【03】冷たい別離
「みっちゃん危ないッ!」
シェイドの意味深な言葉に、いち早く反応した明日美が光弘を突き飛ばす。
突然の衝撃に彼は倒れるよりほかなく、その勢いの成すがまま、右肩をしたたかに打った。
「ぐっ! な、何を……え?」
息がつまり、抗議の声を上げようとして気づく。
ぴったりと体全体を覆っていた彼女のスーツ。突き飛ばした両腕部分がズタズタに裂けて、斬新なカフスが形作られている。
真っ赤な血が二・三滴、床に落ちて、跳ねた。
遅れて、ギインと金属を打ち合わせたような音が辺りに響く。
「痛つ……」
明日美は半秒顔を顰めて、すぐに通路の奥を見据えた。光弘は、事態を把握するより先に、通路の奥から高速で複数の何かが飛来する気配を感じた。
「あ、あす姉……」
「だ、大丈夫! 少し切れただけだから! いいから、立ち上がって!」
彼女が右手を前に突き出すと、その前方に薄く光の膜が出来上がった。迫る全てはそれで弾かれ、甲高い音を発して消える。スタッカートで耳障りな騒音が連続するに従って、真っ青だった明日美の額に、いくつも玉の汗が浮かび始める。
「ちょっと、はは。きついな」
ひきつった笑いに焦りを滲ませる明日美を見て、攻撃を受けているのだと、光弘は漸く覚った。
「ッ……シェイドさん!」
『ああ、エコー区間のセキュリティシステムがアクティブになっている。明日美君のスーツのデータから見て、相手の主武装は精神子兵器。おそらくメイデンを使った高音圧復元砲。一応非殺傷だが……まともにもらえば、確実に行動不能になるな』
眉間に皺を作りながら、明日美は前方を見据える。二十メートルほど先に突き当り。下へ向かう階段があるほか、扉どころか継ぎ目すらない直線の通路。
「相手の……場所は? こんなに見通しがいいのに、射手が確認できない!」
『階下からの連続反発掃射だ。七回壁に跳ね返ってる。目視は無理だな。対象は全部で五。恐らくはヒトでなく自立行動型兵器』
騒々しい音の乱舞の中で、明日美の顔が苦痛に歪む。途切れない連打に、光の膜が頼りなく波打っている。
いまだショックから立ち直っていない光弘は、まずこの膜がひどく気になった。彼女の前に展開しているのは『色欲』の精神子。接触した諸種の相互作用から、全てのエネルギーを奪い取る、『怠惰』より一段上の『アバドン』。本来、彼女に生成できるはずがないものだ。
「今のところ……ちょっと動けそうにないんだけどさ、精神子加速器の限界はどれくらいだろう?」
『区画が区画だけに、あちらのスピリトン切れは期待しないほうがいいな。明日美君の方は……今十分を切った』
「一方的だね。後ろは……」
無事だったデバイスを振って明日美が何事かを確かめた瞬間、警告のビープ音がけたたましく鳴る。
「あはは。がっちり閉まっちゃってるし」
『間違いなく、誘い込まれたな。通常の対人兵器では、アバドン罹患者に対抗しにくいことをよく理解しているようだ』
「……」
「あす姉、なんなんだよ、これ……。それに、先から何をして……」
「あーあ!」
漸く立ち上がった光弘の言葉に重ねるよう、明日美はため息を一つ。腕を掲げたまま不自由そうに肩をすくめて、諦めたように笑った。
「何でばれちゃったのかな?」
『精神子を扱ってる組織だ。『スロウス』の特性ぐらい織り込み済みで当然だろう』
「……確かに」
『光弘君を一人で歩かせたあの通路。恐らく充填されたゼロ順位の精神子、『メイデン』の流れを見るセンサが付いていたんだ。明日美君のバイタルが計測できなくても、『何も計測できない人型の空隙』は隠しようがない』
「なるほど」
『事前に知っていれば対策は取れたが』
「取れたが?」
『……まあ、準備が足りなかった』
「あはは。そうだね」
自嘲気味に二人は笑った。
「準備が、足りないって……おい、あんた、何を……言って、いるんだ?」
矢継ぎ早に交わされる会話の中、光弘にとっては聞き流せない言葉が混じっていた。何の気なしに二人は流しているが、とても笑える内容ではない。
「こんな危ない思いを、あす姉にさせておいて、あんたらテロリストはロクな準備も……」
「みっちゃん!」
再び、今度は明確な意思をもって遮られる。
「お願い、みっちゃん、ちょっと、黙ってて」
「そんな」
彼女は光弘を見てもいない。
ただ断続的に攻撃を受け止める光の膜が、たゆたって弾けて、耳障りに騒ぐ様を一心に見つめている。
蒼白な顔色で、額に脂汗を浮かべながら。
真っ直ぐ、ただただ前を向いていた。
そのさまに、なぜだか光弘は気圧され、思わず息をのんでいた。
姿勢だろうか、声の調子だろうか、はたまたその澄んだ目だろうか――。
それは、光弘の知らない彼女の姿だった。
彼がこれまで一度も見た記憶のない、先ほどまでの緩い雰囲気とは全く違う、犯しがたい決意というものがそこにはあった。
「だ、だってさ……」
「……ごめん」
最後の謝罪は、とてもか細く、なんとか耳に届くぐらいの音量で、しかし、だからこそ光弘は、それ以上何も言えなくなってしまう。
『……プランはDで。いいな? 充分なエネルギー順位、サードの『エンヴィー』まで精神子加速器にアバドンを供給するには、明日美君なら一分かかる。『ラスト』の防壁もそれだけ保てないと話にならない。これは、諸事象を勘案して、限りなく希望的観測に寄ったラインだ』
「うん」
『だから、試算だとかなり成功率が低い。つまり――今より、もっともっと無理をしてくれ。そういうことになる。できるかい?』
「……ふう」
そこでもう一度明日美は息をつく。耳をつんざく轟音が鳴り響いているのに、そのやさしげなひと呼吸は、周囲に沁みわたるように光弘へと伝播した。
「一分?」
『ああ、君のアバドンを全開で回転させて、それで一分』
明日美はそれを聞き、目を伏せてじっと手のひらを見た。青白く、細かく震えている。
末端まで血が行き届かなくなり始めているのだった。アバドン罹患者として突き抜けていない彼女は、こうして何らかのエネルギーを代償にしなければならない。
「……」
無言で拳にした。額に近付けて、何かを呟いて、ちらと、光弘のほうを見た。
「ふふ」
そして笑い、
「大丈夫。今なら百年でも持たせられそう」
からりと告げたのだ。
『……よく言った。こちらの準備は整っている』
「おい、あす姉、何、する気なんだ?」
痺れを切らして、光弘は明日美に近寄りながら話しかける。
光弘が一歩目を踏み出したところで、不意に振り返った明日美が彼の顔を両手で挟んだ。そのまま下向きに引っ張られ、強引に目線を合わされる。
「痛っ……。な、なん……んっ」
間抜けな声がひとつ漏れた。しかしすぐに塞がれた。
柔らかい感触はほんの数秒。そっと、形をなぞる様に唇が合わさっていた。
驚いた光弘が何度か眼をしばたかせると、顔のどこかにまつ毛が触れたのか、むずがって彼女はぴくりと肩を震わせた。
「……へへへ」
明日美は数センチだけ離れると、閉じていた眼を開いて悪戯っぽく笑った。
「ファーストキスはお姉さんでした」
「な、何を……」
状況の掴めていない光弘に、優しく、今度は額を合わせる。熱を測るようなポーズで、明日美は瞳を覗き込む。
「T22is15KL」
「はあ?」
「私の後に続けて。T22is15KL」
「てぃ、T22is15KL」
呟きに従って復唱すると、じんわりと触れた部分が暖かくなった。
「よし」
少しだけそうした後、満足げに彼女は離れる。
「……」
光弘は暫し放心した。光の膜が何かを跳ね返す金属音だけが、沈黙を埋めるように響き続けた。
彼女の行為があまりに突拍子も一貫性も無さ過ぎて、その膜が漸次光量と範囲を下げていっていることに、迂闊にも光弘は気づけなかった。
「……なあ、あす姉、少しは説明して、くれよ……」
一連の行動の後、すぐに通路の奥へと再び向き直っていた明日美に、思わず光弘は問う。
「うん。ごめん。後で話してくれると思う。だからさ、少しだけ待って」
蚊の鳴くような声が返ってきた。
「そんなの、なんで」
光弘は納得できない。もう一歩詰め寄って、肩を掴もうとした。
『明日美君後ろだ!』
再び、シェイドの切迫した叫び。瞬時に反応した明日美が振り向く。
「……!?」
倒され、拘束されていたはずの兵士が、匍匐状態でレールガンを構えていた――いや、『それ』は、すでに人間の姿ではなかった。
わき腹から昆虫の様な節腕が左右で計六本生え、それらが体と武器の保持を行っている。二本の脚だった部分がそれぞれ二つに裂け、黒光りした放熱フィンを展開している。頭の部分だった所には、黒い金属のセンサーが、蜘蛛の目のようにびっしりと生えている。人のフォルムでは到底あり得ない。
『自律行動型アンドロイド……っ! スロウスで擬態されていたか!』
見破れなかった己のミスに、シェイドは苦々しく叫んだ。
一方の明日見には、そんな暇はなかった。その銃口を見て、迷う。
彼女の展開しているアバドン・エネルギー順位セカンド『ラスト』の防壁は、その特性から、種々の物理・精神子エネルギーを、任意の順位のアバドンへ変換する力しか持っていない。翻って相手の武装はレールガン――質量兵器だった。しかも近すぎる。莫大な運動量を殺しきる程の、厚く強固な防壁を作るには、彼女はいささか消耗しすぎていた。元より、精神子加速器無しではスロウスまでしか生成できないのだ。
伏せて避けるより他無い。
ミリ秒オーダーでそう判断しかけて、しかし肩に手を伸ばす光弘に気づいた。プランDの為に、段階的に。張った防壁を縮小させていたことに思い至った。そして自分が伏せたとき、丹田を中心とする精神子軌道の外――つまりは防壁の外に、彼の体が置かれるという結論に達してしまった。その無駄な思考の寄り道で、一緒に倒れこむ時間を逸した。
二人で、無傷で。
この状況を抜け出す選択が思いつかない。
(くっ!)
即断した。だから、明日美は決意した。
「あす姉!」
光弘はそこで漸く脅威を察知する。もう遅い。すぐに、再び彼女に抱きしめられた。
軽い音が数発響いた。弾丸は吐き出されたが、二人に届く前に床へ落ちた。分厚い光の壁が、不意を打った自立兵器と二人の間に生成されていた。
「……髪、柔らかいよね。ほんと、これ、好きなんだよ」
明日美は、再び光弘を抱いていた。
「え……あ?」
「よかった。間に合ったよ」
光弘が反応するより早く、彼女はそう言って力無く笑い、反して力強く、彼の体を突き飛ばした。
「うわっ」
光弘の体が再び倒れこむ。混乱したまま、終始彼女の意図が読めないまま。
致命的な勢いをつけて、後頭部は壁に激突するコースを描く。激痛の予感で、反射的に身をすくめて――しかし予想した衝撃はまるでなく、代わりに彼は……。
「なっ!?」
落ちた。
比喩や、気絶の隠語ではない。落下したのだ。
床と、後頭部をぶつける筈だった壁に沈み込みながら、彼は重力に従って運動した。
(な、なんだ?)
寸前、自分の手が見える。薄ぼんやりと燐光を纏っている。全ての結合力を一時的にキャンセルし、纏ったものを通過させる、アバドン順位サード『嫉妬』が体を覆っているのだと、そこで気づく。
明日美の方へ目を向ける。展開してあった光の膜も、次に現れた壁も、どちらももう、存在してはいなかった。明日美はただそこに身一つで、過日の別れのごとく、笑っているのだった。
「ばいばい」
告げながら彼女は右手を振った。なんとも解りやすい別離のジェスチャー。声と一緒に漏れた息が、冬空の下吐くように白い。
その手が一往復した瞬間、階段奥からの攻撃を受けて、彼女の華奢な体は宙を舞った。
冗談のように、天井付近まで。
縦方向にも捻りを加えた、不格好なトリプルアクセル。
血の臭いと、甲高い音が広がった。不快な、それは不快な音と匂いだった。
「あすね……!」
その景色と感覚を最後にして、光弘の視界は完全に床の中へと没していた。叫ぼうとしていた言葉は、誰に届くこともなく、重力に引かれてともに沈んだ。
彼に唯一残ったのは、体温をもれなく奪われきって、氷のように冷たくなった、明日美の最後の感触だけ。