【05】いつか見たもの
肌寒いという正常な感覚は、百年ぐらい前に置いて来てしまったような気がしていた。
(ぜんぶ。薄……く)
明日美はそこで生きている。
別の脅威を探っているのか、ぴたりと攻撃が止まった通路の真ん中で、糸の切れたマリオネットのように、四肢を方々へ投げ出して。まだ、浅く呼吸をしていた。
その呼吸音にあわせて遠く、コンプレッサーの唸りのような、低い音が聞こえている。
(ああ、精神子……加速器。まだ、無事なんだ)
彼女はその一言二言を思い浮かべるのに、随分と難儀をした。意識の形が保てなくて、断続的に襲う倦怠感が思考をバラバラにする。
彼女の消耗はひどい。
右ひじと左肩が脱臼し、両足ともに重度の捻挫。肋骨の半分の骨折と、頭蓋骨に幾つかの微小な陥没。内臓のダメージは軽微だが、脳はひどくゆらされて若干腫れ始めており、機能不全に陥っている。精神子加速器の音に気がついたのも当然、彼女は今、自分の体内の音を聞くので精一杯なのだった。
だが。
彼女を真に蝕んでいるのはそれらの損傷ではない。
『低位のアバドン患者による、精神子加速器へのスピリトン過剰投入は、高位のそれとは違った形にはなるものの、最終的に炉心を極縮する連鎖反応を生む』
反グリーンアース組織、『カムフラージュ』による訓練。最初の座学で教官から教わった事柄である。
『位階が高い精神子を生み出すに足る回転速度を、最初から有するアバドンである場合、最終的に魂性軌道は際限なく拡大を続けるが、逆に、低位の状態で安定を見る程度のそれである場合、無理に回転を増幅させたところで、軌道内部を圧縮――自己の持つ熱・エネルギーを奪いつくすようにしか振舞えない。これは精神子密度と軌道の柔軟性――個々人の素質に完全に依存する』
続けて教官は告げた。そして君たちは、言うまでもなく後者だ、と。
テキストそのままの文句は硬すぎて、彼女には理解しがたかったが、ただ、彼女がエージェントとして使い方を覚えなければならない『精神子加速器』は、最大効率を得るために、極力人を生かすように作られているので、スピリティ・コラプスに至るまでの間、対象者は『自分の体や精神が薄弱になり続ける』様を、死ぬ寸前まで感じ続ける事になる、という説明には若干の興味がわいた。
自分という精神、存在が欠落していく様を自覚しながら、怒る事も泣く事もできなくなりながら消えていく。それはどんな感覚で、その時自分はどんな風に思うのだろう――?
「……か」
ひゅうひゅうとか細く喉が鳴る。何か言おうとしたのだけれど、当然無理だった。機能的にはまだ使えるはずだったが、空気を送り出した瞬間に、何を言おうとしていたのかを忘れてしまったのだ。
前後の感覚が曖昧になり、過去と現在の思考が混じりあい、しかし、次の瞬間には解けるように拡散する。
その時彼女はここにいて、過去のどこかにいて、しかし、そもそも時と場所とは何かが解らなくなる。
薄くなる、とはそういうことなのだった。
いつか気になっていたその感覚を感受しても、彼女にはもう、残すことも伝えることも、理解することさえ難しい。
――ただ。
(そうだ、みっちゃん。今日は……何をして……遊ぼう?)
同じ周期で、ふとそう思うのだった。時間の概念が消失した彼女の目の前に、鮮明にかつての日々の感覚が、何度も何度も訪れた。
藤間光弘。
突然親と引き離されて、情緒不安定だった明日美を、残酷な景色から救い上げてくれたのが彼だ。
彼女がアバドンだと判明したのは、十歳を数えてすぐの事だった。それまでの人並みで平凡で、だからこそ幸せだった世界が全て奪われて、代わりに宛がわれたのは『療養』と称した苦痛だらけの時間と、十メートル四方のどこまでも白い部屋だけだった。
世界を救い、いつしか支配するにいたった、グリーンアース直下の中核研究組織『リュケイオン』。
明日美はそこに叩き込まれてたった一週間で、この場所で自分は死ぬのだと疑わなくなった。
朝起きて、薬を打たれて意識を失い、目が覚めると体の節々が痛んで何度も何度も昏倒し、吐血し、喀血し。
血にえずいて嘔吐するので、調子がいい時にしか食事は食べられず、午後のわずかな時間で、申し訳程度に教育を施され、夜は様々な人間の前で裸にされ、サンプルとして体中を調べられ、実験が続けられる間は、寝ることも感情も自由に動かすことも許されない。
そうして一月経ったとき。
『私はなんて悲運な星の元に生まれて、なんて可哀想な扱いを受けて、なんて孤独に死んで行くんだろう? 私がこんなに苦しんでいるというのに、何故誰も助けに来てくれないのだろう? 不幸になって初めてわかった。幸福な人間と言うのは、きっと不幸な人間を踏みつけにしておきながら、何も感じない鈍感な人たちの事なんだ。だって、ほら、私がこんなに嘆いてるのに、私を助けてくれる人が一人もいない――』
絶え間ない苦痛は半ば日常化し、皮肉にも『余裕』が生まれてしまった彼女は、自分以外の全てを呪う、身勝手な呪詛に囚われていった。
『ねえ、げんき?』と。
そんなとき、光弘から掛けられた第一声がそれだったのだ。
舌足らずの声に振り向けば、つぶらな瞳と目が合った。身長差があるので、上目遣い。短髪の髪に、華奢な体。
莞爾と、相好を崩した幼児が居た。笑っている人間を見たのは、ずいぶん久しぶりだと、ただ呆然と明日美は思った。そして、人間らしく話しかけられたのは、そこに来て初めてのことだったと、ずっと後になって気がついた。
とはいえ突然の出来事だったから、明日美は最初何も答えられなかった。じっと押し黙って三秒ぐらい彼を見た後、ふいと目をそらして、それきりだった。
しかし、翌日から。
午後の教養課程の時間だけでなく、何故だかどこにでも現れる彼は、明日美に会う度、話しかけてくるようになった。
『ねえ、げんき?』
言葉は変わらない。もじもじしながら、それだけを言って、笑う。
続く言葉は何もなく、明日美が無視をするので、彼との接触はいつもそれだけだった。
『ねえ、げんき?』と。
しかし、明日美もまだ子供である。無視しようと思っていても、一週間も同じ言葉で同じように、しかもやたら頻繁に話しかけられると、流石に煩わしくなってくる。なにより言葉が気に入らない。こんなに不幸である自分が、元気であるはずがないではないか。
だんだんと疎ましくなり、近寄ろうとすると、睨み付ける様になる。光弘は気にも留めないので、露骨に避けるようになる。
それでも彼はやめてはくれない。げんき? と訊く為だけに近づいてくる。なりふり構わず走って逃げれば、むしろ喜んで後ろを駆ける。勝手に転び、めそめそと泣く。
明日美は、すぐに光弘のことが嫌いになった。
そうした苛立ちが募った所為か。ある日、彼女はいつもの時間になっても、実験から開放されなかった。不安定な感情の振幅が見られる、と言うことで、投薬プランの見直しの為に睡眠の時間を削って観測を続けることになったのだ。
当時の彼女にとって、睡眠とは唯一の逃避の手段だった。不幸な全てを忘れ、現実から逃れ得る最後の聖域だと自覚していた。
だからこそ、その時彼女の心に去来した憎しみは凄まじいものがあった。
(なんなのよ……なんだっていうのよ! アイツ! あの……ガキ! あんな、あんな……馬鹿のせいでッ!)
ぐるぐると頭の中を回り続けるその憤怒にこそ、研究所のスピリトンカウンターが反応していたのだが、無論、だからと言って止められるものでもない。
結局、彼女は時計が二周しても眠ることができなかった。
開放されたのが翌日の深夜。その頃になってようやく、ぼろぼろになった体を引き摺って、しんと静まり返った真っ白い通路を歩く事ができた。
怒りを薬剤で搾り取られ、苦痛をふんだんに添加された体で、抜け殻のようにふらつきながら。
「ねえ、げんき?」
その声はそんな時にも聞こえてきた。
「……っ!」
まず怒りが再燃した。
一体どういうつもりだ。
私がどうして、誰のせいで、こんな目にあったと思っているんだ――
「あんた……!」
あふれ出る感情のまま、怒鳴ろうとした明日美は声を詰まらせる。
光弘の隣に、白人の中年男性が佇んでいたからだ。
「……?」
小首を傾げる光弘の横で、その男はむっつりと押し黙って、彫りの深い顔の奥目から、無感動に青い瞳を明日美へ向けている。身長は高いが、体がいやに細く、頭を丸々剃髪しているため、宇宙人のような印象を受ける。
特徴的な身なりだったが、しかし、なにより明日美に強烈な印象を与えたのは、針金のようなその痩身を包む、やたらと真っ白な白衣である。
(……学者?)
この施設でこういう格好をしているのは、その人種しかいない。
実験の際に見たことがないスタッフなので、問題はないはずだったが、条件反射的に明日美は怒りを引っ込め、続く罵倒を飲み込んだ。
「……」
「……」
そうやって明日美が黙ってしまうと、誰も何も話さない。にこにこと、光弘が笑っているだけだ。
「あ……あんた……なに、してんのよ」
気詰まりな空間にいたたまれなくなって、明日美は思わず話しかけてしまった。発言した後で、こんな奴と話すぐらいなら、多少学者連中に不審がられてでも、さっさと体を休め方が良かった、と思い、後悔したが、
「あん、な……なにし?」
「は……?」
「?」
当の光弘は、意味の解らない事をつぶやき、また小首を傾げた。
「……こんな時間まで、何をしてるのか訊いているのよ」
「こん、じ……きいて??」
「なにその答え方。馬鹿にしているの……?」
「なに、え、ばか?」
「……」
要領を得ない光弘の答えに、再び苛立ちを覚え始めたとき、
「無駄だ。この子はまだ、基本的に単語か、鸚鵡返しでしか話せない」
「え……?」
しわがれた声が降ってきた。
驚いて目をやれば、変わらず見返す、冷たい青い瞳がある。
「彼は人間の言葉が話せない、と言った」
事務的な言葉で、傍らの男はそう断じた。
陰気な顔と同じく、やけに暗い声音だった。疲れている時に、聞いていたいと思える様な種類のものではない。が、明日美にとって、事務的な内容以外で施設側の人間に話しかけられたのはこれが初めてだった。であるから、悪感情よりも先に、戸惑いが来た。
「へ? あ、そうなんだ……いや、そうなんですか」
言葉につまり、どもりながら追従する。
「ああ。そうだ」
「あー、そだ!」
頷いた学者に続けて、光弘が両手を挙げて、笑いながら叫ぶ。
そこで彼に目をやって、漸く明日美は疑問が生まれた。
「え、でも……この子、こんなに……大きいのに?」
明日美より四・五歳は年下とは言え、初等教育を受け初めてもおかしくない年齢に見える。舌足らずなぐらいならばまだ解るが、殆ど喋れない、というのは異常としか言いようがない。
「話せないものは話せない。……いや。より精確に言うならば」
そこで言葉を切り、光弘に目を落とし、
「話せない。そのように、我々が弄った」
表情の変化を全く見せる事なく、学者は告げる。陰気なまま、眉一つ動かさなかった。
「は……?」
明日美はぽかん、としてしまった。
あまりに酷い仕打ちを、あまりに自然に言われたため、言っている意味がすぐに理解できない。呆然としていると、それが疑問を表しているとでも思ったのか、
「君は」
ちらりと明日美の着ている病人服に――正確には、病人服の首もとの線に目をやり、
「……ファーストステージか。比較的『軽度』なアバドンの君と違い、乳児の段階で重篤なサードステージだった彼は、投薬『ごとき』では症状を抑えられない。スピリトンカウンターを振り切ってしまうため、データを採取する事すらままならないんだ」
彼女にとって、さらに衝撃的なことを言う。
(私が……軽度? 投薬……ごとき?)
「もちろん投薬・ナノマシン治療は今でも併用している。効果は全く上がらないがね。そして、そうなってしまうと、現時点で、もう私たちにやれる事が無い。つまり――」
そう言いながら、彼はついと目を光弘に向ける。
「彼には価値が無い」
「ないー」
「……あくまでアバドン治療の研究対象として、だが。だから、多少の無理ができた」
冷たい学者の視線を受けて、しかし光弘はにこにこと笑んでいる。
「この分野は未だに新興の域を抜けていない所為で、どうしても全てが手探りでね。乳児のアバドン罹患者は珍しい事もあって、魂性軌道の発達と、人間らしい言語習得との因果関係についての実験に、彼は協力してもらう事になった。結果は……まあ、無残だったがね。データは無相関もいいところだった」
投げ放つような言い草で言葉を締める。そこには、人間の尊厳を意図的に奪ったことに対しての、罪の意識などは毛頭見えなかった。ただただ冷たく、無関心な、空気の振動としての声だけがあった。
「こういうわけで、彼が人語を勉強し始めたのはごく最近ということになる。話せるわけもないだろう?」
「……」
明日美はあらためて絶句する。目の前の人間の異常性に、怒りや恐怖。そういったものを感じる事さえできない。
整理が追いつかないまま、光弘に目を向ける。きらきらとした瞳が、こちらの視線と重なり合う。
「げんき!」
自分の言っている意味も解らないだろうに、目が合うと彼はにっこりと笑うのだ。
そこには何の含みも無い。現況に対する怒りも、悲しみも、憎悪も。
「……っ」
その無邪気な姿を見て、明日美は戦慄した。
衝撃だった。
(なに、なんなの、こいつ……っ)
彼女が感じているのは、まぎれもない恐怖だ。
前後の繋がらない感情に、戸惑った。しかし、答えは単純だった。
自分より不幸な人間が居る。とても近く、まさに今目の前に。けれどそれは自分よりずっと朗らかで、そんな気配がみじんも無い。
だからそれは、彼そのものの特異性よりも、彼女らをそう追いやったシステムへの恐怖やら怒りやらの感情よりも。
この子に比べて自分はどうなのか、という部分に、彼女の思考を至らせてしまう。
そして、結局。それを考えてしまうのがたまらなく怖いのだった。
不幸と言う単なる人生の一面を、正面から受け止めることができず、他人や、自分以外の全てに転嫁し続けることでしか、生きることさえままならないというのは、彼に比べて一体どれだけ、どこまで――醜悪、なのだろうかと。
自分なんかよりもずっとずっと不幸な彼は――不幸であることすら知ることのできない彼は、こんなにも無邪気でいると言うのに。
「ところで君。もういいかな? 彼にはまだ、実験が残っている」
何も言えない明日美に見切りをつけたのか、学者はそう告げた。
丁度、後ろからもう一人、研究員が小走りに近寄ってきている。
「すまん、ロッド、光弘。遅れた」
恰幅のいい体を窮屈そう白衣で包んだ初老のアジア人だった。人の良さそうなハの字型の眉毛の両端をさらに引き下げて、必死に謝っている。光弘達はこの場で、もともとこの人物を待っていたようだった。
「キタムラ。君のそういうところは尊敬できない。十五分を浪費した」
「きないー!」
「ごめんよ二人とも」
ぺこぺこと三度ほど頭を下げたところで、その学者はこちらに気がついた。
「君は……」
「例の子のようだ」
「ああ……君っ」
なぜか重々しく頷いて、がばっと明日美の両手をとった。
「えっ? えっ?」
「ありがとう。光弘は君のお陰で最近元気だ。ずっと辛い思いをさせて、その意味さえ知らないままだった。情操の発育が芳しくないから、煩わしいこともあるだろうけど、どうか……」
「キタムラ。時間がない」
「ああ、すまん。もういくよ。……できるかぎりでいい、仲良くしてやってくれ」
正面から真っ直ぐに見つめられる。思いのほか、人間味のある目だった。感情の宿る瞳だった。
その時初めて明日美は思い出した。そう、彼らも人間だったのだと。
それはさらなる衝撃だった。彼女は今まで、学者連中のことを、悪魔の使いか、あるいは災害に類するようなものだと思っていた。己が不幸で、周りの全てが悪で理不尽。そういう構図だったはずで、そして、ここで暮らす皆の共通認識であるはずで。
「くれれー!」
「わっ光弘、そんなに白衣を引っ張らないでくれ」
じゃあ、彼らは?
明日美はよくわからなくなってきてしまっていた。
「キタムラ」
いらただしげに、ロッドと呼ばれた学者が再び口を開き、それ以上は何も言わず、踵を返した。冷徹で、残酷。この場で明日美の認識とズレがないのは、もはや彼だけだった。
「ああっ、ごめん。じゃあ、私たちはこれで」
言われて、キタムラと呼ばれる方も明日美から手を離す。光弘を連れて、ロッドを追いかけていく。
「じゃねー」
「え、あ……」
戸惑いながら、背中を見送る他ない。
そのまま、ぶんぶんと振られる彼の手が、すこし先の曲がり角に消えるまで、明日美は疲れも忘れて、ただ呆然と佇むことしかできなかった。