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Kuckuck, Kuckuck

作者: 橘こっとん

 Kuc ck, K ck ck ruf 's a s dem Wa d.

 Las et uns s ng n, ta zen und s ingen.

 Fr ing, F uh ing w rd es n n ba d.


 少女の歌が聞こえる。

 切れ切れに響いてくるそれは、紛れもない幻聴だ。届かない箇所はいつも同じで、幼気な音程の乱れもそっくりそのまま。傷ついたレコードが鳴り続けているようなものだが、実際のところは少し違う。

 視界の端に影がいる。継ぎはぎの影だ。厚着の群衆に溶けこもうともせず、そこだけ油彩のようにのっぺりして、くるくる踊っている。縫いつけられた色に生気を感じるものはない。赤は酸化鉄、黄は銅で、藍も錆色を帯びている。

 それでも影は少女であり、また声の主だと、私は確信していた。

 きっとこれは亡霊なのだろう。とはいえオカルトなぞは信じない性質だから、私の頭が作り出した妄想としての名前だ。時折視野に染みを穿って、肉の蠢きにも近い舞いを見せつけてくる。亡霊と呼ぶにはグロテスクに過ぎるとも、少しは思うが。

 これが私の脳に沸いて出たのは終戦後、米捕虜収容所から解放されて幾日もないうちだった。自室で食事を摂っている場に現れて、強盗か怨恨持つ者かと驚いたのを覚えている。単なる錯覚だと思ったが、数度目にもなると納得せざるをえなくなった。なるほど、これはえらく複雑な錯覚なのだ。どれだけ否定しようとも、ふとした時に少女は網膜に映りこむ。

 はじめこそ少女らしい毛髪やら襤褸切れの服がちらほら目に入っていたが、それから数年にもなる今では原型も失っている。色も灰色からセピアを経て、だんだんと酸に侵された。踊っているとわかるのもその頃の記憶があればこそだ。しかしこの声色は、どれだけ月日を経ても変わらない。いつか亡霊が動きをやめて、絵具が薄れていく時が来ようとも、歌だけは残り続けるのだろう。

 今日も亡霊は歌い続ける。

 私の聞いた歌で、私の取りこぼした欠落を抱えて、舞い続ける。


 Ku uck, K ck ck la st ni t s in Sc ei'n.

 K mm in d e Fe er, Wie en und Wal r.

 Fru ing, F uhli g, s elle di h e n.


 「亡霊」のモデルに心当たりがまったくないと言えば、嘘になる。

 姿かたちは崩れに崩れ、歌も凡庸な民謡だ。そこから特定するなど当てずっぽうもいいところであろう。しかし、この声で歌っていた少女を知っている。切れ切れの歌詞を覚えている。それが誰かと問われれば、答えようがないのだけれども。

 彼女の名は分からない。私の記憶における彼女はただ無名の犠牲者として、長い長い葬列に並んでいた。

 冬だった。私はある収容所に配備され、「彼ら」を管理することに精を出していた。もっとも、当時はそんな呼び方などしていない。彼らは社会から弾き出された生物的劣等、滅びるべき輩どもだった。私も栄えある第三帝国軍人であったからして、その思想を玉条としていた。

 その収容所は占領した別国に設立されたものであり、当然ながら、その町の者たちからひっ捕らえていく。すぐに収容所は満員となり、町の近郊からもきれいさっぱり「彼ら」が一掃された。だが雪の季節を前にして、本国から連絡があったのだ。本国で捕えた者らを送るから、その分を空けておくようにと。

 もともと我らには大義があり、大部分の人々は労働者としても使い物にならない。この時点で大量処分が決定したのは考えるまでもないだろう。

 私たちは殺した。何人も何千人も何万人も、数キロ離れた森まで追いやって殺した。そうして空いた場所に故郷を同じくする彼らを詰めこんで、けれどまた数千単位で連れて行って銃殺する。森まで続く人間の群れは、葬列の他に言いようがなかった。その中で私は彼女を見つけたのだ。

 容姿は思い出せない。ただ少女であったことと、作業着ですらない襤褸布を身に着けていたこと、それから朗らかな笑みをかすかに浮かべていたことが、私の記憶にある外見情報のすべてである。

 この状況が分からない者などいない。彼女よりも幼い者らでさえ恐怖に顔を歪めている中で、その微笑はあまりにも特異に過ぎた。監視の任に当たっている私も本来ならば咎めるべきなのを忘れてしまう。人混みから覗いたのが一瞬だったことと、十代になるかどうかの幼さだったことも、その油断を助長した。だが続いて聞こえてきた小さな言葉の羅列は、さすがに逃すことなどできない。

 呟く程度の声でもこの静寂の中ではすぐに知れる。脱走計画でも練られたらたまったものではない。奴らに抵抗できる体力も武器もないだろうが、人数だけがやっかいだ。成功は論外でも、こんな寒い中、無駄に時間を取られたくはなかった。

 反逆の意思と取ればあの笑みさえただただ厚かましい。銃床で殴りつけるべく、つかつかと歩み寄る。

 だがその声が微細を明らかにするにつれ、私の軍靴は音を緩めることとなった。

「Kuc ck, K ck ck ruf 's a s dem Wa d.

 Las et uns s ng n, ta zen und s ingen.

 Fr ing, F uh ing w rd es n n ba d」

 歌。それは誰もがよく知る、春を喜ぶ鳥の歌だった。歌詞は明瞭でこそないものの、流れる旋律は断定するに易い。私も口ずさんだ頃がある。瞬間、懐かしい祖国の日々が脳裏によぎった。

 続いて、そうした想いを呼び起こしたのが目前の劣等人種の少女だという事実に、胸を衝かれるような違和感と虚脱を覚えた。

「Ku uck, K ck ck la st ni t s in Sc ei'n.

 K mm in d e Fe er, Wie en und Wal r.

 Fru ing, F uhli g, s elle di h e n……」

 動揺に静止した私の前を、人々の群れが陰鬱に進みゆく。少女もそこに紛れ、その低い背が次々と別の背中に塞がれる。歌声が消えてしまってはじめて、自らの任務を思い出した。

 いけない、自分は軍人だ。些細なことに足を止められているなど情けない。動かなければ。見張らなければ。

 ――追わなくては。

 もうあの姿は見えない。そもそも外見をろくに覚えてもいない。確たる証の調べも届かなくなって、この人々の中から拾い上げるのは至難といえる。それでもなお、もう一度だけ視界に収めなければと、義務感じみた焦燥が肩を押した。

 笑顔が見たいのではない。歌が聞きたいのでもない。ただ理由が欲しかった。ああして振る舞っているのはなぜか、私の鼓動を高鳴らせたのはどうしてか。それを手に入れない限りは納得できない。

 相手が蔑んでいた対象であることも、その腹立たしさと意地に一役買っていた。人波に沿って監視を続けて目を凝らす。とはいえ大人に覆い隠されるほどの小柄だ、無理がある。とうとう森に入る段になってしまうと、先に処分されていることをほぼ確信するようになっていた。そして列の末、つまり次なる生贄の傍まで着いてしまう。

 これは駄目だ。もう死んでいるし理由など話せまい。いや第一、この状況では生きていたとしても話せるわけがなかったのだ。自分は何を血迷っていたのか、馬鹿馬鹿しい。

 そう溜息ひとつ吐き、脱力を悟られないよう銃殺係の面々に敬礼する。踵を返しかけて、しかし求めたものはそこにいた。

 あの少女だった。その姿を隠していた大人は銃口の先で、今は最前列に突っ立っている。私の見逃した先で咎められたのだろう、口元を大きく腫らしている。あの笑顔の一片も残っていないのはそのせいなのか。

 いいや違う。その視線の先に絶望している。泣き出す寸前にまで眉を歪めて嘆いていた。それが同胞の撃ち殺される光景ならば理解は立ちどころだったろうが、少女は頭上を仰いでいる。同じく見上げても、あるのはすっかり葉を落とした裸の枝と曇天だ。特に変わったものはない。

 目線を戻しても、彼女は変わらない。漂う硝煙がまた少し濃度を増し、ライフルで小突かれてたたらを踏んで、数人まとめて背を曝し並べられても、虚ろな瞳に灰色の景色を映し続けていたのだろう。

 ここまで行き着けば、もうその表情はうかがえない。結局無駄なことだった。今度こそ視界から引きはがそうとして、耳に触れたのは歌声ではない。

 それが私の唯一聞いた、彼女自身の言葉だった。

「Ich, ich möchte bloß……」

 ふと風の噂を思い出す。「彼ら」の中には収容所送りにならぬよう、隠れ家に引きこもる輩もいるのだそうだ。当然外出などできず、窓を開けるのも憚る生活を送り、外界との隔絶が深まってゆく。すると季節感が狂っていく。気温でしか世界を知れず、自らが時間のどこにいるかも分からなくなる。もっとも、結局行き着く先はここなのだから、彼らは嫌でも思い知ることになるだろう。世界における己の立ち位置と、残された時間の不確かさを。

 しかしきっとこの少女は違った。劣等人種の中でもとびきり愚かで、あまりにも盲目だったのだ。

「……Grün sehen」

 緑。彼女の言うそれが色としての緑なのか、植物としての緑なのか、それさえも私には知りえない。ただひとつ理解できたのは、この寒風すさぶ中でも彼女は信じつづけたということだけだった。暗がりに潜み、鉄条網にまで追いつめられ、たとえ生など望めなくとも。それでも最後に一目だけ、懐かしい鮮やかさに出会うことができると――。

 気がつけば、彼女は屍の山の新たな岩肌となっていた。我々と同じ色した額には赤い孔が空いていたが、虚ろな瞳は先と変わらない。ならば彼女を殺したのは我々でも、ましてや銃でもなかったのだろう。その意味では、我々はあの瞬間、おそらく彼女に負けたのだ。

 見開かれた眼球の先には冬に枯れた木々がある。春までこのままならば彼女の願いは叶うのだろうか。そう考えた矢先、胸を撃ち抜かれた別の誰かが、彼女の上に重なった。


 そして私は、彼女の歌声を忘れられずにいる。

 亡霊は視野のどこかにふと潜んで、陰影の見えないままくるくる踊る。なぜ亡霊が舞っているのかは分からない。彼女はただ歩いていただけだというのに。

 ただ一度、まだ亡霊がかたちを保っていたころに、まるでワルツのようだと感じたことを思いだす。

「…Kuckuck, Kuckuck, trefflicher Held.

 Was du gesungen, ist dir gelungen.

 Winter, Winter raumet das Feld.」

 彼女が歌えなかった三番目の節が、時たま口をついてでる。いや、もしかすると私には聞こえなかっただけなのか。しかし彼女を覚えているのは私だけだろうことを考えれば、何にしても同じことだ。彼女はもはや私の中にしかいない。


 Kuc ck, K ck ck ruf 's a s dem Wa d.

 Las et uns s ng n, ta zen und s ingen.

 Fr ing, F uh ing w rd es n n ba d


 Ku uck, K ck ck la st ni t s in Sc ei'n.

 K mm in d e Fe er, Wie en und Wal r.

 Fru ing, F uhli g, s elle di h e n


 彼女は歌う。亡霊が舞う。目を閉じても決して消えることはなく、しかし私に手を伸ばすこともない。おそらくは永久に、永遠に。


 Kuckuck, Kuckuck, trefflicher Held.

 Was du gesungen, ist dir gelungen.

 Winter, Winter raumet das Feld.


 かっこう かっこう 立派な英雄よ。

 お前の歌は実を結んだ。

 冬が 冬が去っていった――。


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