんなところに、人がいて助かったわ。旅行の人?」
「ええ、下のホテルに泊まってて、目が覚めるのが早すぎて暇だったので、ぶらぶらしてたところで。あなたも旅行ですか?」
「まあね、バイクでの旅行は、ツーリングって言うんだけど」
「へえ、そうなんだ。それにしても、大きなバイクだな。めちゃめちゃ重いし。これハーレーとかいうやつ?」
助けられたわりに、彼女が最初からタメ口なので、裕二もタメ口で尋ねてみた。
「あははっ! バイクを知らない人は、大きいバイクは何でもハーレーって言うよね。でも違うよ。これは、V-max。ヤマハのバイク。1200ccだから、たしかにハーレーと同じぐらいの大きさだけどね」
彼女は、裕二のタメ口について、全く気にしない様子で答え、続けた。
「ほんと、助かった・・・本当は二人で走るつもりだったんだ。二人だったら、何かあっても対処できるから。それが予定変更で一人になっちゃって」
彼女が急に寂しげな口調になったのに、裕二は気づいた。
「だよね。こんな大きなバイクは、女の子が一人だけで走らせるもんじゃないよ、どう見ても」
わざと茶化すように言った裕二に、彼女は言い返した。
「だから、予定変更で一人になったって言ったでしょ! わかった、じゃあ、あなた、一緒に乗って付いてきてよ。それなら安心ってことでしょ? ここからあと少し行ったところに、面白い喫茶店があってさ。もともとそこに行くつもりだったの。美味しいコーヒーが飲めるよ。助けてもらったお礼に、おごるからさ」
驚きのオファーに、裕二は戸惑った。
「コーヒーか・・・いいね。と言っても、ホテルに連れがいるし、ヘルメットとか持ってないし」
女性は、ちょっと寂しげに言った。
「ヘルメットは・・・もう一個、あるんだよね、幸か不幸か・・・そんなに遠くないから2時間もあれば返ってこられるよ」
彼女は、バイクの後部に取り付けられたボックスを開けた。たしかに、ヘルメットがもうひとつ入っていた。
裕二は考えた。オートバイをこかして、さっきまで地面に転がっていた女性の運転を信用して、うしろに乗って大丈夫なのだろうか。一応、時間的には、まだ6時にもなっていない。2時間後でも、まだ、典子と杉岡さんは寝ているだろう。それにしても、オートバイを起こすのを手伝ったのは確かに親切なことかもしれないが、一緒に喫茶店に行くほど距離が縮まるほどの行為でもないのではないか。
ホテルに寝ている連れ、典子のことは、女性だとも、交際相手だとも、はっきり言っていないが、ここ清里に男同士で泊りがけで旅行に来る可能性が低いことは、彼女だってわかるはずだ。それぐらい予想できないほど、気が回らない女性とは思えない。浮気というほどでもないかもしれないが、女性の方から言い出すような提案ではない。
総合的に考えて、強引な理屈だ。だが、裕二は典子と交際を始めてから、わかってきていた。女性が強引な理屈を並べるときは、理屈はどうでもいいから、そうして欲しい、という意味だということを。
実際には、これ以上、付き合う義理もない。しかし、基本的にはタフそうな彼女が、「幸か不幸か」などという言い方をする・・・どう考えても、比重的には「不幸」が大きいのだろう・・・気丈なふりをしているが、精神的に実は相当まいっているのか?
これは、お礼をしたいから一緒に来い、ということではないと、裕二は悟った。このまま一人で行くのは嫌だから、もう少し助けて欲しい、そういうことだ。
繰り返すが、裕二という男は、女性の頼みは断れないのだ。
「わかった、じゃあ、コーヒーおごってもらいに、乗ってくぜ」
「OK! じゃあ、ヘルメットかぶってね」
彼女に渡されたヘルメットは、Araiというロゴが書いてあった。かぶってみたはいいが、あご紐の止め方がわからない。プラスチックでパチンと止まるような部品はついていない。戸惑っている裕二を見て、彼女は言った。
「それ、レースにも使えるようなヘルメットだから、ワンタッチのバックルはないのよね。二つの輪っかにベルトを折り返して締めるのよ。やってあげる」
少し上を向いた裕二のヘルメットのあご紐を、彼女は締めた。
「エンジンかけるね」
彼女は、V-maxにまたがり、キーを回して電気回路を通電させ、セルモーターを回した。先程の転倒でガソリンがキャブレター内にオーバーフローしていたために、多少時間がかかったが、シリンダーとピストンで密閉された空間の内部で、圧縮された混合気が無事に燃焼爆発を開始した。V-maxのエキゾーストから、太い排気音が響いた。彼女が軽くスロットルを手首であおると、ちょうどオートバイの後方に立っていた裕二の腹部を排気の風圧が叩きつけた。
しかし、同時に、そのサウンドには、多数の金属部品が精密に相互作用をして動力を伝達する、メカニカルな機械音も混ざっていた。V-maxのV型4気筒エンジンは、シリンダー上部に配置された二つのカムが、それぞれ吸気と排気を制御するバルブを駆動するDOHC方式である。DOHCのV型4気筒は、オートバイに搭載されるエンジンとしては、もっとも複雑なメカニズムを持つ部類なのだ。耕運機と同様のOHV方式であるハーレー・ダビッドソンの、おおらかなV型2気筒エンジンとは異質な、暴力的でありながら同時に知性的とも言える、独特の迫力を、そのサウンドは体現していた。
「じゃあ、うしろにまたがって、そこのタンデムステップに足を乗せて、適当なところにつかまって」
火が入って、自らの鼓動に細かく震えるV-maxの迫力に少し緊張を強めつつも、裕二は言われたとおりに、V-maxの後部座席にまたがり、彼女の腰に背中から両手を回した。
「ひゃっ! なんでそこなのよ! グラブバーがあるでしょ?」
「えっ? グラブバーって何? 漫画とかだと、だいたい前の人につかまってることない?」
「・・・まあ、いいわ。あと、左右にぐらつかないように、膝を締めて、車体をホールドするのよ。リヤボックスが背もたれになるから、後ろには落っこちないと思う」
オートバイっていうのは、乗せてもらう方にもやることがありすぎるなあ、4輪車なら椅子に座ってシートベルトをするだけなのに、気を抜くと落っこちるとは、なんて非合理な乗り物なんだろう、と裕二は思った。
彼女は、左のつま先でチェンジレバーを操作してニュートラルからギアを1速に入れ、ゆっくりと左手のクラッチレバーを緩めた。V-maxの後輪に、エンジンの駆動力が伝わり、二人は朝もやが晴れ始めた道路に走り出た。
清里周辺の道は、基本的にすべて山岳路と言える。最初は、カーブで車体が傾くたびに、反射的に身を固くしていた裕二だが、何十のカーブを抜けるころには、後部座席の搭乗者は、体を固定して何もしないように努めるのが、運転者にとって良いことに気づき、遠心力に身を任せられるようになってきた。
彼女は、教科書通りのスローイン・ファストアウトで、カーブを丁寧に抜けていった。減速による荷重が、旋回の遠心力に転換され、そのまま加速に遷移して、V-maxのタイヤをアスファルトの路面に押し付けた。V-maxは豊潤なトルクで、260キログラムを越える車体と、車体にまたがる二人を軽々と加速させた。
カーブの内側で、山肌から伸びている木の葉が、裕二のヘルメットの数センチメートルのところをかすめた。ヘルメット越しでも、朝の高原の静謐な空気が、裕二の胸に流れ込んでくる。オートバイが生み出すむき出しのスピードが季節を増幅し、緑の香りや、朝霧の冷たさ、昇り始めた太陽が予感させる夏を、鋭敏に知覚させた。
運転する彼女が、裕二に叫びかけた。
「慣れてきた? ちょっとだけ、本気出してみようか?」
「本気? よくわかんないけど、やってくれ!」
初めて乗るオートバイに感動し、裕二は、特に考えずに答えた。
続くカーブを抜け、長い直線に差し掛かったところで、彼女はギアポジションを一つ落とし、大きくスロットルをひねった。
タコメーターの針が、一気に跳ね上がり、表示される数値が6000回転を越えると、V-maxのエンジンが、その本性を現した。ヤマハ独自の特殊機構、Vブーストが作動したのだ。通常、一つのシリンダーに一つずつ、合計4つのキャブレターが、シリンダーに混合気を送り込んでいるが、Vブーストが作動すると、V型エンジンの反対側で休止しているキャブレターを強引に使用して、一つのシリンダーに二つのキャブレターで燃料供給ができる。過給されたエンジンは、通常時の倍のエネルギーで獰猛な加速を開始するのだ。
彼女がスロットルを開けていた時間は、ほんの2秒程度だったが、スピードメーターの針は、すでに法の枠組みを2周は越えた数字を示していた。彼女はすぐにスロットルを戻し、速度を一般的なペースに戻した。
先程まで、オートバイが感じさせる情緒を堪能していた裕二は、加速の力によって、一瞬で非合法の世界に突入できる、オートバイの反社会性に直面したのだった。本能的な恐怖で、心臓が縮んだように感じた。
「怖かった? ごめん」
声をかけられた裕二は、かすれた声で答えた。
「ああ、大丈夫・・・でも、これは・・・危険だな」
生身の人間では本来得られるはずのない、圧倒的な加速を、スロットルのひとひねりで体験する行為は、麻薬に類似した危険性がある。その快楽のために死んだ者も、数え切れないのだ。
やがて、オートバイは、目的の喫茶店に到着した。ログハウスの建物で、看板には「Lucky Number」と書いてある。日本語に直したら「番吉」か、そう言えば、名古屋にそんな名前の焼き鳥屋があったなと、裕二は思った。
オートバイを降りて、ヘルメットを脱いだ二人は、それを手に持ったまま、店のドアに向かった。
「あなたが先に入って」
案内をして連れてきたくせに、なぜだか彼女は裕二を押して、ドアを開けさせた。
「いらっしゃい」
無垢の木材で作られたカウンターの向こう側に立つ、初老の男性が言った。
「お一人ですか? カウンター席がいいですかね・・・あれ、後ろにいるのは、峰子さんじゃない!」
「おはようございます、マスター」
裕二に対する口調とはうってかわった丁寧な口調で、彼女---峰子は挨拶をした。
「どうぞ、お二人でカウンター席に座って下さい」
促されて、裕二と峰子は、カウンター席に座った。店内は、ログハウスの丸太に、スツールも木材、テーブルも木材、カウンターの奥の棚に並べられた食器類は陶器やガラス・・・裕二は、ふと気づいた。ビニールやプラスチックの類が一切ない。人間が自然から作ったものはあるが、化学的に合成されたものが全くなかった。テーブルクロスでさえ、工業染料ではなく、草木染めで彩られていると思われた。
「お連れの方は、初めてですね。ヘルメットを持っているということは、バイク乗りでらっしゃいますか? ん? そのヘルメットは、大介さんのじゃないか」
大介という名前が出た瞬間、峰子は一瞬、身を固くした。それを横目で見つつ、裕二は答えた。
「いや、僕は彼女の後ろに乗せてもらってきまして、自分で運転はできないですよ。ヘルメットは彼女に借してもらったんですが」
マスターは、峰子の方を見たが、峰子は何も言わない。
「とりあえず、ご注文はどうされます?」
峰子は、二人分のコーヒーを頼んだ。
裕二と峰子の他に、まだ客はいなかった。時間も早朝の6時を過ぎたころで、観光客が動き出す時間ではない。店内を見回すと、喫茶店にはたいてい置いてある雑誌棚には、ファッション誌の代わりに、バイク雑誌が置いてあった。単行本も並んでいる。「彼のオートバイ、彼女の島」とか、「禅とオートバイ修理技術」などのタイトルで、どうやらこちらもオートバイに関連する作品のようだ。丸山健二の「風の、徒労の使者」というエッセイは、オーストラリア大陸を作家自らオフロードバイクで縦断した紀行文のようだ。表紙は、赤いオフロードバイクと、焼けた荒野の写真である。
峰子がしゃべらないので、裕二はマスターに話しかけた。
「マスターもバイクに乗るんですか?」
「ええ、若い頃からずっと乗っていますよ」
「僕は、今日、初めてバイクに乗せてもらったんですが、気持ちいいですね。飛ばすとちょっと怖いけど」
「そうですね。世間では、3ナイ運動でバイクの危険性ばかりを伝えたり、漫画では暴走族とか、レースの世界が描かれがちですが、たいていのライダーは、風が気持ちいいから乗っているものなんです」
そんな雑談をしているうちに、コーヒーを淹れる用意ができたようだ。マスターは、カウンターの上に、妙な器具を置いた。ガラスと真鍮で作られている。
「これは・・・サイフォン・・・ですかね?」
裕二が尋ねると、マスターは答えた。
「そうです。バランシングサイフォンという、19世紀にはもう使われていた、古い形式のサイフォンです。うちの店では、これでコーヒーを淹れているんですよ。動きが面白いので・・・バイク乗りはメカが好きでしょう?」
ガラス製の容器に挽いたコーヒー豆を淹れ、隣り合う真鍮製のポットに、マスターは水を注いだ。
「八ヶ岳から汲んできた湧き水です」
そして、ポットの下のアルコールランプに、マッチで火を付けた。
湧き上がった湯が、ポットからガラス容器に移動し、コーヒーが抽出されるのを、裕二は興味深く見守った。そして、湯がガラス容器を満たすところまで移動すると、シーソー状の部品でカウンターウエイトと連結されたポットが軽くなり、シーソーが反対側に傾いた。ポットの底面部は、アルコールランプの蓋を遮っていたが、ポットが上昇することで支えを失い、ランプの蓋が自動的に閉じて、火を消した。
しばらくすると、ガラス容器のコーヒーが、ポット側に逆流した。
「うわあ、面白いなぁ!」
裕二は、素直に感嘆の声を上げた。
「でしょう。ご家庭で使うには、洗浄や組み立ての手間がかかるので大変ですけどね。さあ、ポットについている蛇口をひねるとコーヒーが出ますよ。こちらのカップをどうぞ」
マスターは、美しい紫色のカップを、裕二と峰子に差し出した。
「このカップは、剪定された巨峰の枝を燃やした灰を釉薬にして、染めてあるんです。その紫は、自然な葡萄の色ですよ」
ポットから、コーヒーをカップに注ぎ、裕二は口に運んだ。
「旨い!」
「ふふ、よかった」
マスターは、裕二の喜ぶ顔を見て、満足げに微笑んだ。
裕二の隣に座った峰子も、バランシングサイフォンの動きを眺め、コーヒーの香りに包まれることで、リラックスし始め、表情も和らいでいた。
裕二は言った。
「で、大介って誰?」
峰子は先程のような動揺は見せず、カップを手にしたまま、黙って虚空を見つめた。
「僕をここに連れてきたのは、このためだろう? 君は自分から言い出す勇気はない。マスターは他人が言い出さないことを、あえて聞いたりしない。だが、言わなくてはならないことがある。だから、言わざるをえなくなる質問を、誰かに言ってほしかった。そうじゃないのか」
峰子は、カップを起き、少しの間うつむいていたが、顔を上げて、裕二の方を向いた。彼女の瞳には、涙が浮いていた。
「わかっていて、来たの?」
「そうだ」
「無関係な、見ず知らずの他人なのに?」
「倒れたバイクを起こすのを手伝った。無関係ではない。今は、君の名前も知っている。だから、他人ではない。あと、僕は旨いコーヒーに目がない」
峰子は、少し笑って、涙を拭いた。
「強引な理屈だね」
裕二は、にやりと笑ってみせた。
峰子は、マスターの方に向き直って、言った。
「大介さんは、もうここには来ません。バイクにも、二度と乗らないそうです」
マスターは、静かに言った。
「そうですか・・・」
峰子は続けた。
「マスターは、私と大介さんの関係を、どんな関係だと思っていましたか・・・?」
マスターは、眉を寄せ、少し苦しげな表情をして、言った。
「仲の良い・・・お二人だな・・・と」
「大介さんが、結婚していることは、知ってますよね」
「はい」
「奥様がいるのに、彼にV-maxを買ってもらったり、こんな時計をもらったりする私は、仲が良いだけだと思いましたか?」
裕二は、事情の概要を理解して、息を詰めた。彼女の身につけている時計については、先程からすでに気づいていた。ゼニスのクロノグラフ・・・レディースのものだ。「天頂」を意味するゼニスの名を冠した、その時計のモデルは「El Primero」。エスペラント語の意味は、The First。つまり、一番ということだ。頂点のなかの、そのまた一番。その理由は、El Primeroのムーブメントが、36000振動という他に類を見ない超高回転型ムーブメントだからだ。機械式の時計は、テンプが高速回転するほど、高い精度が出る。しかし、同時に、ゼンマイのエネルギーを大量消費するので、稼働時間が短くなる。この二律背反を解決し、36000振動でありながら、50時間のパワーリザーブを達成したのが、El Primeroのムーブメントなのだ。
El Primeroのムーブメントを搭載したゼニスの腕時計の価格は、100万円を上回ることも少なくない。
シリアスな状況になってきたというのに、裕二は好奇心に負けて、口を挟んだ。
「あの・・・V-maxはおいくらぐらいで・・・?」
峰子は顔をしかめたが、答えた。
「あのV-maxは初代の1200ccだから、中古で80万円ぐらい。二代目のV-maxは1680cc.。新車価格で220万円よ。でも、彼はV-maxは初代の方がデザインが良い、Vブーストという機能が、デザインと調和しているって言って、コンディションの良い中古を探したの」
峰子は補足した。
「彼は、工業デザインの会社を経営していて、収入はあるの。それぐらいはポケットマネーなのよ」
「一般人の感覚からしたら、ポケットマネーのレベルではないな・・・」
「だよね」
峰子は、話し始めたら、気持ちが吹っ切れてきたようで、裕二のわりと容赦ない台詞にも、素直に答えた。
「でも、私は、それでもただの友人だと思ってた。彼は、他の友人にも気前が良かったし。奥様はバイクが嫌いで、乗っているのを見つかると怒られるから、預かってくれって、彼のF4を私のマンションのガレージに置いていたの。ヘルメットも」
「F4って?」
「MVアグスタのバイクよ。F4 セリエオロ。ちなみに価格は、580万円」
「ぐはっ! ・・・そんなエグゼクティブと、なんで出会ったの?」
「私はただの看護師よ。リハビリテーション科の。彼がバイクで怪我して、病院に通院していたときに出会ったの。彼の影響で、私もバイクに乗り始めて、色々教えてもらって、ツーリングとかに連れて行ってもらって。このお店も、彼が教えてくれて、一緒に何度も来た場所なの」
マスターは、峰子が裕二に語るのを、黙って聞いていた。
裕二は、質問を最初に戻して、尋ねた。
「奥さんに嫌がられ、怪我をしても懲りもせず、超高級バイクに乗っていたバイク好きが、なんでバイクをやめることにしたんだ?」
「奥様が妊娠されたからよ」
裕二は、質問をしたことを後悔した。
「トランポを持って、自分のバイクを引き上げに来たわ。子供ができるから、今までのように好き勝手はできないって」
そして、峰子は、再び目に涙を浮かべ、震える声で言った。
「でも、私、そのときに言ってしまったの。奥様と私と、どっちが大事なの、って」
窓の外から、小鳥が鳴く声が聞こえた。窓からは明るい日差しが、木々を照らすのが見える。清々しい高原の朝、香ばしいコーヒーの匂いに包まれながら、なぜこんな話をしているのか・・・裕二が話を始めさせたわけなのだが・・・
「おかしいよね。友人だと思ってたのに、自分に嘘をついていたって、そのときに気づいたの」
裕二は、苦々しい口調で、尋ねた。
「彼は、なんて答えたんだ?」
「君にはもう会えない。バイクのことも、君のことも、妻は気づいていた。だが、何も言わずに、僕のデザイナーとしての創作力を損なわないために、自由にさせていてくれたんだ。今まで自由をもらった分、僕は責任も持つべきだと思う、って言ったわ」
「くそっ、今さら出来た人間みたいなこと言いやがって!」
裕二の言い方に、泣きそうだった峰子は、少し微笑んだ。
「・・・彼はともかく、奥様には完敗だよね」
ああ、もう一つだけ、聞きたいことがあった。この問題の判定に、関係があると言えなくもないが・・・男としては、聞かないと終われない。
「あの、つかぬことを確認しますけど、・・・肉体的な・・・あれとかあれは、あったのでしょうか?」
峰子は、カウンターに左肘をつき、その拳に左頬を乗せて、足を組みながら横を向き、裕二を見た。
開け放たれたライダースジャケットのジッパーの間から白いTシャツが見えて、胸の膨らみから、下方に向かって布地に陰影が伸びている。シャツの丸い襟ぐりから、彼女の鎖骨が覗いている。黒髪がうなじに流れて、窓の隙間から流れ込んだそよ風に、少し揺れた。
裕二は心の中で思った。大介とかいう奴は、リア充爆発の刑に処する必要があると。池口に事情を話して協力を頼めば、爆撃型ドローンを複数台組み立てて、AI空軍を編成してくれるに違いない。裕二も、典子のことがばれた際には、池口の爆殺対象になりかけたのだ。典子に頼んで、お友達合コンを企画しなければ、まじでやばかったのだ。池口に、合コンの成果は出なかったが・・・
なんてことを妄想していたら、峰子の右手が拳骨になって、裕二の左脇をヒットした。
「ぐへっ!」
「馬鹿! そんなのあったら、別れ際に今さら気づいたりしないわ!」
裕二は、脇腹を押さえながら、言った。
「ははは・・・そうですか・・・なんか安心した」
「ヘルメットは、彼が私の部屋に忘れていったの。そして、マスターに、この手紙を渡してくれって、私に最後の頼みをしてきたの。だから、今日、オートバイで一人でここに来たのよ。元は、二人で来る約束だったのだけど」
そんな精神状態で、あんな巨大なオートバイを運転するのは、危険極まりないと、裕二は思った。オートバイは、4輪車と比べて、運転に格段に高い集中力が要求されると、先程の体験でわかっていたのだ。立ちごけ程度で済んで、幸運だった。
峰子は、カウンターの上に手紙を置き、マスターの方に差し出した。
マスターは、それを黙って手に取り、封を開けた。手紙は1枚だけ、文面は、短いようだった。すぐに目を通し終わると、マスターは手紙をたたみ直し、胸ポケットにしまった。
「コーヒーをもう一杯いかがですか。私のおごりです」
答えを聞かずに、マスターは、サイフォンの準備を始めた。
峰子は、スツールを激しく蹴って立ち上がり、両手でカウンターを叩いて、言った。
「マスターは、私達の関係を見ていた。気づいて止めることは、できなかったんですか?」
裕二は、峰子の右手に、左手を重ねて握り、制した。
「峰子さん! それはお門違いだ! マスターは、君たちの関係の当事者ではない」
マスターは、ゆっくりとサイフォンを、二人の前に置き、言った。
「いえ、大介さんはお客さんでもありましたが、10年来のバイク仲間でもありました。彼のF4と、私の900SSで、一緒に峠を走ったことが何度もあります。F4の直4と、ドゥカティのLツインのどちらがカッコイイか長々と議論して、決着をつけるために峠で膝を擦りながら、競争したりしてね」
マスターは、思い出を懐かしむ目をした。
「峰子さんが一緒に来るようになる前から、彼とは悪友だったのです。無関係ではありません」
マスターは、アルコールランプに火を付け、言葉を続けた。
「峰子さんが、大介さんにとって、特別な友人だったのは確かです。ですが、そのような態度が、峰子さんの側で、特別な愛情として受け取られる可能性を、彼に指摘すべきでした」
峰子は、言った。
「私は、彼にとって、特別な愛情の対象ではありませんでしたか?」
マスターは、峰子に真っ直ぐ向き直り、言った。
「残念ながら、違います」
峰子は、力が抜けたように、スツールに腰を落とした。裕二は、まだ、峰子の右手を握っていた。
マスターは、続けた。
「大介さんはデザイナーという仕事をしていますから、創作に必要な感性を維持するためか、やんちゃな子供のようなところがありました。私も、少年の頃には、悪友の家にバイクを隠して、親にバレないように乗ったりしたものです。でも、我々の年になってくると、皆、身を固めて、やんちゃなことには、付き合ってもらえなくなります。だが、彼は強引に、やんちゃ友達のような関係を作れる相手を作り出した。峰子さんの女性としての愛情を、やんちゃ友達の関係にすり替えて、利用したのです」
マスターは、目を伏せて、言った。
「そのことに、私は気づいていました。ですが、私は、彼が峰子さんを犠牲にするのを、見て見ぬふりをしました。大介さんを批判して、友情を失うのが、私も怖かったのです。それに、どんな理由であれ、峰子さんのような女性が、うちの店に来てくれるのも、嬉しかったのです」
バランシングサイフォンのポットのお湯が、ガラス容器に移動し、アルコールランプの蓋がカタンと鳴って、火が消えた。
「私も同罪です。申し訳ない」
3人の間に、沈黙が流れた。裕二は、握っていた峰子の手を離した。そして、言った。
「マスター、コーヒーが湧きました。カップをもらえますか?」
「あ、はい」
マスターは、新しいカップを出した。今度は、紫ではなく、薄緑だ。これはきっと、マスカットの色だろう。それとも、桃か何かだろうか。
裕二は、ポットから、二人分のコーヒーをカップに注ぎ、峰子と自分の前に置いた。
コーヒーを一口飲んで、やっぱり旨いとつぶやいてから、言った。
「マスター、大介さんからの手紙には、何が書いてあったんですか?」
「これまで一緒に走ってくれてありがとうと、書いてありました。それから、峰子さんの望みを出来る限り聞いてあげて欲しいと。峰子さんは、彼の生涯で最高の親友だった、そう書いてありました」
峰子は、目を見開いた。
「だってさ。どうする? いい年しても悪ガキのままの男たちに、罪滅ぼしのチャンスを与えるか、コーヒー飲んで、考えろよ」
裕二は、峰子にそう言い、自分もコーヒーをすすった。
峰子は、言われたとおりに、コーヒーをカップの半ばまでゆっくり飲み、言った。
「マスター、V-maxと、ゼニスの時計を、処分してくれますか?」
「本当は、大介さんに返したいけど、もう会うことはないでしょう。私は、バイクを処分する手続きとか、時計の価値とか、疎いから。自分で色々と手配するのも、今は辛いし」
マスターは答えた。
「そんなことでよければ」
峰子は手首から、ゼニスのEl Primeroを外し、カウンターの上に置いた。
「私は、彼の本当の愛情の対象ではなかった・・・でも、都合のいい女としてもて遊ばれたわけでもない・・・愛人ではなくて、親友として付き合ってもらったことに、感謝すべきなのかもしれない。勘違いしていたのは、私だけだったのね」
峰子は、窓の外のV-maxを見た。
「そして、彼にとって、いちばん大事な場所に、私を連れてきてくれた・・・マスター、大介さんは、奥様をここに連れてきたことはありますか?」
マスターは、はっきりと答えた。
「いいえ、一度もありません」
峰子は言った。
「それで、少し救われました。でも、やっぱり、女として心の整理はつけたいのです」
峰子は、V-maxのキーを取り出した。
「V-maxも、このままここに置いていきます。書類とか出す必要があれば、後日連絡して下さい。帰りは、何か公共交通機関で帰りますから」
マスターは尋ねた。
「バイクは、もうやめるつもりですか?」
峰子は、迷うことなく答えた。
「いいえ、乗り続けます。でも、もっと身の丈にあった、立ちごけしても一人で起こせるバイクに乗ろうと思います。これからは、一人で走りますから」
マスターは、言った。
「それなら、良いバイクがありますよ。そこに止まっているカフェレーサーなんですが、50年前のホンダのCR110のデザインを、ヨーロッパのSkyTeamという会社がコピーして、中国で生産させたバイクで、Ace125と言います。車重は100キロ程度です。CR110のエンジンは高回転型のDOHCでしたが、これは頑丈なOHVで、見かけほど速くはありませんけどね。知人のバイク屋がプロモーションのために置いていったんです。バイク屋には、私が話をつけておきますから、そのまま乗って帰ってもらってよいですよ。書類関係は、V-maxの分と合わせて、後日整えますから。任意保険もかかっています」
裕二は、Ace125を眺めて、言った。
「へえ、かっこいいじゃない。峰子さんに似合いそうだね。結構、高いんじゃないですか?」
マスターは、笑って言った。
「いや、それが、日本円で30万円程度なんです。V-maxやゼニスと比較したら、大幅にお釣りが来ます。中国製ですしね。まあ、今は正規のホンダもスーパーカブを中国生産しているぐらいなので、最低限の品質はありますよ。」
「峰子さん、どうする?」
「素敵なオートバイね。軽そうだし。じゃあ、乗って帰らせてもらいます!」
裕二は言った。
「それにしても、日本のデザインを、ヨーロッパの会社がパクって、中国で生産、見かけで思うより安いって、まるでテクノスみたいだなぁ」
峰子が尋ねた。
「テクノスって?」
「ああ、僕がしている時計のメーカー。元々はスイスの一流ブランドだったんだけど、クォーツ・ショックの影響で経営が苦しくなり、ブラジルで代理店をしていた会社にテクノス・ブランドの商標権を売却したんだ。その後、そのブラジル・テクノスが成長して、南米最大の時計メーカーになったんだけどね。現在のビジネスモデルの主軸が、ヨーロッパでデザインされた時計を、ブラジルでパクって、中国で生産するというやり方なんだ。過去の名品のデザインを模倣しているから結構カッコイイし、中国生産なので、サファイアガラスとか良い部品を使っている割に安いしね。ゼニス1個で、テクノスが100個買えるよ」
そう言って、裕二は笑った。
「ふーん、でも、その時計、結構かわいいよ。白がメインで、ちょっと女の子っぽいけど」
「ああ、これペアウォッチで、男女共通デザインだからね」
峰子は、少し不満げな顔をした。
「そういうことか・・・。私も、ゼニスはいらないから、ペアウォッチが欲しいわ。ペアになる相手を見つけるのが問題だけど」
「まあ、ゼニスみたいなクロノグラフが好きなら、一応、テクノスにもクロノグラフのペアウォッチがあるよ。中身は、機械式ムーブメントじゃなくて、ミヨタのクォーツだけど。この小さいバイクのエンジンがDOHCじゃなくて、OHVになっているのと同じだな。安いし、壊れにくいんだ」
「そうなんだ。探してみる」
峰子は、テクノスの話になると、喜々としてうんちくを語りだす裕二を見て、微笑んだ。
「さて、帰りも後ろに乗せてもらうかな! グラブバーってのは、どこに付いてるんだ?」
それを聞いて、峰子は言った。
「乗れないよ」
「へっ?」
「125ccは排気量的にはタンデムできるけど、二人乗りができるタンデムシートとタンデムステップが必要だもの。これ、カフェレーサーだから、シングルシート。一人乗り専用だよ」
「うそ! じゃあ、僕は、どうやって帰るの? ホテル・ヘンリーまで戻らないといけないんだけど」
マスターが言った。
「原付ならありますよ。4輪車の免許は持っているんでしょう? それなら、50ccまでは乗れますから、自分で走って帰れますよ。ヘンリーのスタッフとは、私も知り合いですから、原付はホテルに預けてもらえば、後日、回収しに行きます」
マスターが示した原付は、しかし、スクーターではなく、股の間にタンクがある、一般的なオートバイの形をしたものだった。
「ギヤチェンジとか、わからないんですが」
「大丈夫、あのバイクは、スズキのストリートマジックといって、見かけは一般的なオートバイですが、実は駆動系はスクーターと同じ方式なんです。右レバーがフロントブレーキ、左レバーがリヤブレーキ、自転車と同じですよ。違うのは、右手のスロットルをひねれば、エンジンの力で加速することだけです」
裕二は、ちょっと迷ったが、行きで感じたバイクの気持ちよさを思い出して、言った。
「よし、じゃあ、借りてきます」
マスターが言った。
「帰る前に、うちの店のメンバーズカードを作っていきませんか?」
裕二はちょっと遠慮した。
「かなり遠くから旅行に来ているので、あまり来られないと思いますけど」
「構いません。あなたは、峰子さんを救い、私のことも救ってくれました。どれだけ時が経っても、この店が続く限り、あなたは特別なお客様です」
裕二は、メンバーズカードの用紙に名前や住所を記載した。
マスターは、裕二に手を差し出した。
「裕二さん、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、コーヒー、ごちそうさまでした」
そのやり取りを、脇で見ていた峰子が言った。
「あなた、裕二って言うんだ」
「ああ、いまさらだけど」
「名前がわかったら、もう他人じゃないね」
「ははは、まあな」
峰子は、Ace125のエンジンをかけた。裕二も、マスターの説明に従って、ストリートマジックのエンジンをかけた。
峰子は、マスターに向かって、手を振り、叫んだ。
「マスター、また来ますね!」
「ええ、待っていますよ!」
マスターも力強く返事をした。
峰子は裕二に向かって言った。
「裕二、じゃあ、行くよ。お互い慣れないマシンだから、ペースはゆっくり。特に下り坂は、カーブ手前で思い切り減速する。後ろ、付いて来て」
「わかった」
そして、二人は走り出した。
ストリートマジックにまたがり、山岳路を走る裕二は、ヘルメットの中で叫んでいた。
「うひょー!」
長いカーブを抜けて、直線に差し掛かったところで、スロットルを開け、加速しながら車体を徐々に起こしていく。
速度はたいして出ていない。ストリートマジックは50ccの原付一種なので、V-maxと比べると、おもちゃほどのパワーしかない。それでも、スロットルを捻れば、草刈り機のような甲高い排気音と共に、健気に前に進もうとする。ストリートマジックは、現在では環境規制で乗り物としては使えない、2ストローク・エンジンを搭載している。俊敏なレスポンスがあり、バイクを操る楽しさの入り口を体験するにはもってこいのマシンだった。
裕二は、オートバイに乗っている人たちが、ワインディングロードを走るのが好きな理由に気づいた。4輪車では、カーブを曲がるときは、横方向の遠心力がかかり、体に負担がかかる。ところが、オートバイはカーブを曲がる際、遠心力と重力をバランスさせて、傾きながら曲がるため、体には遠心力を感じないのだ。だから、曲がることが気持ちいい。
前を走る峰子は、裕二を気遣って速度を抑えつつも丁寧なライディングで、ワインディングロードに弧を描いていた。細身で軽量な小排気量のオートバイは、すらりとした峰子の体に、馴染んでいるように見えた。
オートバイを操る峰子の肢体は美しかった。4輪車では、操縦者は車体の中に隠れてしまう。どれほど美しい4輪車であっても、それは乗り手を除外してデザインされている。だが、むき出しの体で操縦するオートバイは、人車一体になったときに、そのデザインを完成させるのだ。
Ace125がデザインを模倣したCR110は、1960年代に世界グランプリを戦ったレーシング・マシンのレプリカ・モデルである。そのデザインは、その時代の技術的な限界の中で、ひたすら速く走ることだけを純粋に追い求めた結果、生まれたものだ。50年以上前の戦いを全く知らない裕二でさえ、そのオートバイが「戦闘機」であることが理解できた。優れたデザインは、説明をしないでも、その本質が見るものに伝わるものなのだ。
レーシング・マシンは乗り手を選ぶ。操縦が難しく、未熟な乗り手には、むしろ牙をむきかねない。だが、峰子には、それを乗りこなし、人車一体の美を再現する資質があったようだ。
木々の連なりが開けて、道の向こう側に青空が広がった。昇りきった太陽に向かって、峰子のオートバイが加速した。裕二は、彼女を追いかけて、スロットルを大きくひねった。
ホテルのそばの駐車場に、裕二はオートバイを止め、エンジンを切り、降車してヘルメットを脱いだ。
「ふぅ。無事に着いたなぁ」
オートバイから降りて屈伸運動をする裕二のすぐ右隣に、峰子は自分のオートバイを止めた。彼女は、エンジンをかけたまま、オートバイから降りることなく、言った。
「初めてにしては、良い走りだったよ。裕二、バイク乗りの素質、あるかもね」
そう言って、オートバイの上でヘルメットを脱いで、右腕にひっかけた。ギアをニュートラルに入れ、スタンドを出したが、右手はフロントブレーキを握りなおした。
「へへっ、そうかな」
それから、裕二は、続けた。
「それにしても、こんな面白い世界に、君を引っ張り込んだ大介さんは、全く罪作りな人だね」
裕二は、峰子が大介の名前を聞いても動揺しないか、確認したのだ。ここから先、彼女は一人で走らなくてはならない。
峰子は、オートバイにまたがったまま、うつむいて黙ってしまった。
「あ・・・大丈夫か?」
心配した裕二は、峰子の顔を覗き込もうと近寄った。突然、峰子が、左手で裕二の腕を掴み、自分の方に引っ張り寄せた。
「裕二、あなたも結構、罪作りだよ」
そう言ったと同時に、左手を裕二の首に回し、彼の唇に口づけをした。
数秒後、唇を離した彼女は、今度は左手で裕二の胸を突き飛ばし、サイドスタンドを蹴り払った。
「へへへっ! お泊りの彼女によろしく! じゃあね!」
そう言うと、左手でクラッチを握って、シフトペダルを蹴りギアを一速に入れた。スロットルを大きくひねると同時に、クラッチをつなげ、彼女のまたがるオートバイが駐車場の出口に向かって飛び出した。
彼女は、ギアを立て続けにシフトアップしてからオートバイを惰性で走らせ、両手をハンドルから離して、走りながら右腕にかけたヘルメットを頭にかぶった。
両手をハンドルに戻すと、再びシフトダウンし、小気味良い排気音を響かせながら、カーブの向こうに走り去った。
呆然と立ち尽くした裕二は、一人、つぶやいた。
「やられた・・・どんだけ、やんちゃなんだ・・・」
と、裕二の携帯電話が鳴った。ぎくりとした裕二が画面を確認すると、発信者は典子だ。
「裕二さん、どこにいるの? 完全に寝坊したわ・・・二日酔いにはなってないけど。良いお酒って、二日酔いにならないのよねぇ」
「あ、いや! ちょっと近くでラブラブ・・・じゃなかった、近くをぶらぶらして、コーヒー飲んできただけだから! 本当だから!」
「何、わけのわからないこと言ってるの? 清泉牧場でソフトクリーム食べたいなぁ」
「お、おう! そのまま部屋で待ってて! くれぐれも部屋から出ないように! すれ違いになるといけないからさ!」
「はぁい」
電話を切った裕二は、オートバイを押して、歩き始めた。ホテルのスタッフに、オートバイを預けるときには、くれぐれも口外しないように頼まなければ。
夏の陽射に照らされて、ストリートマジックのスピードメーターがきらめいた。タンクの中のガソリンが、ちゃぷりと揺れて音を立て、排気管から焼けたオイルの匂いがした。ほんの短い間だったが、相棒として走ってくれた小さなオートバイが、裕二には最初より頼もしく見えた。
「前木に、オートバイの免許のとり方、聞いてみるかなぁ・・・」
セミの声が、夏の到来を喜び、盛大に鳴り響いている。